べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「正悦山妙行寺」「太閤山常泉寺」

1/19。(※20141206追記)

豊国神社に出向いたので、近隣の寺も回っておこうの巻。

まずは、近くの「正悦山妙行寺」

 

日蓮宗正悦山妙行寺===>>>

http://www.myougyouji.jp

 

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HPから引用しますと、

 

「当寺は日蓮宗正悦山妙行寺といい、昔は此の地より二丁程東方にありて、正起山本行寺といい真言宗の大伽藍地なり。永人二年日蓮宗の僧日像菩薩京都弘通の為御通行の折受法し、日蓮宗に改宗す。その後堂宇悉く消失し、年経て天文年間日勢上人正悦山妙行寺と改め再建す。今の山号寺号これなり。

慶長十五年加藤清正公、家康公の命に従い諸大名と共に名古屋城築城の折、その余材と普請小屋を貰いうけて、妙行寺を清正公誕生の地に移し、ご先祖ご両親の菩提をとむらう為に再建す。」

 

 

ということのようです。

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「清正公大霊祇」という幟が立っています。

他に用法を知らない言葉ですね、「霊祇」。

日蓮宗独自の言葉なのでしょうか。

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そういえば、私、近世の仏教についてよく知らないんですよねぇ……。

中世の仏教、についてももちろんよく知りませんけれど。

日蓮宗には、特にご本尊の仏像はないんですかね。

勉強しないといかんですね……。

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洗心殿には観音様がいらっしゃいましたが。

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清正公誕生の地を示す碑や、

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清正公の銅像がありました。

地元の檀家さんの信仰は厚いようで、この日もお参りにきていた人が何人もいらっしゃいました。

住所が「字木下屋敷」というのが、また歴史を感じますねえ(多分、次の常泉寺の側にあった、木下長嘯子宅跡が由来なんでしょう)。

 

 

続いて、「太閤山常泉寺」

 

日蓮宗太閤山常泉寺===>>>

http://www.jousenji.or.jp/index.html

 

HPから引用しますと、

 

「当山は、始め豊国大明神の廟堂として、慶長中肥後守加藤清正・開山圓住院日誦上人とで創建されました。御神体は豊太閤の肖像束帯唐冠(長さ二尺余り)で木食興山上人の彫刻です。始めは大阪城にあった御神体を清正が秀頼公にお願いして此地に鎮座し奉りました。正殿拝堂及び廊門巍々玲籠として東海地方では壮観な寺院仏閣と言われております。又正殿の一宇を営み秀吉の宅跡を以て太閤山と号し、古井戸は同公産湯の瑞水で涸れることのない名水の清泉が湧き出るので常泉寺と名づけられ、廊堂の別当としました。」

 

 

ということのようです。

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今ではこの辺りで秀吉ゆかりと言えば惑うことなく「豊国神社」なのですが、この常泉寺や妙行寺があったからこそ、この地に神社を創建したわけですね。

そんなことは誰も教えてくれなかったなぁ……。

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当然ですが、紋は「五七の桐」ですね。

 

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秀吉さん……どうしても、何となく、小物感があるのは、「次男」っぽいからですかねえ……。

あ、いえ、長男・信長さん、末っ子・家康さんだとするとですが……「だんご三兄弟」みたいな。

あだ名が「猿」というのもだめなんでしょうねぇ……。

 

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秀吉公御手植えの柊もあります。

子供の頃の記憶だと、秀吉だけでなく、信長が産湯をつかったお寺がこの辺りにあったと思うんですが……勘違いでしょうか。

記憶違いでしょうか。

 

前回、今回の中村公園周辺の史跡はこちらを参照にどうぞ===>>>

http://www.city.nagoya.jp/kyoiku/page/0000010622.html

一通り歩くと、ちょっと運動した気分になれる距離でした。

 

(▽20141206追記)

さて、追記ということで、

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

↑の260コマから、中村についての記事があります(引用にあたって旧字をあらためた箇所有り/判読不能文字は■で置き換える)。

 

「太閤山常泉寺

同じ村にあり。日蓮宗、萱津村妙勝寺末。元和九年十月十二日、圓住院日誦の開基なり。此地秀吉公の誕生の跡なる故山号とす。境内に太閤手づから植ゑ給ひし狗骨樹(ひらぎ)ありて、今に繁茂す。その外公の事跡甚多し。本堂は今廃して太閤堂のみのこれり。

