べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「諏訪神社(石川町)」(横浜市中区)〜横浜ほにゃらら紀行

8/13。

さて、「元町厳島神社」をあとにしまして、スマートフォンの地図を参考にしつつ、うろうろしてみました結果、諏訪神社を発見。

 

◯こちら===>>>

www.kanagawa-jinja.or.jp

 

うーん、「石川町諏訪神社」と呼んだ方がいいのか……。

 

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結構狭隘な立地です……神社は、山や丘陵をバックに(あるいはその頂上に)建てられることが多いのですが、ここまで見てきた横浜の神社もみんなそんな感じでしたね……。

 

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由緒書。

 

諏訪神社由緒
当石川町に鎮座の諏訪神社は、文明十三年(室町時代)の創立です。
当時現在より高所に小祠があり、諏訪神社と号されて附近一帯の住民からの崇敬篤く燈明の絶えないことから石川河岸を出入りする漁船の目標となったと『武蔵風土記久良岐郡石川村の章』に見えます。
災害により社殿焼失という不幸を経ましたが、現在三千戸の氏子を有し昭和三十八年八月には新社殿の再建もなり「はまのお諏訪さま」と親しまれ氏子と共に存続発展し続けています。」

 

御祭神は「建御名方神」、まあ「諏訪神社」ですから。

 

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文明十三年創立、の石標がありました(が、文明十三年に建てられたわけではないと思います)。

 

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扁額。

 

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社殿。
平入りに唐破風、権現造かな……。

 

……あれ、写真がこれだけ……おかしいな……。

それほど広い神社ではないのは確かなのですが、いくらなんでも少ないな……スマホの充電を気にしていたのか……。

 

ともかく、さて。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 横浜市史稿. 神社編

 

↑『横浜市史稿』の神社編を探してみました、ありました(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

410ページです。

 

「五七 諏訪神社
諏訪神社は、中区石川仲町五丁目百十番地に鎮座。(略)
由緒は不詳。元は玉泉寺の持であり、俗称の諏訪山の上にあつて、(略)、明治六年八月に、現在の境内に奉遷し、新に社殿の造立をした。明治二十九年に、祝融の災に見舞はれ、後一時仮殿を以て奉安したが、大正五年に再建した。更に大正十二年九月一日の大震火災に、再び灰燼に帰したので、翌十三年六月に早くも復興を遂げた。
祭神は武美那方命。
本殿(略)・拝殿(略)、共に神明造、幣殿によつて接続し、全体は権現造、総亜鉛葺。外に神楽殿(略)社務所(略)がある。
氏子は石川町及び石川仲町の一円である。
(以下略)」

 

え〜、現在は石川仲町、という町名がなくなっており、石川町になっています(ウィキペディア参照)。

もともと、諏訪山と呼ばれていた山の上にあった小祠で、だから「諏訪神社」になった……のだとすると、諏訪との関係性は何かあるのか……あんまりなさそうです。

諏訪大社」の場合は、神体山としての守屋山があります……どちらかというと「諏訪」は諏訪湖にかかる地名のような気がしますので、山ではないでしょう……ということで、諏訪山という呼称自体がそれほど古くはない、少なくとも、「諏訪大社」ができて、その神体山との関係性か、風景が似ていたのか、諏訪山と呼ぶようになった、と考えるのが妥当かな、と(あるいは、長野の諏訪は全く関係ないという可能性もありますが)。

諏訪山と呼ばれるようになった時代と、そもそもそこに祠があった時代、どちらが先なのかは何とも言えませんが、山の上に祠、というのは(古墳の上かもしれません)、いたって古い思想に基づくものじゃないかと思います。

祠の御祭神がなんだったのか、についてもさっぱりわかりませんが、古いものだとして、雨乞い(龍蛇神辺り)か日照り(太陽神)か、まあどちらかでしょう(断言)。

そうでないとしても、何かの理由で「諏訪山」と呼ぶようになった山で、お祀りされている神を「建御名方神」とするのは至極当然の流れでしょうね。

勧請されたわけでもなく、地名先行で御祭神が決まった、となると、結構珍しいんじゃないでしょうか……いや実際はわかりませんよわかりません。

武士の世の中になってからは、「八幡」「香取」「鹿島」に並んで「諏訪」も武神と考えられるようになりましたので、そういった様々な理由から「諏訪神社」になったのか……船の目印としてであれば「住吉」でもよかったんじゃないかな……あっちは山の上ではないか……。

