べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「生島足島神社」

9/23。

遅い盆休みを消化するべく、長野県へ出向くことに。

初日の目的地はあのお寺にしておいて、その途上であちこち寄ることに。

というわけで、最初は生島足島神社

 

◯こちら===>>>

式内大社 生島足島神社公式ホームページ

 

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残暑というにはまだ暑い時期。

 

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鳥居をくぐります。

 

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天気がよくてよかったです。

 

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神紋。

左右の巴と……なんでしょうか。

 

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例祭の一覧。

 

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門の上には、御祭神の一覧。

 

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拝殿。

朱塗りは昔からだったのか、近代の表現なのか。

 

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御祈祷を受ける人は、この「十三社」にお参りするようです。

「お祓いの神」となっていますので、「祓戸の神」なのでしょうか。

 

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こちらは磐座(磐境)。

白い玉砂利敷きの表現が珍しいのではないかと思います。

こう見ると、「水の上の島」のようにも見えます。

 

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拝殿。

初宮参りの家族連れが多かったように思います。

地元で崇敬されている様子がうかがえました。

 

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神島遠景。

 

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「長野県宝 生島足島神社本殿内殿

(略)

生島足島神社の歴史は非常に古く、平安時代に制定された延喜式に「生嶋足嶋神社二座名神大社」として記載されています。戦国時代には武田氏や真田氏が信仰を寄せ、江戸時代には歴代上田藩主の厚い庇護を受けてきた由緒ある神社です。

神社境内には、池に囲まれた小島の上に、権現造の本社(昭和16年)が北面して建ち、それに正対するように摂社諏訪神社本殿(上田市指定文化財)が建てられています。

本殿内殿は、かつては屋外に建てられていましたが、十八世紀後期から十九世紀初期の時期に覆屋としての本殿が建てられ、屋内の内殿となりました。

現在の内殿の規模は、桁行(正面)柱間三間(4.82m)、梁行(側面)柱間二間(3.10m)で、屋根は切妻造の厚板張り、(当初は杮葺)です。内部は、向かって左側二間が内陣、右側一間が外陣となっています。外陣は、諏訪大神が半年間、生島・足島両神にご飯を炊いて奉ったところと伝えられ、その伝承を受け継ぐ御籠祭と呼ばれる神事が現在も行われています。内陣の周囲は大部分が板壁で内外陣境に片引き板戸の潜り戸があります。正面中央柱間には片引き戸の戸口がありますが、当初は窓であったと推定されます。また、西妻(右側面)は、現在は壁も戸もない開放状態ですが、当初は向拝が存在したと推定されます。床は、内陣・外陣とも土間となっており、内陣の土間が本神社の御神体とされています。これは、万物を育む大地を神として崇める最も古い神社の形式を伝えるものです。

主要な部材は欅材で、表面は手斧仕上げの上を丁寧に削り磨いています。外面した部材の一部には朱などで彩色した跡が残ります。軸部には、粽・礎盤・大瓶束等を用いた室町時代の様式で、その特徴から建築年代は、天文年間(1522〜1555)頃と推定されます。(略)」

 

延喜式に「生嶋足嶋神社二座名神大社」として記載」されているので、御祭神生島大神足島大神の二柱ということになります。

神社でいただいたパンフレットによれば、

 

生島大神(生きとし生けるもの万物に生命力を与える神)

足島大神(生きとし生けるもの万物を満ち足らしめる神)」

 

と書かれています。

わかるような、わからないような……。

 

 

 

 

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「子安社」。

木花開耶姫命」と「彦火瓊瓊杵命」の夫婦神をお祭しています。

「瓊瓊杵命」はいわゆる「天孫」です。

木花開耶姫命」は、大山祇神の娘で、三人の御子神を生みましたが、旦那に不義を疑われたため、「産屋に火を放って」自分の潔白を証明した、という剛の姫神です。

日本の神明裁判に「盟神探湯(くがたち)」というものがあります。

熱湯の中に手を突っ込んで、火傷を負えば罪有り、負わなければ罪無し、というものです。

木花開耶姫命」が行ったのは、この「盟神探湯」の上位バージョンといったところでしょうか。

まさに、「命をかけた」神判ということになります(結果、姫は命を落とすのですが、御子神は無事生まれます)。

火との関わりから、富士山を祀る「浅間神社」の御祭神になったようです(経緯は、調べてません……いずれ「浅間大社」に行ったときに……登るのか富士山?)。

 

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神橋。

唐破風風の屋根がある、というのは、珍しいのではないでしょうか。

 

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注連縄で結界がされていますので、普通の人は明らかに渡れません。

 

