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べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「寛永寺 根本中堂」

8/4。

気づいたら、かなり暑い上に、脚がぱんぱん。

それでも、上野に来た以上は国立博物館……月曜だから休み……ではなく、こちらへお参りしなければ。

寛永寺 根本中堂」

 

◯こちら===>>>


寛永寺の諸堂 | 東叡山 寛永寺 公式ホームページ

 

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「銅鐘

本鐘の大きさは総高177.2センチ、口径91.8センチ。厳有院殿(四代将軍家綱)の一周忌にあたる、延宝九年(1681)五月八日に厳有院殿廟前の鐘楼に奉納された。明治維新以降に、寛永寺根本中堂の鐘として、当初に移されたと伝えられる。現在は、除夜の鐘や重要な法要の際に使用される。作者の椎名伊代守吉寛は、江戸時代前期(17世紀後半)に活躍した江戸の鋳物師で、神田鍋町に住した。延宝元年(1673)から貞享三年(1686)にかけて、銅鐘を中心に十七例の作例が知られている。その中には増上寺や寛永寺などに関わるものも含まれており、幕府との関係の深さが窺える。

本鐘は、将軍家霊廟の儀式鐘で、近世初期の鋳物師の活躍や鋳造技術を知る上でも貴重な遺品のひとつである。」

 

「椎名伊代守吉寛」って誰だろう、と思ったので、困ったときの、

 

◯こちら===>>>

椎名吉寛(しいな よしひろ)とは - コトバンク

 

コトバンク

 

「?-? 江戸時代中期の鋳物師。

正徳(しょうとく)(1711-16)ごろの人。江戸神田鍋町にすみ,幕府の御用鋳物師をつとめた。芝増上寺の梵鐘のほか、銅灯籠(とうろう)、擬宝珠(ぎぼし)などの作品がのこっている。のち良寛と名のったという。」
だそうです。
この場合、「御用鋳物師」だから「伊予守」を名乗ったのか、勝手に「伊予守」を名乗ったのか、そもそも武士身分だったのか、よくわかりません。
結構勝手に名乗ってよかったんでしょうかね、「◯◯守」って。
◯こちら===>>>


天明鋳物とは:栗崎鋳工所

 

↑では、佐野の鋳物師の歴史が簡単に書かれています。

 

◯こちら===>>>

谷中・銅鐘

 

↑では、台東区の「長明寺」の銅鐘解説で、椎名家のことに触れています。

「椎名伊代◯◯」と名乗ったような書かれぶりですが、まぁ「大岡越前守」のことは「越前」と読んだり……したんでしょうか(所詮知識は時代劇)。

 

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解説版を大きく写さなかったのでさっぱり読めませんが、「旧本堂表門・根本中堂 鬼瓦」です。

どっちがどっちかわかりません。

逆光で全然見えませんけれども、影が鬼っぽいです。

 

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もちろん、「葵の御紋」があるんですが、この立体的な形状にはっとしました。

これは、

 

 

「ダイオージャ」の胸の部分ではないのか

 

 

と。

 

超合金魂 GX-61 ダイオージャ

超合金魂 GX-61 ダイオージャ

 

 

あるいは、

 

マイトガイン」の胸の部分ではないのか、これがぱかっと開いて……

 

とか。

 

スーパーロボット超合金 マイトガイン

スーパーロボット超合金 マイトガイン

 

 

……思うのは自由です。

 

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「慈海僧正墓」です。

 

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尾形乾山墓碑」。

尾形光琳の弟だそうです。

入谷に窯を開いたそうです。

近代に疎いなぁ……。

 

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「根本中堂」を右手に。

 

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左側のお堂はなんだっけ……右側は「了翁禅師塔碑」、だと思います。

 

