さてさて。
先月の発売になる『日本の神社』78号では、「丹生都比売神社」が特集されています。
いくつか引用してみます。
「御祭神である丹生都比売大神は、天照大御神の妹の神、稚日女尊と考えられている。『丹生大明神告門』から、稚日女尊は紀ノ川流域にある三谷(現在の紀の川市周辺)に降臨したあと、紀州・大和をめぐって人々に農耕を伝え、天野の地に鎮座されたと伝わっている。
丹生都比売大神が祀られる第一殿の隣に鎮まる第二殿には、丹生都比売大神の御子である高野御子大神(高野明神・狩場明神)が祀られている。この二柱に加えて、承元2年
(1208)に行勝上人と天野社(現・丹生都比売神社)惣神主が鎌倉幕府の北条政子の助力により、気比神宮から大食都比売大神を、厳島神社から市寸島比売大神を勧請。以来、丹生都比売神社の御祭神は「四所明神」と称された。同社の発展に尽くした行勝上人は真言宗の僧侶で、その功績から本殿隣の若宮に祀られた。」
「主祭神である丹生都比売大神の性格については二つの説がある。一つは「水の神」とみるものである。天野の地が紀ノ川の水源であり、同社の神領が周辺河川流域のほぼ全域を占めていることなどによる。もう一つの説は「丹」に関わる人々によって祀られたという説だ。「丹」は辰砂の鉱石から採取される「朱」を意味し、魔除けの力があるとされてきた。その鉱脈を支配する人々が「丹の神」を奉斎したとも伝わる。」
「丹生都比売大神」というなかなか特殊な名前は、「丹」と関係しているものと考えられてきました。
「丹」といえば、仙人の作る丸薬、というようなイメージしかないのですが(「○○丹」とかいう名前のついた薬がよくあります)、
↑では、
「丹生都比売の「丹」とは、朱砂から採取される「朱」を意味するという。朱砂は辰砂、丹砂ともいい、水銀と硫黄との化合物である硫化水銀のことで、古代においては、顔料や染料のみならず、建築物や墓の装飾、さらには薬としても珍重された。」(p114)
とのことです。
大陸では「仙丹」は不老長寿の薬であり、実際に皇帝たちはそれらを飲んでいたのではないか、と考えられています(もちろん、毒ですけれど)。
同書では、
「西南日本の中央構造線、つまり、紀ノ川と四国の吉野川を通り、愛媛県佐田岬から大分県佐賀関半島にわたって、九州山地を横切り熊本県八代市にいたる線上に水銀鉱床が分布し、それが「丹生」という地名の分布とも符合している事実をつきとめた。「丹生」とは、字義通り、「朱砂を生みだす土地」だったわけである」(p115)
とも書かれています。
「弘法大師空海」が高野山を真言密教の根本道場としたのは、実はこの「丹」が目的だったという説もあります。
「空海」は、「丹生都比売大神」から高野山あたりを譲り受けたことになっていますが、地元勢力と新興勢力との間になんらかの衝突があったのではないか、という考えも浮かんできます。
いずれにせよ、「空海」は山を手中に収めることで、相当量の「丹」を手にしたことでしょう。
様々な仏や神の力を借りて現世利益も追求する密教は、もともと多神教である日本の信仰体系に馴染んでいたのか、「丹生都比売大神」は奪われた高野山に取り込まれ、お山の守護神となったようです。
といっても、『播磨国風土記』逸文を信じるなら、「丹生都比売大神」も現在の地へ移ってきたわけなんですが。
もともとの地主神は、「高野御子大神」ではないか、と考えられています。
言ってみれば、
「丹」の奪い合い
だったのではないでしょうか。
最終的に勝ったのは「空海」だった、ということですね。
もっとも、「丹」がどれほど採取されたのかは私にはわかりません。
○こちら===>>>
「丹生都比売神社」(補) - べにーのGinger Booker Club
↑前回の記事でも紹介したように、「丹生都比売大神」は「稚日女尊」とほぼ同一視されています。
片や水の神だったり「丹」の神だったり。
片や太陽神っぽい。
全く違う神に見えます。
