べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

近況

10/7。

先日から、尾張地方の神社再訪をしているのですが、江南駅周辺が思いの外のワンダーランドのようなので、また時間があったら出かけようか、と。

今日は、犬山城に行きまして、「針綱神社」、「三光稲荷神社」にご参拝。

そこから、大須へ戻ってきて、「三輪神社」へ。

 

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半ば月参りのようになってきました……いえ、月ごとの御朱印がいただけるもので。

 

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タバコを買うか、「ディスクヘヴン」(※名古屋のメタルキッズの聖地)に行くぐらいしか用事のなかった大須

有難や有難や。

さて、まだ初詣の記事を書いていますが、ぼちぼち来年の初詣はどうしようかな、っと……いよいよ名古屋七福神、かな……。

「知立神社」(再)(知立市)〜高速初詣三河編〜

1/9。
空模様も怪しくなってまいりましたが、ラストに立ち寄ったのは知立神社」です。

 

◯こちら===>>>

「知立神社」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事です。

 

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鳥居。

人手がすごくて驚きました。

さすが式内、三河二宮。

 

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狛犬さんたら、

 

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狛犬さん(ニカッ)。

 

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提灯。

神紋は「青海波」です。

 

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御朱印

 

……え、写真はこれだけですけど何か?

 

いや、人が多い上に、雨がぱらついたりしていたもので、生活防水のない私のiPhoneでは……(防水機能のためだけに機種変更をしようと思っています……あ、いえ、バッテリーももはや死にかけなので)。

 

さて、前回の記事では、神社でいただく由緒書から引用しておりませんでしたので(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

知立神社は、池鯉鮒大明神とも称し、古来三河国第一の名社で、東海道沿線屈指の大社でもあります。
抑々当神社は、第十二代景行天皇の御代、皇子日本武尊が大命を奉じて東国御平定の砌、当地に於て皇祖の神々様を祭って国運の発展を祈願し給ひ、依って以て数々の危難を脱して平定の大功を完うし給へるにより、其の報賽のため、建国の祖神、彦火火出見尊、鸕鷀草葺不合尊、玉依比売命神日本磐余彦尊神武天皇)の四柱の皇大神を奉斎あらせられた、国家的由緒あるお社であって、後世、文化の恩神聖徳太子を合せ祀り、相殿には当碧海地方開拓の祖神青海首命をもお祀り申上げてあります。
当神社は斯様な尊いお社柄でありますので、御歴代天皇の御崇敬も厚く、亀山天皇の弘長元年には正一位の神階を奉られ、元寇襲来に際しては、正安二年七月十三日附を以て異国降伏の御祈願がかかり、明治元年九月明治天皇御東幸の際には、勅使を差遣して金幣を捧げ国運発展の御祈願があり、又仝二年十一月十一日皇后御代拝参向の節は、神札の献上を命ぜられました。
されば領主を始め諸大名の崇敬も厚く、参勤交代の途次には必ず神札を拝受せられましたが、就中大垣藩主戸田氏は信仰極めて厚く、例祭には遠路わざわざ代参を立てられ、又刈谷藩主は毎年三回参拝奉幣せしめられ、例祭には特に警固の士をも派遣せられました。
当神社は古来「蝮よけ、長虫よけ」「安産」「雨乞い」等の霊験いとあらたかにましますにより、崇敬者は全国にあまねく、従って御分社も県内は固より遠く関東関西に亙ってその数夥しく、又大氏神と崇敬して例祭に参拝した村落が古来四十有余にのおり、現今に於ても当碧海地方一円の大氏神として崇敬を集めさせられて居ります。
(以後略)」

 

ううむ、「聖徳太子」を祀った理由がやっぱりよくわからない……。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 上編

 

式内社、ということで『神社覈録』からいってみましょう。

 

知立神社 
知立は音読也、和名抄、(郷名部) 知立、 ◯祭神吉備武彦命、 (熱田社鎮座記)◯池鯉鮒駅に在す、(略) ◯熱田社鎮座記云、三河国碧海郡知立神社、祭武彦命、寛平縁起云、倭武命奉命東征、(中略)天皇勅吉備武彦與建稲種公服従倭武尊、日本紀景行天皇四十年七月條云、天皇則命吉備武彦與大友武日連、令従日本武尊
或書に、祭神葺不合尊といふは、例の信用しがたき説也、今は従はず、(以下略)」

 

どうやら、御祭神が「鸕鷀草葺不合尊」というのは信用し難い、後付け、元々は「吉備武彦命」だったんじゃないの、ということのようですが……。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 特選神名牒

 

↑『特選神名牒』も見ておきましょう。

 

知立神社
祭神 吉備武彦命
今按熱田鎮座記に三河国碧海郡知立神社祭武彦命々々々者孝霊天皇之皇子也今熱田龍神社記武彦命とあるは古伝によりて云るものなるべければ今之に従ふ社伝に鸕鷀草葺不合尊とあり又神主永見氏の記に末社に親母神と云あり豊玉姫命を祭ると云るは龍神なと申すよりの説にはあらざる歟附て後考を俟つ(以下略)」

 

やっぱり御祭神は「吉備武彦命」じゃないのかと……社伝はばっさり、ということですか。

「吉備武彦命」は、神社のお隣の公園にある「土御前社」に祀られています。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾三郷土史料叢書. 第3編

 

↑『尾三郷土史料叢書』の第3編に収録されている『三河国古蹟考』を見てみましょう。
気になるところだけ。

 

