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「豪徳寺」を離れ、先ほど立ち寄った小田原「大稲荷神社」で仕入れた情報のため、「愛宕神社」へ。
○こちら===>>>
虎ノ門駅で降り、やや危うい空を見上げながら、スマートフォンの情報を頼りにしばらくふらふら……何やら高架っぽいところをくぐりましたが、どのあたりにあるのかさっぱり見当がつかずふらふら……していますと。
……え、何この階段?
配達のお兄さんは、ここを登って届け物をするのでしょうか……。
近寄って写真に撮ってみれば、それほどの傾斜でもないではないですか。
……。
…………。
………………。
なんだこりゃ……よく登ったものです……。
いえ、本当に、結構な傾斜で、手すりがないと危ないので気をつけましょう。
こちらは「出世の石段」または「男坂」というほうで、危険を感じた方は「女坂」という比較的ゆるやかな階段もありますので、そちらをどうぞ。
他のルートもあるらしいです(謎……でもない)。
「愛宕山
愛宕山は洪積層の丘陵地で、標高は二六メートルである。山頂に愛宕神社がまつられ、江戸時代から信仰と見晴らしの名所としてにぎわった所である。
愛宕神社の祭神は火の神(火産霊命)が中心で、江戸自体には幕府の保護もあり、多くの人々から火伏せの神として信仰されてきた。
今日のように周囲に高層ビルが立つまでは、山頂からの眺望がすばらしく、東京湾や房総半島までも望むことができた。
また、愛宕山には、男坂・女坂・新坂などの坂道があり、男坂は神社正面の八六段の急勾配の石段で、寛永年間(1624〜1644)に曲垣平九郎がこの石段を馬で上下したと伝えられる。」
あれを馬でですか……「鹿も四つ足、馬も四つ足」とか叫んで源義経は鵯越の逆落としをやったそうですが、こちらは登っていますからね。
何にせよ、上がってみてその高さを実感します。
「豪徳寺」からの流れで、招き石……なんでしょうか。
「愛宕神社御由緒 慶長八年(1603)九月二十四日建立
祭神 火産霊命(火の神) 罔象女命(水の神) 大山祇命(山の神) 日本武尊(武徳の神)
勝軍地蔵菩薩(勝運・出世) 普賢大菩薩(辰・巳年の守り本尊) 天神社(学業)
境内末社 太郎坊社(猿田彦神) 福寿稲荷神社(宇迦御魂神) 弁財天社(市杵島姫命) 大黒天神祠(大國主命) 恵比寿神祠(事代主命)
(略)
当社は徳川家康公が江戸に幕府を開くにあたり江戸の防火・防災の守り神として将軍の命を受け創建されました。幕府の尊崇篤くご社殿を始め仁王門、坂下総門等を寄進され、祭礼等でもその都度下附金の拝領を得ておりました。また、徳川家康公のご持仏「勝軍地蔵菩薩」(行基作)も特別に祀られております。(非公開)
江戸大火災、関東大震災、東京大空襲の度に消失しましたが現存のご社殿は昭和33年再建されました。寛永十一年三代将軍家光公の御前にて、四国丸亀藩の曲垣平九郎盛澄が騎馬にて正面男坂(八十六段)を駆け上がり、当社に国家安寧の祈願をし、その後境内に咲き誇る源平の梅を手折り将軍に献上した事から日本一の馬術の名人として名を馳せ「出世の石段」の名も全国に広まりました。万延元年には水戸の浪士がご神前にて祈念の後、桜田門に出向き大老井伊直弼を討ちその目的を果たした世に言う「桜田門外の変」の集合場所でもありました。
(略)
海抜二十六メートルは都内随一の高さを誇り、桜と見晴らしの名所として江戸庶民に愛され数多くの浮世絵にその姿を残しています。明治元年には勝海舟が西郷隆盛を誘い山上で江戸市中を見回しながら会談し、江戸城無血開城へと導きました。鉄道唱歌にもその名が残り春は桜、夏の蝉しぐれ、秋の紅葉、そして冬景色と四季折々の顔を持つ風光明媚な愛宕山として大変貴重な存在となっております。
ほおづき市・羽子板市は浅草の市の先駆け、発祥の地として江戸時代の書「東都歳事記」にもその賑わいは記され、現在は六月の千日詣り、羽子板絵馬にその名残りをとどめています。
伊勢へ七度 熊野へ三度 芝の愛宕へ月まいり
(略)」
井伊直弼公のお墓のある「豪徳寺」から、暗殺者たちの集まった場所にやってこようとは……これもなかなかの縁、ということにしておきましょう(予習は特にしていませんから〜)。
あ、こちらが門です。
