べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「冨士浅間神社」(静岡県駿東郡小山町)

7/18。

山中湖で何やら結構なお祭りがあったので行ってきました(まだコロナ禍明けず、でお客さん自体は少なかった)。

その帰りに、たまたま見つけて寄った、「冨士浅間神社

 

◯こちら===>>>

higashiguchi-fujisengenjinja.or.jp

 

東口本宮なのですね(全然全然わかっていない)。

 

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案内板。

何というか、作り的に、本当に登山口前に建てられていて、一直線なのが面白い感じがしました。


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麻布山三講という、富士講の石碑群です。

江戸にはたくさん富士塚があったそうです(それほど残っていないですが……「鬼王稲荷神社」のは壊れている……あ、「鳩森八幡」がしっかり残っているか)。


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鳥居。

クリーム色。


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これも富士講の碑ですね。


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こちらも。


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こちらも。

富士講の解説案内板があります。

富士講は、触れ始めるとまたそれはそれで深いので、やめておきます(勉強不足)。


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なんだっけ……何となく、いい景色だったので。


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「祖霊社」。

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拝殿前の鳥居。


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社標。


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火山弾の数々。


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何の碑だろう……灯篭にしては火袋がない……。


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獅子山の狛犬さん……獅子山だから獅子じゃないのか……。

こちらも講の方が奉納されたようです。


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楼門。


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宝永の大噴火で大破したと……たった300年程前のことですからね、いずれ富士山も噴火することでしょう。


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東口本宮。


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神厩舎。


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境内社は、「事代主命」と「大国主命」を祀られているので、「恵比寿大黒社」でしょうか。

もともとは富士紡績株式会社の鎮守だったようです。

最近では、会社の中に神社を祀ったりは、しないんでしょうかね……。


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狛犬さん。

苔むして良し。


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境内末社

「社護神社」はちょっと謎ですが(鬼門除けで「大己貴命」と「月読命」っていうのがどうにも……)、元々はシャグジ神だったかもしれません(憶測)。


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社殿横から。


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社殿正面から。

富士と桜、は「木花開耶姫命」だからですね。

しめ縄が独特……。

 


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拝殿遠景。

干支の彫物が並んでいます。

おっと、この木鼻の感じ等から見ると、権現造ですか。

 


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曇っている……。


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楼門を裏から撮ったのですが。


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狛富士?

富士塚


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狛犬さんを正面から再び。


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御朱印

そうか、「海の日」だった。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

静岡県駿東郡 編『静岡県駿東郡誌』,静岡県駿東郡,1917. 国立国会図書館デジタルコレクション

静岡県駿東郡誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2024-01-25)

 

静岡県駿東郡誌』という本がありましたので、こちらから(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

p339より。

 

「県社浅間神社

須走村字日向に在り、祭神木花開耶姫命にして、大己貴命、彦火々出見尊を配祀す、社域千四百六十六坪、本社は富士山登山道、須走口當道の鎮座にして、境内老樹鬱蒼自然に森厳を添ふ。