「了翁禅師(1630-1707)は、江戸時代前期の黄檗宗の僧です。俗姓は鈴木氏。出羽国雄勝郡に生まれ、幼い頃から仏門に入り、後に隠元禅師に師事します。諸国を巡るうち、霊薬の処方を夢に見て「錦袋円」と命名し、不忍池付近に薬屋を俗甥の大助に営ませます。その利益で難民救済や寛永寺に勧学寮(図書館)の設置などを行いました。

こうした功績により輪王寺宮から勧学院権大僧都法印位を贈られています。宝永四年、七十八歳で没し、万福寺塔頭天真院に葬られました。

本碑は了翁禅師の業績を刻んだ顕彰碑で、生前に作られたものです。元々建てられた場所や、現在の場所に移築された時期などは不明です。」

 

なんとなく、黄檗宗と聞くだけで気になってしまいます。

 

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お堂の入口。

 

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「虫塚碑」。

伊勢長島藩主の増山雪斎が、写生図譜を作る際に使った虫さんの霊を慰めるためのもの、だそうです。

仏教的に、「次は虫に生まれ変わり」が十分にあり得るので、そんな思いも込めて、なんでしょうか。

アニミズム

 

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上野戦争碑記」。

……読めません。

 

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手水鉢か天水桶か。

 

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屋根に輝く、黄金の「葵の御紋」。

 

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寛永寺本堂

旧本堂(根本中堂)は現在の東京国立博物館前の噴水池あたりにあったが、慶応四年(1686)彰義隊の兵火で焼失した。そのため明治九年(1876)から十二年にかけて、埼玉県川越市喜多院の本地堂が移築され、寛永寺の本堂となったのである。寛永十五年(1638)の建造といわれる。

間口・奥行ともに七間(17.4メートル)。前面に三間の向拝と五段の木階、背面には一間の向拝がある。周囲には勾欄付廻縁をめぐらしており、背面の廻縁には木階を設けて、基壇面に降りるようになっている。桟唐戸(正面中央など)、蔀戸(正面左右など)、板壁など、すべて素木のままである。屋根は入母屋造、本瓦葺、二重棰とし、細部の様式は和様を主とする。

内部は、内陣が土間で、外陣と同じ高さの須弥壇が設けられている。須弥壇の上に本尊その他の仏像を安置する。内陣を土間とする構造は中堂造と呼ばれ、天台宗独特のものである。現在は板の床が張られ、内外陣ともにすべて畳敷になっている。」

 

なるほど、元々の本堂は焼けていましたか……残念。

ちなみに、「根本中堂」というのは、

 

「[金堂]

寺院の中心堂宇で、本尊を安置する。金堂の名は仏を金人と称したとか、金色で荘厳するためとかいうが、中国から用いられた。大寺院では興福寺のように東西の金堂があり、東大寺は大仏殿ともいう。比叡山では根本中堂といい禅宗では仏殿、浄土系寺院では本堂を用いるが、知恩院では御影堂(みえいどう)を本堂というに対し、本願寺阿弥陀堂を本堂と良い、御影堂(ごえいどう)と読んで大師堂・祖師堂ともいう。但し宗派によるよりも、各寺院の都合で名称を異にする場合が多い。」

 

密教辞典

密教辞典

 

 

↑の「金堂」の説明で触れられておりますが、比叡山では根本中堂といい」というわけで、天台宗系の本堂の呼び方、のようです。 

 

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……敷地との兼ね合いから、こんな感じの遠景しか撮れませんでした。

いい押し出しのお堂です。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸名所図会. 第3

 

↑の117コマから、「東叡山寛永寺」の記事が掲載されています(引用にあたって旧字を改めた箇所あり/判読不能文字は■に置き換える)。

 

「東叡山寛永寺 圓頓院と號す。人皇百九代後水尾帝の御宇、寛永年中、比叡山延暦寺に比せられ、江城の鬼門を護るの霊区として、慈眼大師草創あり、爾ありしより已降、代々一品法親王座主として、今天下第一の梵刹たり。