知立神社
(略)
◯熱田宮鎮座記云三河国碧海郡知立神社祭武彦命武彦命者孝霊天皇之皇子也今熱田竜神社祀武彦命 ◯按ニ永見氏云、末社ニ武彦命ノ社アリ。
(略)
尾張国帳集説ニ云知立社ハ、木花知流比賣也。
◯按ニ永見氏云、木花知流比賣命ハ地主ノ神にて別社ナリ。(以下略)」

 

「木花知流比賣命」が登場……ああ、「知流」が「ちりゅう」だから、ですか。
……うん、さすがに無理があると思います……「このはなちるひめ」の「ちる」、「散る」の当て字でしょうから、そこから「ちりゅう」になるというのはちょっと……でも、記紀神話でもマイナーな女神を地主神にしようという着眼点は素晴らしいかと。

まあ、結局「聖徳太子」が祀られている理由とか、「蝮除け」とか、謎ばっかりなんですけれども……郷土史家のみなさんにお任せしましょう。

というわけで、ようやく初詣の記事が終了です……もう10月だ……ここからスピードアップできるかどうかは、BABYMETALさんとさくら学院さん次第です……。

「不乗森神社」(安城市)〜高速初詣三河編〜

1/9。

豊川市からたらたらと名古屋へ向う途中、そうだと思って安城市に。

「不乗森(のらずのもり)神社」へ。

 

◯こちら===>>>

不乗森神社

 

三河地方をつらつらと検索しているときに発見。

神社名(字面含めて)のかっこよさでは愛知県ベストスリーに入るのではないか、と思う厨二病

 

◯こちら===>>>

「闇之森八幡社」(中区) - べにーのGinger Booker Club

 

「闇之森(くらがりのもり)八幡社」に匹敵するかっこよさ。

 

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社標。

枯れてますね……現実時間はもう10月で、また枯れ始めますね……いや時間かかりすぎで申し訳ない。

 

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鳥居。

 

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周辺の史跡図です。

 

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忠魂碑、かな。

神社は常若、が基本です。

 

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おや、山王鳥居、ということは「日吉大社」系列、御祭神は「大山咋神」でしょうか。

 

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「当神社創立は第六十三代冷泉天皇の御代(九六八)に滋賀県大津市坂本に鎮座する日吉大社東本宮の御祭神を此の地に勧請奉祀したと伝えられています昔より鎌倉街道に沿い往来する人々はうっそうとした社頭に下馬し旅の安全を祈願して通行したので、のらずの森と云われました
御神徳は当地方の大氏神山王宮として称えられ、土地開拓及び殖産縁結び交通安全の神として民衆に崇敬の篤い神社であります
例祭日 十月九日
湯立神事 三月九日
境内末社 東日吉社 神明社 山神社 秋葉社 厳島社 津島社 稲荷社
境外末社 社口社 東山秋葉社

 

なるほど、本家から勧請、ということでしたか。

伝承にしろ、かなりの古社ですね。

 

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狛犬さんたら、

 

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狛犬さん。

 

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鳥居。

 

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拝殿前には、マサルさんたら、

 

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マサルさん

「日吉」系ですからね。

 

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拝殿と回廊がくっついた……何ていうんでしたっけ……。

 

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神楽殿、かな……いや、狛犬さんがあって、平入で、ということはここが元々の拝殿でしょうか。

 

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三猿。

 

 

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「幸福釜」という御釜。

 

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社殿向かって右手からの、本殿方向。

 

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名前が見えない……。

 

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その隣の「稲荷社」。

 

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「稲荷社」の鳥居。

 

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「東日吉社」……御祭神は「大山祇命」……あれ、「東本宮」から勧請したのなら「大山咋神」のはずなんですが、でもそれは本殿っぽいので……「東日吉社」って何なんでしょうね……。

 

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秋葉社」。

 

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厳島社」。

 

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えっと、境外に出ているのかな……今までは、社殿向かって右手へ進んできましたが、そこからはちょっと外れています。

「社口社」。

「シャグチ」、「社宮司神社」のことだと思われます。

 

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「神猿神社」。

神使である「神猿」も、神社に祀られているようです。

 

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境内を石鳥居のあたりまでもどっての、子安石。

新しいっぽいですが、どうなんでしょう……古いとしたら道祖神なのでしょうが、真ん中に子供がいるというのが珍しいかな。

 

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神水

 

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社殿向かって左手……なんでしょう、土俵でも作るんでしょうか……。

奥の方に祠がありますね。

 

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こちらは、神楽殿か拝殿の、蟇股の彫刻。

ところどころ脱落してしまっていますが、十二支です。

 

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社殿向かって右手の、境内摂社。

 

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社務所方面……さざれ石と、おっと、「天満社」がありました。

 

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社務所の近くに御神田。

 

御朱印……はいただけるのだと思うのですが、御神職不在で残念。

 

さて。

↑の公式HPより、由緒を引用させていただきます。

 

「当神社の創立年代は、第六十三代冷泉天皇の御代(九六八年)近江国坂本村(大津市坂本町)に鎮座まします日吉大社東本宮の御祭神大山咋命の御分霊を観請して奉斎申し上げたと伝えられる古社である。

当時社頭は、旧鎌倉街道に沿い「野路の宿」(現知立市八ッ橋町)と共に「宮橋の里」と称する駅次の所在地にして、古来より街道を往来する人々は、社頭通行にあたり馬に乗りし者は下馬して自ら敬虔の念をもって拝礼の上通行した。

故に駄野森山王宮と称したが、明治維新改革に際し不乗森神社となる。」

 

なるほど、明治になってからの命名でしたか……。

境内摂社についても一覧的なものがありましたので。

 

