べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

ちょっとうろうろ(浅草名所七福神)

8/2。

続いての目的地は「吉原神社」なのですが、結構移動距離が長いので、辺りをうろうろしてみようかと。

 

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「石浜城址(石浜神社)

石浜城は、室町時代の中ごろ、武蔵千葉氏の居城となり、戦乱の世に百年あまり続いた城である。天正年間(1573〜1591)、城主千葉胤村(北条氏繁三男)を最後に、後北条氏滅亡の後、廃墟となったと思われる。石浜城の位置には諸説あるが、石浜神社付近は有力な推定地の一つとされる。

石浜神社は、聖武天皇の時代・神亀元年(724)の創建と伝える古社で、源頼朝・千葉氏・宇都宮氏らの崇敬を受けたという。江戸時代の夏越の祓(六月三十日)は、その壮麗さにおいて名高く、天保九年(1838)刊行の『東都歳時記』の挿絵に夏の風物詩として紹介されている。」

 

中世以降の歴史とか、城の歴史とかにほとんんど興味がないもので。

 

江戸・東京88の謎 (だいわ文庫)

江戸・東京88の謎 (だいわ文庫)

 

 

↑こんな本を読んで、江戸の知識をちょっと入れようと思っています。

 

さて、『伊勢物語』にも登場する隅田川ですが(引用に当たって字を改めた箇所あり/判読文字は■に置き換える)、

 

「(前略)なほ行き行きて、武蔵の國と下つ総の國との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。その河のほとりにむれゐて思ひやれば、限りなく遠くも来にけるかなとわびあへるに、渡守、「はや舟に乗れ、日も暮れぬ」といふに、乗りて渡ろむとするに、皆人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。さる折しも、白き鳥の嘴と赤き、鴫の大きさなる、水のうへに遊びつつ魚をくふ。京には見えぬ鳥なれば、皆人見知らず。渡守に問ひければ、「これなむ都鳥」といふをききて、

名にし負はばいざこととはむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと

とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。(後略)」

 

といった感じです。

wikipediaによれば、「都鳥」は、今の「ミヤコドリ」ではなく、「ユリカモメ」のことだという説が有力なようです。

都でもないのに「都鳥」とは、当時の武蔵国の人達は、どんな思いでこの鳥のことを読んでいたのでしょうね。

この話だけなら、

 

渡守「いや、この人達は都の方から来た人達だろうから、ちょっとからかってやろうと思って「都鳥」と言ったら、盛大に泣き出したので慌てましたよ実際」

 

みたいなオチでも面白いのですが。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸名所図会. 第3

 

↑の265コマから、「石濱」の記事があります。

 

「石濱

今橋場といふ。義経記に、治承四年九月十一日、(東鑑に頼朝隅田川を越えて武蔵國に入るを、十月二日とす。九月十一日と記せしはあやまりなるべし。) 、右大将頼朝卿、下総國より武蔵國へ打越え給ふとある條下に、石濱と申す處は江戸太郎が知行所なりと云々。(按ずるに、同書に、江戸太郎重長は八箇國の大福長者とあり。則ち重長は畠山庄司重忠の一族にして、其頃豊嶋郡江戸の地も、一圓に所領のうちなりしと見えたり。)其後千葉家の所領となり、代々是を知行せしなり。(永禄二年小田原北条家の古文書に、太田新六郎、同大膳亮所領の中に、千束石濱の名を■へたり。又木内宮内少輔石濱の今津を領し、或は會下寺(エカデラ)の領にも附するよし記せり。會下寺は総泉寺の事也。木内宮内少輔此地を領せし事は、石濱城址の許につまびらかなり。)」

 