社記云、当社は平城天皇の大同二丁亥年創建と申傳ふ、古来富士東口本宮と称す、傳云、延暦二十一年正月より、富士山東脚、噴火を発し、黒雲晦冥、日を経て鎮火せず、頻りに震動して其響き雷鳴の如く、砂礫を雨らす、里人恐怖して憂懼止まず、時の国司郡司亦之を憂へ鎮火祈祷として、乃ち富士山東面、須走の地に於て、斎場を設け祭事を執行す、是即ち現今の社地、字日向と称する地なり、同年四月初申の日に至り初て鎮火す、因て神威を恐こみ、其神徳を報賽せんが爲め社殿を創立し、爾来初申の日を以て、例祭日と定めたり、而して社殿造営修復は時の国司により勤めらる、天正中武田氏当社を崇敬し、本社・幣殿・拝殿・鳥居・板橋まで再建せられ、神領を寄附せらる、其後中村一氏本州を領せし時、亦社殿の修補を加へ徳川幕府時代、寛永中又修繕を加へらる、其後寛文三癸卯年、相州小田原城主稲葉美濃守、本社・幣殿・拝殿に至る迄再建造営す、貞享二乙丑年、同城主稲葉丹後守、楼門・鳥居・板橋等修繕す、其後元禄四辛未年、小田原城主大久保加賀守、社殿の修補あり、同十四辛巳年に至り、又社殿再建造営を企つ、會々同年九月大地震の災あり、小田原城中大破損に罹り、爲めに本社の工事果さず、其後宝永四亥年十一月廿三日、富士山中腹より噴火し、砂礫を雨らすこと昼夜止まず、地上悉く埋没し、此地砂の深さ一丈二尺余に及ぶ、時の代官伊奈半左衛門幕府の命を奉じて、埋没村落の再興を謀る、当時此災害に罹りしを以て、本社再興のことを擧るを得ず、其儘に経過し、正徳四乙未年に至り寺社奉行石川近江守へ、先規の通り再建願出たる處、江戸市中勧財を許可せられ、当時神官拮据励精の結果、享保戌年に至り、漸く故の如く社殿再興の功を奏す、此時小田原城主大久保加賀守より、白銀十枚、槻材二十本、鳥居材杉六本寄進せらる、其後寛政四壬子年、鳥居改築に際し、前例に因り小田原大久保家より用材杉数本の寄附あり、明治維新後は社殿の維持修繕、総て氏子信徒の経営に須つこととなれり、従前社領として除地高四石八斗を有せり、明治維新上地となる、明治六年郷社に列せられ、同十九年県社に昇格せり。(以下略)」

 

……ふう。

最初は、噴火を鎮めるための斎場だったものが、やがて神社の体裁を持つに至り、また噴火で焼かれると……将来的に噴火することが確実らしい富士山、できれば南海トラフと同時は避けていただきたいものですが……。

木花開耶姫命」といえば、記紀神話でも結構著名ですが、どうしてまた富士山の女神になったんでしょうね……という謎については、

 

 

 

↑こちらを読むと少しわかるかもしれません。

古事記』『日本書紀』に富士山が出てこないのは事実です。

この山にまつわる神話が残されていない、ということは、大和朝廷の原型となる集団が形成される中で、富士山の神話を持っていたであろう一団が勢力を保持できなかった、ということなのでしょう。

日本武尊」なんて、明らかに東海道を通っているはずなんですが、さっぱり無視ですから。

古代、富士山にはどんな神話があったのでしょうね……とここで古史古伝には安易に飛びませんので(面白いんですけどね)。

漫画『スプリガン』の描写が、結構的をいているような気もします。

いろいろ妄想してみると面白いかと。

「崑崙山寳満寺大乗坊」(大阪市浪速区)

6/19。

目的を果たして、大阪は日本橋の近くをうろうろしていたら発見しました、「大乗坊」

 

◯こちら===>>>

www.city.osaka.lg.jp

 

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お寺さんですが狛犬さん。

神仏習合の名残強く。

 


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毘沙門天」のお寺、のようです。

当たり前なのですが、基本的に堂内の仏像のお写真は撮りません。

禁止のことが多いからですが、何となく遠慮します(しないこともあります)。


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鳥居の柱……だったかな……もあるのですが、絡みついているのは百足さん。


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日本橋毘沙門天 崑崙山大乗坊由来

当山は崑崙山、寳満寺、大乗坊と号し、もとは四天王寺東北方、牛崎と云う所に有り寳満寺三十七院坊の一寺として、四天王寺守護寺院の一端を担って居りました。

天文、天正の頃織田信長石山本願寺攻め合戦の巻き添えにて再三兵火にかかりし為、その一坊たりし大乗坊の当時の住職、秀言律師が本尊毘沙門天の佛頭を奉じて、難波村名呉街(現在の日本橋筋)に逃れ草庵を起て、大乗坊のみ再興されました。宝暦年間第六世住職宝及律師の時代に、備前の国、池田侯の帰依により大いに興隆し、灰屋善兵衛その他船場島ノ内の商店主の帰依により、境内地の拡大その他整備も整いて更に、堂島の米問屋二川家の帰依寄進により寺勢大いにあがり、摂津名所図会等に浪速名所の一つとして長町毘沙門天堂の名があげられ、数少ない浪速の毘沙門天として信仰されて来ました。明治に年号が変わるまで、境内千坪、寺領域外周一里を有して居りました。又、浪速の富籤の発行勧進寺院として賑わって居りました。

