べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「吉田城趾」辺〜豊橋ちょっとぶらり旅〜(愛知県豊橋市)

2/24(二年前だよおっ母さん……)
たまにはちゃんと県内に出かけねば、と思い立ち、豊橋まで行ってみました(計画性ゼロ)。
とりあえず、「吉田城」趾に行ってみよう、ということになりました。

 

◯こちら===>>>

www.city.toyohashi.lg.jp

 

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案内板。

 

「吉田城ははじめ今橋城と称し、永正2年(1505)牧野古白によって築城された。
以来東三河の要衝として今川・武田・徳川ら戦国武将が攻防を繰り返した後、天正18
年(1590)に池田輝政が入封し15万2千石の城地にふさわしい拡張と城下町の整備が行われた。しかし輝政は在城10年で播磨姫路に移封され、のちに入封した大名は譜代ながら少禄のため輝政によって大拡張された城地も未完成のまま明治に至った。」

なかなか切ない……。

 

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「舊藩祖 豊城神社」、だそうです。

 

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鳥居。

 

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……「神武天皇銅像……急に……。

どうやら、日清戦争の戦勝記念碑の上に建てられていたもののようです。
行き場所がなかったところを、こちらに遷されたようです。

 

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まだ日の若い時間帯に見ると、よい雰囲気です。

 

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……なんだろう、空堀だったかな。

多分、空堀だと思いますが、椿っぽい花を写真に撮りたかったような気もします。

 

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石垣。
裏御門跡です。

 

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本丸井戸跡。

 

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松がなかなか立派だったので。

 

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石垣〜。

 

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石垣〜〜。

 

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城の裏手、豊川に降りる辺りの、北御多門跡の石垣。
何か刻まれているのです。

 

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先ほどの北御多門跡から豊川に降りてきて、鉄櫓を見上げた感じの、石垣。
何か刻まれているのです。

 

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かなりの高低差。

 

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見上げた石垣越しの鉄櫓。

なかなかなカーブです。

 

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野面かな……城の規模と財政状況と石の大きさには何か関連性があるのでしょうか。

 

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わりと小さい石が積まれている気がします。

 

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それほどカーブしていない。

 

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鉄櫓の中に入ることができます。
中は、撮影禁止だったかな……。

 

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あ、でも、「池田輝政」の顔出しパネルはありました。
復興天守……天守ではないか、櫓なので、鉄筋でしょうかね。
中は博物館のような展示がなされていました(多分)。

 

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鉄櫓からの風景。

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……さっきも見た気がする石垣。

 

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こちらもまた何か刻まれているので探して見てくださいのコーナー、だったかな。

 

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おっと案内板がありました。
どうやら吉田城には、「徳川三代将軍家光までが江戸から京都への往来の途中に宿泊した本丸御殿」があったようです。
松平家から城主を迎えていることから、普請が可能だったようですね。
三河は松平発祥の地ですからね。

 

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城の案内板。

 

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しつこく石垣……空堀だったかな、ここも。

 

というわけで、まだまだ城も石垣も戦国時代も江戸時代も未熟者なので、好きな感じに写真を撮影しただけになっております。
以下は、次の目的地への移動の途中で撮影した写真。

 

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豊橋公園入り口にあった、警備員さんの詰所ですかね……何か可愛いので。

 

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豊橋公園入り口。

 

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豊橋市公会堂。
国の登録文化財になっているようです。
中には入っておりません。

 

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鷲は舞い降りた……えっと……ハメットじゃないな、それは『マルタの鷹』だ……あ、鷹なのかも……。

 

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こちら現役の鷲。

 

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昭和初期の雰囲気は、悪くないですよね。

 

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ドームも良い。

 

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鷲、アップ。

 

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御城印。
確かこのときは、美術博物館で購入したんじゃなかったかと思います。

 

さて。
江戸時代の文献まで遡るのはなかなか大変、なので昭和初期辺りの刊行物はいかがかと。

 

◯こちら===>>>

豊橋市市制施行二十年誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

この辺りから参りましょう(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
208コマです。

 

