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続きです。
「大國主社(摂社)
例祭日 五月十四日
長い回廊。
神紋の切り抜きが左上にあるのが、ちょっとオシャレ……ですか?
「宝殿
御神輿及び御神宝を奉安する神聖な御殿であり一般の神社の御本殿に相当する 寅年と申年毎に一殿新しく造り替え遷座祭を行っている
宝殿が二殿あるため仮殿に御遷座の必要がなく新造の宝殿に直ぐ御遷座になるのである
最も古い記録に拠れば新造して六年経った宝殿に御遷座になり旧殿を新造してまた六年を置くのが本義で今も新旧二殿が平素共存している」
「新造して六年経った宝殿に御遷座になり旧殿を新造してまた六年を置くのが本義」……頭悪いのでよくわからなかったのですが。
例えば、「伊勢神宮」の「遷宮」というのは、「建て直した新しい正殿にお遷りいただく」のです。
「諏訪大社」ではわざわざ新しくしたのに「六年置いて」お遷りいただく、と。
うーん……「常若」の思想とかっていうのはどこにいってしまうのでしょうか。
「四脚門及び硯石
四脚門は天正十年(1582)の兵変によって消失したものを慶長十三年徳川家康が時の勘定奉行大久保長安(佐渡金山奉行を兼ねる)に命じて建立させたものである
この門はかつては大祝(祭神の子孫であり神を顕現する者)だけが最上段の硯石と呼ばれる磐座へ登って行った門である
硯石とは前方脇片拝殿の屋根の上に見える石のことでこの石の凹面は常に水を湛えているところからその名が来ている
鎌倉時代の大社の神楽歌に
明神は 石の御座所に おりたまふ みすふきあげの 風のすすみに
とある如く明神の天降り給う場所であり神降しをする古代宗教の最高至極の位置であったと云われている」
肝心の門の写真がない、という。
こちらは塀重門、というほうですが、実はここからも入れません。
……え?
巫女さんが写っている?
偶然でしょう。
実は、また平成の大修繕中らしく、この参拝所の向こう側が、拝殿、幣殿、片拝殿等等です。
そこは「斎庭」なので、もちろん参拝者は入れません。
見られないとは……。
こちらは「勅願所」。
一般の方が祈祷を受けるところ、だと思います。
長野県の天然記念物として、「諏訪大社上社社叢」が登録されているようです。
また、
「国指定重要文化財
諏訪大社上社本宮幣殿等六棟
この建築は天保六年(1835)に上棟式をしており、工匠は上諏訪の人 幕府から内匠(たくみ)の称号を許された名匠二代立川和四郎富昌の作である。拝殿と幣殿をつづけ本殿を設けない諏訪社様式で 安定もよく彫刻も美しく富昌の代表作であり また左片拝殿にみる蟇股から脱化した粟穂に鶉の彫刻は写生に徹した富昌の至芸である。」
とあります。
どうも、この辺りの時期に、「諏訪大社」関係の社殿が一斉に改まっているようですね。
「勅願所」の背後に発見した「金井社」。
境内末社、でしょうか。
堤重門の遠景。
「高島神社
御祭神 諏訪頼忠公 大祝中興の祖・諏訪藩祖
諏訪頼水公 大祝高島藩初代藩主
諏訪忠恒公 高島藩二代目藩主
例祭日 九月二十三日
(本来の例祭日は九月二十三日だが、最近は八月十二日に神裔の御参列のもと例祭を執行している)
諏訪氏は当大社の御祭神 諏訪大神の子孫で上社最高の祀職大祝となり更に藩主として政治を行った この祭政一致の形態は往古より続く諏訪の特徴である
御祭神は江戸時代初期における高島藩中興の藩主三代の御遺徳を尊びお祀りしている」
「祭政一致の形態」というと、天皇家と同じ、ということですね。
つまり、「大祝」というのはそういう存在だった、と。
こちら西参道の入口にある「波除け鳥居」。
由来は……よくわかりません。
ぶらぶらしていたら庚申塔など発見。
「大国主命社」があるらしく、山を登ってみました(「上社本宮」の南側にある山になります)。
これが「大国主命社」です。
どうしてこんなところで御祭りされているのかよくわかりません。
出羽三山の石碑。
全然読めませんが、お社。
もっと高いところにありました。
祠……というより奥津城ですかね。