(略)」

 

 


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全景。


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秘仏っぽい写真が載っていましたよ。

御朱印はあるっぽいですね……浪速の「七福神」の一つなのかな……。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

大阪府学務部 編『大阪府史蹟名勝天然記念物』第5冊,大阪府学務部,昭和6. 国立国会図書館デジタルコレクション

大阪府史蹟名勝天然記念物 第5冊 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2024-01-17)

 

↑『大阪府史蹟名勝天然記念物』という書物があったので、こちらから(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

p49です。

 

「大乗坊

此寺、元は天王寺牛が崎(所在不明)にありし崑崙川寳満寺の子院にして新坊と称したり。天正の頃兵燹にかかりしかば寺僧秀言本尊を奉じて各地に流寓し、遂に難波(地点不明)に住したり。文禄の交、法及律師(或は勝慶律師)灰屋善兵衛なるものの別荘を寺とし、現在のところに移せり。後五代にして明和年間に至り圓點律師あり。二條家の猶子となりし関係より此寺に下り藤の紋章を用ゆ。之れより寺運漸く盛んに堂宇竝び建てり。然るに先の灰屋は家運漸く衰運に向ひしかば、寺運の隆盛なるを見之れを自家のものとなさんとし、寺運亦振はずなれり。萬延の頃正道律師の時、今の大阪の商人二川家の援けにより全く寺院を買収し、灰屋の手を離れたり。爾来堂宇の修繕増築等漸く成り、寺運亦興隆せり。以上の修築は明治三十年に至り漸く完成せり。

本寺の遠隔は大略右の如く、隆替甚しきを以つて、古記録等存するもの一もあるなし。只本尊毘沙門天は春日仏師の作と傳へられ、本邦四毘沙門天の一と称せらるるも実は身首同作にあらず。蓋し先に流転せし時に損せしなるべし。只前立の毘沙門天(実際は前々立にして三体の内最も前のもの)は製作最も巧妙にして現に国宝に編入せらる。最近寺運益々隆盛にして参拝の者踵を接し、香華常に絶えず。」

 

まあ、当たり前ですが、お寺の案内文とほぼ同じ、です。

かつて、広大な敷地を誇った「毘沙門天」も、ちょっと切なくなっておりました……。

蜈蚣(百足)は、「毘沙門天」の使い、という俗説があります。

「蜈蚣はお銭(足/あし)が多い、ということで、お宝の守護神である」という話と、「もともと「毘沙門天」はインド神話の「ヴァイシュラヴァナ」の漢訳で、「ヴァイシュラヴァナ」は「クベーラ」とも言い、「クベーラ」は財宝を守るヤクシャだった」という話が結びついたのではないか、と何かで読んだことがあります(何だったかな……)。

地面の下にいることが多く、地下の財宝を守る、と思われたのでしょうか(西洋だったらドラゴンの役割ですね……日本にはドラゴンいませんから……まあ、鱗類の一種と考えれば、近いかも……『ダンジョンズ&ドラゴンズ』は『迷宮と蜈蚣』というタイトルになっていたかもしれません(?))。

まあ、妥当な解釈ではないかと思いますが、瀬田辺りでは、唾に負けてますよね大蜈蚣……強いのか弱いのか……モンゴリアンデスワームくらいの大きさがあったらさすがの「俵藤太」でも勝てないかな。

 

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……ええと、難波の方に行ったら見つけた、おまけです。

というわけで、プチ大阪旅がやっと終了……久々に「四天王寺」に立ち寄れてよかったです(推しごとも充実しておりました)。

「合邦辻閻魔堂」(大阪市浪速区)

6/19(まだ一昨年の記事ですよ……はぁ……)。

「安居天満宮」から目的地への移動中、発見したのでふらりと寄りました、。

 

◯こちら===>>>

www.city.osaka.lg.jp

 

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「脳の守り本尊」……「閻魔大王」が?