「吉田城趾
現在の歩兵第十八聯隊衛戍は即ち吉田城趾にして豊川の清流に臨み宝飯、八名の平野を一望に収め老松古木亭々として天を摩す永正二年牧野古白が築く所初め今橋城といひ後吉田城と改む、永禄八年酒井忠次拡張修築を加へ天正十八年池田輝政東参に移封せらるるの後更に拡張したるも明治四年廃藩の後其外郭を壊ち酒井氏の旧に復す面積凡そ三万七千七百坪を有す。
牧野古白築城後牧野戸田両氏争闘の衝に当り二氏迭に此城に主たるもの三十年然る後駿河の今川氏の管する所となり、城代を置きて之を戍るもの又三十年、永禄七年徳川家康之を収め其将酒井忠次をして主たらしむ、天正十八年豊臣秀吉家康を関東に遷し池田輝政を東三に封じて当城に居らしむ慶長六年関原役後家康再び之を収め、爾後徳川氏譜代小牧の治城となり松平氏(竹の谷)松平氏(深溝)水野氏、小笠原氏、久世氏、牧野氏を経て大河内氏に至り、更に本荘氏を経て寛延二年再び大河内氏此に治し以て廃藩に至る。」

 

なるほど……。
あ、同じ本にですね、

 

「豊城神社 八雲ヶ岡にあり、大河内氏の祖、源頼政並に松平伊豆守信綱を祀る。本社は元元禄七年信綱の孫松平信輝が下総古河城にありし際、城中にありしものにして、正徳二年信輝の子信祝移転と共に之を移せしが、廃藩置県後度々移転して、明治二十五年五月東八町八幡神社の傍に移し更に其後此地に移転したるものなり。」

 

とありました。
「吉田城二ノ丸中ニ建設アリシが其後移転」ということも一覧に書かれているので、時系列がよくわかりませんが、ともかくご祭神は「源頼政」と「松平信綱」ということです(案内板を見落としたかな……)。

 

◯こちら===>>>

東三河道中記 : 豊橋市及其附近案内 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑語り口の軽妙さがそのまま文章になった感じの旅行記ですが、さくっと読むにはこちらのほうがいいのかも。

 

◯こちら===>>>

豊橋市史談 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

豊橋の歴史が書かれていますが、大正年間の刊行ですので、いろいろと問題もあるかもです。
おおよその歴史を概観するにはいいのではないかと思います。

 

というわけで、豊橋ちょっとぶらり旅〜。

初詣

さて、ちょっといろいろ飛ばして、今年の初詣の記事を。

ひさびさの、「城山八幡宮」です。

 

◯こちら>>>

https://bennybebad.hatenablog.com/entry/2013/01/30/221730

 

8年前か……いや、ちょくちょく行ってますけども。

 

https://bennybebad.hatenablog.com/entry/2017/04/12/215902

https://bennybebad.hatenablog.com/entry/2018/12/30/221318

 

まあ、近いのです……。

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いつのまにか、空堀の案内が……。

 

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いい天気だったなあ……。

 

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思った以上に人がいまして、ギリギリ狙って撮影しています。

まだオミクロンがそうでもなかったですから。

 

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こんな案内まで……かつてはここ、鬱蒼とした木々に隠れて遠くまで見られなかったのですが、今やスカイタワーが……観光地にする気だな……いやしかし、「織田信行」の居城でしたからな……かつてこんな風景を見ていたのかもな、と想像したりすると楽しいですし、良い眺望でした。

 

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遠景。

 

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気づかなかったのですが、「大峯山行者堂」なんてあったんですね……駐車場の脇です。


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何となくのお稲荷さん。

 

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「末森城趾」ですよ、と。

 

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スマホを変えて、初の昭和塾堂。

 

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空堀〜。

 

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というわけで、まだまだお正月な感じの「城山八幡宮」でした。

 

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えー、御朱印の種類がめっちゃありました……色紙は正月限定だったかな……書き置きでいただきました(正月期間は、書き置きが基本でした)。

 

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まさかの昭和塾堂も……。

 

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ここからは、御城印、というのかな……「末森城」の縄張りの大判のやつと、ベーシックなやつ。

 

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花押入り、何故か「織田信行」をもらっていない……(あったんですがね……)。

 

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織田信長」の母「土田御前」と、戦国一の美女「お市の方」と。

「つちだごぜん」か「どだごぜん」か、どっちなんでしょうな……。

 

というわけで、御朱印集めの方にも大満足な場所になっていました「城山八幡宮」。

名古屋在住の方も、そうでない方も、一度お立ち寄りを〜。

謹賀新年

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毎年、年末年始はアクセス数が多くなります。

初詣の参考にでもしていただけていれば幸いです。

記事は全然進みませんが、オヒマナラキテヨネ、の精神で、今年もあんまり頑張りません。

どうぞみなさま、幸多き年になりますように。

 

※次回はそろそろほったらかしの豊橋の予定です※

「成子天神社」(東京都新宿区)

1/19。
「新宿十二社熊野神社」の参拝を終え、誕生日会まで間があったので、もう少し……と思ってうろうろしていたら発見、「成子天神社」

 

◯こちら===>>>

www.naruko-t.org

 

