べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「高賀神社」(補)

さて。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 新撰美濃志

 

「高賀神社」、決して無名ではないようですが、いい感じの文献がなかったので、こちらで(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

252コマです。

 

「高加村
は川を隔てて阿部の東にあり。洞戸十六村の内なり。(略)『高賀神社』は同書に「在高賀村以虚空蔵爲神躰、里民伝云、養老二年開基、昔者妖鬼居此山、高光公戮之因以建寺、名曰蓮花峯寺、爲大伽藍今廃、其説妄誕不足取也、妖鬼化爲牛形、又作雉聲、至今此山不畜牛、且無雉云、美濃國三十三所観音巡禮貮番、十一面観音、洞戸高賀村蓮花寺、天暦年中藤原高光建立」と見えたり。濃陽志略に「摂社若宮八幡、案是本社虚空蔵其本地仏、構成訛爲摂社耳、大行司祠、月日宮祠、牛頭天王祠、金剛童子祠、大日堂此堂内古仏像甚多、朽敗僅存、即知昔日爲大刹也、岩窟不動在山半腹、岩窟如門其中安置不動銅像、詣者擁之、出窟礼拝畢、又擁之置窟中、峯権現社在山絶頂、謂之兒宮、社宝大般若経六百巻、有文治二年及貞治年中所写本也、鰐口銘有、正和二年字○祠官武藤氏」としるせり。軍器考後編玉箒の附録  松岡牡鹿補撰之  に「美濃國武儀郡洞戸村高賀山虚空蔵菩薩神社宝物伏竹弓一張」としるせり。」

 

……ええ、あまりよくわかりませんが、由緒に書かれていることと似ています。

 

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高賀宮記録

 

↑洞戸の公式HPでは、社伝が現代訳されて公開されています(なんと有難い……)。

抜粋・要約してみますと、

 

「都から北東の方角に怪しい光が見られた。養老元(※717)年、帝から怪しい光の捜索をするよう、藤原家家臣に命令が出された。当山等を捜索するが、光の出所はわからない。山麓に神壇を設けて、国常立尊国狭槌尊・豊斟淳尊・泥土煮尊・沙土煮尊・大戸道尊・大戸辺尊・面足尊・吾屋惺根尊・伊弉諾尊伊弉冉尊・大日霊貴・天忍穂耳尊瓊瓊杵尊彦火火出見尊・鵜鵐草葺不合尊・素戔鳴尊天御中主尊・太玉命を御本神として17日間退魔のご祈祷をしたところ怪しい光は出なくなった。この山は特別高く、人々は喜んで社を建立したことから、山を高賀山と名付けた。21体のご神体を刻み、その内19体をご本社に鎮座させ大本宮とし、天御中主尊、太玉命を鎮座させて大行事神社とした。

第四十四代元正天皇の時、養老二年六月十二日に御遷宮した。 
第六十代醍醐天皇の代の頃、この山中の北東の方角に妖魔が住んだ。鳴き声は牛に似ていて、山洞に響き恐ろしい。妖魔を見れば身の毛が逆立ち、声を聴けば胸が苦しいので、誰も山に入らない。6月に大雪を降らせ民を困らせるので、妖魔退治を帝に訴えた。帝は承平三(※933)年十一月末、藤原高光公の軍勢を妖魔退治に派遣した。 

