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神社仏閣ラブ(弛め)

「鷲神社」(浅草名所七福神)

8/2。

「吉原神社」を後にしまして、千束の交差点方面に向かってしまい、次の目的地を一瞬見失いました。

国際通を三ノ輪方面に向かいますと、「鷲神社」が見えてきました。

 

◯こちら===>>>


浅草 鷲神社公式ホームページ - 「酉の市」起源発祥

 

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鳥居……ではないですか、門でしょうか。

 

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あやしいおっさんの影が写っておりますが、気にせず(引用にあたり、改めた部分あり)。

 

「浅草「酉の祭」「酉の市」起源発祥の神社

「おとりさま」・鷲神社と鷲大明神

 

鷲神社は江戸時代以前より此の地にまつられ、江戸時代は鷲大明神社と号し、開運を招き、強運にあずかる守り神として鷲大明神がまつられ、大明神と伝われるとおり神様をおまつりしてあります。

鷲大明神は天日鷲命と申され、開運・商売繁昌にあらたかな神として古くから崇敬されております。

その発祥は景行天皇の御代、日本武尊東夷征討の時、鷲大明神社(鳥の社)に立ち寄られ、戦勝を祈願し、志をとげての帰途社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、お礼参りをされました。その日が十一月の酉の日であったので、この日を鷲神社の例祭日と定めたのが「酉の祭」すなわち「酉の市」の起源・発祥です。

その後、日本武尊が併せまつられ、浅草「酉の祭」「酉の市」は次第に賑いを増し、酉の市に商われる縁起熊手も年毎に人気となり、江戸の庶民の春(正月)を迎える行事として益々盛大に華やかさを加えたのです。特に吉原遊郭の隆盛と共に賑い「吉原のおとりさま」とも云われました。

江戸時代からまつられている「鷲大明神」天日鷲命は、鷲の背に乗るお姿から「鷲大明神・おとりさま」といわれ、江戸の数々の火事、関東大震災、第二次大戦の戦渦にもお守りされ、三百年以上にわたり鷲神社に安置されております。天日鷲命は「東都歳時記」に”開運の守護神なり”とあり、日本武尊と共に福運・強運・商売繁昌・武運を司る神様として厚く信仰されております。

 

「酉の祭・酉の市」

歳末にあたり一年を神に感謝し、新年を迎えるにあたり福運を願う祭りである浅草「酉の市」は、江戸の昔の華やかさとその伝統を今に伝えると共に多くの善男善女の厚い信仰を集め、今に受け継がれております。

「酉の市」は江戸時代には「酉の祭」とよばれ、人と神が和楽する祭りを意味しております。

又、「市」は「斎く」で神様をお祭りするために「身を清めてつつしむ」ということです。

このように「祭」・「市」も本来は「清浄な神祭」を表しております。縁起熊手にも神社で使われる四手(紙で作った四垂れ)や神様を祭る場所であることを示す注連縄がつけられております。

この事からも「酉の市」の「市」は神社の御祭神と参詣する多くの善男善女の人々が共に和み楽しむ神社の祭を表しており、仏教・寺とは何のかかわりのない祭なのです。

江戸時代の「酉の市」は鷲大明神社(鷲神社)として開かれており、当時は神仏混淆といい神社と寺とが一緒に運営されておりました。別当長國寺(別当とは単に僧侶が神主を兼ねる僧職のこと。)は寛文九年に元鳥越より現在の所に移転して鷲大明神社(鷲神社)の別当となりました。

明治元年神仏分離令」が出され、鷲大明神社と長國寺は分離されることとなり、長國寺の別当を廃し、鷲大明神社は、社号を鷲神社と改め、当時の長國寺住職・田中常繁氏は鷲神社神主となり、本来の姿になったのです。

その後、長國寺は明治四十三年、それまでの山号の本立山を鷲在山と改めており、更に大正十二年の関東大震災後に南向きの本堂を鷲神社と同じ西向きに改めております。

このように「鷲大明神社」「鷲大明神」といわれるように「おとりさま」は神様をおまつりする神社であり、その御由緒により十一月の酉の日に「酉の市」が斎行され多人の参詣者が集い、鮮やかな感動をよび、人と祭りのふれあいを感じさせるのです。」