軽くジャブ的な妄想でした。

 

 

「元町厳島神社」(横浜市中区)〜横浜ほにゃらら紀行〜

8/13。

横浜ほにゃらら紀行、続いては「元町厳島神社

 

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www.kanagawa-jinja.or.jp

 

↑神奈川神社庁……ナイスなお仕事ですよ……全国の神社庁さんにこれを作って欲しい……。

 

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元町の商店街、なのかな、そういった中にあったもので、最初はわかりにくいかも。

 

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案内板二つ。

内容はほぼ同じです。

 

「元町厳島神社
この神社は今から約七〇〇年以前より元横浜村洲干島に鎮座していました清水弁天、洲干弁天を、元禄年間に分祀し、元町一丁目の増徳院(真言宗)仮殿にご神体を奉安していました。しかし明治維新神仏混淆の禁止により増徳院から分離し、厳島神社として元町一丁目十五番地に社殿を造営、元町の鎮守様となりました。
祭神は、市杵島姫命多紀理姫命多岐都姫命木花佐久夜毘売命でいずれも女神であります。お社は関東大震災により焼失しましたが、御下賜材により仮殿を建設し、昭和初期には元町五丁目二〇八番地の当地に遷座し再建されました。第二次世界大戦でまたもや灰燼に帰しましたが、昭和三十六年に氏子崇敬者の熱意により鉄筋コンクリートの社殿を建立し今日にいたっています。
元町厳島神社は、商売繁盛、合格祈願、縁結びの神様でもあり、元村以来の元町の発展興隆の守護神であります。境内には末社として金毘羅神社と、当地の名主であった石川家から寄進された皇太神宮も併祀してあります。」

 

横長の方を引用してみました。

 

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いきなり神輿庫ですが……紋が気になったもので。

 

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お猫様発見。

 

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末社の「皇太神宮」。

 

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これは……あまり位置関係を覚えていないのですが、境内への階段を上がった左手だったと思います。

 

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「皇太神宮」の隣に「金刀比羅宮」。

 

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拝殿。

まだまだ新しいです。

 

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拝殿手前の、天水桶……だと思います。

猫にえさをやってはいけないようです……いえ、あげてませんよ。

 

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遠景はこんな感じです。

うむ……他にも参拝の方がいらっしゃったからなのか、写真がいつにも増して少ないです……。

 

さて。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 横浜市史稿. 神社編

 

↑今回も、『横浜市史稿』の神社編を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
342ページです。

 

「二四 厳島神社
厳島神社は、中区元町一丁目十五番地に鎮座。境内は三百七十四坪四合九勺。(略)
元、横浜村の洲干島に鎮座した清水弁天、一名洲干弁天 今の羽衣町厳島神社。 の分祀であり、其創立は、元禄年間に於いて別当増徳院の内に仮殿を造立し、平日は神体をここに奉安して、 例祭の日にのみ本社に奉還。 杉山弁天と称し、又は、上之宮 本社を下之宮と称した。 と称してからの濫觴である。其杉山と称したのは、治承四年八月の頃に、豆州土肥の杉山から神体を移してからだといふ。明治の維新に神仏の混淆が禁止の際、増徳院と分離して元町の鎮守となり、厳島神社と改称した後に、村社に列せられた。近年は境内末社浅間神社を併合した。大正元年に社殿の再建をしたが、大正十二年九月一日の大震火災に、社殿・神楽殿及び境内・境外の末社全部を悉く灰燼に帰したが、間もなく御下賜材を拝受し、仮殿の造営を遂げて、今日に至つたものである。もとは今の山下町の八十番館辺にあつたが、万延元年の掘割川以西の民家を総べて東岸に移された時、元町二丁目と三丁目の中間である其時の換地、石階百一段を登つた高さ九丈餘の丘陵の上に遷されたが、後又、当社の境内神社となり、更に本社に併祀されたものである。
祭神は、市杵島姫命多紀理姫命、多紀都姫命、木花開耶毘賣命の四柱である。
現在の仮社殿は、九尺に九尺の略式春日造で、亜鉛葺である。