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参道の先に朱塗りの鳥居が待ち構え。

 

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なんか、奥までつっきったら、「木花咲耶姫命」の像が。
そのお隣は「浅間神社」です。

 

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富士塚があるそうで。

 

大正九年(一九二〇)八月に、成子天神社境内にあった天神山という小山に富士山の溶岩を配して築かれたもので、区内で最後に築かれた富士塚です。高さは約十二メートルあり、区内では最大規模となっています。塚の北側には浅間神社の小祠があります。
富士塚は、江戸時代中期より、江戸庶民の間で盛んになった富士信仰の遺跡です。同業者を中心に富士講が組織され、神社の境内に模造富士を築いて崇拝しました。
成子天神社の富士塚は、柏木・角筈地域(現在の北新宿・西新宿)の人々を中心に組織された丸藤成子講が奉祀していたもので、最盛期には約二〇〇名の講員がいましたが、現在は活動していません。」

 

……なんでまた大正になって富士塚だったんでしょうか……江戸期に流行ったのって、やっぱり噴火が原因だったのでしょうか(当時はいろんな講がありましたし、御嶽や白山に比べれば、近くの富士山に目が行くのも道理ではあります……近いし……勉強しないと)。

 

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こちら富士塚です。
後ろにビルが建ってて、規模がよくわかりません。

 

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こちら境内で「七福神」巡りができるようで、まずは「寿老人」。

 

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拝殿。
新しい……のかな。

 

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拝殿脇に、力石が。

 

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「福禄寿」。

 

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狛犬さん……すり減ってるね。

 

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「弁財天」。

 

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狛犬さんその2。
マッシブ。

 

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石灯籠。
神紋は、天神様ですから、梅です。

 

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灯篭の基部。
先ほどのマッシブ狛犬さんを彷彿とさせる意匠でした。

 

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しつこく石灯籠。

 

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しつこく基部。

 

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拝殿遠景。
真後ろにもビル……新宿だなぁという普通の感想。

 

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境内摂社。

 

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謎の三つ足鳥居。
井戸の汲み上げポンプも、それ自体文化財ですね。

 

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神門……に「風神」様「雷神」様。

 

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毘沙門天」。

 

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由緒書。

 

「千百年を超える歴史を紡いできた「成子天神社」。このあたりはその昔柏木村鳴子と呼ばれ、当地にはもともと大神宮(ご祭神天照大御神)が祀られ、松や柏の樹が茂る清らかな神域が広がっておりました。
平安時代の延喜三年(九〇三年)、九州の太宰府菅原道真公が亡くなられたという報せを東国の地で受けた家臣の佐伯と斎宮は悲嘆極まりなく、その徳を慕い、洛陽(平安京)より、公の生前に彫られた像を柏木村に持ち帰りました。そして当地を菅公神社の神域とし、平和と文道の神としてお祀りし当社が設立されたのです。
その後、徳川三代将軍家光公より春日局に柏木鳴子の地を賜り、局の勧請により天満天神社として社殿を造営。明治二十七年成子神社と改め昭和三年成子天神社と改称。その後戦災消失、昭和四十一年の再建等を経て、平成二十六年の御造営を迎えました。」

なるほど、新しいわけです。

 

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瓦と扁額。

 

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「大黒天」。

 

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「恵比寿」。

 

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社標。
……あれ、「布袋」尊忘れてる……。

 

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御朱印
デザインが面白いです。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

大日本地誌大系. 第1 第1冊 新編武蔵国風土記稿壹 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

『新編武蔵風土記稿』の柏木村の項に、(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)

 

「◯天神社 寛文年中本社を成子町へ移しければ、ここは元天神と云」

 

とありまして(p238)、成子町の項を探したのだけれど見つからない、その前のところをよくよく読んでみると、

 

「……延享二年、町奉行支配に属し、成子町淀橋町と唱ふ」

 

とあり、さらに、

 

「成子町 淀橋町 以上二所御府内の條に辨す」

 

とあるものですから、なるほど武蔵国ではなく江戸(御府内……いわゆる朱引の内側)になった、ということかとようやくわかりました。
で、『御府内備考』を探してみたのです。

 

◯こちら===>>>

大日本地誌大系. 第3巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

見つけづらい……p237です。
と、紹介しようと思ってざっと読んでみると、成子の地名譚なんかは掲載されているのですが、天神様の話はなく、「神明社」があったことが書かれているくらい……まあ、『御府内備考』は『新編武蔵風土記稿』と違ってあくまで「備考」のようですから……。
公式の由緒書をある程度信頼するとして、東国でそんな早くから天神様がなぁ……というのが正直な感想です。
まあ、元々は「大神宮」として「天照大御神」が祀られていたようなので、それが「神明社」なのかもしれません。
春日局」が勧請した、というのを信頼するとしたら、実際の創建は江戸初期で、古そうな由緒は後付けかもしれません。
郷土史家のみなさんにお任せするしかないですね……。
神社としては面白かったです。