高光公一行は高賀山近くに到着、谷河原で休憩し攻略方法を練った。笠を積んでこれを神社とし、万の神々に御祈祷し、その後手分けして方々の山洞に入り込んだ。しかし木々は深く、数日かけて回っても妖魔の居所をつきとめられなかった。 
高光公は思案して、高賀神社の神々のご加護を得るため、勇士十四・五人を連れて神前で七昼夜ご祈祷をした。すると高光公の夢に神のお告げがあった。「東の方角に大谷があり、その奥に妖魔が潜んでいる」。高光公は軍勢を集め、政信、忠宗二人の勇士につづく十四・五人を連れて裏山の大谷へ向かった。 
一行はこの谷で一人の老人に出会った。老人は「随分疲れておるように見えるが、ここに来て粥を食べれば勢が付いて飢えることはない」と言った。一行は喜んでその粥をご馳走になった。高光公は、「あなたは何者なのか」と尋ねた。老人は「私は善貴星という神です。」と言い消えた。 
その後、山を登ると大岩に、髪は赤く、牛のような角を持ち、赤い口を空き、目は金色に光る背丈三メートルほどの大鬼が腰掛けていた。高光公は人目見て妖魔と解り大刀を抜いて「成敗致す」と声をかければ、妖魔は真一文字に飛び交った。高光公が何回となく斬りつけ、流石の妖魔も数カ所の深手を負って逃げた。血痕をたどって岩の角が尖った滝の上へ熊笹を押し分けて上り詰めて妖魔を取り囲み斬りつけとどめを刺した。 
高光公一行は、高賀神社へ帰って高賀の神々のご加護で妖魔を射止めることができたことを喜び、無限無上の霊神と讃えて当宮を再建した。また、日の神、月の神、善貴星神の御尊体を刻んで一カ所にお祀りした。大の字を入れて大本神宮、大行事大明神と改号し、
第六十一代朱雀天皇の時、天慶二(※939)年三月十二日に遷宮し、大谷を粥川と改め高光公を粥川院殿と言う。高光公とその家臣もおおいに喜んで都へ帰って行った。 
この後悪魔が住みさまざまな災いをもらした。悪魔は近江の国へ通い、大群で夏に雪霜を降らせて五穀を枯らしてしまい飢饉の年が続いた。 村人は困り果て、帝に悪魔退治をお願いしたところ、再び藤原高光公が悪魔退治に派遣された。到着し、早速手分けして山へ攻め入ったが、何処へ逃げ込んだのか見あたらない。一旦兵を引き、各洞の入り口を兵で固めた。六、七人が各洞、山に忍び入り聞いた声が雉の鳴き声に似たものであり、その形は見定めることができずまた、山々を飛び周り居場所を特定することもできなかった。 
高光公は思案され、すぐに悪魔を追討することは難しい、大勢で長期にわたりここに留まることも困難であるから、二、三十人残しその他の兵はひとまず都へ戻すことにした。 
この悪魔は、神々の力を借りなければ討ち取ることは困難と、義盛、信武、忠宗、正家、四人の勇士に続く勇敢な武将八、九人を連れて当宮へ来て、十七日間神前で悪魔退散の祈祷を行った。祈祷が終わり高賀山に登り、途中に岩屋で休息をとっていると、峠の方で大勢の声が聞こえてきた。その大岩の上に四人の子供が座っていて、その前に白髪の老人が立っていた。その老人が言うには、「高光らが神々に一生懸命祈願したため、その願いを聞いて、神々が稚児の姿に変えておまえらの目の前に現れたのだ。」「ここに現れたのは、伊弉諾尊伊弉諾尊、大日霊貴、天児屋根尊ですよ、拝みなさい。」「私は虚空蔵菩薩である。」と言い、「東の山に池があって、この北の山の上に大岩がありその上に三つ岩を置いて悪魔を封じた。東の洞から登ってその悪魔を討ちなさい」と言うと姿を消してしまった。 
高光一行は山を下って東の洞へ周り、十五・六人の武将を連れて東の洞から登り、岩屋で休息をとっているうちに日も陰り夜になった。激しい風雨の中、頂上へ登りつめると、風雨も止み東の空に明星が輝いた。熊笹を押し分け登り、見あげると大岩の上に封印した石が三つあり、そこからさらに南の方へ廻ってみれば広い野原がありその中に池があった。 
夕暮れになり、北風吹く中神のお告げを待っていた。夜半頃になると神々が天から降りてきて「高光よ、西の山麓下津岩根の辺りで弓を作り、南の砥河原で矢を研いで、その弓矢で悪魔を射落とし討滅せよ。」と言った。それで蕪矢、雁股の矢を持って洞や谷を狩り出し、南の山に進んで待ち構えていると、急に山々が震動し周りの谷や洞から神の光が発せられた。八百万の神にも追い立てられた悪魔は眷属ともども空に舞い上がり群れになって大風を起こした。悪魔は一丈あまりの雉の形をした大鳥で、高光公を目がけて舞下るところを蕪矢で射落としたら、悪魔は上へ下へと荒れ狂い、それを討ち留めようと大太刀を抜いて追いまわり、最後に高光公は雁股の矢を持って頭筋を押さえて射止めた。
高光公は岩の上に立って、大きな声で家臣たちに「念願の悪魔を退治することができた。これを見るがいい、神々の御加護でこの悪魔を討ち取ることができた。」と言った。それを聞いた家臣らは、悪魔の体めがけて一太刀振るい悪魔の体はズタズタに切りきざまれた。 
高光公は北の山を指差し、「あの山の裏にも、以前退治した妖魔の遺骸がある、持ってきて一緒に焼き払え」と言って、義盛、信武、正家ら三人を連れて山を下った。それらの遺骸を一緒に焼き払い、天慶九(※946)年三月十三日に山は太平となった。 
高光公は同月十三日に当宮へ参拝に来られ、十四日から十六日まで御礼のお祀りを行った。高光公は、今までの功績を帝に報告した。後に帝からの使者が来て、高光公の功績に対し「大変喜んでいる、二度と悪魔が住み着かないよう峰と山麓に神社を建立して守護神を祭りなさい。」と剣と鏡を賜った。高光公は、当宮を始めとして、三所の岳々神社、弓矢の神社、白羽の神社、乙狩の神社、形智の神社、粥川の神社、藤谷の神社、岩屋の神社を創建され、剣を大本宮のご神体に、鏡を峰稚児神社のご神体とし、矢を福部ケ嶽大明神のご神体とした。また、矢を星宮大明神の滝に納めた。帝にいただいた剣をご神体として伊弉冉命、伊弉諾尊、大日霊貴を本宮にお祀りし、天神六代地神四代の神と善貴星神ならびに万の神々を鎮座させて高賀宮最上根元神社の名を授かった。 
第六十二代村上天皇の時、天暦元(※947)年正月二十八日に遷宮。 