神明社…天照皇大神(あまてらすのおおみかみ)
日吉社大山祇命(おおやまつみのみこと) 
厳島社…市杵島姫命(いちきしまひめのみこと) (市杵嶋比売命)
秋葉社…火産霊命(ほむすびのみこと)
山神社…大山祇命(おおやまつみのみこと) 
津島社…須佐之男命(すさのおのみこと)
稲荷社…倉稲魂命(うがのみたまのみこと)」

 

大山祇命」の社が二つあるのは、一つが「山神社」という、今のお稲荷さんのようにいたるところに小さな祠のある神社だからでしょう。

うーん、やはり「東日吉社」がよくわからない……。

で、国会図書館デジタルコレクションで、『参河名所図絵』や碧海郡の文献を探ってみたのですが、ざっと見た感じ見当たらず……ううむ、安城の図書館とかに行ってみないとですねきっと……。

ちょっと消化不良〜。

「五社稲荷社」(豊川市)〜高速初詣三河編〜

1/9。

「菟足神社」の参拝に向かう途中で、大きな赤い鳥居を見かけたような気がしたので向かってみました。

「五社稲荷社」、というそうです。

 

◯こちら===>>>

五社稲荷社

 

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これは、その大きな鳥居ではなく、駐車場のところにある鳥居です。

 

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こっちが大鳥居。

国道151線に面しています。

 

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石鳥居。

地元の参拝者のみなさんが多く、あれだけ大きな鳥居が作られているのですから、しっかり根付いているのだろうなと思います。

 

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「五社稲荷古墳

現在、五社稲荷社の本殿が建っている山が本古墳である。昭和五十六年にこの本殿を建設する時に発掘調査が行われた。その結果、直径約三十二・五メートル、高さ約四・七五メートルの円墳で、埋葬施設は木棺直葬と考えられる。墳丘内には多量の弥生土器が含まれていたことから、周囲の土を盛り上げて造られたことがわかった。埴輪や葺石、周溝などは確認されていない。築造年代は本古墳に直接伴う遺物が出土していないためはっきりしないが、古墳時代中期と思われる。

本古墳は直径三十メートルと大型であることに加えて、段丘の縁端部に立地し、豊川右岸に広がる広大な生産基盤である沖積平野を一望にできる。また、後の東海道と伊那街道が交わるという交通の要所に存在することなどから、被葬者は豊川右岸下流域一帯を掌握していた首長であっただろう。

本古墳の北東(奥の院の裏側には直径十七・五メートルほどの円墳である糟塚古墳がある。また、この付近は弥生時代中期から後期の大集落跡、欠山遺跡が広がっている。」

 

なるほど、古墳の上に建てられていますか。

水辺(川岸)、古墳の上、という立地が、古くからの何かしらの聖地だったことを思わせます。

 

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鳥居とおキツネ様

カゴはなんだろう……油揚げをお供えするのかな。

 

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階段を上がって、の鳥居。

 

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本殿をちらりと。

 

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本殿右手から奥の院へ。

やや降っています。

 

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到着。

 

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宝珠。

 

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本殿を後方から。

 

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本殿後方をぐるりと巡って戻ってきます。

 

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えっと……大黒様、だったかな。

 

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鳥居の奥に見えるのが大黒様、ちょっと登ってきています。

 

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拝殿。

墳丘の頂上に建てられている、というのが実感できました。

 

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境内周囲をごそごそしていて見つけた小祠。

 

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幟を外から。

 

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「鶏を捨てないでください」……え、捨てる人が?

神社だからいいだろ、ってことなのかな……「伊勢神宮」には放し飼いの鶏がいますが(神使)、お稲荷さんだからなぁ……。

 

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大鳥居を神社方面から。

 

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御朱印

 

さて、とりあえず神社でいただいた略記を見てみます。

 

三河国 白狐ヶ丘」、なのだそうです。

 

「御祭神
宇迦之御魂神
宇迦之売神
稚産霊神
大宮能売神
屋船神」

 

伏見稲荷神社」の五柱とは少々違っていますね。

「宇迦之御魂神」「宇迦之売神」「稚産霊神」の三柱はいずれも穀物の神様です。

「宇迦之売神」は、「外宮」の御祭神「豊受大神」と同一視されることもあります。

大宮能売神」は「伏見稲荷」でも祀られています。

さて、「屋船神」というのは……屋敷神ということなのか、総じて建築関係の守護神なのか……あまり聞いたことがないですので、昔は違った名前だったのかも。

 

「ここ白狐ヶ丘は弥生中後期の住居遺跡で欠山式土器の発掘地として知られており五社稲荷社は明暦年間(一六五六年頃)にこの遺跡の中央前方部大古墳上にこの古墳の尊厳を守り五穀豊穣を祈るため「保食神」を斎祀したのが始まりと伝えられております。百年ほど後の延享四年(一七四七年)御本殿の造替の棟札には「稲荷五社大明神」とあり、その以前より五柱の神々を斎祀したものと推測されますが、古文書から見ますと伏見稲荷大社から文政十三年二月(一八三〇年)正式勧請し五社稲荷社と称され今日に至っております。当時の神社の様子は「参河国名所図絵」に画かれており境内は今の様子とほぼ同じことがうかがえます。

又ここの古墳は前方後円墳と云われております。周辺部が損壊されているので確認は困難ですが東三河地方第一の規模を持つもので造成期は五世紀末から六世紀初めと伝えられ古墳の西方二〇〇米に鎮座する白鳳十五年(六八六年)創建の古社菟足神社の御祭神である大和葛城の豪族葛城襲津彦命の裔、菟上足尼命の墳墓と推定されています。この命、第二十一代雄略天皇の朝「穂の国」の国造として当地に派遣されその治績高く治民の功大なるものがありました。」

