7/11。
「関善光寺」の参拝を終え、せっかくここまで来たのだから他にも行こうとスマートフォンで検索。
面白そうなところを関市内で発見したので行ってみることに。
「高賀神社(こうかじんじゃ)」です。
○こちら===>>>
いやあ、同じ関市内だから余裕余裕と思っていたら、「関善光寺」から遠いこと……。
もともとこの神社は武儀郡にあったのですが、それが市町村合併で関市に合併されていたのでした。
愛知県でいうと、豊田市がバカでかい、みたいなものでしょうか。
山道、狭い道を通り抜けて、やっとたどり着きましたよ。
鳥居は、平成9年の造営で、御影石製。
鳥居をくぐっていくと橋がありまして、その手前に円空作の狛犬さんが(木彫りじゃないので、後代のレプリカです)。
これをゆるキャラにしてしまえば……げほげほ、煩悩が何かしゃべりました。
円空仏自体にはあまり興味はないのですが、キャラクターとしては一級品です。
かわいい。
10分ほどで、麓の鳥居に到着。
右奥に見えるのは、かつて「高賀神社」にあった円空仏を収めた記念館です。
今回は行きませんでした。
「霊亀年間(715〜717)に夜な夜な怪しい光が出て当地の方向に飛んでいくのを都の人々が目撃し驚いた。そこで高賀山の麓に神壇を飾ったところ、この光が出現しなくなった。これが高賀山本神宮の始まりである。その後、牛に似た妖怪が住みつき、村人に被害を加えていたので、承平三年(933)に天皇の勅命を受けた藤原高光がこれを退治し、高賀山麓に神々を祀ったという。また、天暦年間(947〜956)にも妖怪が出没し、再び、藤原高光が退治した。この時、高賀神社、那比神宮神社(八幡町)、那比本宮神社(八幡町)、星宮神社(美並村)、滝神社(美濃市)、金峰神社(美濃市)六社が祀られた。近世になると、三度妖怪が現れ、近衛天皇の時(1142〜1155)頭は猿、体は虎、尾は蛇の姿をした怪獣が現れ、とされ今日まで「さるとらへび伝説」として伝えられています。なお、美並村を流れる粥川の鰻が藤原高光を案内したと伝えられて、今日でもこの地区の人々は鰻を殺さないとのことで、現在、ここに生息する鰻は天然記念物に指定されています。
高賀神社・高賀山信仰は、現存する文化財から次のような歴史が言われています。平安時代末期には既に仏教道場として繁栄し、観音信仰があったと考えられ、また、鎌倉時代後期には虚空蔵菩薩信仰が導入され「高賀山修験」が成立したと言われている。また、鎌倉時代以降から明治時代の神仏分離までは、神道が神の姿をとらず、本地仏としての虚空蔵菩薩を主神としてきたとされ、岐阜県と石川県に跨る白山を中心とした白山信仰に見るように、人々の生活を守る神自然崇拝の神としてではなく、高賀山麓一帯の農耕に大切な水や雨を司る上山として尊ぶその信仰がこの地に成立した。」
「今日でもこの地区の人々は鰻を殺さない」という話は、東海地方ではすっかり有名ですね(ニュースでよく取り上げられています)。
それよりも、本日の目玉はやはり、「頭は猿、体は虎、尾は蛇の姿をした怪獣が現れ、とされ今日まで「さるとらへび伝説」として伝えられています。」、これでしょう。
小規模ながら凛とした佇まいです。
もういました、「さるとらへび」の巨大絵馬。
あ、なんか想像していた色じゃない。
手前の幣拝殿があまりにも……だったのでびっくりしましたが、本殿は古さびた感じでとてもよろしいのではないかと。
三社並んでいるのですが……あれ、三社かな……。
○こちら
