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真夏の「上野恩賜公園」。
こうして窺うと、外国の観光客の方が多いです。
どんなものが「日本的」だと感じていらっしゃるのでしょうか。
そんなことを微塵も考えず(暑いんです)、黙々と歩いて次の目的地に行く前に、通りがかった「上野大仏」。
◯こちら===>>>
公園内のちょっとした高台に、突然出現します、パゴダ。
wikipediaによれば、
「パゴダ (pagoda) とは仏塔(ストゥーパ)を意味する英語である。日本ではもっぱら、ミャンマー様式の仏塔のことを意味する。」
「直接の語源はポルトガル語のパゴデ (pagode) である。」
となっています。
「仏塔(ストゥーパ)」を漢字で書いたものが「卒塔婆」で、お墓でおなじみなあの板です。
元々は、仏舎利を収めた建築物のことです。
世界中にある仏塔に、本当に仏舎利が収められているとしたら、お釈迦様の身長は何メートルになるのでしょう、といった話をどこかで読みました(京極夏彦氏だったかな)。
聖遺骸信仰というのは、洋の東西を問わず流行しているんですね。
「大佛パゴダ
御本尊 薬師瑠璃光如来
御脇侍 日光月光二菩薩(旧上野東照宮薬師堂ご本尊)
沿革 寛永八年(1631年)堀丹後守直寄公が釈迦如来尊像を当山に建立せられ、1660年頃聖堂の大仏に改築された。
大正十二年 大震災で破損のため撤去する。
パゴダ建立
発願者 上野観光連盟
寄進者 大成建設株式会社
昭和42年7月吉日竣功」
「上野大仏略記
寛永八年(1631年)越後の国村上城主堀丹後守直寄公旧自邸内のこの高台に、戦乱に倒れた敵味方将兵の冥福を祈るために土で釈迦如来像を造立した。
青銅大仏
明暦・万治の頃(1655〜60年)木食僧浄雲師により銅像に改められた。
仏殿
元禄十一年(1698年)露座の大仏に仏殿が建立された。
改鋳
天保十二年(1841年)火災に遭い、天保十四年、末孫堀丹波守直央公が大仏を新鋳しまた仏殿を再建した。
大正十二年関東大震災によって佛頭がおち、寛永寺にて保管、その後、佛体は解体され第二次世界大戦時に献納された。
昭和47年春彼岸、尊顔を再び旧地に迎えて祀り再建を計る一助とする。」
「木食僧浄雲師」登場。
大仏改鋳の立役者でしたか。
こちらご尊顔。
仏像のお顔というのは、なかなか身近で見られないものですが、こうしてあるのも何というか、罰当たらないかな、とか。
……なんで「合格」?
ああ、「地震で落ちた」から、もう二度と「落ちない」ってことでしょうか。
あるいは、「自信(地震)があると落ちる」という戒め?
これも仏塔といえば仏塔。
経塚でしょうか。
パゴダ麓のお地蔵様。
もちろんなんですが、パゴダ内には入れます。
ちょっと緊張する空間です。
森越しのパゴダは、ちょっと南方の密林の中の寺院(アンコール・ワット的な?)のようです。
さて、
◯こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸名所図会. 第3
↑の124コマに「大佛殿」の記事があります(引用にあたって旧字をあらためた箇所有り/判読不能文字は■で置き換える)。
「大佛殿
同所にあり。紫銅をもつて二丈二尺余に作れる釈迦如来の坐像を本尊とす。万治年間、木食浄雲といへる沙門、是を造立ありしといへり。堂内に地蔵尊を安ず。慈済庵空無上人の建立にして、江府六地蔵の一なり。又弥勒佛の像を安ず。すべてこの三尊をもつて、現世、過去、未来の三世を表せり。往昔大明院宮この銅像をみそなはし、其頃堂宇もなかりしかば、雨露の侵さん事を愁へ給ひ、佛殿を営建ありしとぞ。今は公より修理をくはへらる。」
「木食浄雲」が造立したことは、どうやら確かなようです。
「江府六地蔵」が気になりますが、『東都歳時記』とか『江戸砂子』とか、活字のものがネットで見つからないので……。
「大明院宮」というのは、wikipediaによれば「公弁法親王」のことで、「元禄11年 (1698)、露座であった上野大仏に仏殿を建立」したそうです。
逸話によれば、「鴬谷」の地名を作った人ではないか、と言われているようです。
あ、ちなみに「木食」というのは、
◯こちら===>>>
↑によれば、
「五穀を断って木の実や若芽だけを食べて修行すること。また,その人。」
です。
ですから、「木食浄雲」は、「木食」修行をしていた「浄雲」というお坊さん、という意味です。
◯こちら===>>>
↑では、河鍋暁斎が明治10年の「第一回内国博覧会」の様子を描いたものが見られます。
その中に、上野大仏や不忍池などが画かれています。
◯こちら===>>>
↑では、写真で大仏が見られます。
往時の雰囲気が感じられれば。
それにしても、上野に大仏があったとは……物を知らないというのは恐ろしいですね。
◯こちら===>>>
↑とても丁寧にまとめられたサイトなので、ご参考に。
では、次の目的地へ……と思ったら、遭遇しました。
「お化け燈籠
佐久間大膳亮勝之が東照宮に寄進した石造の燈籠で、
奉寄進佐久間大膳亮平朝臣勝之
寛永八年辛未孟冬十七日
と刻字し、寄進者・寄進年月を知ることができる。寛永八年(1631)東寺、東照宮は創建して間もなく、社頭には、現存の大鳥居・銅燈籠・石灯籠などは、まだわずかしか奉納されていなかった。勝之は他にさきがけて、この燈籠を寄進したのである。
勝之は、織田信長の武将佐久間盛次の四男。母は猛将柴田勝家の姉という。信長・北条氏政・豊臣秀吉、のち徳川家康に仕え、信濃国川中島ほかで一万八千石を領した。
燈籠の大きさは、高さ6.06メートル、笠石の周囲3.63メートルと巨大で、その大きさゆえに『お化け燈籠』と呼ぶ。同じ勝之の寄進した京都南禅寺・名古屋熱田神宮の大燈籠とおもに、日本三大燈籠に数えられる。」
「お化け燈籠」だからといって出るわけではなく、「その大きさゆえに」なのです。
◯こちら===>>>
ちょっとうろうろ(浅草名所七福神) - べにーのGinger Booker Club
↑の「お化け地蔵」で期待を裏切られた恨みは忘れてはいません(?)。
しかし、「名古屋熱田神宮の大燈籠」とは……地元にこんなものがあるとは知りませんでした。
いや、「熱田神宮」はもっぱら神話との関係でしか観たことないので。
そういえば、「信長塀」もあったな……今度、ちゃんと散策してみよう。
実はこの「お化け燈籠」も、『江戸名所図会』の中にありまして、
◯こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸名所図会. 第3
↑の同じく124コマに、
「大石燈籠
同所構の外にあり。高サ二丈あまり。笠石の径り一丈二尺、棹石三園、京師南禅寺、尾州熱田社と、当山とをあわせて、日本に三つの大石燈籠なり。いづれもおなじ人の造立する所にして、比類なし。銘に寛永八年孟冬十七日佐久間大膳亮勝之とあり。」
とあります。
……案内板そのまんまです。
この頃から、日本三大燈籠の一つだったようです。
というわけで、歩くと見所にぶつかる素敵スポット「上野恩賜公園」、次回は「東照宮」です。