5/17。
北区まで来ているので、ぶらぶらともう少し回ってみよう、と思いまして。
「味鋺」は、一発で変換できますが、名古屋でもかなりの難読地名だと思います。
「味鋺神社
平安時代初期の宮中の年中行事や制度などを記した『延喜式』に載る「春日部郡味鋺神社」にあたるとされる格式の高い神社である。
江戸時代後期に編纂された『尾張名所図絵』には、神社の図と共に流鏑馬などを行っていた祭の賑わいが詳しく記されている。平安時代から始まったと伝えられている流鏑馬神事は第二次世界大戦で途絶えたが、御輿渡御は今も祭の折に行われている。
宇摩志摩遅命のほか六神を祀ることから六所明神とも呼ばれた。」
「式内 味鋺神社(元郷社・現六等級)由緒略記
鎮座値 (略)
御祭神 宇麻志麻治命(可美真手命(うましまでのみこと)・味間見命(うましまのみこと)) 味𩜙田命(まじにぎたのみこと)
由緒
創立年月日は不詳なれど、第六十代醍醐天皇御代(901〜930)にまとめられた延喜式神名帳に、尾張の国春日部郡、味鋺神社と記載されている古社である。物部氏の祖となる宇麻志麻治命は、我が子、味𩜙田命と共に、物部一族を率いて皇城の守護にあたり大政に参与する。
その子孫が、美濃・尾張・三河地方に発展し、ことに尾張地方の勢力は大きく、一族の遺跡と称されるものも少なくない。
春日井市味美にある二子山古墳、古来この山上に、物部天神があり可美真手命を祀っていた。現在は山上に白山神社が物部天神と合祀して建てられている。白山神社は、現楠味鋺五丁目にあった白山薮古墳より遷座されたと伝えられている。この白山薮古墳より、刀剣・鉾・武器類が出土している。(現在京都博物館に保管)
この一帯は味鋺の原で、俗に百塚といわれた程多くの古墳があった。このことから物部氏族の蟠踞していた遺跡であると考えられる。
物部氏族が祖先を祀り、平和と繁栄を祈った物部天神 味鋺神社は、おそらく尾張に於ける物部氏最初の氏神であったであろう。
味鋺の流鏑馬は寛治七年(1093)京都で競馬の神事が催されたのが始まりである。神前より南堤防までの馬場を数回、馬に乗って、矢を天に向けて射る。此の矢を拾えば疫病をしないと、見物の人々が競って矢を拾う勇壮な神事であった。
最初は、豊作の年に限り行われていたが、非常に経費がかかるので、大豊作でないと行われなくなり、第二次世界大戦が始まると、中止の状態となり今日に至る。
現在の社殿は平成四年に改築され現在に至る。」
なるほど、予備知識のないまま来ましたが。
「宇麻志麻治命」が御祭神でしたか。
「物部」氏というのは、物部守屋が有名ですが、どうも古代においては軍事面で勢力を誇ったようです。
なので、「この白山薮古墳より、刀剣・鉾・武器類が出土している」のです。
何しろ「モノ」を司っていますから。
もちろん、「モノ」にはいろいろな意味がありますが。
「物部」の古墳は、いざ、というときに、武器を使えるように保管しておく「武器庫」のような役割をしていたのかもしれないですね。
どっかで聞いたことある話ですが、出典が思い出せません(関裕二氏だったかな……)。
ところで、
「此の矢を拾えば疫病をしないと、見物の人々が競って矢を拾う勇壮な神事」
ここだけ読むと、「勇壮か?」と疑問に思ってしまいますね。
それから、
「非常に経費がかかるので、大豊作でないと行われなくなり」
↑これって、なかなか凄いことのような気がします。
普通「祭」って、特殊神事から一般的な神事に遷移していくものだと思うのですが。
金がかかるから、超特殊神事にした
っていう、この世俗な感じが、何だかいいですね。
「清正橋
この橋は、味鋺神社より南西約100メートルの溝に架けてあった石橋を、土地改良事業のため、昭和五十三年(1978)四月に移築されたものである。
名古屋城築城の折りに、加藤清正の命により架けたと伝えられているので「清正橋」と呼ばれているが、地元の人々は「石橋」とよんでいた。
往時、稲置街道は、この橋を渡り庄内川の堤防に出て味鋺の渡しを経て成願寺村—名古屋へと通じていた。
稲置街道(犬山街道・小牧街道)とは、東大手門—清水の坂—杉村—東志賀—安井—矢田川の渡し—成願寺—味鋺の渡し—味鋺清正橋を渡り護国院の西北を通り小牧—犬山—中山道へ。
稲置と名古屋とを結ぶ重要な街道、尾張藩が開いた藩道で
、参勤交代の際利用し中山道を経て江戸へ至った。」
ちなみに我らがwikipediaには、「古墳の石室を使ったのではないか」といった説も書かれていました。
天下普請、名古屋城の石垣をご存知の方ならお分かりでしょうが。
加藤清正の運んできた巨大な石に比べると。
小さくない?
