7/20。
よんどころのない用事を静岡で済ませ、帰りにふと立寄ることにしました、「焼津神社」。
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緑鮮やかな季節です。
銅板貼り(多分)の鳥居もいい味を出しています。
拝殿。
平成22年に、屋根の銅板が葺き替えられたそうで、まだ赤々としています。
これはこれで、渋い風合いがありますね(昭和19年造営、だそうです)。
本殿の背後に祠がありました。
後戸の神ではないでしょうから、地主神様でしょうか。
本殿右手奥に向かって参道と公園がありました。
こちらは、「銅社 諸国官幣国幣大社巡拝記念」と書かれていました。
筆塚。
郷土の方を顕彰した碑、のようです。
さて、戻りまして。
「稲荷神社」。
「七所神社」。
「浅間神社」「竃神社」「天王社」「八幡社」「橘姫社」「春日社」「稲荷社」の七柱です。
さざれ石。
「市杵島姫神社」。
珍しく、池の上にはないですが。
何となく島をかたどっているようにも見えます。
「五社神社」。
「市神社」「天神社」「天白社」「藤之宮神社」「王子神社」。
「天白社」というのが珍しいですが、検索するといろいろ厄介そうなので、また機会があれば。
静岡県の無形民俗文化財として「焼津神社の獅子木遣り」が紹介されています。
ご神木。
本殿。
「焼津天満宮」。
「焼津御霊神社」。
神社でいただいた「略記」より、
「西南、日清、日露の戦役をはじめ第二次大戦まで、各戦役に召されて戦死した当市出身の二千五百余柱の英霊を祀る」
とあります。
「御霊」は、「御霊信仰」というよりは、敬称と考えたほうがいいでしょうか(怨霊でも不思議ではありませんが)。
神武天皇像。
また、境内には「日本武尊」像もあります。
「郷魂祠」。
神社でいただいた「略記」より、
「第二次大戦中、南方圏に第二の生産地を求めて雄飛した鰹節加工船団<皇道産業焼津践団>の殉職者三百余柱を祀る。」
とあります。
「鰹漁船は徴用されてしまい、漁も加工業も立ち行かなくなったため、老朽船で船団を組織してフィリピン、ボルネオ、セレベスへ進出した」が、米軍の反撃のために海に散った人々のようです。
当たり前の話ですが、地域にはその地域の戦中史というものがあります。
そして、忘れられていくものでもあります。
思い出すときに、こういった場所が重要になってくるのかもしれないですね。
駐車場。
さて、「焼津神社」は御祭神に「日本武尊」、相殿に「吉備武彦命」「大友武日連命」「七束脛命」をお祀りしています。
神社でいただいた略記によると、
「当社は記紀所載の如く、第十二代景行天皇四十年七月、日本武尊が弟橘姫を伴い、吉備武彦、大友武日連命の武将を従え、七束脛を膳夫として東夷御征伐の砌、此地で野火の難に逢われた際、天叢雲の剣で草を薙ぎ、向火を放って、悉く賊徒を討滅されたという御事蹟を伝える御社で、延喜式神明帳登載の駿河国益津郡焼津神社は即ち当社である。駿河国諸郡神階帳によれば、神階正四位下に叙せられ、入江大明神とも称えられて諸民衆から崇敬されて来た。
創建は、駿河国風土記によれば、反正天皇四年己酉(西暦409年)と云われ、今川氏の代になって社領五百石の寄進をうけ、徳川氏に至り、家康は社殿を造営し、又代々七十石の朱印高が附せられている。
明治天皇御東幸の際は、官幣使差立の先触状があったが、官道より遠隔のため沙汰止みとなった。明治六年三月二十二日郷社に、同十六年六月二十五日県社に昇格、昭和四十一年七月一日別表神社に加列した。」
とのことです。
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「益頭郡」に「焼津神社」の名が見えます。
「日本武尊」は言うに及ばずですが、『日本書紀』によれば、「吉備武彦(『古事記』では「吉備臣等祖御友鉏友耳建日子(みすきともみみたけひこ))」と「大友武日連(『古事記』には言及なし)」は、「日本武尊」が東征に趣く際に、「景行天皇」より従軍を命じられた武人です。
「七束脛」は、