 

◯こちら===>>>

「菟足神社」(豊川市)〜高速初詣三河編〜 - べにーのGinger Booker Club

「菟足神社」(補) - べにーのGinger Booker Club


前回の記事で紹介した「菟足神社」の関係がこっそり。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾三郷土史料叢書. 第4編

 

↑『参河国名所図絵』をちらっと見てみます。

87コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

「稲荷社
同村の中菟足社の北に在近頃村中の人に付て社壇を造立せんことを望む故に社祠を立て是を祭る。

稲荷塚
小坂井と篠束の地境に大塚二つ有小坂井の方を稲荷塚と云篠束の方を糟塚と云と二葉松に見ゆ」

 

まあ、これだけなのですが……90コマの図絵を見ていただくと、小高い丘の上の社殿が描かれているのは、神社の略記にもある通りです。

いずれにしろ、戦国末期〜江戸初期にかけていろいろ整ったようですので、うーん、「豊川稲荷」の影響なんかもあるんでしょうか。

ちなみに、大鳥居は平成十七年の建立だそうです。

 

「菟足神社」(補)

さて。

 

 

新訂 東海道名所図会〈中〉尾張・三河・遠江・駿河編 (新訂 日本名所図会集)

新訂 東海道名所図会〈中〉尾張・三河・遠江・駿河編 (新訂 日本名所図会集)

 

 

まずは、『東海道名所図会』より(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)、

 

「菟足神社

駅路小坂井村にあり。延喜式内。里俗菟足八幡宮と称す。例祭四月十一日。放花炮(はなび)を多く揚ぐる。

祭神兎上王(うさきかみのきみ)『古事記』にいわく、開化天皇記紀伝承上の天皇]の条下、「大股王の子、[中略]兎上王は、比売陀君の祖なり。」社説にいわく、「祭神兎上の王なり。白鳳年中[六七三〜六八五]神告に依りて、八幡宮を併せ祀る。祭式に雀十二を射取り、祭牲をなす。」『三代実録』にいわく、「貞観六年[八六四]二月、参河国正六位上菟足の神に従五位下を授く。」

鐘銘にいわく、

参河国宝飯郡渡津郷の兎足大明神、洪鐘。右の志為ること、天長地久。仰ぎ願わくは円満、国土安穏、諸人快楽、鋳奉る所なり。

大工 藤原助久

勧進聖 見阿弥陀仏

檀那 朝阿弥陀仏

応安三年庚戌[一三七〇]十一月

ここの村老いわく、この鐘、社頭の東方土中より掘り出だす。その遺跡、方五間ばかりの地、今にあり。不浄を祓い、注連引わたす。」(p120)

 

 

うむ、表記として「菟足」だったり「兎足」だったりしているわけですね。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 上編

 

『神社覈録』を見てみましょう。

 

「兎足神社
兎足は宇多利と訓べし ◯祭神菟上王、(社伝)◯度津庄小坂井村に在す。今菟足八幡宮と称す。 (二葉松、私考略、) ◯古事記、 (開化段) 日子坐王娶山代之荏名津比賣、生子大股王、(中略) 故兄大股王之子、曙立王、次菟上王、 (二柱) 云々、
(連胤)按るに、爰に菟上王を祭り、碧海郡に肥長比賣(日長神社也)を祭る事、垂仁段の故事は、国を隔つといへども由縁ある事なるべし、
(略)」

 

 

古事記 (岩波文庫)

古事記 (岩波文庫)

 

 


古事記開化天皇の段を見てみますと、

 

「故、兄大俣王の子、曙立王。次に菟上王。(二柱)この曙立王は、(伊勢の品遅部君、伊勢の佐那造の祖。)菟上王は、(比賣陀の祖。)」

 

とあり、この「菟上王」が「菟足神社」の御祭神としたいようです。

この方がどんな活躍をされたかというと、『古事記垂仁天皇の段を見てみますと、

 

「故、その御子を率て遊びし状は、尾張の相津にある二俣榲を二俣小舟に作りて、持ち上り来て、倭の市師池、軽池に浮かべて、その御子を率て遊びき。然るにこの御子、八拳鬚心の前に至るまで真事とはず。故、今高往く鵠の音を聞きて、始めてあぎとひしたまひき。ここに山辺の大鶙を遣はして、その鳥を取らしめたまひき。故、この人その鵠を追ひ尋ねて、木国より針間国に到り、また追ひて稲羽国に越え、すなはち旦波国、多遅麻国に到り、東の方に追ひ廻りて、近つ淡海国に到り、すなはち三野国に越え、尾張国より伝ひて科野国に追ひ、遂に高志国に追ひ到りて、和那美の水門に網を張りて、その鳥を取りて持ち上りて献りき。故、その水門を号けて和那美の水門と謂ふなり。またその鳥を見たたまはば、物言はむと思ほせしに、思ほすが如くに言ひたまふ事なかりき。

