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伊勢妄想3

さてさて。

 

QED 伊勢の曙光 (講談社ノベルス)

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当ブログは、基本的に人のふんどしで相撲を取るブログです。

それはともかく。

本日(2014/3/26)、今上天皇陛下・皇后陛下が、伊勢神宮行幸されました。

行幸とは言わんのか。

剣璽を携えての伊勢参拝、ということでニュースにもなっております。

そして、もちろん、「外宮」から参拝されています。

皇室においても、「外宮先拝」なのですねぇ。

 

さて、今回の妄想は、

 

(17)何故、二十年に一度、遷宮を行うのか。

 

こちらでございます。

神宮最大の謎、と言われています。

ところで「遷宮」自体は、他の神社でも行なわれていたそうです(三十九社で式年遷宮を行なっていたらしい……『伊勢神宮天皇の謎』より)。

しかし、元祖は神宮だったようですし、中世の中断を経てもなお営々と繰り返されていることは、特筆に値するものでしょう。

そして、『伊勢神宮天皇の謎』には、著者・武澤秀一氏の前著書『伊勢神宮の謎を解く』に描かれた内容として、

 

伊勢神宮は、いうまでもなく皇祖神アマテラスの住まいである。それは皇祖の神威を象徴するものであった。その輝かしい神威を目に見えてあきらかにするために、社殿は常に新しく、若々しくあらねばならない」

 

とあります。

常若(とこわか)を示すことが、皇統の正しさ・偉大さを示すこと、なのです。

一理あるというか、非常に説得力があって、ほぼ間違いないでしょう。

 

それだけではつまらないので、ここから妄想です。

日本書紀崇神紀には、伊勢神宮と大倭神社の起源として、

 

「是より先に、天照大神・倭大国魂(やまとのおほくにたま)、二の神を、天皇の大殿の内に並祭る。然して其の神の勢を畏りて、共に住みたまふに安からず。故、天照大神を以ては、豊鍬入姫命に託けまつりて、倭の笠縫邑に祭る。仍りて、磯堅城の神籬を立つ。亦、日本大国魂神を以ては、渟名城入姫命(ぬなきいのいりびめのみこと)に託けて祭らしむ。然るに渟名城入姫、髪落ち体痩(やすか)みて祭ること能はず」

(※当ブログ筆者による大意:以前から、天照大神と倭大国魂の二柱の神を、天皇の宮殿で並べてお祀りしていたが、その神威を畏れて、共に住むのは安心できない。天照大神は、豊鍬入姫命に託して倭の笠縫邑に祭った。磯堅城(非常に強固な石)の神籬を建てた。また、倭大国魂神は、渟名城入姫命に託してお祭りしたが、渟名城入姫命の髪は抜け、体は痩せてしまって、お祀りすることができなくなった)

 

また、垂仁紀(二十五年三月)には、

 

「一(ある)に云はく、天皇倭姫命を以て御杖として、天照大神に貢奉りたまふ。是を以て、倭姫命天照大神を以て、磯城の厳橿の本に鎮め坐せて祠る。然して後に、神の誨(をしえ)の随に、丁巳の年の冬十月の甲子を取りて、伊勢国の渡遇宮(わたらひのみや)に遷しまつる。是の時に、倭大神(やまとのおほかみ)、穂積臣の遠祖大水口宿禰に著りたまひて、誨へて曰はく、「太初の時に、期りて曰はく『天照大神は、悉に天原を治さむ。皇御孫尊は、専に葦原中国の八十魂神を治さむ。我は親ら大池官を治さむ』とのたまふ。言已に訖りぬ。然るに先皇御間城天皇、神祇を祭祀りたまふと雖も、微細しくは未だ其の源根を探りたまはずして、粗に枝葉に留めたまへり。故、其の天皇命短し。是を以て、今汝御孫尊、先皇の不及を悔いて慎み祭ひまつりたまはば、汝尊の寿命延長く、復天下太平がむ」とのたまふ。時に天皇、是の言を聞しめして、則ち中臣連の祖探湯主(くかぬし)に仰せて、卜ふ。誰人を以て大倭大神を祭らしめむと。則ち渟名城稚姫命(ぬなきわかひめのみこと)、卜に食へり。因りて渟名城稚姫命に命せて、神地に穴磯邑(あなしのむら)に定め、太市の長岡岬を祠ひまつる。然るに是の渟名城稚姫命、既に身体(みみ)悉(ことごとく)に痩(やさか)み弱りて、祭ひまつること能はず。是を以て、大倭直の祖長尾市宿禰(ながおちのすくね)に命せて、祭らしむといふ。」

