9/15。
昨夜はとても素敵なお祭りでした。
その興奮もさめやらぬ中、心鎮めてお参りしよう、と思って訪れたのは「芝大神宮」。
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JRを浜松町駅で下りて、スマートフォンのナビを頼りにふらふら歩いてみますが、一向にそれらしい建物が見えません。
参道の案内らしき碑を発見したので、その脇(かなりの隘路)を通って行きますと、
もうちょっと大きな碑が。
鳥居まで廻ってみました。
この手前に参道があり、境内地全てを合せると結構な広さのようですが、凝縮されている感じがします。
第一印象は、
狭い、
でした(申し訳ない)。
他の寺社の広大さを見てきたからでしょうけれども。
「め組」の文字あり。
お参りした日は何と、秋の大祭当日だったようで。
何やら賑やかだったはずです(そんな写真は撮ってませんが)。
相殿に「大国主命」、「事代主命」、「倉稲魂神」、「源頼朝公」、「菅原道真公」、「徳川家康公」。
それよりも、「四神」の幡が立てられています。
普段はなかなか目にしないと思います(私が見逃しているだけ、という可能性は十分にあります)。
さすが大祭。
同じように、「五色幡」も掲げられています。
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↑で解説されています通り、道教思想に基づいたもので、「五色」はいわゆる「五行」に対応しています(緑に見えるのは「青」で、また黒ではなく「紫」の幡が用いられています……大陸では、「紫」というのは皇帝の色ですが……)。
『日本書紀』が、大陸の文献にかなりの影響を受けて書かれていることは周知の通りですが(いわゆる漢文ですし)、特に道教思想を重要視したと考えられているのが桓武天皇です。
といっても、「郊祀壇」という、大陸の皇帝が執り行ったものと似た儀式を行った、ということしか私は知りませんが。
いろいろ本が出ているので、いずれ勉強してみねば、とは思っています。
境内には「生姜塚」がありました。
珍しいと思います。
力石もあります。
祭りで巷に繰り出す神輿と獅子頭の準備も万端、でしょうか。
さて、神社のHPによれば、かつては「飯倉神明宮」「芝神明宮」などと呼ばれていたとのことです(以下、HPより引用)。
芝大神宮は、伊勢神宮の御祭神、天照大御神(内宮)、豊受大神(外宮)の二柱を主祭神としてお祀りしています。御鎮座は遠く平安時代、寛弘二年(1005年)一条天皇の御代に創建された由緒あるお社です。
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国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸名所図会. 巻1
↑の109コマから、「飯倉神明宮」の記事があります(引用にあたって旧字をあらためた箇所有り/判別不能文字は■で置き換える)。
「飯倉神明宮
同東の方神明町にあり。[割註]江戸名所記等に日比谷神明とあり、今俗間芝神明と称す」其旧地は増上寺境内飯倉天神の社地なりと、或云、赤羽の南小山神明宮の地なりとも。社司は西東氏[割註]名所記に、往古当社の神託宣ありしにより、相州足柄郡より斎藤氏なる人を招て神主とすと云々。」別当は金剛院と號す。其餘社家巫女等あり。
神鳳抄云 武蔵國飯倉御厨 当時四貫文
同書又云 飯倉御厨 長日 御幣五十丁
(略)
寄進 伊勢皇太神宮御厨壹處
在武蔵國飯倉
右志者奉為 朝家安 為成就私願 殊抽忠丹 寄進状如件。