太閤堂 秀吉公の木造を安置す。

寺宝 秀吉公画像(容貌甚古雅にして[集古十種]にも出せり。又古作の木像もあり。

太閤吉野山花見記[天野信景の寄附。松平薪太郎源光政主の眞蹟にて、奇代の珍書なり。其他宝物公の用ひ給ひし盃等の古器甚多し。毎歳八月二十日開扉ありて庶人詳聚す。]

扁額 太閤堂に掲くる大額にして、百年外の物なるが、詩筆共に見るべし。されど更に名字を題せず、何人の作なる事をしらねど、久しく諸人の目に触れし所なれば、左に記して以てこれを博す。(略)」

 

 

「狗骨樹(ひらぎ)」……なんだこの樹、と思ったら「柊」でした。

すごい字を当てますね。

「集古十種」というのは、wikipediaによれば、「江戸時代に刊行された木版図録集」だそうです。

 

◯こちら===>>>

集古十種 - Wikipedia

 

最終的に全85冊になったそうで……ある一部の人間は、本当に記録マニアですね。

そのおかげで、歴史を楽しんだりできるので、感謝しかないのですが。

尾張におけるその代表者が、天野信景」さんです。

 

扁額に書かれていた文章は略しましたので、気になる方は各自ご確認を。

 

 

263コマには、

 

「正悦山妙行寺

同村にあり。日蓮宗、萱津妙勝寺末なり。往古は真言宗にして、正起山本行寺といふ。然るを後代にいたり、日蔵上人に帰依して当宗に改む。其後星霜を経て、天文年中日勢上人再興ありて、寺山の號を今の如く改む。

本尊 法華三宝

清正堂 近年肥後国熊本本妙寺より伝はりし木像を安置す。常に参詣たえず。取りわけ月毎の二十四日には、府下及び遠近の貴賎羣集せり。

寺宝 清正画像二幅[一は上下を着せし像にして、上に『浄地院殿永運日乗大居士』とあり。一は束帯の像にして、左右に『前肥州太守浄地院殿日乗大居士、予時慶長第十六辛亥林鐘下旬四、日遥■』とあり。此日遥筆の像は[集古十種]にも載せて、普く人の知る所なり。

秀吉公書簡 細川晴元書簡 天猫釜 古瀬戸茶入 兜の前楯 片鎌鑓[巳上四種は加藤清正所持の品] 鰐口[大永五年乙酉歳、法華堂大宝寺常什と銘あり。] 曼荼羅[元和元年孟冬中旬、僧日遥の筆。日遥は朝鮮国の王子にして、清正朝鮮征伐の時、彼地にて擒にしつれ帰りしが、生長の後出家し、世に高麗日遥といひて名高き僧なり。] 此外数多あれどこれを略す。(略)」

 

 

「日遥は朝鮮国の王子にして、清正朝鮮征伐の時、彼地にて擒にしつれ帰りしが、生長の後出家し、世に高麗日遥といひて名高き僧なり。」というのは、「文禄の役」のときのことですね。

奈良時代以降の日本史全滅の私には何ともよくわかりませんので(酷)、

 

◯こちら===>>>

日本の武将と朝鮮の少年 - 紀行歴史遊学

 

↑検索してヒットしたページです。

清正公が半島から連れてきたという人達について書かれています(こういった先達の丁寧な事跡を、さらっとつまみ食いするかのようにリンクを貼ることが精一杯……)

李氏朝鮮では、仏教弾圧が激しかったようですが、その国の人が日本で出家するというのはどんな心境だったのでしょう。

ま、心境も何もないでしょうか。

「イギリスに連れてこられて、仕方なくキリスト教に改宗しました」、というような話かもしれません。

 

260コマには図絵もあり、今とほぼ変わらない二つの寺の位置関係がよくわかりますので、ご確認を。

(△20141206追記)

 

 

神社と比べて、お寺って入りづらいですよね(大きな寺は別ですが)。

もっと入りづらいのは、日本にある教会とか修道院。

さらに入れないのが、日本にあるモスク。

チベット仏教の寺院とかも……。

 

それにしても、日本史に弱いなぁ……いろいろと勉強しなおしたいものです。