鳥居をくぐった先にあります(ちょっと、写真の順番がめちゃくちゃです)。
境内末社です。
「太郎坊社
お山には天狗が住んでいる、と信じられていた時代がありました。
順番としては、「お山で修行する異形のものたち」=「修験者」がいて、異形ゆえに「天狗」とみなされ(「天狗」自体は古くからある言葉ですが、「天狗(あまつきつね)」と呼んで彗星のことを指していると思われたり、道教の神「二郎真君」の連れている犬だったりします)、それが崇敬を集め、やがて信仰の対象になって、ついに権現と呼ばれるようになる……というのが自然な流れかな、と思います。
「秋葉山」にいた「三尺坊」も、修験者ですが、天狗とみなされていたりします。
で、「猿田彦命」と習合したのは、記紀神話で描かれる「猿田彦命」の姿が、「天狗」のようにも思われたから、なんでしょう。
「社」という字の「土」の部分に「ゝ」がありますが、
○こちら===>>>
猿田彦神社 - べにーのGinger Booker Club
↑の「猿田彦神社」で、大神の末裔として「宇治土公氏」のことを書いています。
この「土公」という文字を使った、陰陽道の「土公神」の「土」にも「ゝ」があることが多いので、そこから引っ張っているんでしょうか(なぜ「ゝ」があるのかは、残念なことに存じませんが)。
灯りの向こうに猫が見えるのは幻ではありません。
そういえば「豪徳寺」は、招き猫の寺だったのに、猫はいなかったなぁ……。
「福寿稲荷神社」と、「大黒天神祠」「恵比寿神祠」。
この右手が社務所だったんですが、えらくモダンな感じでした。
社務所向いの池と、「弁財天社」。
「慶長十五年安芸の厳島より勧請され音楽財宝弁財の守護神です。
社殿両壁には篤志家自筆奉納の昇竜降竜があります。」
将軍梅。
梅の時期に来たいものです。
再び「太郎坊社」のニャーン。
絵馬掛けの下にもニャーン。
妙齢のご婦人がたが、「出世の石段をせっかく登っても、同じところを下っては運気が下がる」とおっしゃっていたので、帰りは女坂へ向かいました。
怪しい建物の前に、怪しい石像……なんだろうなこれ。
おだやかなものです。
狛犬さん。
角がチャーミングですか?
思い切り煽ってみました男坂。
よく登った……。
さて。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第2輯第3編 江戸名所図会 第1巻
↑より引用(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
127コマです。
「愛宕山権現社
同南に並ぶ。世俗城州愛宕山に同じといへども自ら別なり。本地仏は勝軍地蔵尊にして、行基大士の作なり。永く火災を退け給ふの守護神なり。楼門の金剛力士は運慶の作、同二階の軒に掲げし愛宕山の三字は、智積院権大僧正の筆なり。別当圓福教寺は、石階の下にあり。新義の真言宗、江戸の觸頭四箇寺の随一なり。開山を神證上人と号す。二世俊賀上人といふ。四箇寺とは、湯島根生院、本所弥勒寺、当所真福寺並に当寺をいふ。神證上人、字を春音といひ、のちあらためて春香と号す。下野の人にして、姓は塩谷氏、母は皆川氏なり。元和五年、鈞命に依て金剛院に退去をゆるされ天年を終ふ。春香の坊は遍照院と号す。今の圓福寺是なり。金剛院・普賢院・満蔵院・鏡照院・寿桂院等すべて六院あり。俊賀上人、字は圓精と号す。野州西方邑の人、姓は越路氏にして、宇都宮弥三郎頼綱が後裔、父は伊勢守近律、神祠に祈りて産す。其始下妻の圓福寺に住す。然るに其頃、下総結城の元寿・上州松井田秀算等、一世の豪俊にして、俊賀上人をあはせて新義の三傑と称せらる。元和五年、俊賀上人愛宕権現の別当に命ぜられ、其に圓福寺の号を以て一宇を開しめ給ひ、永く大法輪を樹て、大法鼓を撃ち、夏冬廃つる事なし。終に檀林職となる。学徒業々として雲の如く屯り、川の如く起る。実に江城檀林の権興なり。
