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よんどころない事情ではるばる広島までやってきました。
よんどころない事情まで時間が少しあるので、スマートフォンの地図で気になっていた神社へ。
○こちら===>>>
広島の歴史にはまったくうといのですが、駅から近かったので。
歩いて10分ほどでしょうか。
「しめなわの高さは2.8メートル」です。
ここにも七福神めぐりが……時間があれば回ってみたいものですが。
「広島二代藩主浅野光晟は、生母振姫が徳川家康の三女であったことから、東照宮の造営に特に熱心で、家康の没後三十三年にあたる慶安元年(1648)に、城下を一望できる二葉山の山麓に華麗な朱塗りの社殿を造営しました。
昭和20年8月原爆によって本殿と拝殿を焼失しましたが、焼け残った唐門、翼廊、手水舎などは、350年余りの歴史を伝え、広島市重要有形文化財に指定されています。」
たった二文字「原爆」とあるだけで、様々な思いがよぎります。
よく焼け残ったものです。
この鳥居も生き残ったのでしょうか。
見上げると、階段はこんな感じ……。
ぼけてますね……。
拝殿の正面と扁額。
手水舎。
石灯籠の葵の御紋が撮りたかったのですが、その後ろの絵馬とおみくじの鈴なり具合がちょっとしたホラーですね。
「東照宮御供所
神に供える神饌を調えるところ
内部は四室に区切られ東北の間には一間四方の上段の間(調理した供物の仮置の間)がある
江戸期くらいの建物であれば、大体が解体できます(いわゆる、日本の古民家でもできます)。
さすがに漆喰は塗り直しなのだと思いますが。
西洋の石積みの建物に比べたら移転が容易なんですね。
あくまで、比較したら、であって、実際には大変だと思います。
最近はあまり聞きませんが、昔は「曳き家」というのがありまして、文字通り家を引っ張って少し動かすというものです。
YouTubeなんかで動画があるんじゃないでしょうか。
面白いですよ。
そういった文化も、時代の趨勢とともに失われていくのですね。
翼廊を、内側、向かって左より。
唐門の裏側の彫刻。
鳳凰でしょうか。
「東照宮」なので当たり前ですが、日光にならっての権現造、彫刻も豪華です。
こちらは元の本地堂。
「江戸初期慶安元年(1648)の造営。当初徳川家康公の本地仏である薬師如来が祀られていたが明治以降は神輿舎に転用した。
今では数少ない神仏混合時代の遺構
「総朱漆塗り」「四方の中備に極彩色の蛙股を置く」などが特徴である。
昭和五十九年三月修理漆塗装し当時の姿に復元す
堂中には大神輿(重文)あり」
「徳川家康」の本地仏(ということは、正確には「東照大権現」といったほうがいいですね)は「薬師如来」だったんですね。
どこかでも見たような気がしますが、覚えていませんでした。
悟り得ぬ神の身なれば本地仏、ですか。
本地堂前の案内板。
一 祭神 源家康公
二 由緒 慶安元年(1648年)廣島藩主浅野光晟公 當宮を造営す
(一)藝藩通志に曰く
「府城の東、尾長山(現二葉山)にあり、慶安元年宮廟新に成て祭祀を始たまふ。社領三百石、境内廣袤、本殿、拝殿、石の間、瑞籬、中門唐門、廻廊神輿庫等あり 唐門に長尾山 三宇の金榜を掲ぐ すべて門殿の税■等、綵畫彫鏤極めて精巧を盡す。
門内に石燈籠十基を置、藩主及び支封赤穂侯の建たまひしなり。石階、高五十一級、階下、石鳥居は支封三次侯の所建、鳥居の内石燈籠三十四基あり国老、執政大臣の所献
山下榜文、禁制三箇條又下馬榜あり。櫻の馬場、松原まで御宮下なり、」
(二)
昭和二十年八月六日原子爆弾(ここより約2,200米西南西高度約600米で炸裂)の閃光で檜皮葺本殿並びに拝殿、瑞籬、神馬舎を焼く。唐門、廻廊、神輿庫、手水舎等大破し傾く