 

境内神社には左の一社がある。
金刀比羅神社。由緒は不詳。祭神は大物主神崇徳天皇の二柱であるが、元の社殿(略)は震災に焼失し、現在のものは仮殿で、三尺に四尺の瓦葺である。

境外神社は左の一社である。
皇太神宮。元町五丁目二百八番地に鎮座。(略)

 

往時は十一月十七日 或は十六日とも云ふ。 に、上之宮の神祭を行ひ、其夜、神体を奉遷して、翌十八日 或は十七日とも云ふ。 に下之宮の大祭を行ふことを例として居たが、万延元年、神奈川奉行の命によつて、当市開港記念日の六月二日に、大祭を執行してからは、爾来六月一日・二日・三日を以て例祭日と為した。
(以下略)」

 

……神社の案内板とほぼ同じ……。

「清水弁天」というところから勧請されているようなので、そちらも参拝したいところです(あるのかないのか……)。

御祭神は「宗像三女神」と「木花開耶毘売命」で、「宗像三女神」を勧請したということは、何かしら水関係の御神徳を得たかった、ということでしょうか。

うーむ、いろいろな位置関係なんかが、地元ではないのでさっぱりわからず……飲み水関係か、河川の氾濫か……。

 

「万延元年、神奈川奉行の命によつて、当市開港記念日の六月二日に、大祭を執行してからは、爾来六月一日・二日・三日を以て例祭日と為した。」

 

↑さらっと、開港記念のお祭りにすり替えられている辺りが、当時最先端の横浜なのかな……と思ったりもしました。

わりと歩いてるなぁ……まだまだ歩きますけれどもね。

 

「北方皇太神宮」(横浜市中区)〜横浜ほにゃらら紀行

8/13。

ヨコハマほにゃらら紀行、ということでまずは「皇太神宮」へ。

 

◯こちら===>>>

www.kitagatakoutaijinguu.com

 

本当は、「本牧神社」辺りから始めて、桜木町駅まで戻ろうかと思っていたのですが、結構歩くことに気づいて日和りました。

 

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どうも、夏祭りの時期だったようで、けっこうな賑わいでした(神社周辺は)。

神社は、ちょっとひっそり……住宅街の奥に押し込められたような感じでしたね。

 

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「皇太神宮由緒書
御祭神 天照皇大御神
由来 創建由来不詳なれど天永年間(一一一〇〜一一一二)勧請。
新編武蔵風土記稿(一八二八)に「北方村字泉谷に太神宮あり」があり、本郷村の北に位置した北方村の皇太神宮は、横浜山手の高台に元は鎮座し、慶応年間、外国人居留地となり、明治三年(一八七〇)現在地に鎮座した。
北は横浜港を眺め、南は根岸森林公園を望み、東西に本牧、元町に通ずる山手地域と周辺の鎮守です。(略)」

 

なるほど、最近こちらに遷座されたようです。

外国人居留地に追い出されましたか……ペルリめ……(?)。

 

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いきなり境内社……あれ、案内があったと思いましたが……。

 

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拝殿は平入りの神明造、「伊勢神宮」にならった、というところでしょうか。

 

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狛犬さん。

 

……あれ、以上?

申し訳ないです……もっとしっかり撮影してこれば……。

さて。

本当は『新編武蔵風土記稿』を検索すればいいのですが、ちょっと大変なので(いえ、国会図書館デジタルコレクションのページをめくるのが結構しんどいのです……)、

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 横浜市史稿. 神社編

 

↑ありがたい……『横浜市史稿』の神社編を探ってみました(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

これだって700ページ超えてる本なんですけどもね……大変……。

226ページです。

 

「二五 皇太神宮
皇太神宮は、中区北方町西ノ谷八百一及び八百二番地に鎮座。境内は三百四十八坪。北方町方面一円の鎮守である。
大永年中の創立と伝へて居り、元は字泉の伊勢山除地五畝歩の境内に在つたが、慶応年中、その附近一帯の地が外国人居留地に編集せられたので、現在の境内に移つたのである。明治維新神仏混淆禁止により、旧来の持寺、東漸寺から分離して、明治二十一年に社殿を再建、大正八年八月に改築。同年九月九日、神饌幣帛料供進社に指定せられた。同十二年九月一日の大震火災に遇ひ、鳥居及び社務所は類焼の厄に罹つたが、社殿は幸に恙きを得、越えて十四年七月、社務所の再築を遂げた。
祭神は天照皇大神である。
(略)
境内神社は左の如くである。