 

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鳥居。

鷲宮」の扁額。

 

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……扁額が横書きかぁ……。

 

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拝殿。

 

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おかめ。

 

◯こちら===>>>


御守り ミニなでおかめ - 浅草 鷲神社公式ホームページ

 

公式HPで「なでおかめ」と紹介されています。

面の起源は「アメノウズメノミコト」ではないか、と言われています。

そうすると、相方の「ひょっとこ」さんは、「サルタヒコノカミ」でしょうか。

「ひょっとこ」は「火男」とも書かれますね。

「口から火を吹く」、わけではなく、「口で火を吹く」ことの寓意だと思います。

「火を起こす」か、「火の番をする」か、いずれにしても、金属加工(製鉄)に関係があるのではないでしょうか。

そうすると「おかめ」は何でしょうね。

wikipediaによれば、「「おかめ」の名称はそれほど古くない」らしいです。

狂言で用いられる「乙御前」の面が原型だろう、ということですが、いつの間にかそれが醜女の役どころになった、と。

とすると、どちらかというと「イワナガヒメ」ですか……踊りませんか。

 

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境内には、樋口一葉に関係する碑がいくつかありました。

 

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これが例の「熊手」ですね。

 

さて、案内板にもありましたが、元々は別当だった「長國寺」がすぐお隣にあります。

 

◯こちら===>>>


浅草 酉の寺・鷲在山長國寺

 

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「浅草「酉の市」発祥の寺

「酉の寺」・鷲在山・長國寺と鷲妙見大菩薩

 

当山は江戸時代、寛永7年(1630)に日乾上人によって開山されました。山号を鷲在山、寺号を長國寺と称し、法華宗(本門流)の寺です。宗祖を日蓮大聖人として開運招福の守り本尊である鷲妙見大菩薩が安置されています。

開山当時より、鷲妙見菩薩の御開帳が11月酉の日に行われ、多くの参詣者を集めて門前に市が立つようになりました。それが浅草「酉の市」の発祥です。

長國寺の門前市であった浅草「酉の市」は、吉原などの隆盛とともに賑わいを増し、市で売られる縁起熊手等も持て囃され、江戸庶民にとっては春を迎えるための欠かせない行事となりました。鷲妙見大菩薩は、七曜の冠を戴き宝剣をかざして鷲の背に立つお姿から「鷲大明神」「おとりさま」と呼び親しまれました。また「絵本江戸土産」では「破軍星」とも言われ、開運招福・商売繁昌・武運長久の御利益を授ける尊仏として厚い信仰を集めてきました。1年の無事に感謝し、来る年の幸いを願う「酉の市」は江戸時代から続く伝統と文化を今も変わらずに受け継いでいます。

当山長國寺では明治初年の神仏分離令で「酉の寺」長國寺の一部が新たに鷲神社として分割されましたが、現在も11月酉の日には多くの善男善女を集めて鷲妙見大菩薩の御開帳の法要を行ない「酉の市」を開いております。」

 

まぁ、何といいますか……

 

 

「元祖対本家」

 

の争い、でしょうか。

こちらの「鷲神社」は、『江戸名所図会』には掲載されていないんですね。

 

◯こちら===>>>

鷲神社 | 錦絵でたのしむ江戸の名所

 

↑錦絵になっているくらいなので、繁昌していた様子がうかがえますが。

『江戸名所図会』の選択基準はどこにあったのか、という研究を誰かがしてくれているのではないかな、と思います。

そこまでは、私には踏み入れません。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 東都歳事記 4巻付録1巻

 

↑の51コマに、「十一月の酉の日」のこととして、「下谷田圃鷲大明神社」の記事があります。

 

……。

…………。

………………。

 

いや、さすがに、手書きの文字は私には読めませんよ……。

公式HPでは、

 

「……「東都歳時記」には、酉の日・酉の祭、下谷田甫鷲大明神社当社の賑へることは、今天保壬辰(1832)より凡そ六十余年以前よりの事、とあり、宝暦・明和年間(1750~60)にはすでに酉の祭は相当な賑わいで、それ以前から年中行事として行われていたことがわかります。……」