というのが正直な感想です。
誰かが勝手に名前付けたんじゃないかなぁ……地元じゃ「石橋」ですものね。
蕃塀。
舞殿か、神楽殿か。
拝殿。
平成四年に改築されただけあって、何というか、趣に欠けますな。
もうちょっと、何とかやりようがあったのではなかろうか……。
拝殿脇を通って、本殿横へ。
流造一間かな。
勢い境内から出ちゃいましたが。
小さなお社が。
戻って戻って。
五穀豊穣に感謝して、豊作の年に限り行われた神事である。
神前より南の堤防まで馬で走り一人三本の矢を東の空に向かって射ること数回繰り返した。
「この矢を拾えば疫病をしない。(家族が健康で過ごせる)」と。
見物の人々が競って、矢を拾う勇壮な神事であった。
しかし、昭和十三年を界として中止の状態となり、今日に至っている。
味鋺の流鏑馬が初めて行われた年代は、さだかではないが、尾張藩士画家 高力猿猴庵作の、尾張年中行事絵抄(1800年前後)には、流鏑馬神事の様子が描かれている。
五穀とは、米・麦・粟・きび・豆類」
我々の想像する、歴史の教科書や便覧に載っていたり、所々の神社で行われている「流鏑馬」は、馬に乗って走りながら的を射る、というものが多いです。
多分これらは、武士達が日常の武芸の鍛錬としての「流鏑馬」から来ているものです。
こちらの「流鏑馬」は、
空に向かって矢を放つ
という点で、明らかに実用的な意味のないものですね。
「天に唾する」ではないですが、空に向かって矢を放つというお話は、神話時代にはいろいろと見られるようです。
日本神話の場合は、「天若日子(アメノワカヒコ)」という神が、神に授けられた弓矢で、神から使わされた雉を射殺したところ、高木神(タカミムスビノカミ)が天からそれを打ち返して、「アメノワカヒコ」は死んでしまう、というものです。
「邪なものを射た矢であれば、当たるな。邪心があれば、アメノワカヒコに命中しろ」、との呪いが込められていたのです。
いろいろと象徴的な意味があるのでしょうが。
要するに、
罰が当たる
んですね。
落ちてきた矢が、誰にも当たらないとしたら、それは「邪なものを射た矢ではない」ので、「邪気を払う」力を持つ、という呪術でしょうか。
境内末社については、パノラマってみました。
「ここにまつられています社は、明治になって、まつるようになった社もあります。
昔からまつっていた地区の人々によって、現在も祭礼が行われています。
主な御祭神とご神徳
熱田社 日本武神 開拓・諸事繁栄
日神社 天照大神
金刀比羅社 大物主神 人々に光明と福徳を与える
山神社 大山祇神 五穀豊穣・農耕守護
稲荷社 倉稲魂神 農耕守護・殖産の神
秋葉社 火迦具土神 防火・食物を炊く火の神 農耕守護・焼畑工作
洲原社 菊理姫神 家族調和・農耕守護
津島社 須佐之男神 疫病退散 農耕守護
ご祭神のご神徳は、濃厚にかかわる神々をおまつりしていることがわかります。
農作への祈りと、農村『味鋺』の豊かな人々の結びつきが強く感じられます」
ま、少々無理矢理な感じもありますが、農耕国家はどこの国でも、こういった加護を求めるものでしょう。
さて、
◯
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第10編尾張名所図会
↑こちらの56コマから、「味鋺」に関する記事があります。
「味鋺村