 

私なんかの世代は、成子といったら「フォークダンスde成子坂」……時代……。

 

「新宿十二社熊野神社」(東京都新宿区)

1/19。
さて、(2020年の)1/19、小さな神様のお祭りがありまして、その前にということで、新宿は「十二社熊野神社」へお参り。

 

◯こちら===>>>

12so-kumanojinja.jp

まずは、こちらの案内板。

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「十二社熊野神社文化財
(略)
熊野神社は、室町時代の応永年間(1394〜1428)に、中野長者鈴木九郎が、故郷である紀州熊野の十二所権現をうつし祀ったものと伝えられ、そのためにこのあたりは十二社と呼ばれるようになりました。
また、周辺にはかつて池や滝があり、江戸時代中期より江戸西郊の景勝地として有名でした。
(略)」

 

熊野神社熊野権現)」は各地に勧請されており、日本中にあるのですよね……お遍路さん、西国、東国の観音巡りに限らず、伊勢詣でですら一生に一度という時代、「熊野三社」にいくのは相当ハードルが高い……というところに、講の入り込む余地があったのでしょうか……こういう話はあとにしますか。

 

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参道、ちょっと登っています。

 

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鳥居。

 

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神輿蔵。

 

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「十二社の碑」。

 

「ここ十二社の地が、池や滝を擁した江戸西郊の景勝地であることを記した記念碑で、嘉永四年(一八五一)三月に建てられました。
高さ二一〇㎝、幅一一九㎝。江戸時代末期に江戸市中の様子を記した『江戸繁盛記』の著者寺門静軒と中野宝仙寺の僧侶負笈道人により、西郊の名所として有名になった十二社の様子を紹介したもので、表面には負笈道人の撰になる碑文と、寺門静軒による漢詩が刻まれており、字数は二六二字あります。
また裏面は、負笈道人の略歴と人柄を、寺門静軒が記したもので字数は二八六字に及びます。
なお、書は中川憲齋(名は大彭、日本書堂は号)によるものです。」

……登場人物が誰一人としてわかりませんが……。

 

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こっちが、その碑の本番です。

 

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またしても、文化財の案内。

 

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さて、狛犬さん。
末社の「大島三社」の前にあります。
脚の下がくりぬかれていないのが珍しい……手抜きなのか、こういう様式なのかわかりませんがなかなか表情も独特で愛らしい。

 

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「大島三社」。

 

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こちらは「大田南畝の水鉢」だそうです。
手水鉢が檻の中、というのも珍しい(いや、盗難防止とかでしょうけれども)。

 

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本殿をちらっと。
天気が良かった。

 

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「お稲荷さん」。
「胡桃下稲荷社」というようです。

 

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こちらは、「延命陀羅尼二千一百萬遍讀誦碑」です。

 

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橋を渡るのであれば、それは「弁天様」です。

 

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拝殿。

 

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狛犬2。
かなりのキャラ感……「ひょー」……。
頭のてっぺんが平たくて、角がひょこ……個性出さないといけない、との焦りがあるのでしょうか、江戸時代の職人さんにも(むしろ、か)。

 

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拝殿煽りビルバック。
新宿だね……という感じがします。
何気に灯篭が銅だったんだな……すっかり忘れてた。

 

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舞殿、かな。

 

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拝殿、別角度から。

 

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舞殿、別角度から。
舞殿といえども、屋根がこっていますね……鳥居がひっそり。

 

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拝殿前から、鳥居方向を。

 

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御朱印(上下、切れちゃった)。

 

さて、

 

◯こちら===>>>

大日本名所図会. 第2輯第6編 江戸名所図会 第4巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

『江戸名所図会』から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

十二所権現社
淀橋の南、角筈村にあり。祭神紀州熊野権現に同じ。本郷村成願禅寺奉祀の宮なり。社記に云ふ、応永年間、鈴木荘司重邦が後裔、鈴木九郎某なる人ありて、紀州藤代に住めりしが、流落して此中野の地に移り住す。熊野権現産土神たるにより、宅の辺の丘陵を開きて小祠を営み、尊信深かりし。然るに九郎或時、北総葛西の市に、飼ふ所の痩馬を売りて、価一貫文を得たる帰路に臨んで浅草に至り、其得る所の銭の緡を解きてみるに、悉く大観銭なり。九郎心裏に思ふ所ありて、即観音堂に詣で、其銭を宝前に奉り、手を空しうして帰りしが、夫より後、はからざる幸福を得て、其家大に富をなせり。故に応永十年癸亥、社を再興し、更めて十二所の御神を勧請し奉り、田園等若干を附す。数世を経て後、荒廃におよび、神燈光疎に、祭奠常に闕くといへども、猶感応の速なるを以て、村民恐怖し、遂に享保の頃、官府に訴へて成願寺奉祀の宮とす。しかありしより已降、神供厳重に、祭祀懈る事なし。九月二十一日を祭祀の辰とす。」