高賀神社の神力で悪魔を討ち倒し、天下太平、五穀豊穣、万民が幸せになった。高光公はこの洞を高賀と名を改めた。また、高賀山最上根元であることからこの宮を高賀宮と言う。次に若宮は、福部ケ岳へ降臨した神が、下津盤根の河原の辺りで弓を作って来るように言われ、この弓をご神体として、甲弓山鬼大王神、月弓の神、八幡大神ご本神として鎮座、この宮を高賀宮弓矢の神社と言う。天暦元年正月二十八日に遷宮
高賀宮弓矢之神社 号高賀山若宮大明神 」

 

 

……あれ、「さるとらへび」は? 

 

 

↑の記録によると、「怪しい光」「赤い髪の、牛に似た声を出す妖魔」「雉の声と姿をした悪魔」が登場し、後ろの二つは「藤原高光」公が退治しています。

 

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藤原高光 - Wikipedia

 

↑この方かもしれません。

ただ、ウィキペディアによると、生まれたのが「天慶2年?」となっているので、どう考えても↑の記録と矛盾します。

藤原系の人がいらっしゃった、という可能性は捨てられませんが、どちらかというと箔をつけるため、ではないでしょうか。

最初の方に出てきた21柱の神々は、概ね『日本書紀』に習っていますが、『日本書紀』の成立年代は養老4(720)年とされています。

じゃあ『古事記』の方じゃないのか(『古事記』は和銅5(712)年成立)、と思われるでしょうが、神代の部分を読み比べていただければわかります。

↑の21柱の中に出てくる「国狭槌尊」は、『古事記』には出てこないのです。

もちろん、記紀以前の伝承を知っている人が書いた、という説もないではないですが、それにしてはあまりに『日本書紀』のまんまなので、これを書いた人は『日本書紀』を知っていたということになります。

この文書自体は、公式HPによれば、

 

当初文治二(1186)年に書かれ、その後応安三(1370)年、永正十四(1439)年、と改書、追記されており、現在残されているものは、文化九(1812)年神主、武藤市之進太夫により改書されたものです。