中堂 本尊薬師如来 伝教大師の作にして、江州矢造村石津寺(セキシンジ)より移させらるるといへり。正五九月十二日には、一山の僧徒出仕ありて、大般若経転読あり。此童中天井の中央に画ける龍、ならびにうしろの方の壁上に図せる所の十六羅漢等の像は、ともに狩野永叔の筆なり。又同じ天井の左右に図せる天人は、狩野探信探雪の両筆なり。

脇市 日月二大士十二神将 慈覚大師の作にして、羽州立石寺よりうつさるといへり。

脇壇 不動明王 智證大師の作。 多聞天 定朝の作。」

 

以下数ページにわたって、「寛永寺」境内の図絵が並びます。

今の「上野恩賜公園」全域に近いとすると、とんでもなく広いです。

その影響力といったら……いえよく知りませんが。

 

他、125コマに、↑↑の方で出てきた「勧学寮」の記事があります。

 

「勧学寮 俗に百軒長屋といふ。池の端錦袋円の元祖了翁僧都、天和二年に建立す。四方に列るところの寮舎おのおの五十餘間づつ、其数あはせて二百戸とす。勧学の僧徒常にここに居る。則ち当山の檀所なり。」

 

また、了翁禅師の略歴も掲載されています。

 

「勧学坊了翁僧都、其俗性は鈴木氏、羽州尾勝郡八幡村の産なり。寛永七年庚午三月十八日に生る。宿業にやありけん、二歳にして悉く親族をうしなひ、おなじく十八年辛巳(12歳)同国門泉禅寺に入て奴僕となり、つひに斎藤自得居士のすすめによりて薙染し、僧となりぬ。ここにおいて因縁の不可思議なる事を発明せり。おなじく廿年(14歳)みづから思惟すらく、それ一切蔵経は如来の肝膽にして、人天の眼目なり、我心肝を砕き、誓ひて一代蔵経を建立せんといつて、正保元年甲申(15歳)鎮守八幡宮に詣し、至心に志願の成就を祈りたてまつり、夫より諸国を経歴し、あまねく高徳の師に謁して、ここかしこに掛錫す。承応四年肥前州興福禅刹の開山如定禅師の示現によりて錦袋円の箋方を製し、市店をひらきてこれを■き、六年を経て、其値の餘許黄金三千両を得たり。ここにおいて、寛文十年庚戌(41歳)忍ばずの池の中島にして地を賜ひ、あらたに一島を築き、一宇を建てはじめて蔵経全部安置することを得たり、よって其頃報恩のため、錦袋円を四十二万人に施す。天和二年(53歳)又東叡山の中にして、四万五十餘間の地を賜ひ、勧学寮を建立す。院宇三甍四方二百戸の寮舎を設く。又二宇の文庫を建て、儒老二教および倭漢の群籍を収蔵する事、すべて三万餘巻なり。すなはち忍ばずの中嶋より蔵経をうつして経蔵を建て、これを収む。ここにいたりて志願円満す。日光御門主其功大なるを御感ありて、学頭凌雲院をして、般若心経を講説開白せしめたもふ。又貞享二年、高野山光台院に一蔵庫を置く。仁和御門主御感賞ありて勧学坊権大僧都法印に住ぜらる。(略)」

 

113コマには、「錦袋円」と題された図絵が掲載されています。

図絵の中に書かれていることを、何となく引用してみます(活字になってないもので……間違っている可能性が大ですので、ご注意を)。

 

「池の端仲町勧学屋大助是を製す。其始祖勧学坊了翁僧都一代蔵経建立の志願■■■正保三年摂の勝尾寺■■■和州長谷寺■陽清水寺等の大悲の尊前に参籠して■■■燃し一篇の■書をこれ奉る。其翌年彼、一指大に腫て苦痛堪かたき時に夢中肥前州興福禅刹の開山如定禅師錦袋の中より一霊薬を取出して授ら■■■る 夢さめて後速に彼薬を製して服せ■■■其指の病頓■兪■其後衆人の患者に用るに百人必百兪せんと云事なりここに於て■■に店を開き万病錦袋円と号彼霊薬を製し■■竟に其値の余計を■一切経建立の■■■志願の全き事を得たりと云々」