諏訪神社。天沼の諏訪神社を勧請した所であると云ふ。祭神は建名方神。社殿は六尺四方である。
福徳稲荷。由緒不詳。祭神は、稲倉魂命、颯田彦命、大宮女命の三柱。社殿は三尺四方である。
(略)
社頭には石造獅子狗一対、石灯籠二対、及び水鉢がある。
史料
[新編武蔵風土記稿]太神宮。除地五段、村ノ中程ナリ。東漸寺ノ持。」

 

あ、旧社格は村社です。

今の由緒書とは、創建年代の伝承に差がありますが……まあ、天永と大永ですから、どっちかが誤記か、あえて誤記したか……。

横浜って、明治以前は鎌倉と江戸の間の田舎町(失礼)というイメージがあるのですが、実際のところどうだったんでしょうね……開港とともに大都市になったのは間違いないと思いますが、逆に鎌倉からも江戸からもいい感じの距離にあるので……そもそも横浜という呼び方が結構新しいとか(室町だったかな)……うーん、掘ってみたいところではありますが、古代ではほぼ辺境(東国は東夷の国ですからな……)で、「日本武尊」のうろうろした感じくらいしか知らないんですよね……郷土史家のみなさんにひとまずはお任せして、真夏の横浜ほにゃらら紀行で〜す。

 

閑話休題的に

8/5(2017年の)。

ぼちぼち追いつかれそうです。

さて、この日は大須の「三輪神社」へ。

 

◯こちら===>>>

miwajinnjya.com

 

↑元々「大神神社」が好きで、名古屋でも三輪鳥居が拝見できて、というような理由で月参をはじめたのですが、どんどん人気が高まってきております。

 

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いい。

 

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あちこちに隠れウサギさんがいらっしゃるので(今はもっと増えています)、探していただくのもよろしいかと。

 

で、

 

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このときの御朱印

 

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二冊目(※当時。現在は4冊目に入っております)の御朱印帖は水色をチョイス。

社紋や外観のスタンプも素敵です。

 

さて、次回からは横浜紀行……ですが、文献を漁っていないので、基本引用はなし、かもしれませぬ。

 

「綿神社」(補)

さて。

 

こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第10編尾張名所図会

 

いつも通り『尾張名所図会』から見ておきましょう。

81ページです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

「綿神社 西志賀村にありて、今綿八幡といふ。祭神神功皇后応神天皇玉依姫なり。[延喜神名式]に山田郡綿神社、[本国帳]に従三位綿天神と見えたり。綿は海のかり字にて、海童神を祭りしなるべけれど、中世八幡と称するより、今の祭神となれり。むかしは此辺まで入海にて、さる神社のおはしまししなり。此西なる新川を掘りし時、地中よりはまぐりの殻の多く出でし所ありて、今もそこを貝塚とよべり。志賀は水辺の里を呼べる例多く、淡海の志賀里をはじめ諸国に多し。[神名式]に筑前国糟屋郡志加海神社とあると同例の社なり。瑞牆・幣殿・拝殿・鳥居等あり。末社神明社・白山社・浅間社・熊野社・荒神社・粟島社あり。例祭三月十五日・八月十五日。」

 

尾張志』はほぼ同じ記述でした。

かつて、この辺りまで海が入り込んでいて、神社が存在していた、と。

貝塚があったのがその証拠だ、と。

その「さる神社」が、昔の祭神は「海童(わだつみ)神」だったけれども、中世に「八幡」様になった、と。

「志賀」というのが水辺にある地名だ、と。

もちろん「綿」は、綿花から作るコットンのことではなく、「海」という意味でしょう。

現在の「綿神社」周辺は内陸で、かつて海が近かったなどなかなか想像できません。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 上編


『神社覈録』はどうでしょう。

785ページです。

 