ここに天皇患ひたまひて、御寝しませる時、御夢に覚して曰りたまひけらく、「我が宮を天皇の御舎の如修理りたまはば、御子必ず真事とはむ。」とのりたまひき。かく覚したまふ時、太占に占相ひて、何れの神の心ぞと求めしに、その祟りは出雲の大神の御心なりき。故、その御子をしてその大神の宮を拝ましめに遣はさむとせし時、誰人を副へしめば吉けむとうらないひき。ここに曙立王卜に食ひき。故、曙立王に科せて、誓ひ白さしめつらく、「この大神を拝むによりて、誠に験あらば、この鷺巣池の樹に住む鷺や、誓ひ落ちよ。」とまをさしめき。かく詔りたまひし時、誓ひしその鷺、地に堕ちて死にき。また「誓ひ活きよ。」と語りたまへば、更に活きぬ。また甜白檮の前にある葉広熊白檮を、誓ひ枯らし、また誓ひ生かしき。ここに名を曙立王に賜ひて、倭者師木登美豊朝倉曙立王と謂ひき。すなはち曙立王、菟上(うなかみの)王の二王をその御子に副へて遣はしし時、那良戸よりは跛盲遇はむ。大坂戸よりもまた跛盲遇はむ。ただ木戸ぞこれ掖月の吉き戸と卜ひて出で行かしし時、到ります地毎に品遅部を定めたまひき。
故、出雲に到りて、大神を拝み訖へて還り上ります時に、肥河の中に黒き巣橋を作り、假宮を仕へ奉りて坐さしめき。ここに出雲国造の祖、名は岐比佐都美、青葉の山を餝りて、その河下に立てて、大御食献らむとする時に、その御子詔りたまひしく、「この河下に、青葉の山の如きは、山と見えて山に非ず。もし出雲の石◼︎の曾宮に坐す葦原色許男大神をもち拝く祝の大廷か。」と問ひたまひき。ここに御伴に遣はさえし王等、聞き歓び見喜びて、御子をば檳榔の長穂宮に坐せて、駅使を貢上りき。ここにその御子、一宿肥長比賣と婚ひしましき。故、その美人を竊伺たまへば、蛇なりき。すなはち見畏みて逃げたまひき。ここにその肥長比賣患ひて、海原を光して船より追ひ来たりき。故、益見畏みて、山のたわより御船を引き越して逃げ上り行でましき。ここに覆奏言ししく、「大神を拝みたまひしによりて、大御子物詔りたまひき。故、参上り来つ。」とまをしき。故、天皇歓喜ばして、すなはち菟上王を返して、神の宮を造らしめたまひき。ここに天皇、その御子によりて、鳥取部、鳥甘部、品遅部、大湯坐、若湯坐を定めたまひき。」

 

とあります。

簡単に書くと、「垂仁天皇」の御子に「本牟智和気(ほむちわけ)王」という人がいて、この人は「沙本毘賣」との間の子なのですが、兄の「沙本毘古王」が叛逆を企て、「沙本毘売」は兄についてしまった、と。

このとき身ごもっていた「沙本毘売」ですが、劣勢になり城(稲城)に火を放たれてしまいます。

「沙本毘売」は「御子を天皇の子だと信じるなら、どうか連れていってくれ」と城の外に出し、兄と共に焼け死にます。

この辺りは、「木花佐久夜毘売命」の神話と通じるものがあり、一種の神判、火から逃れる、ということで証明される何かがあったのでしょう。

で、「本牟智和気王」は、ヒゲが胸元に垂れ下がっても物を言わなかったのに、ある鳥(鵠(くぐい))の声を聞くと口を動かした、と。

そこでこの鳥をある人に追わせて捕まえてきたのですが、残念ながらしゃべれるようにはならなかったのです。

垂仁天皇」に夢のお告げがあり、どうやら「出雲の大神」の祟り(「うちの宮を、天皇の住居のように修理してくれたら、御子は喋れるようになるんじゃないのかなぁ、多分」)のようなので、御子に「曙立王」「菟上王」をつけて、出雲へと旅立たせました。

出雲に到着し、出雲国造の祖先が宴会をもよおすと、突然喋り出した「本牟智和気王」、こりゃびっくりと天皇に報告しに行きました。

その間に、御子は「肥長比賣」と結婚したのですが、この方実は蛇の化身でした……とこれはあれですね、「海幸山幸」、「豊玉毘賣」の神話と似ています。

報告を受けた天皇は喜んで、「菟上王」を出雲へ戻して、「神の宮」を造営させた、と。

この部分だけでいろいろ妄想できるのですが……(例えば、この部分が、それ以前の「海幸山幸」「木花佐久夜毘売」の伝承の繰り返しのように見えるのはなぜか、とか、大人になっても話せなかった御子というのは「大和の言葉がわからなかった」のではないか、とか、「沙本毘古王」の反乱からして出雲の陰謀じゃないかとか、名前の類似から「ホムチワケ」、「誉田別」、「ホムタワケ」つまり「応神天皇」のことじゃないのか、とか)……『古事記』の中で結構な誌面を割いているにも関わらず、「本牟智和気王」は天皇の後継者にもならないし、この後さっぱり出てこない……「重要人物と思わせて実はそうではない」なんてしょうもない叙述トリックを『古事記』の時代にやったとは思えないので、何かしら「出雲」に配慮して持ち込まれた部分なのかもしれません。

それにしては、「菟上王」と「肥長毘賣」のつながりが薄いですけれども……。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾三郷土史料叢書. 第4編

 

尾三郷土史料叢書』の第4編、『参河国名所図絵』を見てみます。
コマ数ではなくページ数で164からです。

 