 

となっていますので、一番古くても文治二(1186)年までしか遡れません。

といっても、これは神社の由緒の話ではなく、この文書の話です。

養老年間に神社が成立していた可能性は十分にあります。

ただ、当時のことはおそらくもうわからないだろう、というだけのことで。

祭神をここまで揃えられてしまうと、もともとの伝承がさっぱりわからなくなりますから。

ひょっとすると、化け物退治の中に見つけられるのかもしれないですが、それは置いておきまして。

 

「さるとらへび」のお話です。

 

これ、どう考えても「鵺(ぬえ)」ですよね? 

 

 

では、「鵺」のおさらいをしてみましょう。

 

 

平家物語〈2〉 (岩波文庫)

平家物語〈2〉 (岩波文庫)

 

 『平家物語』に「鵼」という章があります。

そこから抜粋しますと、

 

「……しかればすなはち先例にまかせて、武士に仰せて警固あるべしとて、源平両家の兵物共の中を撰ぜられけるに、頼政をえらびいだされたりけるとぞ聞えし。其時はいまだ兵庫頭とぞ申ける。頼政申けるは、「昔より朝家に武士をおかるる事は、逆反の物をしりぞけ、違勅の物をほろぼさんが為也。目にも見えぬ変化のものつかまつれと仰下さるる事、いまだ承及候はず」と申ながら、勅定なれば召しに応じて参内す。頼政はたのみきッたる郎等、遠江国の住人井早太にほろのかざきりはいだる矢負はせて、ただ一人ぞ具したりける。我身はふたへの狩衣に、山鳥の尾をもッてはいだるとがり矢二すぢ、しげどうの弓にとりそへて、南殿の大床に祇候す。頼政矢をふたつたばさみける事は、雅頼卿其時はいまだ左少弁にておはしけるが、「変化の物つかまつらんずる仁は、頼政ぞ候」と、えらび申されたるあひだ、一の矢に変化の物射損ずる物ならば、二の矢には雅頼の弁のしや頸の骨を射んとなり。

日ごろ人の申にたがはず、御悩の刻限に及ンで、東三条の森の方より、黒雲一村立ち来ッて、御殿の上にたなびいたり。頼政きッと見あげたれば、雲の中にあやしき物の姿あり。これを射損ずる物ならば、世にあるべしとは思はざりけり。さりながらも矢とッてつがひ、「南無八幡大菩薩」と心のうちに祈念して、よッぴいてひやうど射る。手ごたへしてはたとあたる。「えたりおう」と矢さけびをこそしたりけれ。井の早太つッとより、落つるところをとッておさへて、つづけさまに九がたなぞさいたりける。其時上下手手に火をともいて、これを御らんじ見給ふに、かしらは猿、むくろは狸、尾はくちなは、手足は虎の姿なり。なく声鵼にぞ似たりける。おそろしなンどもおろかなり。

 

(略)

 

去る応保のころほひ、二条院御在位の時、鵼といふ化鳥、禁中にないて、しばしば宸襟をなやます事ありき。先例をもッて、頼政を召されけり。比は五月廿日あまりのまだよひの事なるに、鵼ただ一声おとづれて、二声ともなかざりけり。目ざすとも知らぬやみではあり、すがたかたちも見えあzれば、矢つぼをいづくとも定めがたし。頼政はかりことに、まづおほかぶらをとッてつがひ、鵼の声しつる内裏のうへへぞ射あげたる。鵼かぶらのおとにおどろいて、虚空にしばしひらめいたり。二の矢に小鏑とッてつがひ、ひいふつと射きッて、鵼とかぶらならべて前にぞ落としたる。」

 