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「氷上姉子神社」 - べにーのGinger Booker Club
↑「氷上姉子神社」の記事でも書きましたが、膳夫つまり料理人として「日本武尊」に従った人物です。
『古事記』によれば、「日本武尊」の母(「景行天皇」の后)は、「若建吉備津日子(吉備臣等の祖)」の娘である「針間の伊那毘能大郎女(いなびのおおいらつめ)」とされています(『書記』では「播磨稲日大郎女」)。
また、「日本武尊」は、「吉備臣建日子」の妹「大吉備建比売」(『書記』では「吉備武彦」の娘「吉備穴戸武媛」)を娶っています。
「景行天皇」より以前、「孝霊天皇」や「崇神天皇」の記事には、いわゆる「吉備津彦命」が登場しており(「彦五十狭芹彦命」)、当時の王朝が西の方に影響力を持っていた(あるいは影響力を持つ勢力を支配下に収めた)ことが窺えます。
「日本武尊」は、東に行く前に、西へ征伐の旅に出ていますので、「吉備津彦命」が「四道将軍」の一人として「西道」(山陽道)に派遣されたことと、何か関係があるのでしょう。
ところで、「創建は、駿河国風土記によれば、反正天皇四年己酉(西暦409年)」とあるのですが、この『風土記』はどの『風土記』なんでしょうか。
いえ、いわゆる『駿河国風土記』であれば、逸文しか残っていないはずなんですが……。
私の知らない『風土記』がどこかにあるんですねきっと。
さてさて。
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↑には「焼津神社」の記事があります(引用にあたって変更した部分あり)。
「府中の南三里海浜。焼津村生土神とす。延喜式内なり。『和名抄』の益頭郡(ましずこおり)は焼津の訛(よこなまり)なるべしとぞ。焼津は『日本紀』『万葉集』等に見えたり。『古事記』には相模国とす。
『日本紀』にいわく、
「景行天皇四十年冬十月。日本武尊初めて駿河に至りたまう。その処の賊、陽(いつわつ)てこれに従い欺きていわく、「この野に麋鹿甚多(おおしかにえさ/ものの夥しいさま))なり。気は朝霧のごとく、足は茂林(しもとばら/雑木の茂る人手の入らぬ平地)のごとし。臨まして応狩え」と。
日本武尊、その言に信うけて、野中に入って覓獣(かり)したまう。賊、王を殺さんという情ありて、(王とは日本武尊を謂う)火を放ちてその野を焼く。王欺かれぬるを知しめして、すなわち燧(ひうち)をもって火を出して之き、向い焼て免るることを得たり(一にいう。王の佩かせらる剣叢雲、自らこれを抽き、王の傍の草を薙ぎ払う。これに因って免るることを得たり。故にその剣を号けて草薙といい、また叢雲、これを茂羅玖毛という)。王いわく、殆く欺かれぬと。すなわち悉くその賊衆を焚いてこれを滅す。故にその処を号けて焼津という」。
『古事記』にいわく、
「その野に入り坐しつれば、ここにその国造、火をなもその野に着けぬ。故欺かえぬと知見してその姨倭比売命のたまいける嚢の口を解き開けて見たまえば、火打ぞその裏にありける。ここにまずその御刀もって草を苅り撥い、その火打を以て火を打ち出で、向火を着け焼き退けて還り出でまして、皆その国造を切り滅ぼし、すなわち火を着けて焼きたまいき。故今に焼遣とぞ謂う」。
『日本紀秘鈔』にいわく、日本武尊東征の御時、道を枉げて伊勢太神宮参礼し、倭姫命より授けらるる神剣の嚢の口を解き開いて、向い火を打ち出し、姦賊を滅ぼし退きたまう。嚢のこと、旧本裏書兼文にいわく、「興あり感あり、秘すべし」と云々。
(略)
『神皇正統記』にいわく、
「景行天皇四十年夏、東夷おおく叛っきて、辺境さわがしければ、また日本武皇子を遣わす。吉備武彦、大友武日を左右の将軍として相副しめたまう。十月に枉道て伊勢の神宮に詣でて、大倭姫命にまかり申したまう。彼の命神剣を授けて、謹んでおこたりそと教えたまいける。
駿河に至るに、賊徒野に火を付けて害し奉らんことを計りけり。火の勢い免れがたけるに、佩せる叢雲の剣みずからぬけて、側の草をなぎはらう。これより名を改めて草薙の剣という。また火うちをもて火を出して、むかい火をつけて、賊徒を焼きころされにき。これより船に乗じたまいて上総に至り、転じて陸国に入り、高見の国(その所異説あり。)にいたり、ことごとく蝦夷を平らげたまう」。」