「菟足神社
同村に在社領九十五石祭神(社説に云兎上王)又八幡宮を合せ祭る例祭四月十一日(略)
当社は延喜式に載る所の宮社也今菟足八幡宮と云社説に云祭神(開化天皇の皇孫大股王の第二子)兎上王 天武天皇白鳳年中神告によりて八幡宮を合せ祀る(草鹿砥宣隆此社に詣て神主川出氏に祭神を聞に往古は品多別命を祭りしに白鳳年中神託により平井村より兎上足尼を迎へ奉りて相殿に祭りてより兎足八幡宮と云といへり) (略) 今按るに古事記伝(廿三ノ六十八丁)此王を祭れりと云ふこと心得ぬことなりと謂はれたり社説は古事記の菟上王と国造本紀の菟上足尼とを混へて伝へたる歟考ふへし又神名式に伊勢国朝倉郡に菟上の神社あり又古事記(中ノ廿四丁)に云(日子坐王御子丹波比古多々須美知能宇斯王子)朝廷(みかど)別王者(三川之穂別之祖) 旧事紀(五ノ廿二丁)三川穂国造美巳止(みこと)直とありミコトミカド能く似たれば若くは同人には非る歟と古事記伝(廿二ノ七十二丁)に云はれたり(略)」

 

休憩。

古事記伝』は本居宣長による『古事記』注釈本だと思っていただければいいのですが、古事記の菟上王と国造本紀の菟上足尼とを混へて伝へたる歟考ふへし」ってところを読んで、「ああ、菟足ってひょっとしたら「菟上足尼(うなかみのすくね)」の略なのか……ってそれ明らかに漢字を当てたあとの話だよね……」と了解したのか、疑問が増えたのか……。

 

「天野信景の塩尻に云三河国宝飯郡兎足神社は国造本紀に兎上足尼云々兎足とは文字を略きて書然ればウソコと称ふへきを今はウタリの神社と呼伝る諸神祠の号其称号と正し其元を知るへき也ウカミのカとタと横音通し又ミトリと通へり谷をタリと訓に似たり然れはウタリはウカミの音便歟三代実録(八ノ廿二丁)に云清和天皇貞観六年二月十九日丙子授三河国正六位上菟足神従五位下和漢三才図会(六十九十丁)四月十一日祭礼其上旬射取雀十二羽爲祭牲」

 

尾張の博覧狂記・天野信景翁の『塩尻』からの引用として、何らかの音便変化があったか、とあります。

「ウカミ」から「ウタリ」は遠い気がしますよね……もともと「ウタリ」だったんじゃないかな……と思いたいところですが、証左は無し。

 

「谷川氏の和訓栞(三ノ六丁)生贄の条に三州小坂井村の兎足神社の祭にも雀十二羽を献すとあり又吉田綜銘に云祭礼四月十一日なり風の祭と号す雀拾二羽を射取て贄をなす往古は小田の橋にて旅人の児女を待受て人身御供と為せしと云中比は猪鹿を献りしとも云い又人を生ながら捕て生贄と為せし事今昔物語(巻十五)宇治拾遺物語(巻十)なとに見ゆ宇治拾遺のは人の生贄を留めて後猪鹿を生贄になせしとあれば似たることなり又続紀(廿五ノ廿六丁)淡路廃帝天平宝字八年の条に云又諸国進御贄雑完魚等類悉停云々宇治拾遺(四ノ十二丁)云三河入道いまた俗にてありける折もとの妻をば去りつつ若きかたちよき女に思ひつきてそれを妻にて三河へゐてくたりけるほどに(中略)三河国に風祭と云ことをしけるにいけにへと云ふことに猪をいけながらおろしけるを見てこの国のきなんと思ふ心付てけり云々又三河雀に云四月十一日毎年風祭あり卯月上旬より十日限に雀十二羽を射取雀矢に中りて血流れぬれば氏子に災難ありと云へりなと敬雄の官社考に云へり」

 

なかなか生々しいお祭りだったようで……この辺り、「諏訪大社」の「御頭祭」を思い起こさせますね……となると、ここでもひょっとして古代ユダヤ氏族が登場するのでしょうか(トンデモギリギリ)。

 

 

先代旧事本紀 現代語訳

先代旧事本紀 現代語訳

 

 

先代旧事本紀』の「国造本紀」には、

 

「穂の国造
泊瀬朝倉朝(第二十一代雄略天皇)の御代に、生江臣(武内宿禰の後裔)の先祖、葛城襲津彦命(娘の磐之媛の命は第十六代仁徳天皇の皇后で、履中・反正・允恭の母)の四世の孫、菟上足尼(うなかみのすくね)を国造に定められた(穂国は三河国宝飯郡、愛知県豊川市付近)。」

 

とあります。
↑↑の方にもありましたが、

 

古事記(中ノ廿四丁)に云(日子坐王御子丹波比古多々須美知能宇斯王子)朝廷(みかど)別王者(三川之穂別之祖) 旧事紀(五ノ廿二丁)三川穂国造美巳止(みこと)直とありミコトミカド能く似たれば若くは同人には非る歟と古事記伝(廿二ノ七十二丁)に云はれたり」

 

というわけで、国造が誰だったか、その祖が誰だったか、『古事記』や『先代旧事本紀』が書かれた頃でさえいろいろな説があるものなので、何とも決めがたい……。

「菟上足尼」が、この辺りの実力者で、名前の近い「菟上王」と同一視され、神格化されたのかなぁ……くらいなのかもしれませんが、出雲の大神(「大己貴命」か「素盞嗚尊」かはさておき)の宮を盛大に修理したにしてはやっぱりそのあと記紀神話での影が薄いし、どうにもマイナー感がいなめません……むしろ、そのマイナーなところが狙い目だったとすれば、穂の国としては箔をつけることはできた、んでしょうか……うーん……。

『参河名所図絵』には、図絵も掲載されているのですが、神社の位置は今と同じようにちょっと小高い丘の上で、川沿いで、一の鳥居の位置も同じ、ということは江戸末期ですでに参道は直角に曲がっているのですよね……社殿の真正面に橋がかかっていないのが、地理的要因によるものなのか、怨霊封じなのか……様子としては、伊勢の「内宮」「外宮」の配置とも似ています……ということは、昔は川に船をつけて、そこから入ったのかな……。