有名なシーンですからご存知の方も多いと思います。

近衛天皇の頃、なんだかよくわかりませんが帝がよく気絶した、と。

むかしも似たようなことがあり、その時に源義家が解決したので、今回も武士をつれてきて解決させよう、としました。

選ばれたのが源頼政で、「酒呑童子」退治で名高い「源頼光」から数えて五代目です。

撃ち落としてみたら、「かしらは猿、むくろは狸、尾はくちなは、手足は虎の姿なり。なく声鵼にぞ似たりける。」という化け物だった。

で、なぜか声が似ているから、「鵼(ぬえ)」と呼ばれるようになった化け物さんです(「鵺」とも書きます。「とらつぐみ」のことだと言われています)。

その後でも、「源頼政」は「鵼」(こちらは「化鳥」とされています)を撃ち落としています。

すごいですね、一生涯に二匹も「鵼」を撃ち落とすなんて。

ちなみに、この「鵼」退治、『源平盛衰記』のも書かれていますが、そちらは持っていませんので、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 日本伝説研究. 第1巻

 

↑の176コマ「鵺退治」を参照にして、『平家物語』との相違点だけ拾ってみました。

 

・「源頼政」のお供が、「丁七唱」、「遠江国の早太」(骨食という刀を持っています)
・持っていた矢が「水破」「兵破」、弓の名前が「雷上動」(秦王の時代の楚の武将・養由の持ち物)
「鵼」は、「頭は猿、背は虎、尾は狐、足は狸、声は鵺」

 

こんな感じです。

「水破」「兵破」「雷上動」は、ゲームなどでもお馴染みなので、こちらをご存知の方が多いかもしれません。

ついでに、『和名類聚抄』では、

 

「鵼 唐韻云、鵼音空、漢語抄云、沼江、怪鳥也。」

 

と書かれており、どうやら「怪鳥」でもあるようです。

 

「高賀神社」の「さるとらへび」退治は、どう考えても「源頼政」の「鵼」退治を元にしている、と思うんですよね(誰が見ても、ですが)。

これが比較的新しい伝承だと思うのは、↑で紹介した文書に「さるとらへび」が登場しないからです。

あちらが古ければ文治2(1186)年、その頃に「源頼政」の「鵼」退治は終わったあとなんですが、これは『平家物語』です。

平家物語』の成立は、建暦2(1212)年以後と言われています。

ですから、文治2年に書かれていた(かもしれない)文書に、『平家物語』の「鵼」退治は紛れ込まないだろう、と思うのです。

もっとも、こちらも「鵼」退治の伝説が案外古くから伝わっていて、それを元にしているとも考えられるのですが、だったら「鵼」って書けばいいと思います。

何で「さるとらへび」なんでしょう?

 

それで、関市関係の文献を国会図書館デジタルコレクションで検索していたらですね、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 岐阜県の概要と史蹟名勝

 

88コマ。

 

「○源頼政首塚
千疋村植野蓮華寺境内にある。治承四年源三位頼政宇治川の役に戦死し、其の臣渡邊省主の首級を携へ来り、植野山に葬る、追福のため蓮華寺を建立す、碑を首塚の側らに立て、大学頭林春常の撰文を刻して居る。」

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 岐阜県史蹟名勝誌

 

54コマ。

 

「蓮華寺頼政首塚
千疋村植野にありて真言宗なり。治承四年源三位頼政宇治川の役に戦死しとき其臣渡邊省頼政の首を携へ來り、頼政の伯父山縣三郎國直の采地植野山に葬る。依て國直の妹、追福の為に蓮華寺を建立す。後年に至り廃頽中絶せしを、寛文六年石河伊賀守正光再考し碑を首塚の側らに立て、大学頭林春常の撰文を刻せり。頼政の墓と称するもの他國にもあれど尊卑分脈頼政の條に、蓮華寺と号し、其墳寺濃州山縣郡に在りといふに従てここに定めたるなり。」

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 美濃名勝案内 : 附・長良川鵜飼之記

 

62コマ。

 

「[蓮華寺]
千疋村大字植野に在り金光山崇厳院と号し名古屋大須真福寺の末寺より昔源頼政を葬りし古刹なりしが乱世久くして跡なく廃絶したりしを寛文年中当時の領主石河伊勢守正光再興し信海法師を開山とし旧号をたよりて蓮華寺と名づく。現三位頼政首塚は此寺内に在り。