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西の鳥居(最初のは、東の鳥居です)。

案内板にもあったように、「生島足島神社」の社殿は、「神島」と呼ばれる島の上に立ち、その周囲を「神池」が囲んでいます。

さらにその外側に、いくつか神社があります。

 

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「御歳代(みとしろ)御仮殿」。

「御歳代」というのは、「神田」のことのようです。

祭神は「建御名方富命」「建速素戔嗚命」「豊受姫神」「若宇加能賣能命」「大年神」「罔象女神」「御年神」。

「若宇加能賣能命」を「宇迦御魂神」とすると、「素戔嗚尊」→「宇迦御魂神」→「大年神」→「御年神」の順で、御子神です。

特に、「宇迦御魂神」から三代は、収穫に関する神です。

また、「豊受姫神」は、「伊勢神宮」の「外宮」に祀られている「豊受大神」だとすると、食物の神です。

罔象女神」は水の神。

ということで、「神田」にお祀りされているだけに、稲作に関係した神々だと思われます。

「建御名方富命」(建御名方神)はまぁ、信濃の大地主神みたいなものですので。

 

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「八幡社」。

「誉田別尊」と「玉依比賣命」、そして「伊弉冉尊」。

珍しい取り合わせですが、いくつかの神社を合せてお祀りしたんじゃないかと思います。

 

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秋葉社」。

順当に「軻遇突智神」。

 

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秋葉大権現」の石灯籠が残っていました。

 

 

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「荒魂社」。

社殿の後方にあります。

 

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垣の内側には「御柱」……いや、これはもう、「リンガ」(陽根)でしょうか。

 

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池越しに「神島」をぐるりと見てみました。

社殿はほぼ窺い知れません。

 

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……「出雲式心宮園池」ってなんでしょう?

ざっと検索しても、ひっかかるのは「生島足島神社」の説明ばかりで、その中身については説明されていません。

神社でいただいたパンフレットによれば、

 

「御本社は、神池に囲まれた神島の中に鎮座し、本殿内殿には床板がなく、大地そのものの土間が御神体として祀られている。この様式は我が国でも最も古いかたちとされる「池心宮園池」である。

 

とあります。

 

 

何も説明していません。

 

 

うーん……どういうことなんだろう。

もうこの方式は廃れてしまったので、他の土地では見られないのか。

建御名方神」の出自を考えれば、出雲系の様式が残っているのも当然なのか。

しかし、こちらの主祭神は「生島大神」「足島大神」であって、「建御名方神」ではないのですが。

うーん……。

 

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境内に戻って「神楽殿」。

 

 

何故朱塗りではないのか。

 

 

整合性ってなんだろう……。

 

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摂社の「諏訪神社」。

祭神は「八重事代主命」「建御名方富命」「八阪刀賣命(やさかとめのみこと)」。

国譲り神話で大活躍(?)する、「大国主命」の二人の御子神と、「建御名方富命」の妻神をお祀りしています。

建御名方神」は、先ほども書きましたが、信濃の大地主神のようなお方で。

記紀神話によれば、

 

 

「建御雷神」にボコられて諏訪湖まで逃げてきたあげく、「信濃から出ない」ことを約束させられた

 

 

という敗残の将のような描き方をされています。

ところが、全国に「諏訪神社」があることでわかるように、めっちゃ流行ったんですね、この神様の信仰。

武功に神威あり、ということで戦国時代以降持て囃されたということなんです(「建御雷神」は「鹿島大明神」ということで、こちらはこちらで非常に流行ったんですが)。

でも、こんな「敗残の将」が、何故に武功の神様になったんでしょう。

それに、信濃に追いやられたわりに、「諏訪大社」にお祀りされていますし。

うーん……。

よく考えると、「大国主神」にしろ「事代主神」にしろ「建御名方神」にしろ、

 

 

全然廃れていない

 

 

んですね。

大国主神」は「大黒様」に、「事代主神」は「恵比寿様」に、そして「建御名方神」は「諏訪大明神」に。

自分の国を譲り渡したとは思えない繁栄ぶり。

うーん……。

 

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「長野県宝 生島足島神社摂社諏訪社本殿及び門

(略)

この本殿は、棟札から慶長十五(1610)年に上田藩主真田信之の寄進により再建されたことがあきらかになっている。また、棟札には本殿の部材を一木からすべて作ったこと、大工棟梁が宮坂勘四郎であったことなども記されている。

本殿の全体の形式は正面の柱間が2.8メートルの規模の一間社流造で、屋根は銅板葺(元こけら葺)である。社殿の軸部は全体に彩色を施している。現在の塗装は昭和十六年の塗り替えによるものであるが、当所からこのような塗装(朱漆塗、胡粉塗など)がされていたと考えられる。

