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「三光稲荷神社」の参拝を終えまして。
これもすぐ側にある、「犬山神社」へ。
……wikipediaしか情報がない……。
鳥居の材はなんでしょうね。
黒い(ように見える)のもなんででしょう。
「犬山神社の沿革
祭神 犬山城主成瀬正成公を始め歴代の城主並に明治維新以後の戦没者。
創建 犬山城内にあった祖先の霊社を享保二年(1717)第四代城主正幸公が丸山新田東の洞 相生山に遷し相生の宮と称した。社は霊験あらたかな代々の祈願所であった。
変遷 この地は犬山城主平岩主計頭親吉公の松の丸の屋敷を寛文五年(1665)に移した西御殿があった。
明治二年(1869)犬山藩主庁となったが同八年(1875)これを廃し土地を払い下げ民有地とした。
明治十六年(1883)六月六日相生の宮をこの地に遷して犬山神社と改称し村社とした。
享保五年(1720)新田の内 高百五拾石を寄進された。
昭和二十三年(1948)十一月廿九日承認を受け明治維新以後の戦没者三百七拾一柱を合祀……」
まさか、木が邪魔で最後が読めないとは……多分、「合祀した」とかだと。
瓦葺きの建物です。
これは、拝殿になるのか……。
歴代城主のお名前が書かれた札が下がっています。
私、日本史にはとんと弱いものですから、「隼人正」が何のことかさっぱり分かりません。
まだ、「越前守(えちぜんのかみ)」なら、「越前国の国司みたいなものなんだな」ということはわかります。
実際に越前に出向いて支配する役割ではない、ということも何となく承知しています。
称号、みたいなものなんでしょうね、きっと(←承知してない)。
とにかく、検索すれば引っかかる、何て便利なネット時代。
「隼人正」で検索すると、「コトバンク」がヒットしました。
◯こちら===>>>
↑こちらによると、『世界大百科事典』の項目「付家老」からの引用として、
「…江戸時代,幕府から親藩たる三家・三卿に,また諸藩では本藩より支藩に,藩主・藩政の指導監督の目的で付けられた家老職。なかでも著名なものは三家の付家老で,尾張徳川氏の成瀬隼人正(なるせはやとのしょう)家(尾張国犬山,3万5000石),竹腰(たけのこし)山城守家(美濃国今尾,3万石),紀伊徳川氏の安藤帯刀家(紀伊国田辺,3万8000石余),水野対馬守家(紀伊国新宮,3万5000石余),水戸徳川氏の中山備前守家(常陸国松岡,2万5000石余)の5家を指す。家老として付属された関係で,家督を継ぐと同時に,家老の地位についた点,一般の家老と異なる。…」
とありました。
尾張藩にとっては結構重要な役割を果たしていたようです。
……で、「隼人正」ってなんだろう。
また「コトバンク」ですが、
◯こちら===>>>
↑律令時代に「隼人司(はやとのつかさ)」という、「隼人(九州南部にいた、とされる人達)」の管理をしていた機関があり、「隼人正(はやとのかみ)」はその長官、ということのようです。
「はやとのしょう」なのか「はやとのかみ」なのか、という論争はすでに勃発しているようなので、私は関わらず。
右奥は「熱田神宮」。
左奥には神厩舎と忠魂碑。
↓こんな案内板もありました。
「犬山市忠魂碑に付て
本神社内の忠魂碑は、日清日露両戦争初め大東亜戦争に到る迄、我が国日本の為に若き生命も捧げられたる尊き忠義の魂を我々国民は永久に顕彰するため、建立せられたるものなり。特に此の忠魂碑は郷土犬山市に在住せられる御遺族と共に嘗て戦友であった、当市郷友会が忠魂を御守護し顕彰する責任を以て維持管理するものである。
(後略)」
さて。
◯こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第10編尾張名所図会
↑の237コマに、「犬山」の記事があります(引用に際して旧字を改めた箇所あり。判読不能文字は■で置き換える)。
「犬山
当国のうち、北の極なる里にて、其地殊に広く、北の方岐蘇川にそひて、厳重なる大城聳え、其郭の東南西に、縦横の町々建ちつづき、士農工商の家々軒をならべ、神社仏閣甍をつらねたり。其外面に中切・大本町・内田・余坂・木ノ下の五邑ありて、市街を包めり。皆犬山と惣名す。足利家の時、当国は斯波武衛の家領なりといへども、此犬山は妙法院法親王家、荘園として領し給へり。康正二年造内裏段餞並国役引付に、妙法院御問跡領尾州一橋余坂段餞とあるも此地の事なり。此宮の御領知の由縁もて、南朝の宗良親王も忍びて此地に至り給へり。宗良親王此地に至り給ひし事は、もとより此親王の御領知なる故なり。委しくは[信濃宮伝]にゆづりて爰にはぶく。(以下略)」
「妙法院」というのは、
◯こちら===>>>
のことで、代々「法親王(※大雑把にいえば、出家した後に親王になった皇族)」が住持した門跡寺院、だそうです。
詳しいことはさっぱりわかりませんが、ある時代、寺院が広大な荘園を領していたことがあったんです(多分)。
「宗良親王」は「後醍醐天皇」の皇子、だそうです(そんなことも知らない……)。
この方、「妙法院」の門跡だったそうなので、「妙法院」の荘園だった犬山の地にやってきたことも不思議ではない、ということですね。
南北朝時代の話ですね……全然知りません。
「乾峯城(いぬやまのしろ)
[鹽尻]に、京都妙心寺第三世住僧无因禅師、犬山の號を改めて乾峯とすと見えたる如く、当城を往古は乾峯城とよべり。永享のはじめ、当国の守護部衛左兵衛督義寛の戚臣、斯波式部少輔満桓法名元勲、はじめて当城を築き、当郡小口の城主織田與十郎廣近に命じて守らしむ。(以下略)」
と、「犬山城」に関する記事もありました。
永享は1429〜1441年のことのようですから、「乾峯」は「犬山」より新しいんですね。
で、「犬山」の語源はといえば、wikipediaによれば、
「『郷土読本犬山』によると犬山の名称は以下の3説がある。
- 犬を使った狩りに最適だったことから「いぬやま」に
- 平安時代の丹羽郡小野郷が山間部であるということから小野山から転じて「いぬやま」に
- 大縣神社の祭神「大荒田命」が犬山の針綱神社の祭神の一人玉姫命の父にあたり、大縣神社から見て犬山が戌亥の方角に当ることから、「いぬいやま」が転じて「いぬやま」に」
だそうです。
「无因禅師」という人は、どうやら三番目の説を信じておられたようで。
でなければ、「犬」を「乾(いぬい)」には当てないでしょう。
250コマには、「犬山城」の図絵があり、前々回・前回と登場した「白山平」「三光山」の場所も描かれています。
……。
…………。
………………。
あんまり書くこともありませんが、それにしても、
もっと歴史を勉強しないとね、
と痛感した次第です。
誰だよ、「宗良親王」って……。