縁起に曰く、天平十年戊寅、行基大士江州信楽の辺行化の時、当社の本地将軍地蔵尊の像を彫刻し給ひ、後安部内親王 第四六代孝謙天皇の御事なり。 に奉る。親王則彼地に宝祠を営みて、是を安置なし給ふ。其旧跡をも今宮村と名づく。然るに、天正十年壬午の夏、台旗泉州を発し給ひ、大和路より宇治を経て、江州信楽に入らせ給ふ。此時多羅尾四郎右衛門といへる者の宅に舎らせられける頃、あるじ此像を献ず。 [多羅尾家譜]にいふ。左京進光俊初て多羅尾と号す。其子常陸介■如、三好若江の三人衆といふ。其子四郎兵衛光■、江州信楽を領すと云々。多羅尾は四郎左衛門にあらず、四郎兵衛光■入道■賀の事なるべし。 其節同国磯尾村の沙門神證といふを供せられ、此霊像を持して東国に赴き給ふ。爾りしより御出陣毎に、神證をして此勝軍地蔵尊を記念せしめらる。遂に慶長八年癸卯の夏、台命によつて同庚子年、石川六郎左衛門尉当山を開き、仮に堂宇を造建し給ひ、其後同十五年庚戌、本社を始め悉く御建立有り。元和三年丁巳、同国豊島郡王子邑に於て、百石の社領を附し給ふとなり。[惣鹿子]といへる冊子に、此地は元桜田の村民、内藤六郎といへる人の宅地なりしを、沙門春音、慶長庚子の御出陣に、勝軍の法を修せし地にて、凶徒御征伐ありしによりて、当社を御建立ありしと云々。又同書に、慶長八年九月二十四日、貴賎の参詣を許さるるとあり。[江戸名勝志]同[名所ばなし]等に、初山城の愛宕を遠州鳴子坂に勧請し、夫より駿州宇津屋に移し、後又爰に安置す。慶長の頃本多美濃守の家臣、都築某といへる人の勧請なりとあり。此説圓福寺に云ひ伝ふる事なく、證とすべからず。按ずるに、此山の地主神は毘沙門天なりとて、今も本社の相殿に安置す。毎歳正月三日毘沙門の使と称する旧礼の式あり。其式画上に詳なり。按ずるに、当寺開山俊賀師は、初野州にあり。野州辺ことごとくこの強飯の式ありて、世に所謂日光の古式に准うて、当寺に行ふもの、恐らくは俊賀上人より始るならんか。
抑当山は縣岸壁立して空を凌ぎ、六十八級の石階は、畳々として雲を挿むが如く聳然たり。山頂は松柏鬱茂し、夏日といへどもここに登れば、涼風凛々としてさながら炎暑をわする。見落せば三條九陌の萬戸千門は、甍をつらねて所せく、海水は渺焉とひらけて、千里の風光を貯へ、最美景の地なり。月ごとの二十四日は、縁日と称して参詣多く、とりわき六月二十四日は、千日参と号けて、貴賎の群集稲麻の如し。縁日ごとに植木の市立ちて、四時の花木をここに出す。最壮観なり。」
往時の江戸でも、愛宕山は一番高い場所にあったわけなので、なんらかの信仰の対象になってしかるべしでしょう。
残念ながら、この引用では古い時代のことが今ひとつわかりません。
「此山の地主神は毘沙門天なりとて、今も本社の相殿に安置す。」なんて説もあるようですが、神仏分離の影響か残っていないようですし(大火戦火で焼けてしまったのかもしれませんが……相殿の「日本武尊」がちょっとくさいな、と思います)。
うーん、『新編風土記』を当たれば何か見つかるのか……。
↑のp64〜65ページに愛宕山の記事があります。
「慶応四年(明治元年=1868)、江戸城総攻撃を前に勝麟太郎(海舟)が西郷吉之助(隆盛)を誘ってこの山に登り、百万の人々の生活を見せて江戸無血開城に導いたさいにふたりが見たのもその写真とほぼ同じ光景だろう。遮るものが何もないから大正十四年(1925)、JOAK東京放送局もここからラジオの本放送を開始したのだ。
慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦に大勝した徳川家康が、慶長八年にこの山の頂に京の愛宕山大権現を勧請した。もとより京の愛宕山は火除けの神として都びとの信仰を集めていたから、江戸が火の海となることを防ぐため家康がセットしておいた呪術が、最後の最後になって効力を発揮したのかもしれない。」
江戸には、愛宕権現と秋葉権現、火除けと火伏せの二つの神が勧請されており、少なくとも江戸城を守るためには機能したようですが、神仏分離の賜物か、関東大震災、東京大空襲には神威を発揮されなかった……とか書くとまるで『帝都物語』のようになってしまうので、この辺りで。
それにしても、小田原「大稲荷神社」にあった「愛宕神社」の拝殿を運んできた、という話は毫ほども出てきませんでしたね。
○こちら===>>>
「大稲荷神社」(小田原)〜関東巡り〜 - べにーのGinger Booker Club
早い段階で焼けちゃったからなのかな……。
「愛宕神社」をあとにすると、雨が降り始めておりました。
そんな中、本日最後に目指した場所は、神社仏閣とは関係なく。
こんな催し物でした。