「綿神社
綿は和太と訓べし ◯祭神和田首祖、集説◯在所詳ならず◯姓氏録、和泉国神別 和田首、神魂命五世孫天道根命之後也、
考証云、綿津見神、又和太連祖天児屋命、(以下略)」

 

こちらは、どこに存在するかはわからないし、「綿」は「和田」のことではないか、となっています。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 特選神名牒


『特選神名牒』も見ておきましょう。

259ページです。

 

「綿神社
祭神 綿津見命
今按社伝祭神応神天皇神功皇后玉依姫と云へど綿津見神なるべきこと所在の村名を西志賀村とあるを思ふに筑前国糟屋郡志加海神社の志賀島にますに由縁ありて聞ゆるは古へ阿曇連氏人の此国に移り住て其祖神を此に移し祭れるものなるべし
祭日
社格 郷社
所在 山田荘西志賀村 今属春日井郡

今按尾張国式社考に尾張地名考等には西志賀村に坐と云り但し地名考は祭神海童神ならんと云によりて摂社なる兒の宮なるべしと云り本国帳集説に矢田村飯田村平田村能田村等の内にあらむかとも云り是又綿と云によりて田文字ある處々を集め云るのみにて何証なし殊に平田村は春日井郡にてもとの山田郡の地にあらねば云に足らずさて此志賀の地往古は此邊までも入海なりしによりて綿神社もあるなるべし本社宝物の内に奉納綿神社願主政秀と彫つけたる鏡一面あり政秀は平出氏にて享禄天文の頃の人と思ゆ其頃は綿神社と唱ふることなれば此社と定めて難なかるべしと云に従ふ」

 

こちらでは、「阿曇」氏族が九州から移り住んできたのではないか、としています。

筑前の「志加海神社」なんて、そのままじゃないかという感じなんでしょうかね。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

名古屋市史』にもありましたので、336ページです。

 

「七 兒子社
兒子社は西春日井郡金城村大字東志賀八幡神社境内の西側にあり、もと兒の宮、又は兒の御前社と称して、同郡西志賀村綿神社の東辺 地は東志賀村に属す、境内二畝歩あり、除地なりき、今畑となる に在りて、同社の摂社なりき、昔より小兒の守護神として崇敬せらる、

尾張地名考には綿神社は即ち兒の宮なりとの説を取りて、「知多天神は今兒の宮といふもの是也、八幡宮より巳の方一町にあり、社司曰、兒の宮は旧は本社の地相殿にありしを、近世今の地に遷して摂社とせり、古証文にも和田八幡と一串に書有る書どもありといふ」と見えたり、

勧請の年月詳ならず、安永年中より藩主の崇敬厚く、時々参拝ありて、修造料等を給はり、御札守等を差上げしが、維新以後其関係絶えたり、明治七年八幡神社の境内神社として今の地に遷座し、同年改造遷宮す、祭神は天御中主尊なり、

尾張地名考に「社殿に兒の宮は天の御中主尊を祀るといふものは戦国以来の誤也、謹考に、綿の神社は祭神海童三神也、海童の字に就て、後世の兒の宮と呼なるべし」と見えたり、

神殿、拝殿、旧地より移建、 石鳥居 明治三十七年四月建設 等あり、例祭は五月二十一日なり 徳川時代には三月十四日に太々神楽ありて、府下の士民参詣群集せり、 四月十四日より三十日まで、毎月小兒の「ハヤテ」除の禁呪として、赤丸を額部に畫くを例とし、参詣者年々増加し、現今一日約二萬人を算すといふ、神職は従来綿神社の神職森家にて奉仕せしが、現今の社掌は山田清良なり、(略)」

 

まあ、正確に言うと「綿神社」ではないんですけれどもね……『尾張地名考』を書いた津田正生翁によれば「綿神社は即ち兒の宮なり」という説があるとのことで……そっちは行ってないんですけどもね……。

 

海人たちの世界―東海の海の役割

海人たちの世界―東海の海の役割

 

 

『海人たちの世界ー東海の海の役割』という本のp258には、「名古屋南部の遺跡分布」という図が載っており、そこには弥生時代の海岸線北限が、西志賀辺りまで迫っていたのではないか、とされています。

