更新が滞っておりますが、『MHX』で炭鉱夫に忙しいわけではありません……考えがなかなかまとまらないもので。
さて。
多田先生に再びご登場願いまして。
「九州地方で言う河童の方言に、ヒョウスベというものがあり、「兵揃(ひょうぞろえ)」もしくは「兵主部(ひょうすべ)」などと書かれる。菊岡沾涼の『諸国里人談』(一七四三年刊)には、
「ひやうすへは兵揃にて所の名なり。この村に天満宮のやしろあり。よつてすがはらといふなるべし」とある。
天満宮とは、天満大自在天神(菅原道真)を祭神とする社で、筑前(福岡県北西部)太宰府で亡くなられた道真公を祀る太宰府天満宮の分社の総称で、かつて太宰府天満宮境内に、「兵主部」を祀る祠があった。
人や馬を溺れさす河童を、かつて菅原道真が助けてやったことがあり、その礼として「菅原」の姓の者には、害をなさないという約束をかわしたという。そのため「菅原」の名を聞くと、かつての約束を思い出すと信じられた。
またその類似の伝承として、『落穂余談』では、その昔、三河国(静岡県西部)の設楽某という力持ちが河童を捕え、これを殺そうとしたところ、河童は助けてくれればこれ以後は一族一党を水難から守ることを約束し、その証文の代りに、
「ヒョウスヘは約束せしを忘るなよ川立ち男氏は菅原」
という呪歌を教えたという。設楽氏はもとは菅原姓であったとされる。」(p194)
「佐賀県武雄市の潮見神社は、河童の主人であるという渋江氏を祀っている。その渋江氏の奈良時代の祖先に兵部大輔島田丸という者がいて、奈良の春日社の工匠の奉行をつとめた。河童誕生の由来譚にもなっているが、当時の内匠工が人手をほしがったことから、たくさんの藁人形をこしらえ、これに秘法の加持を行って生命を吹きこみ、これらを加勢させて春日社の大工事を成就させたという。工成して後に人形たちを川に捨てたのが河童となり、人を害するようになった。これを兵部大輔島田丸が鎮めたので、河童を兵主部(兵部大輔を主人とする子分)といったそうだ。」(p196)
「この兵主(蚩尤)が日本に伝えられたのは古墳時代の頃で、朝鮮半島南東部の新羅からの渡来豪族である秦氏によると考えられている。兵主神が製鉄、武器製造の軍神であったことを裏づけるかのように、この社が鎮座する「穴師(あなじ)」という地名は金属採掘された場所を示しているという。土師氏は埴輪を製造していたが、その埴輪を焼く竃は、タタラの鉄の溶鉱炉に応用することも可能であったとも考えられるそうだ。蚩尤を製鉄、武器製造の守護神とし、角觝戯(蚩尤戯ともいう。相撲の前身)が好きであったという故事から、兵主神(蚩尤)を祀る穴師坐兵主神社の神域に、相撲神社を建立したと推論できる。」(p201)
「兵主部とは、この兵主の眷属(魑魅魍魎)という意味でもあるのだ。河童を眷属としているといわれる祭神には祇園信仰の牛頭天王があるが、この神もまた頭が牛という半牛半人の姿で表現される。そもそも河童除けの歌の由来が、祇園信仰の「蘇民将来」の厄除けの由来と、そのストーリー構成が似ているのである。」(p201)
「ひょうすべ」という妖怪についての解説なのですが、これだけで「穴師坐兵主神社」と「相撲神社」の謎のほとんどが解けてしまうのではないか、と思っちゃうほど簡潔明瞭です。
前回書いた、「土師氏」から「菅原氏」が出てきた、という歴史と、「土師氏」の昔の職域(葬祭、古墳作り、埴輪作り)の組み合わせがやがて、「菅原道真」と「河童」と「相撲」をつなげたものと考えられます。
「当時の内匠工が人手をほしがったことから、たくさんの藁人形をこしらえ、これに秘法の加持を行って生命を吹きこみ、これらを加勢させて春日社の大工事を成就させたという。工成して後に人形たちを川に捨てたのが河童となり、人を害するようになった。これを兵部大輔島田丸が鎮めたので、河童を兵主部(兵部大輔を主人とする子分)といったそうだ。」という伝承は決して古くないでしょうが、「埴輪」作りの「土師氏」が持っていた技術と重なるところがあるように思います。
「土師氏」の場合は、人型埴輪ではなかったかもしれませんが、殉葬の代わりに「埴輪」を作ったのですから、立派な人形でしょう。
本来、人の代わりだった「埴輪」(人形)が、無用のものとなり捨てられる。
同時に、「土師氏」の職能も捨てられる。
捨てられたものは、「河童」になる。
「河童」といえば、様々な伝承の集合体ですが、一つにはいわゆる「賎民」を表しているという説があります。