 

とあります。

いろいろ検索してみると、

 

◯こちら===>>>

東都歳事記5巻

 

↑では何と、読み下し文(※誤記もあるかもしれないので注意してね)まで表示してくれるという親切設計素敵滅法でした。

というわけで、ここで該当の箇所の読み下し文を引用してみますと、

 

「下谷田圃鷲大明神社 

別当長国寺。世俗しん鳥といふ。今日開帳あり。近来参詣群集する事夥し。当社の賑へる事は、今天保壬辰より凡五十余年以前よりの事とそ。粟餅いもかしらを商ふ事葛西に同じ。熊手はわきて大なるを商ふ。(以下略)」

 

公式HPでは、いくらか略しての引用だったようです。

それほど略して問題があるとは思えませんが、「元祖対本家」の争いがあるとなると、印象操作は重要ですから。

とはいえ、世俗しん(新)鳥といふ」とか近来参詣群集する事夥し」とか葛西に同じ」とあるように、どうやら発祥と思われる「鷲(大鳥)神社」は別にあるみたいなんですけれども。

そちらもうかがう機会があるでしょうか……。

 

 

さてさて。

祭神天日鷲神(あめのひわしのかみ)」は、記紀神話に登場します。

一書ですが、「天岩戸」の部分で、「天照大神」を岩戸の外に出すべく神々が策を練る中で、「粟国(あはのくに)の忌部の遠祖天日鷲が作ける木綿(ゆう)を懸(とりし)でて」と書かれています。

そのすぐ後に、同じく忌部の祖である「天太玉命」の登場シーンがあるので、それにくっつけて挿入された感はありますが。

同じく、「国譲り」の部分の一書では、天日鷲神を作木綿者(ゆふつくり)とす」とあります。

阿波の忌部が、「木綿」や「麻」により布(繊維)をつむぐことを得意としていたことを示しているようです。

で、「日鷲」が何なのかは、よくわからないらしいです。

「神魂命(かみむすびのみこと)」の末裔とされる「天日鷲神」ですが、同じく賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)」も「神魂命」の孫だといわれています。

この、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)、『古語拾遺』や『新撰姓氏録』を見てみると、どうも八咫烏のことじゃないのか、と思われるようで。

元々、太陽の中に住むと言われている三本足の烏(金烏)が大陸辺りから伝わった「八咫烏」ですから、「日鷲」だとしてもおかしくないわけで。

あるいは、「神武天皇」が「長髄彦」を射つ際に、弓に止まったという「金鵄(きんし)」は、明らかに太陽の化身だと考えられますので、これも「日鷲」でもおかしくない、と。

だとすると、あとは、原初の信仰ではかなり象徴的な存在だった(はず)のに、「木綿を作る」というかなり地味な役割を負ったのかという検証ですが……阿波の国がそれに向いていた、ということでしょうか。

元々は、忌部系の人々の信仰だった「太陽の鳥」と、忌部系の人々の生業だった「繊維加工」が並列されているだけ、という、何となくあっさりめなお話なのかもしれません。

ところで、長國寺の本尊である妙見菩薩は、本来「龍」に乗っているようです。

それが「鷲」に乗っていた、ということは、この辺りに「天日鷲神」への信仰があったのではないか、と思われます。

日本武尊」も、大きな鳥とは縁が深いですし。

順番としては、

 

1)「天日鷲神」信仰

2)「日本武尊」東征による信仰

3)仏教流入で取り込まれる

4)「天日鷲神」、「鷲妙見菩薩」に習合

5)「酉の市」が流行する

6)神仏分離

7)神社とお寺、それぞれが「酉の市」の発祥を主張

 

という流れでしょうか。

 

 

 

、真に受けないでくださいね。

 

 

「浅草名所七福神」としては、寿老人

……はて、何ででしょうか。

妙見菩薩」は、北極星の神格化とされていますから、同じく「南極(老人)星」の神格化である「寿老人」をまつっていた、ということでしょうか。

うーん……。

 

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そして、振り返ればが……。

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日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

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古語拾遺 (岩波文庫 黄 35-1)

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日本の神様読み解き事典

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