前回のおまけ。
◯こちら===>>>
↑は、大正時代に『延喜式』の注釈書として作成された文書です。
この183コマから「焼津神社」の記事があります(引用にあたって旧字を改めた部分あり/判読不能文字は■で置き替える)。
「焼津神社 称入江大明神
今按總國風土記に所祭市杵島比咩とあるは信がたし駿河國志に焼津草薙等神社は式内社にて何れも日本武尊の事跡にして御同體にましますと云ひ社殿にも同じく日本書紀景行天皇四十年日本武尊初到駿河云々以燧出火向焼而得免云々故其處曰焼津とある故事にも由あれば之に従ふ(以下略)」
大正時代の文献ですので、皇国史観によっている部分はあると思います(「日本武尊」の功績を否定するわけがない)。
「總國風土記」というものがあるらしく……どうやら、前回から気になっていた『風土記』はこいつのことのようです。
検索しても、さっくりと正体が見えてこないんですが……。
この「總國風土記」をあたればいいのですが、検索するのが大変なので、
◯こちら===>>>
↑こちらを見てみることにしました。
『駿河記』は、「文政3(1820)年に島田の桑原藤泰(黙斎)によって完成された地誌」だそうです。
◯こちら===>>>
http://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/354/1/SZK0002686_20040929054827652.pdf#search='駿河記'
http://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/354/1/SZK0002686_20040929054827652.pdf#search='駿河記'
317コマから、焼津の記事があります。
当社は延喜式内益頭郡四座之内焼津神社是なり。慶長七年十二月十日御朱符、社領高七拾石賜之。毎歳六月十五日大礼の神事あり。城之腰濱川原御旅所へ神幸。小麦の御飯を供物とす。其旧礼と云云。
(中略)
總國風土記曰。焼津 公穀三百八拾貳束三字田。假栗百九拾三丸六字田。貢松梅橘柚柑子修竹鴻雁鷺雉。
焼津神社 瑞齒別(反正)天皇四年己酉。所祭市杵島比咩命。神貢三十束三畝三毛田。
焼津神社 風土記に據ば祭神市杵島比咩とす。今摂社に辯天祠を建て彼命を祭ものは、風土記によりて後世斎たるか。一説には、此市杵島姫は日本武尊の持せ給ふ水石火石と云宝玉を彼命の神体となされ、武尊みづから焼津の里に斎祭り給處と云。彼宝玉狂濤の時一顆失て後、朝夷郷玉取の里玉取明神の神体と成と云。或云、往昔焼津神社は今の海なる沖に鎮座ありしが、狂濤に亡て今の宮地に遷座し奉るとも云。近頃玉取の神体所以ありて焼津の祠に返しきと聞伝す。又此水石火石の説、遠江の國麁玉郡赤佐郷龍宮山般若院の縁記にも出たり。其説には、日本武尊駿河國富士の山の麓より水石火石を投給ふ。其水石は尾張の國松之小島に落。今の熱田社是也。火石は遠江國岩田の海に落。忽海水涸て洲崎と成とあり。按に野説にして取用ひがたしと雖、久しく其國々にて云伝たれば、姑らくここに記す。焼津神社の考あれどもここに省く。
(以下略)」
「焼津神社 瑞齒別(反正)天皇四年己酉。所祭市杵島比咩命。」……ああ、やっと出てきましたね、この由緒。
『特選神名牒』の記述は、『駿河記』を元にしていると思われます。
つまり、「今摂社に辯天祠を建て彼命を祭ものは、風土記によりて後世斎たるか。」、『總國風土記』の記述から、辯天(市杵島比咩命)を祀ったのではないか、ということですね。
そして、「水石火石」も出てきました。
どうもこの感じだと、静岡(駿河・遠江)では、この「水石火石」に関する伝承がいくつか残っているようです。
現代でも確認できるかどうかは謎、ですが。
「野説にして取用ひがたし」……俗説だから正式に取り上げるものではないが、「久しく其國々にて云伝たれば、姑らくここに記す」……言い伝えられていたのでとりあえず記録しておく。
ありがたい話です。
こういう、記録魔のような方々がいてくださったおかげで、我々現代人も、いろいろと妄想をこねくりまわすことができるのです。
感謝感謝。
え〜、まとまりはないですが、これ以上は静岡県の郷土史家のみなさまにお任せしまして。
今年は何となく、「ヤマトタケル」づいてるな、と感じる日々です(いや、狙って行ってるので、ほぼわざとなんですが)。