この本殿は、全体の建ちが高く、軽快な感じのする点が特徴である。向拝の頭貫上部にある蟇股(表側に竜、背面に雲を彫る)、扉の上方にある蟇股(雲、麒麟)に立体的で精巧な彫刻が施されている点、脇障子の上部に熨斗結びの透し彫りを入れている点など、この時代に中央で盛んになった桃山様式を表現している。

なお本殿手前にある門も本殿と同時期の建築と考えられる。門は、当初は内部に床を張った諏訪系の神社にみられる「御門屋」の形式をとっていたことが痕跡から確認でき、この形式の門としては県内で一番古い。(略)」

 

本殿の様子は全然わかりません。

また、「御門屋」というのも、現在の状態からは確認できませんが、長野をうろうろしていればいずれ、見かけることがあるかもしれません。

先ほどの神楽殿、こちらの拝殿として建立されたそうなんですが、そうなるとますます、

 

 

何故朱塗りではないのか。

 

 

という疑問が……。

 

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境内に磐座っぽいもの発見。

 

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「諏訪社」の手前には「夫婦欅」というものがありました。

 

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うろの中に「男神」と「女神」がいらっしゃいます。

 

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お姿を撮影してしまいましたが……非常に素朴な、味わいのある、何といいますか……もう「リンガ」信仰なんでしょうね、ここまでくると。

とはいえ、古代から現代にいたるまで、「夫婦の悩み」というのは共通なわけで、それが下の話とはいえ、切実極まりないのですから。

こうした信仰の形が残っているのは、ある意味で当たり前なのです。

はい(多分)。

こういう遺物は日本中にありますし、何なら世界中にあります。

 

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「県宝 生島足島神社歌舞伎舞台

(略)

本舞台は、間口九間(16.36メートル)、奥行約七間(12.27メートル)、その規模は本県内の江戸〜明治時代に建築された農村歌舞伎舞台のなかで最大のもの、全国的にみてもトップクラスに属する。

正面右と左の中二階に「太夫座」および「下座」を設け、内部のほぼ中央に半径2.4メートルの「廻り舞台」がつくられている。またその前方二カ所に「せり上り」がある。

後方の壁面には巾二間(3.6メートル)の窓があるがこれは背後の自然風景を舞台背景として利用するためのものである。観客席は舞台前方の平地で花道は舞台向って左手に仮説した。

氏子の伝承によれば、本舞台は明治元年(1868)に建設されてその後校舎、集会所等に利用されてきたが、最近その建築が江戸期農村歌舞伎舞台の典型的な姿をほぼ完全に伝えていることが顕彰され、長野県県宝に指定された。(略)」

 

メガストラクチャー。

単純に間口が広く、一見して一階建てに見える天井が高く、なかなかの圧力。

内部には、歌舞伎につきものの「廻り舞台」や「せり上り」も備えられていた、ということで、中で演じられているところを見てみたかったですね。

「本舞台は明治元年(1868)に建設」というのが気になりますが……わりと国中大騒ぎだった頃に、歌舞伎舞台を建てるというメンタリティは何なのか……ううむ、謎。

……あ、普通に入れたんだ。

 

◯こちら===>>>

境内案内 - 式内大社 生島足島神社

 

↑国の重要文化財である「生島足島神社文書」が展示されています。

パンフレットによると、

 

川中島での決戦を前に武田信玄が必勝を祈った「願文」や家臣団に忠誠を誓わせた「起請文」、また真田昌幸、信幸父子の「朱印状」等、数多くの文書が所蔵されています。」

 

 

だそうです。

うーん、戦国武将は興味の範囲外だからなぁ……。

 

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御柱(略)

当神社の御柱祭は神代の昔、建御名方富命(諏訪明神)が諏訪へ下降の途次、生島足島の二神に御奉仕されたのがはじまり。以来七年目毎(六年に一度)の寅・中歳(四月)に行われ、この大祭には特に宮中より幣帛料が下賜され、御柱は近郷十六ヶ郷の若者等により奉曳され、氏子の手によって奉建される。」

 

「建御名方富命(諏訪明神)が諏訪へ下降の途次、生島足島の二神に御奉仕されたのがはじまり。」とありますが、これは国譲り神話の頃の話なのでしょうか。

だとすると、「生島足島の二神」が、この地方の地主神ということになりますね(「建御名方神」は信濃全体の地主神になった、というべきでしょうか)。

それでも、

 

何故、柱を建てるのか、

 

というのがよくわかりません……塔とか、鳥居とか、神社とか、建てるものがある気がします(神社は建てたのかな)。

 

 

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次は平成28年だそうです。

 

ひとまずここまで。

文献引用は次回〜。