……『記紀』と『神皇正統記』の該当部分を引用している、というのは非常に便利なのですが、肝心の神社のことがほとんど書かれていません。
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国立国会図書館デジタルコレクション - 駿河国新風土記. 第8輯
↑にも「焼津神社」の記事があります(73コマ/判読不明文字は■で置きかえる)。
「入江大明神
御朱印高七拾石
(略)
焼津神社考
当社は延喜式に出る所風土記載る所焼津神社にして諸郡神名帳正四位下益頭郡焼津明神とある社是なり相殿の神未詳毎年六月十五日大礼の神事城之腰濱河原の御旅所に神幸あり小麦の飯を供物とする古老の伝に云大古日本武尊御狩の時この所に休ひ玉ひけるに老婆小麦の飯を奉献せし遺風なりと云又此村の田の字に北田と云所あり此所にて御履をぬぎかへさせ玉ひし所なりと云伝たり此神社風土記に據ば市杵島比咩命也今所祭日本武尊にして社内辯天の祠あり是市杵島比咩と云或説にこの市杵島比咩社の神体は日本武尊の持たまへる水石火石と云宝石を尊此所に祝祭玉ふ所と云伝ふ此宝玉波立の時失て今朝比奈郷玉取村玉取明神の神体となすと云此説いつのことなるにや今の世人玉取と云は焼津の社の宝玉をとりし故なりともは■云ことにて現に此社の神体として祭る物は實に熒熒たる宝玉なりと此村に玉田寺と云寺ある所は其玉を得たる所なりなどいひ伝ふ此焼津神社は古社の中にもことに厳重なる宮にして今川氏領国の時神領を寄られ慶長七年十二月十日神祖社領七拾石の御朱印を賜ふ神主今川氏の古文書を蔵す其文左の如し。」
『駿河国新風土記』というのは「新庄道雄(1776~1835)が文化13(1816)年から天保5(1834)年にかけて記した 」ものだそうです。
◯こちら===>>>
http://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/354/1/SZK0002688_20040929054927054.pdf#search='駿河国新風土記'
http://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/354/1/SZK0002688_20040929054927054.pdf#search='駿河国新風土記'
「 末社 天白社 王子宮 富士宮 市神社 天神社」とあるのが、「五所神社」とほぼ同じですので、こちらはもともとお祀りされていたのだと思われます。
「風土記載る所」……とあるので、やっぱりどこかに『風土記』があるんでしょうね。
何故探せないのか……。
「相殿の神未詳」ということは、今の相殿の御祭神と思われている三柱は、江戸後期においては確定していなかったわけですね(付け加えられたっぽいですね)。
いや、『駿河国新風土記』を書いた新庄道雄氏が間違っている、ということもあり得ます。
「此神社風土記に據ば市杵島比咩命也今所祭日本武尊にして社内辯天の祠あり」……ええと、元々は「市杵島姫命」が御祭神だったのに、何故か「日本武尊」になってしまって、社内に「辯天」様の祠があるので……うーんこの祭神の交替も、何かありそうですが。
ただ、この社が「入江大明神」と呼ばれていることを考えると、どうもこの名前は「市杵島姫命」の方がふさわしいように思えます。
「この市杵島比咩社の神体は日本武尊の持たまへる水石火石と云宝石」……謎のアイテムが出てきましたね。
「日本武尊」がおばである「倭姫命」からもらったのは、「火打石」だったはずなんですが。
それとは別に、何か「水石火石」というものが伝わっていたということなんでしょうかね。
「焼津」という地名自体は、『記紀』にもある通り、「日本武尊」が地元の権力者に騙されて草原で狩りをしていたら、火をつけられてさあ大変、困って袋(剣が入っていた袋?)を開いたら火打石が入っていたので、まず草をある程度薙いで、それから対抗して火をつけたから、「焼津」になったと説明されています。