現在の本殿拝殿は昭和四十年四月、三百五十年祭を記念、再建す」
(※一文字、どうしてもわからなかったので■で置き換えました)
拝殿わきの案内板。
「東照宮は慶安元年(1648)徳川家康を祭るため、時の藩主によって建てられた。当時の建物のうち本殿、拝殿は昭和20年の原爆により焼失したが、残った唐門などから当時の建築様式をしのぶことができる。
唐門 日光東照宮の様式にならう。装飾的彫刻に時代的特色がある。
翼廊 唐門とは対照的に和様を主体とした簡素な構えである。
本地堂 もと本地仏を安置、蟇股は桃山〜江戸移行期の形式を示す
手水舎 板蟇股は室町、虹梁や拳鼻は江戸期の代表的彫法を用いる
御供所 外観は江戸期の書院風、内部は所々に室町時代の様式を残す。
脇門 豪壮で簡素な感じは戦国時代の遺風である。」
そろそろ、慶安元年が刷り込まれたころですね(?)。
拝殿横にあった大きな釜。
本殿を……と思ったらうまく写りませんでした。
裏に回って、
「御産稲荷神社」。
「亥子石」。
多産のシンボルで、
「江戸時代から城下町の亥の子祭では「亥の子亥の子亥の子餅ついて繁昌せい繁昌せい」とはやしました」
そうです。
○こちら===>>>
神明社(猪子石) - べにーのGinger Booker Club
↑高校時代を過ごした名古屋市の名東区にも「猪子石」があります。
やはり、多産の象徴でした。
山から駆け下りてくる母さん猪と後に続く瓜坊たち
という絵が浮かびます。
そういえば、「恵比寿」「大黒」はよく見かけても、「福禄寿」ってあまり像としては見ませんね。
本殿を背後から。
まぶしい朱。
御神水。
「当宮の境内山林(二葉山の南面の○万坪)が、今でも絶え間なく大気を浄化する日本一の「しりぶかがし」群生の樹林帯に覆われているのは、地中深く伏流水を蓄えて、地上を潤し続けて居るからであります。」(一部抜粋)
どうやら先程の巨大な釜は、こちらの神水を焚いて「湯祓信じ」を行うためのもののようです。
「しりぶかがし」ってのはどんな木だろう、と思って検索してみたら、
○こちら===>>>
なんと、「尻深樫」という字でした。
ちょっとびっくり。
「祖霊社」。
右後方から本殿。
透垣の具合がなかなかいけてます。
さて。
古い文献の検索をしてみましたが、思うように探せず。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図録. 広島県之部
↑の6コマ目(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
「東照宮
尾長村ニアリ社殿盡ク朱色ニシテ輪奐甚ダ美ナリ猶ホ詳細ハ図録中ニアリ」
だそうです。
20コマに図録が載っていますが、あいにくの白黒であちこちつぶれていて……それでも、現在と変わらぬ勇壮な様子はうかがえます。
○こちら===>>>
↑の20コマにも記事がありました。
「東照宮 在今府治東長尾山下、今太守奉源大君之命以建之、四時之祭祀粛々然也、太守實神君之外孫也、宜哉尊崇之也、松栄寺者其供僧也。」
これは黒川道祐という人が書いた『藝備国郡志』という本で、少なくとも寛文三年(1663)に書かれているようです。
創建から20年程度しか経っていませんし、何しろ徳川時代なので、観光地ではなく聖域だったものと思われます。
うーん……他にも文献があるように思うのですが、私の持てる時間ではこのあたりが限界かと。
それにしても、東照宮は全国にありますね。
創建された理由は様々ですが、徳川の血を引いた大名達が、いかに全国に散らばっていたのか、という証左でもあると思います。
さすが、戦国の世を終わらせた男、時代への影響力が違います。
そんなことを思いながら、実はこの社の背後にある「金光稲荷神社」に登るかどうかで逡巡しているのでした……。