 

「指が痛くて、夢に出てきた禅師の言う通りに薬を作ったら治ったので、それを売ったら大変繁昌して、元々の志願を全うした」ということのようです。

『江戸名所図会』は、旅行ガイドのようなものでもあるので、こうした各所の名物も取り上げているのが面白いですね。

 

さてさて、「寛永寺」を建立したのは「南光坊天海」ですが、『江戸名所図会』では以下のように書かれています。

 

「抑開山慈眼大師、諱は天海、南光坊と号す。奥州会津郡高田郷の人、姓は三浦氏なり。(足利法住院義澄の子とも、或は芦名修理大夫盛高の一族ともいへり。されど師いますがうち、人あつて其俗姓を問へば、ひとたび空門に入りぬれば、知りてよしなしとて、答へたまはずとぞ。故に其実をしる事を得ず。)父母嗣なく、月天子に祈り、其母奇花を呑むと夢見て娠む。まさに九月にして降誕す。幼より葷肉を食せず、心気清朗にして、聡敏他に越えたり。十一歳にして辨譽師に投じて祝髪し、天文年中、始て叡山に登り、神蔵の実全にまみえて台教の深旨を伝へ、倶舎性相を圓城の尊実に学び、復南都に往いて法相三論等の教法を学び、成重といへるに逢うて神道の奥儀を究め、足利の学校に遊びて孔老の書を読み、道器といへるに首楞嚴を学ぶ。後郷に帰り、会津の大寧禅師にあひて教外別伝の旨を発明し、善恕和尚に碧嚴集を聴く、一百則の話頭を会得す。其頃甲斐の信玄、台教を敬ひ、ある時諸師を請じて論義せしめ、天海を講主とす。衆皆辞理の奇なるを感称すといふ。是よりして名を朝夜にしらる。後常州江戸崎不動院に住す。時に文禄二年夏、大いに旱す。民うれへて、師をして請雨の法を修せしむ。其時神女あつて五鈷杵を授く。師高田浦の深淵に臨んで法を修し給ふに、膏雨忽ち注いで、百穀大に登る。(彼五鈷杵、今猶伝えて霊堂にありといへり)又慶長四年、武州仙波の喜多院に住す。同八年、下野国長沼の宗光寺に移る。同十二年、神君命じて叡岳の南光坊に住持せしめ、再び命じて喜多院に帰り居らしむ。同十四年、山門に登り、法華大会を行はるる時に、重職の勅許を蒙り、新題者の精義厳重につとめ給へり。上皇後陽成院)度々召ありて法要に詔問したまひ、奏対詳明なるに依て、叡感浅からず、権大僧正に擢られ、御手づから御衣燕尾等を賜ひ、山科の毘沙門堂の門室に附せらる。又宸翰を下したまひ、権を転じて正に任ず。同十七年、神君河越に狩したまふ折から、仙波に立寄せたまひて、殿堂を修営せしめ、荘園を寄させたまふ。同十八年、復命を承りて日光山に居る。神君薨去の後、其遺命を奉じて葬を久能山に営み、元和三年、尊霊を日光山に遷坐なし奉る。是往古の大職冠の例に倣ふ。則ち山王習合の神に鎮りたてまつり、勅を奉じて、東照大権現と號し奉る。大樹(台徳公)亦神君におとらせたまはず優寵したまひける。其先元和二年大僧正に任ぜられ、先帝(正親町院)二十五の御遠忌にも、御導師に請じたまふ。其後寛永二年、大樹(大猷公)命じて東叡山を闢かしめ、師をして開山とす。又上皇の二宮を(守證親王)日光山の御門主に請ぜさせ給ひ、師の御弟子に沙汰したまふ。其後上野国新田庄世良田山長楽寺を賜ひ、東照大権現の神祠以下の諸堂を造立あり。亦同じく二十年の秋、僧正微疾を示す。時に大樹(大猷公)および紀州亞相(頼宣公)駕を屈し疾を問ひたまふ。僧正遂に遺語五則を書す。大樹画工探幽に命じたまひて、其頂相を写さしむ。一日唯識論を閲す。忽に文殊菩薩の来現を見る。則ち其時至るをしり、端座合掌して遷化す。時に寛永二十年十月二日なり。(東国高僧伝に、寛永十九年壬年十月二日化寂とあり。その壽は凡そ百有余歳といへども詳ならず。)紫雲天華の瑞あり。影堂を当山、ならびに日光、天台の三山に建つる。当山慈眼堂其一なり。慶安元年、慈眼大師と諡號の詔勅を下したまふ。(略)」