この本、なかなか興味深いもので、いずれネタにして妄想してみたいと思いますが、とりあえず「綿神社」、昔は「海神社」で、ご祭神は「(大)綿津見神」あるいは「海童三神(住吉三神)」、「住吉三神」だとすればいずれ「八幡」様とつながるのもわからないではないですし、何なら尾張の勢力が大王の妃をどのくらい輩出していたか、「応神天皇」もそうですから、この辺りからも妄想することは可能っぽいです……。

ところで、前回の「多奈波太神社」、結構唐突な感じがするのですが、機織りと水辺の関係性、みたいなものも何かの本で読んだことがあるっぽいので、いつかもうちょっと調べてみたいなぁと(天の川とか、「素盞嗚尊」の狼藉の場面とか)。

で、なんですけれども、「わたじんじゃ」と「たなばたじんじゃ」ってのは、秦氏」に関係してるんじゃないのか……ってついつい妄想してしまうのが高田崇史ファンの悪いところですね……そういえばちゃんと「秦氏」の本も読んでないなぁ……もう完全に自分の中では古代イスラエルから渡ってきた人認定ですから(『ムー』系を読みすぎ)。

うん、もうちょっと妄想したいところですが、頭が回らないのでこの辺りで〜。

「綿神社」(名古屋市北区)

7/29。

「多奈波太神社」からそれほど離れていないところにありました、「綿神社」……歩くにはちょっと遠い……というほどではないと思いますが……まぁ……。

 

◯こちら===>>>

www.city.nagoya.jp

 

↑北区の史跡散策路のHPです。

 

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参道入口。

 

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「綿神社
平安時代初期の年中行事や制度などを記した「延喜式」に載る「山田郡綿神社」にあたるとされる格式の高い神社で、譽田別尊、玉依比売命神功皇后を祀る。社名は玉依比売命が海神綿津見神の娘であることに由来している。
戦国時代、この地に屋敷を構えた平手政秀は、荒廃した社殿を再興し、鏡と手彫りの狛犬を奉納して主君織田信長の奇行・粗暴の平癒を願ったといわれている。」

 

なるほど、「平手政秀」……爺やでしたっけ……いかん、戦国の話は本当に疎い……中区にある「政秀寺」と関係ありましたよね、確か(おぼつかない……)。

 

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「式内綿神社由緒
主祭神 玉依比売命神武天皇の御母)
応神天皇(八幡様)

(一)綿神社の創建は大変古く、文字の使用もなかった弥生前期に九州の弥生人が此の地に定住し稲作農耕文化を東海以東へ拡めた基となった。其の中核は北九州「志賀」の阿曇部族であろう。即ち故郷九州「志賀」には祖神、海神の裔「玉依比売命」を祀り「海神社」と称し此の新天地も亦「志賀」と偲び名し同じく玉依比売命を祀って「海神社」と称した。既に「延喜式」にも「尾張の山田郡綿神社は筑前志賀の「海神社」と同例の社なり」と記され本国帳にも従三位綿天神(略)綿は海の仮字にて(略)昔は此のあたりまで入海にてさる神社のおわしまししなり(略)とある。文字の転化は縁起や因縁等時代により珍らしい事ではない。
(二)志賀村の領主平手政秀(織田家の家老で信長の師傳役)は常に信長の奇行を心痛せるか天文二十一年綿神社を再建し「願主政秀」と刻名せる神鏡を自ら手彫りの狛犬一対と奉納した(信長も槍先一穂奉納)。政秀の祈願は察するに余りあるも、祈願空しく翌天文二十二年正月十三日遂に諌死するに至った。爾後信長の態度一変し天下平定の基を開いたのも実に政秀の誠忠に依る。即ち政秀なくば郷土三英傑の出現も又疑問ではなかろうか。」
(略)」

 

ううむ……ここはひとつ、「平出政秀」の狛犬御朱印を作って……いやいや、下世話な話を……人気が出ればいい、というものではないですから。

しかし、本当に戦国時代の知識がないんだなぁ私……申し訳ありませぬ(誰に?)。

 

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社標。

異体字ですな、「緜」。

 

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参道。

 

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参道。

 

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灯篭。

 

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灯篭の狛犬さん。

 

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参道……結構長いです。

 

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参道……。

 

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なんでかいきなり扁額。

 

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で、拝殿脇から見た摂社……なんか写真の順番がぐちゃぐちゃです。

 

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社殿裏手、だったかな……御山です、ワンダーランドです。

 

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石像がもうワンダー。

 

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ワンダー。

 

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不動明王」。

わかりやすい。

 

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御嶽講の行者かな……頭部は明らかに後付けに見えますが……鳥?