「石濱城址

其地今さだかならず。事跡合考に、神明宮の北の方なりとあり。(按ずるに、亀戸普門院洪鐘の銘、隅田川鐘ヶ淵の事を挙げたる文中に、普門院古へは隅田河三股の城中にありと云々。普門院は則ち千葉自胤創立の梵刹にして、三股の地も又千葉家の所領たりし事は、小田原北条家の古文書に詳なり。三股と唱ふる地は、荒川綾瀬川の下流、隅田川に落合ふ川股の所故にかく名づくといへり。然る時は、事跡合考に記せし如く、神明宮の北の方その城址なるべき歟。) 鎌倉大草紙に云く、千葉介胤直、上杉憲忠に談はれ、父子兄弟共に一味して成氏に背く。(成氏は将軍左馬助なり。)ここにまた故千葉大助(満胤)が二男、陸奥守入道常輝父子、(其子を季胤と云ふ。)下総國馬加の城より打ち出で、成氏の味方となりて合戦。竟に享徳四年三月廿日、胤直敗北し、其子胤宣および千葉入道常瑞、舎弟中務入道了心等、悉く切腹す。よって陸奥守は千葉へ移り、千葉の跡を継ぎける。然るに上杉よりは、中務入道了心の子息、實胤、自胤二人を取立て、下総國市川の城に楯籠る。ここにおいて、千葉家二流となり、総州大に乱る。其頃京都より、東下野守常縁、陸奥守退治として、馬加の城へ馳向ひ、攻戦ふ。陸奥守かなはずして千葉へ引退く。(常縁は千葉介常胤の六難。東六郎大夫胤頼十世の孫なり。時に美濃國郡上の城主たり。京都将軍の命を受けて下総に下向す。)康正二年の正月、成氏、市川の城を囲む。同く十九日、落城して、實胤は武州石濱へ落行き、自胤は同赤塚へ移りける。其後上杉家より、胤直の一跡として、實胤を千葉介に任ぜしむ。されど成氏、陸奥守の子孝胤を贔屓ありて、千葉に居置かれける間、(孝胤は其父陸奥守入道常輝と共に、子胤直兄弟を亡し、成氏へ奉公の人にして、故成氏より千葉の跡を賜りしなり。)實胤は城へ入る事かなはずして、武州石濱、葛西辺を知行し、時を待ちて居たりしが、世の中を述懐し、濃州に閑居す。依て上杉家より、質胤の跡を兄の自胤に賜り、千葉介に任ず。是を武州の千葉と號す。(以上鎌倉大草紙の意を採る。)

南朝紀伝に云く、丙子康正二年三月、千葉の家も、成氏と上杉と相論ずるによつて二にわかれ、惟胤と園城寺の某武州に赴く。云々。(以下略)」

 

「橋場

今神明宮の辺より南の方今戸を限り、橋場と称す。旧名は石濱なり。(事跡合考にいはく、石濱の地今は汐入と唱ふると云々。)義経記に、治承四年庚子九月十一日、(東鑑に、同年十月二日頼朝太井隅田の両河を渡らるるとあり。太井は刀禰川の事にて、更級記にも出でたり。)頼朝公、隅田河を越えて、下総國より武蔵国へ赴き給ふ時、二三日の雨に、洪水岸を浸し、軍勢を渡し兼ねたりければ、武衛江戸太郎重長に仰せて、浮橋を係しめんとす。重長あへて諾はず。依て千葉介(常胤)、葛西兵衛(清重)両人、江戸太郎を助けんとて、知行所今井、栗川、かめなし、うしまどといふより(栗川、かめなし、うしまど、共に詳ならず)、海人の釣舟を数多登せ、江戸太郎が知行所なりける石濱に、折節西國船の著きたるを、数千艘集め、三日の中に浮橋を組みてければ、佐殿神妙なるよし仰せられ、太井、隅田を打越えて、板橋に著き給ふとあり。(隅田河、古へ海へつづき、海村なしり事は、義経記の文義にてもしるべし)。(以下略)」

 

……まあとにかく、戦国時代の関東地方の争いの舞台でしたよ、ということです(投げ遣り)。

 

「石浜神社」から吉原方面に移動する途中で、

 

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「史跡平賀源内先生墓」

 

◯こちら===>>>


平賀源内墓|台東区橋場にある観光名所

 

↑で紹介されていますが、元々は「橋場不動院」の裏手にあった、「総泉寺」というお寺にあったものだそうです。

結構広い道路の向こう側だったので、行きませんでしたが。

 

とかいいながら、

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↑の、右の方に書かれている「お化け地蔵」に惹かれて、行ってみました(明らかに途中で、源内さんの墓の近くを通っているんですが……)。

 