いろいろ妄想が浮かんできますが、あとは郷土史家のみなさんにお任せするとして、次に行ってみましょう〜。

 

「菟足神社」(豊川市)〜高速初詣三河編〜

1/9。

まだ見ぬ御朱印……神社を求めて検索検索、式内社を発見。

「菟足神社(うたりじんじゃ)」です。

 

◯こちら===>>>

www.toyokawa-map.net

 

豊川市観光協会のHPです。

「豊川進雄神社」からナビ通りに進んだのですが、いまいち地形がいまいちよくわからない……一度、駐車場の入り口を通り過ぎて、慌てて引き返しました。

 

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正面鳥居。

 

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由緒書。

 

「式内 菟足神社
御祭神 菟上足尼命
創立 白鳳十五年(六八六)
穂の国(東三河の古名)の国造であられた菟上足尼命は、初め平井の柏木浜に祀られたが、間もなく当地に御遷座になった。
当社の大般若経五八五巻は、國の重要文化財に指定(昭和三六年)されている。僧研意智の書(一一七六〜一一七九)であるが、長い間弁慶の書と伝えられていた。(弁慶が東下りのおり洪水のため渡航できず、滞在七日の間に書き上げ神前に奉納したと信じられていた)。
なお応安三年(一三七〇)の銘のある梵鐘(昭和三九年文化財指定)は、本社前の水田から発掘されたものであり、当時は今の手水舎の位置に鐘楼があったことが江戸末期の参河名所図絵に出ている。
当社のお田祭の行事(昭和二九年県無形文化財指定)は旧正月七日に行われる。
風祭りとして知られる例祭は、四月第二土曜日曜日に行なわれ、打上花火、手筒花火は特に名高い
すた 祭礼の古面(五面)は昭和四〇年県文化財に指定されている。」

 

最後のところは、字が消えてしまっているのか、私にはこうとしか読めませんでした。

豊川は花火が盛んなんですね……あちらもあげればこちらも、という感じで、競い合うように盛んになったのでしょうか。

元祖はやはり、「豊川進雄神社」なのでしょうか。

 

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境内図。

ちょっと小高いところにある神社なのですが、そのためか最初の鳥居が社殿の正面にはありません。

高田崇史式によれば、「参道が曲がっているので、多分怨霊」ですが……さてどうでしょうか。

 

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「菟足神社と徐福伝説」。

なんですと……もうこの時点で、お腹いっぱいな感じです。

とりあえず今回は、徐福伝説は置いておきます(興味のある方は、写真を拡大してくださいね)。

 

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「菟足神社貝塚」。

なるほど、歴史の古い神社の多くが水辺にある、という話もありますので、この場所が聖地となっていた歴史はかなり遡れるのかもしれません。

が、考古学は範疇外ですもので、こちらも興味のある方はお読みください。

 

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賽銭箱にウサギの紋と、ちょこんとウサギ。

 

◯こちら===>>>

「三尾神社」〜近江めぐり〜 - べにーのGinger Booker Club

 

ウサギの紋といえば、滋賀の「三尾神社」を思い出します。

何かしらつながりがあるのかしら……。

 

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「家康の制札」。

ちょっと字が小さいので、拡大しても読めないかもです。

 

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「菟足八幡社」の……扉。

 

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境内摂社。

「津島」「金比羅」「山住」。

 

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忠魂碑。

 

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こちら、案内板にあった、大般若経を収めた……経堂とは言いづらい、倉庫、でしょうか。

 

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拝殿。

うーん……緑青に赤錆が……風情というよりは、ちょっと寂れて見えてしまいます……修復できないものか。

 

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狛犬さんたら、

 

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狛犬さん。

こちらも随分、錆びを受けているような……。

 

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本殿をちらりと。

 

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神楽殿。

 

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石灯籠。

 

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ウサギさんがいます。

 

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こちらにも。

 

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ウサギさん。

 

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見辛いですが。

 

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遠景。

石畳も錆びにやられてますか……。

 

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こちら、鳥居を出たところから南側を向いて撮影。

ちょっと小高いのがわかっていただけるかと。

 

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全景。

 

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御朱印

たまたま神職さんに遭遇し、いただきました。

ウサギの図案化が可愛らしい。

さて、引用などは次回に〜。

「豊川進雄神社」(再)(豊川市)〜高速初詣三河編〜

1/9。

豊川稲荷」の近くの神社、ということで「豊川進雄神社」へご参拝。

 

◯こちら===>>>

豊川進雄神社のご案内

 

↑公式HP……なのかな。

 

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「豊川進雄神社」「素戔嗚神社」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事です。

このときは、「素盞嗚神社」にもお参りしています。

 

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鳥居。

 

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狛犬さんたら、

 

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狛犬さん。

 

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境内摂社。

 

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こちら「出雲神社」で、以前の記事ではやっつけ仕事ですな、なんて書いてありますが、開扉されていたので中に入ってみたら、

 

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きちんと大社造でした……あいすみませぬ……。

 

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御朱印

判子です。

「今では書ける人がいなくなって」と、神社の方がおっしゃっておられました。

残念。

 

さて、神社でいただいた由緒書きから。

 