[割註]按に当社を飯倉神明宮と称し奉るは、舊飯倉の地にありし故にしか称するなり。其地は正に三縁山、今の飯倉天満宮の社辺なり。飯倉と云は、往古此地に伊勢太神宮の御厨ありし故に、地名を飯倉と唱へ、又伊勢の御神と斉りしなるべし、猶飯倉の條下に詳なり。又東鑑に、同年正月武蔵國大河土の御厨を豊受太神宮の御領に寄附の事抔あれば、一国の内にもここかしこにありしなるべし。」
社記云、人皇六十六代一條帝の寛弘二年乙巳九月十六日、伊勢皇太神宮を鎮座なし奉る。[割註]其時神弊と大牙一枚此地に天降る。又此地の童女に神託ありて、彼二種のしるしをあらはして此地に跡をとどめ給はんとなり、依て当社を営み奉るとぞ。」其後建久四年癸丑、右大将頼朝卿下野國奈須野の原狩猟の時、当社の神殿に宝剣一振を納め、一千三百餘貫の美田を寄附ありて、其頃繁昌の宮居たりしに。遥に後明応三年、伊勢新九郎氏茂小田原の城主大森実頼を亡して後威を逞うせし頃、是が為に神領を掠とらる、依て宮社は霧に朽風に破れ、奉祀の人もなく大に荒廃したりしを。天正に至り四海昌平の御時、忝くも台命によつて当社の廃れたるを興し給ひ、神領若干を附せられ。又寛永十一年甲戌にいたり神殿を修造なし給ひしより、社頭舊観に復す、依神燈の光りは赫々として和光の月になぞらへ、利物の花ぶさは匂ひ深くして神威昔に倍せり。[割註]当社の祭礼は九月十六日なり、同じ十一日より廿一日に至るの間参詣群集す。商ひ物多きが中にも、藤の花を画きたる檜割籠、および土生姜殊に夥し、故に世俗生姜市又生姜祭とも唱へたり。江戸名所ばなしに、臼杵、木鉢、鮓、菓物多しとあれど今は是を鬻かず。檜割籠を俗にちぎと名づく、又生姜を売事は尤も久しきよりの事にて其據をしらず。」」
図絵は3ページに渡っていて、かなりのVIP待遇です。
その中には、参道にそって「大こく」「天王」「春日」「天神」「すハ」「いなり」「八まん」、本殿奥には「いなり」「不動」「弁天」などの祠が見えます。
「土生姜殊に夥し、故に世俗生姜市又生姜祭とも唱へたり」ということで、「生姜塚」があった理由がわかりました。
他にも茶店が出ていたり、芝居がかけられていたり。
今の観光地化した宗教施設とあまり変わらない印象です。
また、122コマの「飯倉」の記事では、
「飯倉
西窪の南を云。此地は往古伊勢太神宮の神厨の地たりし故に、其御饌料の稲を収めし倉を飯倉と唱へ、いつしか地名に呼けるなるべし。[割註]永禄(※1558〜1570)の頃、小田原北條家の臣大草左近太夫飯倉弾正忠太田新六郎島津孫四郎等此地を領せしよし、北條家の所領役帳に見えたり。同書に飯倉の内桜田とあれば、往古飯倉の地の広かりし事しるべし。又駒込吉祥寺に蔵する所の、北條家人遠山左衛門太夫政景、元亀二年江戸にて五十五貫六百八十五文の地を彼寺に寄附する状に、飯倉の地名ありて、此中三貫三百文は以前より箕輪大蔵が寄附せし地なりとあり。猶前の芝神明宮の條下にも、神鳳抄、東鑑等の書を引據とす。照合せて見るべし。」」
とあります。
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国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸叢書 : 12巻. 卷の貳
↑に収録の『江戸名所記』では、83コマに「日比谷神明」の記事があります。
「武州豊島郡飯倉日比谷邑の神明は、本朝の宗廟天照太神の宮所なり、人王六十六代一條院の御宇、寛弘二年きのとの巳九月十六日にあたりて、御神幣並に大牙一枚この地に降くだり給ふ、邑中の老少男女あつまりて、これいかさまにも神明のあまくだり給ふべきしるし成べしと、あやしみてまつる處に、いづくともしらず、年七さいばかりの女子その所にあゆみきたれり、たちまちにまなこの色かはりをどりくるひけるが、くちばしりていはく、吾はこれ神風や伊勢の内外両宮の神なり、これより東國にあたりて、軍の事ある故に、常陸の國鹿島の地に降臨し、その軍兵を退治しほどなく、帰座に及ぶ、われこの所に跡をとどめんとおぼしめす也、この故に二種のしるしをあらはして、まづ汝等に示す、はやく宮所をはじめておさめまつるべし、いかにもたうとみうやまはば末の世までもこのところさかえにぎはひてめでたかるべし、われまたまもりの神となりて、一夜るのおどろき画のさはぎ、悪事災難をば他方にはらひ、あめがしたおさまり五こくゆたかならん、相模の國のうちに、藤原氏のもの、斎藤氏のものあらん、これをまねきて神職の長となして、宮つかへさせよとて、神明あからせ賜へば、少女も跡かたもなくうせにけり、村中このきどくによりてうちをきがたく、まづ小宮をつくりて、御神幣と大牙を宮におさめ奉り、斎藤氏の人を尋ねしかば、相州足柄の内に、斎藤氏の人ありけるを、神明の御たく宣にまかせてまねきよせ、家をつくりて神職をつかさどらしめたり、霊験まことにあらたにして、いのりをたてまつる事、こころにかなはずといふことなし、かくて数百餘歳ををくりてのち、後鳥羽院の御宇建久四年みづのとのうし、右大将みなもとの頼朝卿、下野國奈須野にはつかうし賜ふとき、当地のうたつにいたつて、頼朝卿の帯賜へる御太刀の、みづからぬけて水底にしづみけり、水練のものをめして、これにおほせてさがしもとめさせらるるに更になし、ここにかたはらに人ありて申すやう、この川上に神明の宮どころおはします、そのうしろのかたに瀬ありて、水みなぎる水の底に物ありて光る、これさだめて尋ね賜ふところの御劔なるべしと申す、右大将きこしめしてかのをとこを案内者として、神明に御参宮あり、やがてうしろの瀬にして、太刀をもとめ得賜ひ、直に神明の御宝殿におさめ賜ふ、宮居は神さびてあとなくたうとくおぼしめして、御尊敬浅からず、一千三百餘貫の田をもつて神明に御寄附あり、それより社頭にぎはひつつ、次の年より神主、社僧、禰宜等の家々軒をならべて立つづき、神前の祈念をこたる事なく、香花灯明たゆることなし、貴賎老少あゆみをはこびいのりをかくるに、谷のひびきに応ずるがごとく、その利生むなしからず、そののち歳霜久しく重なりて、人王一百二代御土御門院の御宇、明応三年のころ伊勢の新九郎氏茂といふ人有、小田原の城主大森実頼を退治して、城をのりとりみづから北條新九郎と名のる、それよりいきをひおびただしく、あまねく関東を打したがへ、後には髪をそりて早雲と號す、此時にあたつて、当宮の御領をけずりとつて、禰宜神主社人等をのをの飢にのぞみ、宮居ことごとく大破に及で、霧に朽風にたをれ、修理するたよりをうしなふて、社僧宮司も方々にゆきちりて、只その跡ばかりわづかに残り、月を重ね年をつもりて、諸国乱世の折から打つづきて、おさまらざりしかば、そのづから参詣する人もなし、しかる所に正親町院の御宇、天正年中に、東照権現関東御領地の時にあたりて、絶たるをつぎすたれたるをおこし、神社仏閣いにしへの故ある所には、所領御寄附ましましけり、当社も宮領御寄附ありて、いにしへには似ずといへども、形のごとくの再興をいとなみ、両神主その外の社人等安堵の眉をひらき、やうやく神前にぎはひて、燈明の光り和光の月になぞらへ、利物の花ぶさ匂ひをほどこし賜ふ、寛永十一年きのえ戌、大将軍家光公、御信敬をもつて当宮御さいこうましまし、いにしへにかはらず、宮ゐ奇麗の修造有けり、諸人きそひあつまりてまうで来る事市のごとし、これによつて舊例にまかせ、年ごとの九月十六日に、神事祭礼をこなふ、かつうは天下安全の御祈祷のため、かつうは武運長久の御ために、臨時の神楽をおこなひ、四海太平五こく成就、萬民安穏の丹誠をいたすと也。
あまてらす ひかりはおなし 飯倉の 内外の宮居神さひにけり」
「御神幣並に大牙一枚この地に降くだり給ふ」という「大牙」っていうのは何のことでしょう。
形的に「勾玉」かとも思えますが、一枚という数え方もしないでしょうし……「大牙」なんて表現できる動物がいましたか……猪か、海象か。
