7/12。
犬山城周辺に小さいお社が散見できたのですが、車を止められないので断念。
犬山在住の郷土史家のみなさまにお願いするとして。
まだ時間があったので、それでは「尾張五社」で行っていない、「千代保稲荷神社」へ向かうことにしました。
◯こちら===>>>
そんなに遠くなかったもので。
この辺りが、東海地方ではよくニュース映像になる、「おちょぼさん」の商店街ですね。
「串揚げ」が有名なようですが、とりあえずスルー。
「針綱神社」よりも参拝客は断然多かったです。
「岐阜県新八景」。
検索しても一覧が出てこない。
この時代に、なかなかすごいことです。
どこかで調べたいですね。
どれが正面鳥居だったのか忘れました……。
激写!!
灯籠だらけ。
灯籠墓場?
本殿に行く前に、大量の狐さん達が。
お稲荷さんは、こういう風に狐さんが集まることが多いですよね。
みなさんこぞって奉納されて、最終的に置き場所に困る、という。
そして、「ローソクを立てるな」、と。
多分、お参りした方が立てたローソクが、えらいことになったんでしょうね。
灯籠といい、お狐さんといい、社地が相当減ってしまったんでしょうか。
参拝客がかなりいらっしゃるんだから、何とかできそうな気もしますが(財政的に)。
拝殿前の鳥居。
最近出かけた神社で、一番参拝者が多かった気がします。
拝殿の向かいにある「霊殿」。
右の石柱は、「福寿稲荷神社」と彫られています。
ぐるりと回って、本殿を拝見。
……おや、そういえば由緒書きの一つもない。
「千代保稲荷神社」の奥には、村社の「神明神社」がありました。
参拝者はお一人。
地域の鎮守(氏神)でしょうから、それが普通ですね。
全部覆ってやった、というこの感じが凄いですね……。
さて、wikipediaによれば、
「平安時代、源八幡太郎義家の六男の義隆が分家する際、森の姓をもらいうけ、義家より「先祖の御霊を千代に保て」と祖神と共に宝剣と義家の肖像画を受け賜わったのが始まりと伝えられる。千代保稲荷神社の名も、この言葉からきている。
後に室町時代の文明年間(1469年-1486年)、子孫の森八海がこの地に祖神を祀ったのが開祖となり、現在は19代目という。」
「「先祖の御霊を千代に保て」という教えより、現在でも境内ではお札やお守り等は一切出していない。ただし角柱形の御神籤箱によるおみくじは置かれている。お供えとしては、稲藁で結んだ油揚げと蝋燭が使用される。」
伝承の通りだとすれば、明らかに「源義隆」及び「森」氏の氏神様なわけですが。
どこでどうなって、「商売繁昌」のお稲荷様と習合したのでしょうか。
しかも、「現在でも境内ではお札やお守り等は一切出していない。」ということは、神社側の態度は、あくまで「氏神」で、お祈りするのは勝手ですけれど別に霊験あらたかなものは出しません、と。
うーん……地元の要請なんでしょうか。
ちなみに、「温故集成館」という、近代の森家の収蔵品を展示している美術館が近くにあります。
◯こちら===>>>
興味のある方は是非。
うーん、「尾張五社」に選ばれているわりには、ネット上には情報が乏しい……というか、天野信景が書いた『尾張五社略記』からの引用すら見つからないです。
つまり、どこかに書かれていた「『尾張五社略記』より」、という紹介だけが延々と拡散していく、という。
ネットで見られる『鹽尻』の目次を全部さらって見たけれど、それらしいものはないので、やはり独立した書物のようです。
国会図書館さんがまだスキャンしてくれていないのか……それとも、書名だけ伝わっていて、現本はないのか。
ここまで来ると、意地でも見てみたいですね、『尾張五社略記』。
「尾張五社」には異説もあるようですし。
……仮に、天野信景が勝手に言い出したんだとしたら、異説もくそもないですけども(天野さんの主観なんだから)。
手水鉢で水を飲むニャー。
あ、御朱印もありません(理由は↑の方のこの色の下線部に書いてあります)。
Wikipedia頼みになるのは残念ですが、副産物として『鹽尻』という書物がかなり面白そうなので、何とかして手に入れようと思います。
※値段はわかりません……ぶるぶる。