神の性格なんてものも、時代によっては移り変わっていくものですからしかたないんですが。
「『丹生大明神告門』から、稚日女尊は紀ノ川流域にある三谷(現在の紀の川市周辺)に降臨したあと、紀州・大和をめぐって人々に農耕を伝え、天野の地に鎮座された」……どうもこの記述が気になりまして。
いえ、神社の伝承なんてどの程度まで遡れるのかわかったものではないので、記紀神話と比べてかなり新しいと考えていいと思います。
ただ、この「太陽神があちこち巡る」という図式が、「天照大御神」が宮中から追い出されてあちこち巡って最終的に伊勢に鎮座ましました、という伝承と妙に似ていることが気になります。
太陽神は遍歴しないといけない、ということなんでしょうか。
というよりは、
遍歴するから太陽神
なのかもしれません。
古代から、人間が敏感に反応してきた天体の運行は、太陽と月です。
月は気まぐれ、顔の形さえも変える魔性の星です。
それに比べれば、太陽は力強く燃え盛るのですが、その運行は季節の移り変わりとともに変わっていきます。
この、気まぐれとまではいえないまでも、移ろう運行が、地上での太陽神の社にも適用されて、移動していったのかもしれないです。
はい、妄想です。
それはともかく。
「稚日女尊」と「丹生都比売大神」を、同一の神格ではない、と考えてみましょう。
『日本書紀』の神功皇后紀から、「稚日女尊」と思われる女神は、「尾田の吾田節郡の淡郡」にいたのではないか。
「尾田の吾田節郡の淡郡」がどこを指しているのか、諸説あるようで、岩波書店『日本書紀(2)』の補注では、『釈日本紀』の「阿波国阿波郡」説と、『地名辞書』の「志摩国答志(たふし)郡」説とが掲載されています。
この、「志摩国答志郡」の方は「伊雑宮」のことではないかというのです。
○こちら===>>>
「伊雑宮」 - べにーのGinger Booker Club
うん、なんかその方が面白そうです。
で、「稚日女尊」は、「神功皇后」の三韓征伐が成就したのち、「活田長峡国にいたい」とおっしゃり、それが現在神戸にある「生田神社」だと考えられています。
伊勢(志摩)国から摂津国へ、「神功皇后」の時代に遷されたのです。
ちなみに、「天照大御神」の荒魂とされる「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)」も、伊勢の五十鈴宮から「広田国」に憑っています(これが、今の「廣田神社」とされています)。
「崇神天皇」が、「宮中においておいたら祟っちゃう」と困って追い出した「天照大御神」の、しかも荒魂を、伊勢から自分たちの勢力下である摂津国へ移動させたのは、その力が絶大だったと見るべきか、力を借りておいて何もしないのでは祟られるからなのか、絶大な力を持つ「天照大御神」をバラバラにしてしまいたかったのか。
しかもきちんと、「我が荒魂をば、皇后に近くべからず」と「天照大神」に言わせて、宮中に入れることは避けている、つまり「崇神天皇」の感じた祟りはまだ続いているわけです。
この「祟り」を借りて、三韓征伐を成し遂げたのかもしれないです。
「天照大神」はそれでいいのですが、じゃあ「稚日女尊」はどうなのか、と。
この二柱の女神は非常に近しい神性で、鎮座場所もそれほど遠くなかった。
もっとも、「天照大神」は伊勢に漂着したようなものなので、むしろ「稚日女尊」の方がもともとそこにいた神なのかもしれないのですが。
「伊雑宮」を作ったのは、「伊佐波登美命」だと言われています。
しかし、もともとこの地には太陽神信仰があり、それが「稚日女尊」で、「伊佐波登美命」はその祭祀集団だったとすると、「伊雑宮」を「御贄地」にした「倭姫命」がその構造をそっくりいただいて、祭神も「天照坐皇大御神御魂」に変えてしまった。
本体は(後の)「伊勢神宮」にいるので、「伊雑宮」には「御魂」しか連れてこられなかった、といった説明ができるかと思います。