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「お化け地蔵

「お化け地蔵」の名には、かつて大きな笠をかぶり、その笠が向きをかえたから、あるいは高さ三メートル余の並はずれて大きいからなど、いくつかの伝承がある。

この辺りは、室町時代以来、禅宗の名刹総泉寺の境内地であった。門前一帯を浅茅ヶ原といい、明治四十年刊『東京名所図会』には、「浅茅ヶ原の松並木の道の傍らに大いなる石地蔵ありしを維新の際並木の松を伐りとり、石地蔵は総泉寺入口に移したり」とあり、「当寺入口に常夜灯あり、東畔に大地蔵安置す」とも記している。

お化け地蔵の台石によれば、この石仏は享保六年(1721)の建立、関東大震災で二つに折れたが、補修し現在にいたっており頭部も取りかえられている。常夜灯は、寛政二年(1790)に建てられた。

総泉寺は、昭和四年板橋区へ移転した。「お化け地蔵」近くにある「元総泉寺経済諸仏供養の為」の碑は移転に際し建てられたものと思われる。(略)」

 

ああ……ええ、想像していた「お化け地蔵」(妖怪「塗仏」的な?)と違っていましたが。

これはこれで、実際に見てみるとなかなかのものでした。

現代と違い、高い建物の少ない時代には、さぞ大きく見えたことだろうと思います。

 

既に午後の時間帯でしたので、この調子だと間に合わないかもしれない、と思い、急ぎ吉原に向かったのですが。

これがなかなかに遠い……。

 

やっとのことで、

 

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「吉原大門」の交差点。

 

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見返り柳

旧吉原遊郭の名所のひとつで、京都の島原遊郭の門口の柳を模したという。遊び帰りの客が、後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳のあたりで遊郭を振り返ったということから、「見返り柳」の名があり、

きぬぎぬのうしろ髪ひく柳かな

見返れば意見か柳顔をうち

など多くの川柳の題材となっている。

かつて山谷堀脇の土手にあったが、道路や区画の整理に伴い現在地に移され、また、震災・戦災による焼失などによって、数代にわたり植え替えられている。(略)」

 

この辺りが、あの「吉原」の大門だったんですね……といった感慨は全く浮かばないほどに、普通に町中でした。

まぁ、当たり前ですが。

 

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「旧浅草新吉原角町

元和三年(1617)幕府は日本橋葺屋町東側(現日本橋人形町二丁目付近)に江戸では唯一の遊郭開設を許可した。遊郭は翌年、営業を開始したが葭(よし)の茂るところを埋め立てて造ったことから、はじめのころは”葭原”と呼ばれた。そして寛永三年(1626)に縁起のいい文字にかえて吉原となった。明暦二年(1656)になると町奉行から、吉原を浅草日本堤へ移転するように命じられ、翌三年に移転した。それから、この付近は浅草新吉原と呼ばれるようになった。

日本橋に開設されたころの吉原は江戸町一丁目、二丁目、京町一丁目、二丁目、角町の五か町であった。そのうちの角町は寛永三年に京橋角町の傾城屋約十軒が移転してできた町である。」

 

「吉原」の「吉」は、「葭」の字を、縁起のいい文字にかえたんです。

ところで、「葭」というのは「葦」のことで、「アシ」が「悪し」に通じるので、「ヨシ」と呼ぶようになった、といわれています。

 

縁起のよい呼び方にしたのに、さらに縁起のいい文字にかえる、

 

という言霊信仰。

そんなことよりも、葭の茂るところを埋め立てて造った」、というのが江戸っぽいな、と。

江戸は元々湿地帯でしたから、あちこち埋め立てて作っているんですね。

あるいは、谷を削って、河の流れを変えて。

日本中で行われていたことでもあるのでしょうが、天下人のやることは規模が違いますね。

徳川家康入府前の武蔵野は、「豊葦原(豊かに葦の茂る野原)」と呼ばれた日本の原風景が残っていたのかもしれません。

 

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で、吉原の中を突っ切って行ったんですが……昼間から客引きのおじさん達がたくさん。

婦人科のクリニックが突然増える

街灯の柱に「よし原安全安心な街」と書かれている。

現代でも十分、異界な感じがしました。

昔の廓のように、区切られていない分、普通の街からの連続性にちょっとくらっときます。