頼政首塚
蓮華寺の境内に在り伝へていふ源三位頼政宇治川に敗れ自殺したりしが遺命に依り家人渡邊省なるもの其首を携へ関東に赴かんとして途次頼政の姑、比丘尼此地に在りしを尋ね一夜夢告によりて茲に葬りしといふ。」

 

それから『新撰美濃志』の221コマ。

 

「『源三位頼政墓』は蓮華寺の境内にあり。寺僧の伝へに「治承四年源三位頼政高倉宮をすすめ平家を撃むとし、五月二十六日宇治川に戦ひ敗軍して自殺ありしかば、遺命により歌人渡邊省と云ふもの其首を持て関東に趣き、頼政の姑比丘尼濃州山縣郡に居住ありし故、其ゆかりに尋て此地に到りしに、其夜人の夢に頼政枕上にたちて我ここにとどまらむと告げられしと見えければこれを葬りし」よりいへり。遠碧軒記に「大和國宇多の近所に山部寺と云ふありて、此所に競長七居たと見ゆ、頼政討死ののち是へ牌を立て墓を建つと見ゆ、其所に頼政ぐる輪と云ふあり、城も有たか、今山部寺に頼政が具足並籏系図あり、頼政の紋は歯朶の葉の丸なり、籏にも其紋あり、又関東の古河の内にも頼政曲輪と云ふあり、爰にも居たか、又そこにも葬りたりといふ所あり、墓は其人の恩顧を得たる者志次第に其所々に建つるもの也、畢竟は首を妹の尼公とりて下り、今の美濃の蓮華寺に葬りたるが定と見ゆ」とあり。(略)分脈系譜に「頼政兵庫頭仲政子、母勘解由次官藤原友実女、法名賴圓号蓮華寺、其墳寺在濃州山縣郡」と見えたり。」

 

内容はまあほぼ同じなんですが、山縣郡千疋村にある「蓮華寺」に、「源三位頼政首塚」がある、と伝わっているんですね。

この山縣郡、「高賀神社」があった武儀郡のお隣なんです(あ、江戸時代の話でして、昭和になると武儀郡に吸収され、最終的に関市内、という書いていてよくわからない推移を辿っています)。

隣といっても、地図で見ると全然近くはないんですけれど。

それでも、都にあるよりは近いです。

で、近くに「源頼政」ゆかりの寺があり、『平家物語』で「鵼」退治が有名になっている。

その「蓮華寺」も、廃絶した時代があるらしい。

ところで、この記事の一番最初に引用した、『新撰美濃志』の「高賀村」の中に、在高賀村以虚空蔵爲神躰、里民伝云、養老二年開基、昔者妖鬼居此山、高光公戮之因以建寺、名曰蓮花峯寺」という記述があります。

「名曰蓮花峯寺」。

 

 

源頼政首塚」は「蓮華寺」

藤原高光」の「高賀神社」は「蓮花峯寺」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

パクッちゃ……。

 

 

 

 

 

 

 

いえいえ、ひょっとしたら、伝承が混ざったりしたのかもしれないです。

あえて混ぜた可能性もあります。

どちらの寺も、途中で廃れているようですから。

「さるとらへび」は、この辺りから生み出されたのではないでしょうか(「藤原高光」公が退治した化け物を、もっと強くしたかったのか……)。

 

あと、個人的に、『平家物語』で「源頼政」の従者を務めている、遠江国の住人井早太」という人、

 

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「矢奈比賣神社」 - べにーのGinger Booker Club

「宝積山光前寺」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑に出てくる「早太郎(悉平太郎)」と関係があったら面白いなぁ、と思っています。

「井早太」じゃなくて、「犬の早太」じゃないのかな、と。

あ、これは妄想というより願望です、はい。

全体的にまとまりのない妄想でした。

 

 

「高賀神社」、周辺にも系列の神社があって、ぐるぐる回ってみたくなりましたが、詳しいことは岐阜県郷土史家の方にお任せしましょう。

岐阜県もまだまだ、奥が深いですね……侮れません。

 

 

「高賀神社」は御朱印がいただけなかったので(無人でした)、どこかのSAで撮影した写真を。

 

 

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世界には、いろいろな厠の使い方があるものです。

尾籠な話題でした。