「年七さいばかりの女子その所にあゆみきたれり、たちまちにまなこの色かはりをどりくるひける」とは、「神懸かり」の様子をなかなか写実的に捉えていると思います。
これが時代が変われば、「狐憑き」と呼ばれるようになる現象です。
「これより東國にあたりて、軍の事ある」というのは、何の戦のことなんでしょう。
「将門の乱」は寛弘年間より少し前ですし、「前九年・後三年の合戦」は1051年以降で、寛弘年間より50年近く後ですし、とすると「平忠常の乱」(1028〜31)辺りなのか 、それとももっと小さな争いだったのか。
ちなみに、寛弘二年といったら、「藤原道長」全盛期(ちょっと前?)です。
「常陸の國鹿島の地に降臨し」って、こんなことしなくても、鹿島の地には天神最強の「建御雷神」がいらっしゃるんですけれど。
この辺り、記紀神話の「国譲り」辺りを真似ている感じがしますね。
一方で、「相模の國のうちに、藤原氏のもの、斎藤氏のものあらん、これをまねきて神職の長となして、宮つかへさせよ」というのは明らかに「大物主神」の説話がベースにあるように思います。
しかも、ちゃんと見つかるんですよね(斎藤氏)。
うがった見方をすれば、
「よくわからないが、ヤバい神様がやってきたので、よそ者に祭祀させよう(うちの村は関係ないゼ、でもご利益はいただくゼ)」
みたいなノリを感じます。
となると、斎藤氏はこのために、どこやらから連れてこられた「人柱」みたいなものだったのかもしれません。
逆に、斎藤氏がこの辺りに流れてきて、地元の連中が「殺っちまった」ところ、祟りがあったので、こりゃヤバい、となったのかもしれません。
それにしても、源頼朝が刀を寄進までしているのに衰退するって、どういうことなんでしょう……ちょっと祟りが強すぎましたか。
そしてついには、「明応三年のころ伊勢の新九郎氏茂といふ人有〜北條新九郎と名のる〜髪をそりて早雲と號す」……「北条早雲」に社地を削られる、と。
元々「伊勢新九郎」を名のっていた(らしい)「北条早雲」に、「伊勢」の神様が領地をとられるなんてのは、悲劇というべきか、狙い過ぎというべきか。
……あ、すみません、「北条早雲」のことはほとんど知りません。
で、「寛永十一年きのえ戌、大将軍家光公、御信敬をもつて当宮御さいこうましまし」と書かれてしまうと、「金持ちの三代目ぼっちゃんは、懐に余裕が出ていろんなことするんだなぁ」と現代的な感覚で思ってしまいます。
というわけだニャン。
「芝大神宮」には、「だらだら祭り」というお祭りがあるそうなのですが(約十一日間も続くそうです)、眼病を患う人が参詣する「めくされ祭り」とも言われているそうです。
◯こちら===>>>
DSpace at 愛知教育大学: 鳥居清経画の草双紙(三) ―『神明遷宮生姜市最初』―
DSpace at 愛知教育大学: 鳥居清経画の草双紙(四) ―『神明遷宮生姜市最初』『新撰奥州古戦物語』―
↑で、鳥居清経という人が書いた黄表紙本について書かれています。
その中で、この神社で生姜を売るようになった理由が書かれていますが、何しろ黄表紙本(お話)ですから、信憑性はあやしいようです。
その他、『嬉遊笑覧』や『近世奇跡考』といった書物にも由来があるようです。
試しに『嬉遊笑覧』だけ当たってみましたが、目次を見る限りでは目当てのものにたどり着けそうになかったので断念(資料に嫌われると、記事なんか書いていられません)。
御朱印は頒布用のものしかありませんでしたが、大祭バージョンでした。
そして、知らずのうちに「東京十社」の六つ目参拝。
さて、芝まで来ているので、次は当然、「増上寺」です。
(※はてなブログの仕様が変わったらしく、以前と文字色が違っていますが、あまりお気になさらず)。