(※当ブログ筆者による大意:ある文によれば、(垂仁)天皇倭姫命を憑代として、天照大神に捧げられた(中略)このとき、倭大神が、穂積臣の祖先である大水口宿禰に神ががかって教えるところによれば、「原初、(イザナギイザナミ二神が契って)『天照大神は天上を治めよう。天孫は、葦原中国の神を全て治めよう。私は、自らこの国の地主神を治めるように』とおっしゃった。ここでお言葉は終わった。先代崇神天皇は、天神地祇をお祭りしたが、その根元を探ることなく、枝葉を走るに留まった。そのため、先代の命は短かった。今の代の天皇は、先代の及ばなかったことを悔い、慎んでお祭りすれば、その寿命は長く、天下は太平だろう」とおっしゃった。天皇は、中臣連の祖先・探湯主に命じられて、占いをした。誰に大倭大神を祭らせればよいか。渟名城稚姫命がよい、と占いには出た。よって、渟名城稚姫命に命じて、神地を穴磯邑(大和国下郡穴師坐兵主神社のあるところとされる)に定めて、大市の長岡岬にお祀りした。しかし、渟名城稚姫命は、体は痩せて弱り、お祀りすることができなくなった。そのため、大倭直の祖先・長尾市宿禰に命じて、祭らせたという)

 

とあります。

何を言いたいかというと、

 

天照大神(皇祖神/太陽神)と一緒に祭られていた、倭大国魂大神(地主神)という神の神威があまりに凄すぎて、お祀りしていた姫命の髪は抜けるわ、体は痩せるわ、そりゃもう完全に祟りでしょう」

 

ということです。

ところで、崇神記の方で、

 

「然して其の神の勢を畏りて、共に住みたまふに安からず。」

 

とあるのは、一見主語がよくわからないので、

 

「並んでお祭りされた、天照大神が、倭大国魂大神の神威を畏れて、一緒に住みたくない」

 

と言ったようにもとれます。

が、通常は、崇神記ですので、断りがなければ崇神天皇を主語とするべきのようで、

 

崇神天皇が、二柱の神の神威を畏れた」

 

と解釈されます。

だからこそ、その後の文章で、二柱の神を宮殿外に出した記述が並記されているんですね。

 

で、ですね。

倭大国魂大神の神威というのが、髪は抜ける、やせ細る、ほとんど

 

放射能汚染

 

クラスのすさまじいものなわけです(実際には、この頃疫病が流行っていたので、姫命はそれにかかっていた、と解釈するのが正しいかもしれません)。

ということは、同じく祭られていた天照大神の神威もまた、同レベルだったのではないかと考えられます。

だから、倭の笠縫邑に遷されたときは、

 

「磯堅城の神籬」

 

を建てたんですな。

放射能をシャットダウンできるくらいの隔壁を持った原子炉、というイメージです。

前回の記事で、

 

「正宮の周囲が五重(外宮は四重)もの玉垣で囲われている」

 

というのが、かなりがっつり「固めた」なぁというイメージだったのは、こういった理由があったのではないか。

つまり、

 

「五重の隔壁で防御しなければならないほど、すさまじく強い神威だった」

 

と。

 

ここで「遷宮」です。

必死の思いで作った強固な隔壁もですね、経年劣化は免れない。

しかもそれはただの経年劣化ではなく、「天照大神の神威」により「汚染」されたものなのです。

そこで、定期的に隔壁を新しく作り直して、漏れだす「神威」を防ぐ必要があったのではないか。

遷宮」を必要としたのは、皇祖神の神威を一目瞭然とするためではなく、

 

そのくらいのサイクルで作り直さないと、「神威」を防げるかどうか不安だった

 

からではないか、という妄想です。

 

 

 

まぁ、無理矢理ですけれどもね〜。

というわけで、妄想「遷宮」編はここまで〜。

もうちょっと妄想しま〜す。

 

 

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