小牧街道の村落にして、国君御参府御帰国等、木曽路を通らせ給ふ時の官道にて、農家長く軒をならべたるが町屋のごとし。[延喜神名式]又[本国帳]に味鋺とかけるが本字なるを、中むかしより鋺の字を鏡に誤りて、[沙石集]に尾張国味鏡といふ所としるし、康正二年造内裡段銭双国役引付に、十貫文、玉泉寺領尾州味鏡分段銭と見えたるが如く、諸書に誤りしるし、当村天永寺の古縁起には鏡の池といふ霊池ありしゆゑ、味鏡山と名けしよしさへ附会してかきとどめたれば、世の人多くどひたりしを、国君源明公
よくおもほしあきらめ給ひて、正しく古きに復すべしと命じ給ひしかば、おほやけにも私にも其まどひをはるけぬ。」
「源明公」というのは、九代藩主「尾張宗睦」のことのようです(享保十八年(1733)〜寛政十一年(1800)……wikipediaより)。
尾張徳川家というのはどうも、御三家筆頭と言われながら、将軍を出したことのない不遇の家系でして。
七代宗春の頃には、八代将軍吉宗の怒りを買って、宗春は蟄居を命じられました(名古屋城三の丸から出ることを禁じられたので、「三の丸」といえば宗春のことを指した、らしいです)。
古代から東西の要衝、中世はぱっとしませんでしたが、戦国時代には織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、の三人の天下人を生んだ土地なんですが……今ひとつ、重んじられていない、と。
その恨みが、未だに名古屋人は内向的だ、なんて言わせているのかもしれません。
ま、尾張っても名古屋だけじゃない、というのが他の尾張人の本音でしょうけれど。
味鋺村にあり、今六所明神と称す。[延喜神名式]に味鋺神社、[本国帳]に従三位味鋺天神と見えたる官社なり。祭神は大日孁尊・日本武尊・建角見命(たけつぬみのみこと)・天児屋根命・武甕槌命・誉田天皇の六所なり。神輿殿・拝殿・鳥居等あり。末社白山社・神明社・金毘羅社・神宝太刀三振・鉾四本・鏡一面・弓三張あり。
例祭 八月二十九日。味鋺川の側にある御宿院へ神幸あり。其次第は榊・獅子・鉾・弓等を持ち行き、次に子供、笛太鼓にて路楽を真似たり。各々鳥甲を着す。これを子供伶人といふ。神輿の跡より、若き者陣羽織を着し、兜鍪(とつばい)頭巾をかむりて三人、裃・鉢巻の一人供奉す。馬は引かせ行くなり。神輿還幸ありて後、各馬場にて騎射あり。夫よりさまざまな曲騎をなす。[鹽尻]に、凡諸社神形の数をもつて幾所といふ事ことに多し。当所の社人に聞き侍れば、神形は六躯ありといふ。されば社号をわすれ、只六所の明神とのみ称するか云々と見えたり。
神主 松岡氏。」
……物部の「も」の字もないなぁ……。
普通に考えれば、冒頭の由緒書にあったように、別のところにあった(はず)の物部天神から引っ張ってきたのか。
あるいはここから物部の祖神が引っ張られていっちゃったので、別の神を祀ったのか。
うーん……やはり。明治の神仏分離の頃に、何かあったと考えるべきでしょうか。
お祭の様子は、恐らく「流鏑馬」なのでしょうが、現代に伝わっているのと少々感じが違いますね(例祭になっているので、豊作のとき限定の「流鏑馬」のことではないような気がします)。
ふうむ、どうやら、「物部天神」の方も行ってみないといけないようです。
※御朱印は、いただいておりません。いただけるのかな。神職さんのお手を患わせるのがどうも苦手で……。

- 作者: 大林太良,吉田敦彦,青木周平,西条勉,寺田恵子,神田典城,佐佐木隆
- 出版社/メーカー: 大和書房
- 発売日: 1997/06
- メディア: 単行本
- クリック: 1回
- この商品を含むブログ (3件) を見る