8/26。
盆休みがなかったので、遅めの夏休みをいただきました。
三連休だったわけですが、まあいろいろありまして……歯医者とか……で、気合いを入れて月曜日、朝から出かけることにしました。
車で遠出、というのをあまりしたくないのですが、そうも言っていられないので、車で、三重県方面、相変わらず何となく混んでいる東名阪自動車道をくぐり抜けて、たどり着いたのは伊賀国一宮。
「敢国神社」です。
◯こちら===>>>伊賀一宮 敢國神社 | 三重県伊賀市の歴史ある神社です。
駐車場より。
曇りなのが残念。
よーく見ると、「表参道」と書いてあります。
ということは、「裏参道」もあるわけです。
二つの参道の間に、森や池がある、というなかなか珍しい立地環境のお社です。
表参道を進みますと、左手に句碑が。
「手ばなかむおとさへ梅のにほひかな ばせを」
ばせを?
……。
……。
……あ、芭蕉か。
俳句に才のない私でも、面白みのわかる一句ですね。
貯水池の水門のハンドル、でしょうか。
何となく、面白かったもので。
表参道途中にある「市杵島姫(いちきしまひめ)社」。
赤い……。
御祭神は、「市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)」。
「天照大神」と「素戔嗚尊」の誓約(うけい)の際に生まれた、宗像三女神の一柱です。
「イチキ」とは「斎(いつき)」、つまり清浄な、聖別された、といった意味です。
聖なる島の姫神、ということですね。
何で赤いのか、は、恐らく安芸の宮島「厳島神社」の影響ではないか、と思われます。
あちらも、宗像三女神を祀った神社なのですが、何故か名前は「イツクシマ」。
どうやら、宗像三女神中の主役は「市杵島比売命」のようです。
宗像三女神の本拠は、福岡県の宗像神社です。
いつか行ってみたいところではありますが……。
さて、三女神、住吉三神と同じように、海の神、航海の神として尊崇を集めています。
「航海」、「三」とくると、いろいろかじった人間は、「そりゃオリオン座の三ツ星のことを指してるんじゃネェのか?」と言い出すと思います。
私もですが。
これは、それぞれが別の一族の伝承からとられているからだ、と解釈するといいかも知れません。
記紀神話をまとめるころには、どちらも航海の守護神になってしまっていたわけで、どちらかを削ることができなかった、と。
あるいは、他にもオリオン座の三ツ星っぽい三つの星があるのかもしれません。
……浮かびませんけど。
参道はそれほど長くはありません。
案内図を見ていただくと、面白い配置だということがわかるでしょうか。
二本の参道、そこから直角に折れ曲がって社殿へ。
……怨霊?
多分、地形の問題だとは思います。
あ、「市杵島姫社」、括弧して「弁天社」って書いてある。
そう、「市杵島比売命」は、「弁財天」と習合しているのですね。
で、仏教の神様なのに、神社。
日本はそういう国ですので、あまり気にしないで〜。
立派な朱塗りの鳥居。
社殿への階段を鳥居越しに。
灯籠が、ちょっとモダン。
「敢国大社」。
不躾に、かなり覗かせていただきました。
奥の額に、御祭神が書かれています。
かなり立派な拝殿+祝詞殿。
鈴を鳴らす綱についている布は、仏教ぽい気がします。
神仏分離前はどのようなお姿だったのでしょうかね。
「桃太郎岩」。
「古伝によりこの桃太郎岩は今を去る五百五十年前南宮山頂からお遷し申し上げ、安産及び子授けの守護の霊岩として全国各地より信仰をあつめて居ります。(後略)」
南宮山の頂上には浅間社が祀られており、そこから遷したということで、「木華開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)」の御霊威(安産)が籠っているようです。
……なんで桃太郎?