「河原者」という言葉があります。
文字通り「河原にすむ人」なのですが、一種の「賎民」でした。
被差別民ではありましたが、様々な技術を持っていて、季節とともに山から下りてきて、村の人といろいろなものを交換した……というと完全に三角寛の「山窩」ですね……河原にいるときは「河童」、山にいるときは「山童」、と呼ばれていたのではないか、と。
無用となった「土師氏」の職能が捨てられるのと同時に、「土師氏」そのものも捨てられたのかもしれません。
「菅原」などになれなかった「土師氏」は、そうやって歴史の闇の中に消えていく……と見せかけて、ひっそりと生き残ったのではないか……。
しかし、相撲を取るのが好きな「河童」ですが、何しろ「菅原道真」公の先祖は、古代最強の相撲取り「野見宿禰」ですから、さすがに敵わないだろう、ということなのでしょう。
まあこれは実際には、中世以降に作り出された「職人由来書」とかを下敷きに考えられたものかもしれないので、とりあえずそんな説もあるかも、というところで。
↑の垂仁天皇二十五年条(場面としては、「倭姫命」が「天照大神」と放浪して伊勢にたどり着くところ)の「一に云はく」として、
「時に天皇、是の言を聞しめして、則ち中臣連の祖探湯主(くかぬし)に仰せて、卜ふ、誰人を以て大倭大神を祭らしめむと。即ち渟名城稚姫命、卜に食へり。因りて渟名城稚姫命に命せて、神地を穴磯(あなし)邑に定め、大市の長岡岬を祠ひまつる。然るに是の渟名城稚姫命、既に体悉に痩み弱りて、祭ひまつること能はず。是を以て、大倭直の祖長尾市宿禰に命せて、祭らしむといふ。」
とあります。
「大倭大神」というのは、宮中で「天照大神」と一緒に祀られていた、もう一柱の「祟る神」ですね。
「倭大国魂神」ともいわれますが、その名前から「大国主神」や「大己貴神」、「大物主神」と同一ではないかとも考えられたりします。
その「神地を穴磯(あなし)邑に定め」、という認識があった、ということです。
「安師(あなし)の里 土は中の中である。
右、安師と称するのは、倭[の国]の穴无神(あなしのかみ)の神戸として奉仕した。だから穴師とよぶ。」
とあり、また脚注で、
「倭の穴无神 大和国城上郡に穴師に坐ス兵主ノ神社(神名帳9がある。大国主命あるいは素戔嗚命・大物主神などを祭ったとされるが、アナシは西北風をいう言葉で方言に残っており、航海者の嫌う突風となる。霊格は風の神(柳田国男説)で、水軍の守護神となる。あるいは鉄山関係の神とも考えられる面もある。その神社の雑用を弁ずるのが神戸である。」(p135)
とあります。
○こちら===>>>
↑より引用します。
「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
あなじ
あなじ
「あなじ」(あるいは「あなぜ」)といって、「西日本で吹く北西の冬の季節風」として残っているようです。
また、「あなし」には「痛足」という字をあてる場合があったようで、
○こちら===>>>
痛足河、河波立ちぬ 巻目の 由槻が嶽に 雲居立てるらし/桜井市ホームページ
「痛足河 河波立ちぬ 巻目の 由槻が嶽に 雲居立てるらし(柿本人麻呂)
(あなしがわ かわなみたちぬ まきもくの ゆつきがたけに くもいたてるらし)
解釈:穴師川に川波が立っている。巻向山の由槻嶽に雲がわきあがっているらしい。」
↑という有名な歌があります(……私は知りませんでしたが)。
なぜ「あなし」が「痛足」と『万葉集』で書かれているのか。
製鉄においては「踏鞴を踏む」ことが重要だったのですが、「鞴(ふいご/送風のたための道具)」が生まれる前の製鉄は「野だたら」といわれ、自然風を利用していました。
つまり、風の名前としての「あなし」が、やがて「鞴」が生まれたことで「踏鞴を踏む」ようになり、そうすると足にダメージを受けます。
そのことから、「痛足」という字をあてて「あなし」と読むようになったのではないか、と(私は今、思いつきましたが、多分昔から)言われています。
実際に穴師に製鉄の痕跡があるのかどうか、私は知りませんが(<おい)、製鉄を象徴する名前がつけられたと考えれば、やはり「穴師坐兵主神社」は製鉄の神であり、その点では「蚩尤」を想定しているとしても不思議ではなさそうです。
そこで、「蚩尤」とはなんだろう……と思っていたときに発見したのが、
↑という本でした。
まだまだ続きます〜……というか、終わりが見えない……。