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まあ、何と言いますか、建物は……しょうがないですね(?)。


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……読めませんなぁ……。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

大日本名所図会刊行会 編『大日本名所図会』第1輯第5編摂津名所図会,大日本名所図会刊行会,大正8. 国立国会図書館デジタルコレクション

dl.ndl.go.jp

(参照 2023-12-23)

 

『摂津名所図会』より(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

p231です。

 

「合法辻 相坂清水の西の辻なり。閻魔堂あり。実は学校辻なり。むかしここに天王寺の学校院ありし古蹟といふ。」

 

……以上。

図絵もありまして、すでに辻堂です。

 

◯こちら===>>>

www.city.osaka.lg.jp

 

↑こちらにもう少し詳しく書かれていました。

辻を境界と見做して、道祖神等を置くことは、全国的によく見られる習俗でしょう(何なら、全世界的かもしれないです)。

現存するものは少ないかもしれないですが、「十王堂」というのもありますよね。

東海地方、信州辺りでも見られますが、関西はどうなのでしょうね……。

 

◯こちら===>>>

津島界隈(2) - べにーのGinger Booker Club

 

↑こちらの記事の下の方で、「十王堂」を紹介していますが、昔の津島村には、東西南北に「十王堂」があったそうなのです……恐ろしや恐ろしや。

こちらの「閻魔堂」は、元々は大きな伽藍があったそうなのですが……ううむ、もう少し詳しいことを知りたいところですね。

『摂州合邦辻』は、何となく聞いたことはあるんですが……浄瑠璃の勉強もしないといけませんね……。

 

 

あけまして

あけまして、すでに3日になっておりますが、おめでたいとも言い難い一年の始まりとなりました。

iPadApple Pencilを手に入れて、お絵描きをしてみたのですが、ツールの問題ではなく、腕前の問題だと言うことを改めて思い知りました(それでも晒すんですが)。

みなさま、どうぞ恙き一年をお過ごしになれますように(祈)。

 

更新は遅々として進んでおりませんが、ぼちぼちと。

2024年賀

 

「安居天満宮」(大阪市天王寺区)

6/19。

四天王寺」を後にして、この日は……どこかで何らかのイベントに向かって歩いていたのですが、その途中で発見した「安居天満宮に立ち寄りました。

 

◯こちら===>>>

osaka-info.jp

 

安居神社」とも言うようです。

 

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社殿。

 

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階段から。

表通りから入ってくるときに、ちょっと「ここでいいのかな」と迷います。


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真田幸村」公ゆかりの地、となっているそうです。

あ、昭和の「和」の文字のつくりとへんが逆になっている、という案内板ですね。


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社殿正面。


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狛犬さん……3枚目は葉っぱにピントがあってますね。


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御神木。


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真田幸村」公の像。

私にとっての「真田幸村」公は、北大路欣也さん主演の『風雲!真田幸村』という時代劇の印象なのですよね……。

 

◯こちら===>>>

www.jidaigeki.com

 


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社殿をちょっと遠くから。


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鳥居。


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安居神社由緒略記

(略)

御祭神 少彦名神 菅原道真

(略)

由緒

少彦名神を奉祀したのは古文書が散逸したので現在は詳かではないが、非常に古い時代の事であると伝えられている。この神は医薬禁厭(医術・薬方・まじない)智慧の祖神として、その霊験はまことにあらたかな神である。

菅原道真公の奉祀は公筑紫へ左遷される途上海上浪荒く暫くこの地に立ち寄って憩われた旧跡である所以を畏み、後四十年を経た天慶五年(西暦九四二年)此処にその御神霊をお祀りしたと伝えられている。

(略)

当神社の御神徳を厚く蒙った人々は昔から多く、中にも大丸の業祖下村彦右衛門氏は大きな御加護を賜りて繁栄されたことは有名であり当神社に対する信仰は極めて篤く大丸天神と称せられる所以である。

境内に古より、癇鎮めの井と称する清冽なる水湧出する井戸があり霊水として広く知られているが、現在は四囲の状況に禍され枯渇の状態にある。

大阪夏の陣における眞田幸村戦死の地と伝えられ石碑が建っている。

(略)」

 