↑で極めて詳しく紹介されており、私のブログを読む必要はまったくありません。
こちらで紹介されている古図によると、五社ありまして、左から「牛頭天王、八幡、大行事、虚空蔵、月日社」となっています。
ちなみに、「高賀神社」の祭神は、
「国常立尊(クニコトタチノミコト)
天御中主尊(アメノミナカヌシノミコト)
国狭槌尊 (クニサズチノミコト)
豊斟淳尊(トヨクムヌノミコト)
泥土煮尊(ウイジニノミコト)
沙土煮尊(スヒジニノミコト)
大戸道尊(オオトジノミコト)
大戸辺尊(オオトマエノミコト)
面足尊(オモダルノミコト)
吾屋惺根尊(アヤカシコネノミコト)
大日婁貴(オオヒルメノムチ)
鵜鵐草葦上合尊(ウガヤフキアエズノミコト)
素盞鳴尊(スサノオノミコト)
太玉命(フトタマノミコト)
金山彦尊(カナヤマヒコノミコト)
なんだそうで。
記紀神話が整理されてからでも、これだけの神をまとめて祀った場所は他にないでしょう。
ということは、たぶんこれ、後付けです。
いえ、後付けなのはいいんですが、ここまで徹底されるとなんと申していいのやら。
一番新しくて「日本武尊」、あとは記紀神話でも最初の方に出てくる神様ばっかりです。
なんでこうしたんでしょうね……そのメンタリティを探りたいです。
さて、次はいよいよ「さるとらへび」とご対面です。
……ま、退治されているところでしょうね、そりゃ。
本体は押さえつけられていますが、へびの尻尾が鎌首をもたげていて、「高光公、後ろ後ろ!」という「志村後ろ!」的シーン。
「高賀神社の縁起によれば奈良時代(約1300年前)高賀山に妖魔が住みつき、この地はもとより遠く都にまでも黒雲を駆け夜毎出没しては人々に危害を加え深く帝をなやましたものである。帝は、藤原高光公に是れが退治の勅命を発せられました。早速、高光公は勇者廿数名を伴なってこの高賀の里に来りて、峯々谷々を隈なく狩られるも、妖魔は姿をあらわすことなくただいたずらに日数を重ねるばかりであった。
妖魔は、時には「ふくべ」にある時には「かぶら」に変身しては峯高くあるいは谷深く住み替え容易にその正体を表さなかった。
高光公は、そこで高賀神社の神前にぬかずき三七二十一日の願をかけられた。
その甲斐あって満願の日、神は瓢ケ岳に御降臨となり高光公に必殺の弓矢を下し賜われた。善貴星なる神の御先導により山奥深く入り給えば妖魔はすでに其の気配を感じてか呻り声は山々谷々に地鳴りして容易に近ずき難き様相なるも高光公は勇を鼓らして進むほどに巨大な岩堂あり、高光公一行が突入せんとするや妖魔は猛然として襲い来ること幾度か、もはやこれまでと高光公は神より拝受の弓に満身こめて矢を放てば、猛り狂うさしもの妖魔も大音たてて地に伏した。熱戦実に十数合武運目出度く取り押えて見れば・・何んと、頭は猿で胴体は虎、尾は蛇の姿の妖怪であった。
多くの民人に危害を加えた妖魔に最後の止めを刺さんと高光公が跨がれば尾の大蛇までもが大口開いてはげしく抵抗したが高賀神社の大神より授かりしお力で目出度く本懐を遂げられたのであります。
高賀神社は養老元年創建になる勝負の神、弓矢の神、大願成就の守神、降伏魔災のご祈願所として広く尊崇を集め今日に到っている。」
……あれ、最初のほうの案内板の話と年代があわないんですが……。
ま、今回は考察までは参らず、ということで。
周囲は、緑鮮やかに、こんな感じです。
なるほど、妖怪の一つや二つ、いてもおかしくないですな。
帰りも狛犬さんのお出迎え。
鳥居を裏から。
というわけで、続きは次回に〜。