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桜を求めてネット検索、神社仏閣絡みで近くにないかなと思ったら、著名そうなところが。
「応夢山定光寺」です。
○こちら===>>>
なんの予備知識もなく訪れました。
「定光寺公園」というところもありました。
○こちら===>>>
↑インチキくさい桜の写真はこちらです。
車で、境内近くの駐車場まで上がっていくことができます。
「定光寺本堂
定光寺本堂は、典型的な禅宗様仏殿を持つ建造物で「無為殿」とも呼ばれる。
本堂は、暦応三年(1340)に建立されたが、室町時代に何度も災害にあったため、天文三年(1534)に修理再興された。そして、昭和一三年(1938)の解体修理のおりに杮葺きの入母屋根が架けられ、現在の姿となる。
相変わらず、iPhoneのレンズカバーのせいでじわっと滲んでおります。
そして、調子に乗ってカメラアプリとフォトレタッチアプリで、目一杯遊んでしまっています。
色彩感覚のない人間がやらかすとこういうことになるのだ、という悲劇としてお楽しみください。
内部の須弥壇までは撮影できませんので、外観で。
素朴な味わいがあります。
近くで見ると、なかなかの大きさ。
屋根のカーブが作り出す大きさでしょうか。
最後の写真がえらく南国めいていますが……。
次は「源敬公廟」。
「源敬公廟
獅子の門・龍の門・焼香殿・宝蔵・唐門・源敬公墓・築地塀・計七棟
この廟は、定光寺北東に、尾張藩祖徳川義直公を祀るためにつくられたものである。慶安三年(1650)に義直が没したため、翌四年に墳墓と石楼が、承応元年(1652)に焼香殿などが墳墓の周りに建てられ完成した。
廟の入り口に門があったのですが、撮影し忘れる。
「源敬公略歴
源敬公は家康公の第九子にして母は相応院なり慶長五年十一月二十八日大坂城内の西の丸に生る。幼名を五郎太のち義直と改め生母相応院とともに駿府にいた
慶長十二年正月甲府二十五万石に封ぜられ松平忠吉公歿後清洲城に入り慶長十五年名古屋城が竣工してこれに移り尾張美濃信州に於て六十余万石を領した
寛永三年五月権大納言に任ぜられ天下諸侯伯の首位にあり徳川三家の随一として政治を執った 平素は武事に心を留め常に深く神佛を祭り学問を好み国史を極め政治に意を用い治水産業の発展に力を尽した
格別練武のため水野の地に狩猟を試み定光寺附近の風光や自然を愛し生前に自ら墓地をば当寺に定めた
殉死者墓
廟所内には源敬公に殉死した九名の墓も祭られている」
前日の雨のせいか、桜の花びらが石畳に貼りついていました。
滑りやすく、歩きづらい。
しかし、荘重な趣のある道でした。
こちら、「獅子門」。
テレビゲームの、謎の神殿みたいじゃないですか?
修正しすぎていますが、なかなかいい写真ではないかと。
廟の入り口です。
「本廟は徳川義直公の遺命により中国人陳元贇の設計になり儒教式の配置であり江戸時代初期の廟建築中の異彩あり代表建造物として注目すべきである
一段高き壇上内に円形の墳墓、石標唐門を立て正面に焼香殿敷石参道竜ノ門を作り側面に宝蔵及び殉死者九名の墓標を立てり周囲には築地塀をめぐらし屋根は全部銅葺である各所の扉の彫刻は名工の左甚五郎の作と伝えられる
廟の前の庭は敷石参道を挟み蓬莱山鶴島亀島を作り枯山水の平庭で小石を敷き廟前庭園として清楚なる眺めである先般伊勢台風のため巨樹老木が倒壊し風池を害したるは残念である」
焼香殿から覗いた、廟の扉。
殉死者の墓。
いやぁもう空の色が胡散臭くて。
よく晴れていたせいで、一層修正に磨きがかかり(?)。
目が痛い痛い痛い。
門扉の彫刻。
ぜーんぶボケてます。
深山に映える鮮やかな緑青……いや鮮やかすぎる。
やりすぎはいけません。
あ、門の写真がありました。
実は、駐車場から上がってくると、山門は潜れないんですね。
というわけで、山門側を。
「定光寺観光案内
臨済宗妙心派に属し建武三年西暦一三三六創建定光寺駅より一粁昔より景勝の地として尾張嵐山と言われている
開山覚源禅師は諸国を遊歴しついに人跡未踏のこの地をこのみて日頃信仰する延命地蔵菩薩を本尊とし教化に専念す 一夜衆僧等が定光佛の像を掘出した夢を見寺を定光寺と名ずけ山号を應夢山とす
かくて崇敬厚き当寺は世々国守の帰依特に深く三五〇年前尾張国守徳川義直公も巡行狩猟の途次当寺に立寄り自から墓と定めたのが藩祖廟所である廟所は中国式の儒教建築にて陳元贇の設計である
各所の扉の彫刻及び獅子門の獅子は左甚五郎の作である
義直公に付いて殉死した九名の墓は東側に主君を守る如く並んでおります定光寺本堂とともに藩祖廟所も重要文化財に指定
山主」
京都の嵐山に行ったことは……あるような気がしますが……確かに景観には優れているように思います。