「コノハナサクヤヒメノミコト」の花は、桃だったんでしょうかね。
さて、拝殿脇から裏参道の方へ行きますと、末社が並んでいます。
「若宮八幡社」。
「子授け神」。
一気に適当になったような気がしますが、むしろこのくらいの脱力感が、往時の人々の心持ちだったのかもしれません。
「むすび社」。
結構な石段で。
「楠社」を示す石柱。
写真を取り忘れておりますが、割と近年再建されたお社があったと思います。
楠木正成公をお祀りしているんでしょうね。
こちらが「むすび社」。
……誰をお祀りしているのかわかりません。
が、とにかく縁結びの神、です。
普通に考えると、大国主命辺りではないかと思うのですが……。
「むすび社」から、何とか本殿を覗こうという無駄なあがき。
「むすび社」から戻りまして、「神明社」。
「大石社」。
……なんなのかさっぱりわかりません。
どうも、wikipediaによると、御祭神は「須佐之男命」と「金山比古命」らしいのですが……。
……。
……。
うん、多分、「牛頭天王社」だったんだろう。
終了〜。
なんとなく残念な、鯱なのか鮪なのか……。
さて、御祭神は三柱、「大彦命(おおひこのみこと)」、「少彦名命(すくなひこなのみこと)」、「金山比咩命(かなやまひめのみこと)」。
このうち、「大彦命」が主神となっております。
孝元天皇の第一皇子である「大彦命」は、息子の「建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)」、「吉備津彦命(きびつひこのみこと)」、「丹波道主命(たにわのみちのぬしのみこと)」とともに、「四道将軍」として各地に派遣されました(派遣したのは崇神天皇)。
「大彦命」は北陸を平定し、息子の「建沼河別命」が東海を平定、二人は東北の地で再開しますが、それにちなんでこの地を「会津」と呼びます。
父「大彦命」が北陸を、息子「建沼河別命」が東国(伊勢……伊賀・志摩を含む、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、上総・下総、常陸、陸奥)を守ったということになるそうです。
後に「大彦命」は伊賀の国に住んだそうです。
その子孫は阿拝(あえ)郡を中心に住んだので、「阿拝」氏を名乗り、それが「敢、阿閉、阿部、安倍」といった「あべ」氏の祖先となりました。
東海北陸地方には、この「大彦命」の子孫が多数いた、ということになりますな。
一方で、「少彦名命(すくなひこなのみこと)」は、「大国主命」が出雲・美保崎におられたとき、海から天之羅麻船(あめのかがみのふね)」に乗って流れてきた神です。
蛾の衣服をまとい、その名前から、小人のように描かれることの多い神です。
「大国主命」とともに国土経営に力を発揮されたので、その御神威を得ようとしたのか、旧日本領台湾の神社に祀られていたりします。
「大国」と「少彦」の対比にも何か意味があるように思います。
社伝によれば、この神は、当地に住んでいた「秦氏」に奉じられており、今の南宮山頂上に祀られていましたが、神社創建の際に麓にお遷ししたのだそうです。
「スクナヒコナノミコト」は、記紀神話によれば「神産巣日神(かみみむすびのかみ・古事記)」の御子神、あるいは「高皇産霊神(たかみむすびのかみ・日本書紀)」の御子神、ともされています。
この二柱は、「造化三神」のうち二柱で、「天御中主神」がかなり影が薄いのに対して、特に「タカミムスビノカミ」は、さまざまな指示を神々に出します。
正体がよくわかりませんが、高天原においては実権を握っていたのでしょう。
その神の御子神が、「外界」から出雲に流れ着き、渡来人の「秦氏」の崇拝を受けていた、と。
よく意味がわかりませんよね。
ひねくれて古代史を語るなら、記紀神話成立の頃には、実態として勢力を誇っていた「秦氏」の正統性を印象づけるために、その氏神である「スクナヒコナノミコト」をねじ込んだ、ということでしょうか。
「秦氏」は養蚕にも深く関係していると言われ、「スクナヒコナノミコト」が「蛾の衣装」を纏っていたことには、それを暗示する意図があったのではないか、とも言われています。
で、もう一柱の「金山比咩命」ですが、元々は美濃国の南宮社に祀られていた神で、こちらに勧請してきたのだそうです。
南宮山の山頂が「空いて」しまったので、その穴を埋めるため、です。
南宮山は、美濃国の南宮社にちなんだ名前ではないかと、社伝にあるようです。
山頂に祀られていた「金山比咩命」が麓に遷されたのは、977年(創建から319年後)に、「金山比咩命」の社殿が揺れて、神木に虫食いの痕で文字が浮かび(一種の神託ですな)、その内容に基づいて「大彦命」、「少彦名命」と御相殿することとしたそうです。
何を意味する伝承なのかが今ひとつわかりません……。
ところで、「大国主命」と「少彦名命」はペアで語られることが多い神ですが、「大彦命」と「少彦名命」の対比と似通っていると思いませんでしょうか。
元々、この地には「大国主命」が祀られており、それがいつの間にか「大彦命」に駆逐された、とひねくれ古代史ファンは考えたりもするのです。
妄想するだけなら、無料ですから。
いや、山の中から生まれ出るような社殿といい、謎めいた御祭神といい、魅力的な神社でございました。
宮城きよなみ、という三重の俳人(明治の人らしいです)の句碑もあります。
「知る人乃あるかや伊賀の 唄」
……「唄」の前の文字が読めません……残念。

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