ところで、『駿河国新風土記』には、その地名に関する考察も載っています。
「焼津考
道雄案村名の義日本武尊野火の故事より起りし事古書に見えたるが如し然れども其事大に論あり国号考提要にいへる如く賊に敗れて野火にあひ玉ひしは其旧跡は有度郡草薙是なり此所は書記に王曰殆被欺則悉焚其賊衆而滅之故號其處曰焼津とある所にて此国の造を焚滅し玉ひし所なり此村名によりて一郡の名にもなれることは論なけれども後に焼と云字を改め益をやくの音をとりて字を換玉ひ又それもやくの音もきらひて和名抄には益頭(末志豆)郡益頭(万之都)となれり是を熱田社寛平縁起に其處曰焼津(今謂益頭郡訛也)とありて久しき事なりかくて風土記には益頭と焼津と二つになりて今もしかなれるはいかなる故かしられねども今を以て見れば此焼津の地海浜にして或人説には往古焼津神社のありし所今は海となりて後今の所にうつすといふほどの事にてむかしより波立のおそれあれば郡領など居っべき所にあらず風土記に益頭(小府)とあるは今の郡村田中城のあたりと思はるれば小府を立て郡領の居べき所なりさる故に其所を益頭と名付文字もよみも改りたるなるべし然れども日本武尊の故よし国史にもあらはなる地名の名ごりは此村名と社の名は文字もよみもむかしながらに伝たるなるべし(以下略)」
「賊に敗れて野火にあひ玉ひしは其旧跡は有度郡草薙是なり」……とあります通り、実は近くに「草薙神社」など「草を薙いだ」ことにまつわる地名があるんですね。
つまり、「此国の造を焚滅し玉ひし所なり」、敵を「焼き殺した」ところが「焼津」になったわけで、「草薙」の地とは別なんですね(そのくらいわかりますか?)。
それから、「焼く」という字を、同じ読みの「益」で置き換え、さらにその「益」を「益し」と読み替えて、郡名である「益頭(ましず)」になったのではないか、と説明されています。
律令時代になると、「地名は二文字にしよう」とか「縁起の悪い字はやめよう」といったムーブメントが起こりまして、全国的にそうやって地名を修正したらしいです。
そこに乗っかって、こうした置き換え読み替えが起こったのではないか、という説ですね。
それなら、神社名はまぁともかくとして。村名も変わっていてもいい気がします。
また、「焼津神社」の場所に関して、 「此焼津の地海浜にして或人説には往古焼津神社のありし所今は海となりて後今の所にうつすといふ」という話が載っています。
先ほどの「入江大明神」の記事であった、「元々は『市杵島姫命』を祭っていたんじゃねえの?」と対応する内容ですね。
真偽のほどは定かではありません。
それでですね。
「焼津神社」が、元々は「日本武尊」を殺そうとした地元の有力者達が、反対に「焼き殺された場所」だとしますと。
本来の御祭神は、この「焼き殺された人達」だったのではないでしょうか?
祀ったのは地元の人達でしょう。
「日本武尊」はいかに英雄とはいえ、地元の人達にとっては「ヤマトという異国の侵略者の総大将」です。
肩入れするなら、「焼き殺された人達」の方ですよね、心情的に。
怨霊=御霊信仰が明確ではない時代ですが、鎮魂の意識は当然あります。
ですから、「表面的には『日本武尊』を祀っておいて、実際には今では名前も知られていない『焼き殺された人達』を祀っている」のが「焼津神社」で。
「相殿の神未詳」と言われているのも、実際には彼らの方が主祭神だったからなのではないでしょうか。
さらにいえば、郡名は変えても神社が「焼津神社」のままだったのも、
「焼き殺されたことを忘れないようにするため」
だったのかもしれません。
妄想です。
それから、この「焼津」での「日本武尊」なんですが。
もし、手にしていた剣が「天叢雲剣」だとしたら、多分ですけど、
「雨、降らせるんじゃないかな」
と思うんです。
いえ、物語的に、「草薙剣」の命名譚でもありますので、そんなわけにはいかないんですが。
草を薙ぐ前に雨を降らせたほうが劇的じゃないですか。
なんで、草を薙ぐだけの剣だったんだろう……というわけで、
の一つの傍証にならないかなぁ、と思った次第です。
いろいろまとまりのないことを書いてみました。
(※2014/10/15:七社相殿の「橋姫社」を「橘姫社」に改める)