 

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うーん難しい、持ち物は剣と桃……桃?

唐風の衣装っぽくも思えますし……どなたでしょう。

 

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あー、「聖徳太子」にしときましょう……「菅原道真」かも……。

後ろの方は、「日本武尊」か「神武天皇」か……勾玉を首から下げてますから日本神話だと思います。

 

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おっと、「不動明王」の「八大童子」が。

 

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あ、この方はさっきの方です。

 

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こちらには「三十六童子」……基本「不動明王」信仰なのですね。

 

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こちら御嶽講ですね、多分……まだ勉強してないんですよね……。

 

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うーん、「神変大菩薩」。

 

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槍か戟かを持ってますね……「毘沙門天」にしときましょう。

 

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三面六臂……「金剛夜叉明王」かな……。

 

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……さっぱり想像がつかない……え、お公家さんでしょうか……。

 

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御嶽神社」社標。

 

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遠景。

ワンダーランド。

 

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その手間に「龍神社」。

 

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いきなり戻りますが、本殿向かって左手の摂社。

「多賀神社」と「白山者」でした。

 

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こちら本殿裏手……そう、ぐるっと周りを巡れるのです。

 

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先ほどの、本殿向かって右手の摂社。

津島神社」と「熊野社」。

 

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こちら、「浅間大社」「秋葉神社」、右が「四十八祖社」……神職のご先祖様でしょうか。

 

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それから、「瑞玉稲荷神社」。

 

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やっとこさ、拝殿遠景。

 

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狛犬さん……ちょっと切ない鳥の……。

 

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拝殿遠景。

境内広いです。

 

とりあえず今回はこの辺りで(御朱印の有無は不明です〜)。

「多奈波太神社」(名古屋市北区)

7/29。

暑かった、のかなぁ……記憶はうっすらしか残っていないもので……ともかく、何度も素通りしていた北区の「多奈波太神社」へ行ってきました。

 

◯こちら===>>>

ameblo.jp

 

一応公式ブログがありましたので(更新されてるのかな……)。

 

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社標。

 

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参道入口。

 

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「多奈波太神社
平安時代に編纂された「延喜式」に「山田郡多奈波太神社」と記される格式の高い神社で、主祭神は天之多奈波太命(天之棚機姫命)である。
尾張名所図会」にも、「田端村にあり、七夕の森といひて、例祭七月七日、燈をかかげて諸人参詣す」とある。昔からの祭礼風景が七夕祭りとして現在も続いている。
社殿は、昭和二十年五月の空襲で焼失、昭和三十九年に現在の木造銅板葺きに復興再建された。」

 

式内社です(論社はなさそう)。

 

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扁額。

 

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蟇股。

 

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境内にある「乳イチョウ」。

 

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社殿向かって左側。

 

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拝殿。

 

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狛犬さん……なんだろうこのすっとぼけ感は……。

 

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拝殿向かって右側。

 

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正面遠景。

 

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東側の鳥居には「八幡社」の社標。

おや。

 

さて。

すでに案内板でも引用されていましたが、まずはいつも通り『尾張名所図会』から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第10編尾張名所図会

 

↑80ページです。

 

「多奈波太神社 田端村にあり。[延喜神名式]に山田郡多奈波太神社、[本国帳]に正四位下多奈波太天神としるしたる官社なり。今七夕の森といひて、例祭七月七日、燈をかかげて諸人参詣す。」

 

田端村に「多奈波太神社」で七夕の森……どっかで何かねじれた感じがします(?)。

尾張志』はいかがでしょう。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 6 春日郡

 

↑52ページです。

 

「多奈波太神社
田端村にありて今七夕の森といへり 田端はタナバタともよむべけれはしかとなへけんも知へからず 祭神は天棚機姫命なるべしといへり 延喜神名式に山田郡多奈波太神社本国帳に正四位下多奈波太天神としるしたる官社也例祭七月七日燈をかかけて諸人参詣す」

 

……ほぼ同じやないかい

やれやれ……『神社覈録』を見ておきましょうかね。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 上編

 

↑784ページです。

 

「多奈波太神社
多奈波太は仮字也◯祭神明か也◯山田庄田端村に在す、集説◯旧事紀、神祇本紀 復令天棚機姫神織神衣、所謂和衣者、(以下略)」

 

先代旧事本紀』を引用して、御祭神を紹介している、と……。

では『特選神名牒』はいかがでしょうか。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 特選神名牒

 

↑259ページです。

 

「多奈波太神社
祭神 今按社伝祭神大穴牟遅神と云れどいかがあらん社号によりて考るに天棚機姫神なるべし姑く附て考に備ふ」

 

……ん、『特選神名牒』は、『尾張志』より新しい文書なんですよね……『神社覈録』よりも新しいですので、それが御祭神が「大穴牟遅神」なんて書いているのは、調査が足らないと言うべきなのか、何かの勘違いなのか……。

では、『名古屋市史』にかろうじて掲載されているのでいってみましょうか。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

↑329ページです。

 

「五 多奈波太神社
多奈波太神社西春日井郡金城村大字田端(略)、延喜式神名帳山田郡の部に小社多奈波太神社あり、国内神名帳山田郡の條に、従三位折旗(をはた)天神あり、参考本国帳、尾陽神名帳集説、参考本国神名帳集説に「正四位下多奈波太神社、天神 一本作桁幡、桁欅字誤歟」と見え、尾張国式社考に「本国帳貞治本に、従三位上桁幡天神、元亀本に正四位下桁幡天神」と見えたる、是れなり、寛延三年、明治二十一年旧七月、大正二年十月修造遷宮あり、明治初年村社に列す、祭神は天棚機姫命なり、

尾陽神名帳集説、参考本国神名帳集説に、「按天棚機姫神也、此神裔八千々姫命、太神宮機殿始也 神名秘書」と見え、尾張国式社考草稿に「本居宣長云、棚機といふは機の事にて、機物は則棚の構あれば也、夫をおる神なる故に、棚機姫と名にも負玉へる也」とし、尾張国式社考には、「又古は凡て機織女を棚機津女とも、ただに棚機ともいひし例也、さるを牽牛織女といふ二の星に充ていふは、後のひが事也、今此神を俗に星の宮といふも、彼織女星に混へたる号也」とせり、尾張国式社座地目録、尾張国明治神名帳に祭神大穴牟遅命とあり、」

(略)境内神社は金刀比羅社(略)、八幡社(略)、津島社(略)、山神社(略)の四所あり 例祭は旧七月七日、田端村は天王坊の百姓なりしかば、毎年此日同坊より和歌の短冊を献する例なりき、此日熱田獅子(熱田神宮より教へられたる故に名く)と称する獅子遊戯の状を舞ひ、藩主は庭の亭に出でて之を台覧あり(略)

尾張国地名考に、田端の地名を考証して、「地名神名に出る歟、多婆多とは棚機の約る成べし、瀧川弘美曰、むかしは田端と書て、多南婆多と呼しを、今は多婆多と呼有、田の端をたなばたといふは、渡の邊をわたなべといふに等しく、皆音便なり、此説によるときは、田之端といふ地名ありて、而後、神社を此處に斎祀りたるやうに聞ゆ、猶考ふべし」と見え、尾張国式社考に「多奈波多は棚機にて、神の号なり、うつりて地名ともなれり、今奈字を省略て、多波太といふ」と見えたり。」

 

と。

『特選神名牒』が御祭神を「大穴牟遅神」にしていた理由がわかりましたね。

あ、写真に「八幡社」の社標がありましたが、(省略してますが)『名古屋市史』の記事によれば、本殿以外、もともと村の東部にあったものを御遷座いただいて、拝殿に関してはよっこいしょとそのまま持ってきたようです(「津島社」「山神社」も、元々はその「八幡社」の境内社だった、と)。

 

さて、ロマンティックな「多奈波太神社」ですが、妄想がなぁ……ちょっと浮かんでこないので、また改めて〜。