 

なるほど……絵図を見ると、ちょっと小高くなったところに鎮座する社殿は、今も昔もあまり変わらないように思われます(変わっていたらごめんなさい)。

手前が池か川っぽいな……かつては滝もあったとのことで、そんな川の近くにあるあたりも、本家「熊野権現」っぽさを出したということでしょうか(「熊野大社」行きたいな……)。
公式HPでの由来は、

 

「十二社熊野神社は、室町時代の応永年間(1394~1428)に中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州熊野三山より十二所権現をうつし祠ったものと伝えられます(一説に、この地域の開拓にあたった渡辺興兵衛が、天文・永禄年間(1532~69)の熊野の乱に際し、紀州よりこの地に流れ着き、熊野権現を祠ったともいいます)。

鈴木家は、紀州藤代で熊野三山の祠官をつとめる家柄でしたが、源義経に従ったため、奥州平泉より東国各地を敗走し、九郎の代に中野(現在の中野坂上から西新宿一帯)に住むようになりました。
九郎は、この地域の開拓にあたるとともに、自身の産土神である熊野三山より若一王子宮を祠りました。その後鈴木家は、家運が上昇し、中野長者と呼ばれる資産家になったため、応永10年(1403)熊野三山の十二所権現すべてを祠ったといいます。

江戸時代には、熊野十二所権現社と呼ばれ、幕府による社殿の整備や修復も何回か行われました。
また、享保年間(1716~1735)には八代将軍吉宗が鷹狩を機会に参拝するようになり、滝や池を擁した周辺の風致は江戸西郊の景勝地として賑わい、文人墨客も多数訪れました。

明治維新後は、現在の櫛御気野大神・伊邪奈美大神を祭神とし、熊野神社と改称し現在にいたっています。
氏子町の範囲は、西新宿ならびに新宿駅周辺及び歌舞伎町を含む地域で、新宿の総鎮守となっています。」

 

「中野長者」の話は別当でもある「成願寺」につながるようなのですが、行けてないので……お預けです。
それにしても、

 

「神燈光疎に、祭奠常に闕くといへども、猶感応の速なるを以て、村民恐怖し、」

 

「感応」というのは、信心が神仏へ通じること、を意味すると思われますが、これは荒廃したままにしておくのが恐れ多いという意味なんでしょうか……あるいは、本当に何か恐怖を抱くようなものがあったのか……「熊野権現」ですから、祟ってもおかしくはないですが、江戸時代だしな……。

 

というわけでこっそり新宿周辺参拝記録(短)です。

 

「(万田)神明社」(名古屋市中川区)

1/12。
初詣というほどの時期でもなくなっているのですが、中川区の万町にある神明社へ。

……オフィシャルHPとかは特にないですね。

 

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近代的な拝殿。
個人的に、この、何というのか、クリーム色が、ちょっと残念……最近辛口なことも吐き出してはいませんが、残念……。

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ちらりと本殿。
塀までクリーム色にすることはないだろうに……。

 

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狛犬さんは、ちょっとウルトラマン風……でもない。

 

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拝殿・本殿を向かって右側から。

 

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遠景。
松の内を過ぎて、この寂寥感……元気出していこう、とちょっと思ってしまうのは、空のせいかもしれないです。

 

さて、それでは、

 

◯こちら===>>>

尾張志. 5 愛知郡 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑『尾張志』から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
23コマです。

 

「神明ノ社 当村の氏神なり末社に春日社富士社あり 白山ノ社 氏神社より東にあり
並万町むらにあり」

 

……以上です。
ううむ、まあ小さい神社だからな……『愛知県神社名鑑』をそろそろ本気で手に入れなければ(中古で出回ってるのが高いのなんのって……他の古文書も当たればいいんでしょうけども……)。

 

 

実は、八田の「神明社」だと思っていたので、久々にグーグルマップで探してみたら、全然違っていてちょっと焦りました。
史跡散策路の神社くらいは全部回りたいけど、中川区は結構大変……自転車ほしい……。