 

長。

江戸後期の、知識人に属する人が書いた文章ですので、当時の人の認識を反映しているとまでは言えないでしょうが、ガイドブックだとすると、きっと多くの人がこの程度のことは知っていたのではないか、と思います。

「人あつて其俗姓を問へば、ひとたび空門に入りぬれば、知りてよしなしとて、答へたまはずとぞ。」というようなことをおっしゃったそうです。

戦国から江戸期にかけて、人の出自なんて曖昧なものですから。

おかげで、

 

「天海は明智光秀である」

 

みたいな説が出てしまうのですが。

「月天子に祈り、其母奇花を呑むと夢見て娠む。」ということで、「月光菩薩」のおかげでお生まれになった、と伝わっているようです。

ふーん……と思われた方は、

 

QED 東照宮の怨 (講談社文庫)

QED 東照宮の怨 (講談社文庫)

 

 

↑を読んでみましょう。

前半は、とにかく天才であることを褒めています。

実際、天才だったんだと思います。

「時に文禄二年夏、大いに旱す。民うれへて、師をして請雨の法を修せしむ。其時神女あつて五鈷杵を授く。師高田浦の深淵に臨んで法を修し給ふに、膏雨忽ち注いで、百穀大に登る。」という、空海最澄の時代からの伝統「雨乞いは坊さんの役目」をしっかり果されたようです(もう少し前は、言霊使いの役目だったのですが)。

武州仙波の喜多院ってどこかで……ああ、今の「根本中堂」が元々あったところ、ですね。

そういう由縁でこちらに移られた、と。

「是往古の大職冠の例に倣ふ。」ていうのがよくわからないんですが、多分これ「大織冠」のことですよね。

つまり、藤原鎌足のことです(「大織」は、大化のころの官位で、人臣の最高位、史上唯一「藤原鎌足」のみが授かりました)。

日本書紀』によれば、

 

日本書紀〈5〉 (岩波文庫)

日本書紀〈5〉 (岩波文庫)

 

 

「「臣既に不敏し。当に復何をか言さむ。但し其の葬事は、軽易なるを用ゐむ。生きては軍国に務為し。死りては何ぞ敢へて重ねて難さむ」と、云云。」

 

と言い残したそうで、「葬式は簡単にしてくれ」ということです。

家康公の希望は薄葬だったんですね。

 

でも、日光は、あんなんになっちゃった、と。

 

江戸時代には何人も名プロデューサーがいたのでしょうが、その最たるものが「天海」でしょうか。

畏敬の念をはらいつつ、後世に面白いネタを残していただいたことに感謝しつつ、もうふらふらでしたので、おいとますることに。

御朱印をいただこうと思って寺務所を訪ねると、「今日は開堂していますので、お堂の方で」と言われました。

で、お堂に戻ったのですが、

 

全く開いている気配がない

 

上に、

 

どうやって中に入っていいのかわからない

 

という……お昼休みだったのでしょうか。

残念でしたが……。

 

 

上野恩賜公園」散策終了。

心残りはいろいろありますが、また訪れることもできるだろうと信じて、次の目的地へ

〜。