また、「出早社」のあった鳥居の前の道を少し登っていくと、
こんな案内板を発見。
「鷲峰山法華寺」。
◯こちら===>>>
法華寺(ほっけじ) | ホムタすわ - 地域発、諏訪市の総合情報サイト。
どうやら上社の神宮寺の一つだったようです。
ざっと拝観しただけですが、なかなか歴史的には面白いスポットです。
めっちゃ犬が鳴いていたので、退散しました(?)。
「法華寺」に登っていく途中、右手にありました。
「繭玉神社」、だと思います。
養蚕業が盛んだった頃の名残でしょうか(盛んだったかどうか、も知りませんけれど)。
駐車場近くにあった祠。
ワンダーランドですな。
さて、考察は後回しにしていますが。
一つ、よく提示される疑問点を。
↑案内板の写真です。
真ん中辺りに、「四脚門」「東宝殿」「西宝殿」が並んでいます(赤い丸)。
「下社」の社殿配置では、「宝殿」というのは、「弊拝殿」の向こう側にあったわけです。
つまり、「上社本宮」でいうと、「四脚門」と「東・西宝殿」の位置関係と同じです。
ところで、「四脚門」の右上に、「参拝所」があります。
一般参拝者は、こちらから参拝するのですが(青い矢印)、そうすると「東・西宝殿」は向って左手にあり、どう考えても正面ではありません。
「参拝所」の正面には「拝殿」「幣殿」「片拝殿」があり、その位置関係としては、「下社」と同じように思えますが。
「下社」では、「弊拝殿」の前できちんとお参りできたのに、「上社」はその前に「斎庭」という禁踏の場所があります。
「幣殿」の奥には森があり、案内板では「神居」と書かれています。
何だか変ですね。
一説には、「四脚門」から参拝するのが正しく(赤い矢印)、地元の方は今もそうしていらっしゃるとか。
社殿配置から考えても、いわゆる「本殿」がない、ということから考えても、そのほうが合理的だと思います。
仮にも最古の神社形態、というのであれば、遥拝する先は「山」や「岩」、「巨木」であってしかるべきですが、「幣殿」奥の杜がそれほどのものとはどうにも思えません。
そして、何故か意味ありげに、「斎庭」の中に置かれた「遥拝所」は、南方の「山」に向かっているとしか考えられず。
また、御柱の配置ですが、「下社」では、「弊拝殿」に向って右手前が「一之御柱」、左手前が「二之御柱」となっています。
しかし、「上社本宮」は、「参拝所」に向って左手前が「一之御柱」、左奥が「二之御柱」。
九十度、回転しています。
整合性がとれていません。
もし、「上社本宮」の御柱の配置が正しいのであれば、「下社」もそれにならうべきです。
そうはなっていない……この配置も、「四脚門」を「幣殿」に見立てると、「下社」と同じになります。
どうやら本来は、「四脚門」のところから、「山」に向って参拝する、というのが正しいとしか思えません。
しかし、一般の参拝者には、何故か「山」を拝ませず、「神居」を拝ませる。
そして、一般参拝者は、参道から入ってくると、「参拝所」に向って直角に右手に折れなければなりません。
高田崇史式「怨霊の見分け方」では……ん?
そうすると、
「山」を御神体とした「神」は「怨霊」ではなく、
「神居」にいるとされている「神」が「怨霊」……?
ん〜?
前回紹介した「摂末社遥拝所」もまた、「山」のほうを向いているのですが。
同時に「神居」にも正対しています。
「遥拝所」というのは、通常その社のある方向を向いていなければいけないんですが、ではこの「摂末社」はみんなその方向にあったのでしょうか。
いやいや、諏訪の町というのは、北側に(つまり「遥拝所」で拝むと、背中側に)広がっているのです。
諏訪の町に広がっていただろう「摂社」「末社」には背を向けている。
じゃあ、「摂末社遥拝所」は、何を拝んでいるのでしょうか。
ん〜?
情報が足りないので、本日はこの辺りで。
↑の指摘は、先人達がさんざん行ってきているので、それらを参考にしています。
例えば、
↑こちらは最近出た書物ですが、非常に面白い仮説が取り上げられておりますので、ご参考にしてください。
次は「諏訪大社」のラスト、「上社前宮」〜。