「御祭神
当神社には本社(豊川西町一三四番地)と元宮(豊川町仁保通)の二つの社があり、本社の御祭神は進雄命です。元宮(稲田神社)には進雄命の妃稲田姫が祀られていましたが、大正十二年(一九二三)に本社へ合祀され、現在は御旅所となっています。
御由緒
当神社は、大宝元年(七〇一)現在の元宮の地に創建。その後、現在地に遷座したと伝えられています。古代から中世の頃には、平家の鎌倉追討使の戦勝祈願や鎌倉将軍上洛の参詣があったと伝承されています。
平安時代以後、進雄命は牛頭天王(天王)と称された祇園精舎の守護神で、薬師如来の仮の姿ともされ、厄除けの神とされてきました。鎌倉時代、津島牛頭天王社の鎮座する尾張海東郡の領主、大江一族が当地に入り、室町時代になって天王信仰が盛んになったといわれています。天正十八年(一五九〇)豊川村が吉田城主池田輝政の領地となり、輝政は深く当社を崇敬し、刀・鞍等を奉納したと伝えられています。
江戸時代には、領主の水野佐渡守や天領代官鈴木八右衛門、さらに小笠原壱岐守など多くの領主に保護されましたが、なかでも享保二十年(一七三五)名奉行で知られる大岡越前守忠相が当地を所領すると、刀や灯篭、本殿修理料などが献じられました。以後幕末まで大岡家から継続して代参があり、供物が献納されました。
明治時代になると、政府の神仏分離の方針に従って、神社名を「豊川牛頭天王社」から「進雄神社」と改めました。さらに大正十二年(一九二三)には「豊川進雄神社」と改称されました。そして、昭和四十年(一九六五)愛知県神社庁指定の四級社に昇格しました。」

 

とのことです。

順番的には、元宮から、なぜか「進雄命」だけが離されて「稲田姫」は残り、大正になってようやく合祀された、と。

「素盞嗚尊」→「牛頭天王」という流れについては、いろいろな本で解説されていると思いますので、そちらを確認ください。

いろいろあって、疫病除けの神となったために、「薬師如来」の垂迹、とされたようです。

そうか、「大岡忠相」はこの辺りを領地としていたんですね……だから「豊川稲荷」でも名前が出てきたのか。

 

「奉納綱火と手筒煙火
(略)
豊川進雄神社の花火の起こりについて、斎藤家所蔵の古文書には「寛文元年(一六六一)六月始まり申、花火其の他つるし提灯仕り、車と山へ縄を張り縄火大分の事也、大からくりもあり」と記録され、また、西本会所所蔵文書には、「花火初之年、万治三年(一六六〇)六月十九日古より有之候所、中頃中絶仕候を親中田四郎右衛門取立之申候也」と記されています。
宮座の一員である四郎右衛門義直は、二十一歳の時に花火を始めましたが、費用もかさみ運営がままならないため、若い者に呼びかけ権現堂わき(現東部中学校敷地内)にあった荒地を開墾し、花火畑(花火の費用を補助する収入を得るための畑)をつくりました。一方では、若い者に花火の製法を教え、若い者を東西二つに分けて花火を競わせました。これが現在の煙火の起源となっています。この花火畑は歴代領主より天王除地として年貢を免除され、祭礼の費用にされました。
古文書の記録に残る煙火の名称は、「綱火」「からくり」「花火」ですが、近年各所で盛んになってきた大筒や手筒は、この花火として一括記録されています。」


花火で有名なのですが、何故に花火だったのか、というのはよくわかりません。

祭りは陰暦六月十九日・二十日、ということなので、夏越の祭りだったのかとは思います。

川の近くに「牛頭天王社」があるのは、津島にならってのこと、なのかもしれませんが、疫病は水辺からやってくる、という発想があったものと思われます。

水を払うには火だ、という単純な連想(あるいは、五行に則ったもの)でしょうか。

疫病はともかく、弔いに火を焚くのは日本では当然のようなところですし、それが大人数になればなるほど火の規模も大きくなって、隅田川の花火大会みたいになっていく……んだったかどうかは覚えていませんが。

 

 

新訂 東海道名所図会〈中〉尾張・三河・遠江・駿河編 (新訂 日本名所図会集)

新訂 東海道名所図会〈中〉尾張・三河・遠江・駿河編 (新訂 日本名所図会集)

 

 

東海道名所図会』には、

 

牛頭天王
神明、八幡宮ともに御城内にあり。天王祭、例年六月十五日。

放花炮(はなび) 六月十四日夜、吉田本町、上伝馬町の両町にて揚ぐる。高さ十三間、幅三間、これを立物という。これ過ぎて大花炮あり。火の移らぬように大釜を覆いにす。これに火をうつすときは、屋上に群がる見物の人々、濡筵を被くこと多し。そのほか、町々の花炮数百ありて、群衆夥し。
(略)
また笹おどり、大太鼓一人、小太鼓二人、同じ衣装に塗笠被り、覆面し、錦の陣羽織、小手、脛当など着し、いたって古雅の体相なり。囃子方は編笠、湯衣を着し、笹に提灯をゆい付けて、数十人同音に諷う。その唱歌にいわく、

天皇といふ人は何仏にまします。
日本一の荒神
あらゐ、橋本、塩見坂、名所名所の花を見さいな。

これをくりかえしくりかえし謳うなり。
(略)」(p132)

 

とあります。

↑公式HPには、現在の笹踊りの神歌が記されていますが、『東海道名所図会」と一致する歌詞はありません。

ということは、『東海道名所図会』に掲載されている「牛頭天王祠」が、「豊川進雄神社」と同じかどうか、がわからないということですね(祭礼の日にちが違うしな……)。

さて、どんなものでしょうね……。

 

 

今回はこの辺りで〜。

 

 

三河、まだまだ見て回ります。