今度はおもちゃみたいになっちゃった……。
境内の他の場所を〜。
読めやしない……。
こちら観音堂。
あ、なんかちょっと寂びた感じがよく出ている気がします。
こちら経蔵。
内部には輪蔵ありです。
駐車場からはすぐに本堂に行けてしまうのですが、麓の「定光寺公園」の方からは、本来の参道を通ることもできます。
なかなかの雰囲気。
尾張嵐山、と誇りたくなる気持ちもわかります。
さて。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第10編尾張名所図会
↑から引用(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
123コマです。
「應夢山定光寺
沓掛村にあり。臨済宗、京都妙心寺末。当時は建武三丙子年、勅諡覚源禅師の開基なり。禅師名は處、字名は平心。肥前国小味荘千葉氏の子。母は平氏。弘安元年丁亥に生れ、応安二年十二月八十三歳にて寂す。永和四年、勅して覚源禅師と諡す。委しくは[扶桑僧寳伝][延宝伝燈録][本朝高僧伝]をはじめ、[覚源禅師譜略][伽藍開基記][地蔵感応伝]等に見えたれば、ここには略伝をしるせり。元和八壬戌年五月二十八日、国祖君御遊猟の折から、境内の山林及び沓掛村のうちを寄附し給ひ、其後猶も此地に御心留めさせ給ひ、しばしば遊覧したまひしが、慶安三年庚寅五月七日かくれさせ給ひしかば、御遺命によりて御霊柩を当山にむかへ奉り、住僧喝堂導師を奉り、山頭にをさめ、廟壇を建て、永く鎮め奉りぬ。かくて瑞龍院君仏殿・方丈等を修補し給ひ、寛文二壬寅年五月七日、寺領を寄せ給ひ、御山内の荘厳他に異にして、巍々たる禅刹なり。名古屋のかたよりは北にむかひて境内に入る。其入口道の左の山を聖天山といふ。其山下の北に下馬札あり。道の左に霊亀岩あり。そこの谷川に板橋を架せり。常には覆かかりて、平人わたる事なく、其側に小橋あるをわたる。其橋をわたりて北に登るに、蒼松老杉左右に森列たり。右の方の高き所に、鎮守天神社・八幡社あり。其東のかたを星山といふ。道よりは隔れり。石壇を天神坂といふ。此所を登り登りて山門に入る。蓮池の石橋より山門まで、坂道九十五間ありといふ。
仏殿 本尊地蔵菩薩は小野篁作、又脇壇に地蔵の小像一千体を安ず。堂のうしろに水溜ありて、弁財天社あり。
方丈・書院 仏殿の東にあり。
山門 仏殿の南にあり。
鐘楼 山門の内、東の方にあり。
国祖君御廟 方丈の東の山上にたたせ給へり。『二品前亞相尾陽侯源敬公墓』とあり。石面命を奉じて陳元贇書す。四方柵結ひまほし、西南のかたに檜皮御門あり。獅子御門といふ。此道左の方に龍吟水あり。此御門を入りてやや登り行けば、御唐門に至る。是より内の結構は、いといとかしこければここにもらせり。御廟の側に殉死の人々の墓あり。寺尾土佐守直政・鈴木主殿助重之・志水八郎左衛門正昭・土屋善之丞元高・鈴木太兵衛重春の五人、又寺尾の家来新武家紋左衛門、鈴木重之の家来馬場太郎左衛門・井上弥五兵衛、志水の家来岡田市郎左衛門の四人、都合九基の石碑ならび立てり。
開山塔 仏殿の西北にあり。行基作の千手観音を安置し、開山及び中興の像を安置す。
寺寳 (略)
塔頭 (略)
夫当山は極めて高きにあらざれども、しかも蔚然たる松柏、林壑の美をなり、四時に在りて其色を改変せず。自然と君子の凋むに後るるの節操を顕し、其林の気、雨露を包んで、朝暮山間を出でやらず。霧不断の香を焼くに似たり。夸條の葰林たる、常にひかげを漏さず、莓苔地に敷いて、山嵐塵をすゑず。これまさに無垢の浄土にや譬へん。国祖君の尊霊永久爰に鎮りまして、御国の栄を千五百の後の萬歳に保護し給ひ、無上の崇を八千度の秋に廟食し給はん。山は高きにあらざれども、仙あれば名ありと、劉禹錫がいへるも、今爰におもひ合され侍る。(略)」
尾張藩祖の廟があるだけに、来歴もしっかり調べられている感じですね。
殉死した人たちの名前も掲載されています。
125コマに図絵がありますが、現代との比較にご覧いただくのも面白いと思います。
特に、麓の橋から山門に至る道が……険しいのなんのって。
多分、登れなかったですよ私……。
妄想の入る余地があまりない上に、写真がひどいことになっています。
しかも、御朱印もないし。
儒教的な廟堂というのは珍しく、東京の「湯島聖堂」くらいしか思いつきません(あれ、あそこって儒教だっけ……孔子廟と関帝廟だったような……)。
そういえば、中国の思想って、知っているようで知らないんですよね。
朱子学、陽明学と発展(退化?)していった、一時は東アジアの心性の拠り所だった(表面上は)のですから、少し勉強してみようと思った次第。
桜は楽しめたのですが、神社仏閣詣でとしては今ひとつ消化不良に終わったのでした〜。