で、この「稚日女尊」がですね、「天照大御神」に負けないくらいの「祟る」神だったとしたらどうでしょう。
「天照坐皇大御神御魂」と祭神を変えても地元では「稚日女尊」への信仰が薄らぐわけではなく。
朝廷からしてみれば危険地帯だったりするとこの神を抹殺し続けることが難しく。
そして三韓征伐にこの地域の人々(海の国ですから、船の扱いに長けていたと思われ、重用されたのではないかと)を借り出したのであればなんらかの恩賞を与えないわけにはいかず。
そこで、「稚日女尊」の名前を復活させて、別の地、つまり「生田神社」にお祀りしたのではないでしょうか。
となると、「丹生都比売大神」はなんなのでしょう。
「神功皇后」の三韓征伐に力を発揮した神だとして、『播磨国風土記』逸文には、それ以前にどこにお祀りされていたのかは書かれていないんですよね。
『日本書紀』の、
「昼が夜のように暗くなって何日も経った。皇后が紀直の祖豊耳に尋ねると、老人がいて「これはアヅナヒの罪のためでしょう」と言った。「どういうことなのか」と尋ねると、「二つの社の祝を一緒の墓に葬ったのではないでしょうか」と言った。調べてみると、「小竹祝と天野祝は親友だった。小竹祝が病死すると、天野祝は嘆いて、「生きている間は親友だった。どうして死んで墓を同じくしないことがあろうか」といって、遺体の側で自ら死んだ。同じ墓に葬った、ということなので、墓を開いてみるとその通りだった。棺を新しく作り、別の場所に葬ると、日は再び照り出した」
という記事から、天野の地(現「丹生都比売神社」)ではなんらかの神様がお祀りされていたようだ、と前回も書きました。
これを「丹生都比売大神」だとすると、『播磨国風土記』逸文と矛盾が生じてしまうんですね(古代の話なんで矛盾上等なんですが)。
では、「丹生都比売大神」は天野の地にくるまでは別のところに祀られていて、「神功皇后」の三韓征伐に「これだ!」とばかりに乗っかってきた、としましょう。
『播磨国風土記』逸文の通りだとすると、天野の地にくる前からすでに「赤土」を用立てることができたんですね。
これを、いわゆる「丹」だと考えると、「丹生都比売大神」はずっと「丹生都比売大神」で、「丹」を採取して移動する集団の神様だったのかもしれません。
次の「丹」を求めていたら、「神功皇后」の三韓征伐に協力することになり、その褒賞として、「丹」の採取地である天野の地を与えられた。
地主神は抹殺される運命だったのが、「高野御子大神」として残されることになった。
『丹生大明神告門』(天平時代の成立らしいです)に、「丹生都比売大神」は「稚日女尊」ともいう、と書かれているんですが、ここまで完全に別の神様なのに、どうして結びつけようと思ったのでしょう。
「丹生都比売神社」側とすれば、天野の地を「正当な理由」で手にしたことを説明しておきたい、ということなのでしょうか。
「稚日女尊」として、「紀ノ川流域にある三谷(現在の紀の川市周辺)に降臨したあと、紀州・大和をめぐって人々に農耕を伝え、天野の地に鎮座された」んだよ、つまり無理やり天野の地を奪ったわけではないんだよ、と。
「稚日女尊」という名前を使ったのは、「丹生都比売大神」と同じように、「神功皇后」の三韓征伐に功績があったから、借りたのでしょうか。
うーん、それでは弱いな……。
全てがすんなり割り切れるわけではなく、妄想しようにも知識がないので限界があります。
太陽神、丹の神、水の神。
これらを結びつけるミッシングリンクがどこかにあるような気がします。
見つかりませんけれども。
「天野祝と小竹祝」の記事も気になるんですよね。
あれが、「日食」に関係する話だとするなら、紀伊国と太陽神が何か関係しているのかもしれません。
紀伊国……そういえば、「日前・国懸神社」がありましたな……。
これ以上は、今の私には妄想しきれませんので、降参!!
「高野山」開基1200年の喧騒から離れ、参拝客もそれほどいない、とても上質な空間でした。
ただ、行きづらいですけれども……。