……そんなに「真田幸村」推しじゃないんだ……行ったのは2022年で、まだ『どうする⁈家康』が始まる前でしたけれど、『真田丸』からは数年……もっと推してもいいんじゃないかな……今村さんの『幸村を討て』も出版されたことだし(?)。


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ここから入って、曲がって、進んで、階段を上がって……という感じなのです。

昔からこういったロケーションだったとすると、「真田幸村」がひっそりと腹を切るにはぴったりではないか、という感じです。

御朱印は、あるのかないのかわかりませんが、この日は頒布していなかったです。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

大日本名所図会刊行会 編『大日本名所図会』第1輯第5編摂津名所図会,大日本名所図会刊行会,大正8. 国立国会図書館デジタルコレクション

大日本名所図会 第1輯第5編摂津名所図会 摂津名所図会. 上,下巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2023-12-23)

 

↑『摂津名所図会』の116コマに、「安井天神」の記事がありますが、それほど多くなく。

絵図もありまして、そちらを見ると、江戸末期にはずいぶん開かれた感じになっている……のかな。

どうも、「安井」という井戸があったようなので、地名はそこからきているのか……案内板にも井戸のことが書かれていましたし……ただ、↑で紹介したHPでは、「菅原道真」公が休憩した(安居した)から、その地名となったとあります……うーん、井戸が先のような気がします。

というわけでの、「安居天満宮」でした〜。

 

 

 

「四天王寺」(再)(大阪市天王寺区)

6/19。

 

大阪に……あれ、何で大阪行ったんだっけ……まあいいや、行ってきましたので、超久々の四天王寺に。

 

◯こちら===>>>

www.shitennoji.or.jp

 

◯こちら===>>>

「四天王寺」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑10年前の記事です……10年……。

 

今回は、写真のご紹介のみです〜。

10年前と違って、いい天気でした。

 

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というわけでした〜(ほんとに写真だけです)。

 

 

「佐久奈度神社」(補)

さて。

 

◯こちら===>>>

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション

神社覈録 下編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2023-12-07)

 

式内社なので、『神社覈録』から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

p160です。

「佐久奈度神社 名神大

佐久奈度は假字也◯祭神瀬織津姫命◯大石荘東村に在す、今は櫻谷社と称す(頭注に、一名佐久良谷明神と云り)◯式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、(中略)近江国佐久奈度神社一座、大祓詞に、高山之末、短山之末與利、佐久那太理爾落瀧津、速川乃瀬爾坐瀬織津姫止云神、云々と云る、則ち是なり、謹て崇敬すべし、

(略)

文徳実録、仁寿元年六月甲寅、詔以近江国散久難度神列於明神、三代実録、貞観元年正月廿七日甲申、奉授近江国従五位下佐久奈度神従五位上、」

 

今は、「祓戸四神」が御祭神となっていますが、『神社覈録』においては「瀬織津姫命」だけだった、と。

まあ、祓戸神と言ったら「瀬織津姫命」、という認識ですから(他の三神は、ちょっとマイナー……)。

 

◯こちら===>>>

六月晦大祓祝詞 - Wikisource

 

↑『延喜式』の「六月晦大祓祝詞」には「祓戸四神」がばっちり出てくるのですが、最初に「瀬織津姫命」が出てくるからでしょうか。

 

◯こちら===>>>

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション

特選神名牒 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2023-12-07)

 

『特選神名牒』に書かれていることも、まあ、同じです。

p384ですので、ご参照を。

 

◯こちら===>>>

寒川辰清 著 ほか『近江輿地志略 : 校定頭註』,西濃印刷出版部,大正4. 国立国会図書館デジタルコレクション

近江輿地志略 : 校定頭註 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(参照 2023-12-07)

 

『近江輿地志略』も見てみましょうか。

p570です。

 

「【櫻谷】佐久奈度社の邊をいふ。此地即佐久奈谷なり大七瀬の一なる事は【公事根源】に見ゆ。」

 

ううむ、桜が先か……果たして……。

 

「【佐久奈度社】東村にあり。祭神一座瀬織津姫命也。土人誤り云ふ櫻檀社又は櫻奈止大明神社と、皆倶に孟浪の言笑ふべし。櫻谷社といふは地名によりて也。(中略)臣按ずるに瀬織津姫天照大神の荒魂也。内宮別宮荒祭宮也。【二所大神宮御鎮座伝記】曰、日向小戸橋檍原而祓除之時洗左眼因以生日天子大日孁貴也、天下化生曰天照大神荒魂荒祭神也。謂祓戸神、瀬織津姫是也云々。【阿波良波命伝】曰、荒祭宮一座伊弉諾尊洗左眼因以生號曰天照荒魂亦名瀬織津比咩神也云々。臣按ずるに当社を佐久奈止社と号し奉る事は、【中臣祓】に曰く、高山之末短山之末與利佐久那太理仁落瀧津速川乃瀬仁坐須瀬織津姫止云神云々。佐久那太理とは析谷と云ふ事也、谷は山の析なり。伊勢国度会郡継橋郷豊宮崎に井谷といふ地あり、此井谷を【類聚神祇本源】には井足と書せり。古昔谷を足といふ、足は太理也。然らば佐久奈止は析谷といふ事也。那は助語にて佐久奈太理の理を下略し太と止とはタチツテトとて五音の相通なれば佐久那止とは号し奉るなるべし(中略)土俗相伝、古は伊勢参宮する者必先此宮に詣づといふ。」

 

この続きに、「鹿飛」の説明があります(川が狭くなっていて、鹿でも跳んで渡れるところ、という由来らしいです)。

『近江輿地志略』としては、「さくのたり」から「さくなたり」になり、「さくなと」になった、と考えているようです。

「谷は山の析」……ってことは「析谷」って「谷谷」ってことになるんじゃないでしょうか……うーん、なんとも……。

伊勢神宮」には「荒祭宮」というのは確かにありまして、「天照大神」の荒魂で、それを「瀬織津姫命」を同一とする思想があるようです。

天照大神」が「伊弉諾尊」の禊によって生まれた、という神話はありますが、それが荒魂だというのはどうなのか……禊によって荒魂が分離し、川に流れたという意味でしょうか。

「祓戸四神」は、記紀神話には登場せず、「大祓詞」に登場する謎の神、と言われております。

川の流れを利用して清めを行なう、というのは昔から自然にあったと思われますが、それを儀式化してから、改めて神格を付与する、という順番ではないかと思います。

川の神と考えるには、「祓戸四神」は、人工的ではないでしょうか。

比較的新しい神格だからこそ、記紀神話としては残っていない、ような気がします(?)。

「さくなと」は、「せと」と同じような意味合いではないでしょうか。

川の流れが狭くなっているところ、くらいの意味ではないかと思います。

ただ、この言葉があまり広まっていないことからすると、固有の地名が語源となっている可能性も高いかな、と(「桜」なら、「さくら」を残すと思うのですよね、やっぱり……)。

 

◯こちら===>>>

七瀬の祓え(ななせのはらえ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

 

コトバンクに載っている『日本国語大辞典』によれば、

 

「中古、朝廷で毎月または臨時に行なわれた行事。吉日を選んで、天皇のさまざまなわざわいを負わせた人形(ひとがた)を、七人の勅使に命じて、七か所の河海の岸に持たせて祓えをした。難波・農太・河俣・大島・橘小島・佐久那谷・辛崎でするのを大七瀬(おおななせ)または七瀬といい、耳敏(みみと)川・川合・東滝・松崎・石影・西滝・大井川で行なうのを霊所七瀬、河合(糺川)・一条通・土御門通・近衛通・中御門通・大炊御門通・二条末通でするのを加茂七瀬という。当時の公卿たちも朝廷にならって行ない、鎌倉幕府もこれに準じて行なった。鎌倉のは由比浜・金洗沢・固瀬川・六連・㹨河・杜戸・江島がその場所であった。七瀬のみそぎ。《季・夏》」

 

ということらしいです。

「佐久那谷」という表記なので、「さくなたに」、やっぱり「谷谷」ってことになるような気がします……語源は掘っても掘っても辿りつきません……。

 

ともかく、いい神社に出会えたことに感謝です。

もうちょっと、妄想したような気がするのですが……思い出したらまた書きます〜。