1/27。(※20141214追記)
結構いい天気だったので、ちゃらっと出かけてきました。
城山八幡宮。
○公式HP===>>>
○千種区史跡散策コース===>>>
http://www.city.nagoya.jp/chikusa/page/0000016552.html
覚王山から本山方面に下った、末森通の交差点近くにある、こんもりとした小山の上にあります。
今は住宅地、文教地区とも言われる千種区に、どうしてこんな場所があるのか。
教育委員会の立てた札によりますと、
「天文十七年(1548)織田信秀はこの地に城を築き、古渡城から移った。守山城を守る弟信光と連携して、三河の今川方に対する備えのためであった。翌年、信秀はこの城で病死し、三男信行が城主となった。その後、信行は兄信長と対立し、稲生原の合戦を起こして敗れ、永禄元年(1558)清須城で謀殺された。城は翌年廃城になったといわれる。
城山八幡宮の境内として保護されたため、戦国・織豊期の城郭遺構がよく残っている。」
とのことです。
そういうことを、ちゃんと教えた方がいいと思います……この年まではっきり知らなかったです。
城山八幡宮の由緒はというと……
読めん。
ま、ともかく上りましょう。
最初の鳥居をくぐってしばらく上りますと、橋がかかっております。
昔はこの場所、「水のない池」だなぁ……と思っていたのですが、これ、「お堀」なんですね……。
だって、城跡ですもんね。
知らんかったなぁ……。
木の陰に、灯籠が見えます。
橋の向こうにまた石段があります。
いやあ、冬の空は澄んでいますねえ……拝殿の左右には、橘の木が植わっております。
橘の実は、かつては「非時香実(ときじくのかくのこのみ)」とも呼ばれ、不老長寿の実と考えられていました。
冬のさなかに実をつける常緑樹であることから、そう思われたのでしょうか。
やっとこさ読める立て札が。
「御祭神(八柱)
譽田別命(応神天皇)、息長帯比賣命(神功皇后)、帯中津日子命(仲哀天皇)の三柱の神を主神として木花開耶媛命、大山祇神、菊理媛命、伊弉諾尊、伊弉冉尊の五柱の神を合祀申し上げている。
沿革
当宮は往古、末森城の麓に鎮座し五百年以上前から産土神・勝運守護の神として崇敬を集めてきたと伝えられており、昭和十一年に境内地であった現末森城に遷座した。
(中略)
社殿は本殿、幣殿、拝殿、廻廊からなり、末社には山神社、神明社、津島社、豊玉稲荷社を祀っている。境内には堀を廻る散策路に沿って、「茶室洗心軒」「末森城址碑」「昭和塾堂」「連理木」「殉国碑」等の見所がある。」
見所満載。
祭神が仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の親子三柱なのは、八幡社の基本です(覚えておくと、いいことがあるかも)。
他の神々は、近隣の社を明治期に合祀したためここにいらっしゃるようです。
元々城があっただけあって、境内は結構な大きさです。
神楽殿もあります。
まだ一月だからなのか、雅楽が流れていました(もちろん、スピーカーから)。
合祀されている山神社。
津島社、神明社と並んでいらっしゃいました。
津島社の祭神が「建速須佐之男命」なのは、ええと……八坂神社からの流れがあるのですが、説明が長くなるので。
合わせて、「豊玉稲荷社」。
稲荷神社の基本形ですな。
こじんまりとしながら、大きな賽銭箱があるところから、やはり稲荷さんは大人気なんですねぇ。
ところで、「豊玉」というのは、「豊玉媛命」(山幸彦と結婚して、出産する際、正体の八尋鰐だとばれちゃった人)のことなのでしょうか?
稲荷は、基本的には倉稲魂だったり豊受毘売命だったり大宣都売神だったり、つまり食物神のはずなんですが、豊玉媛命とどこで習合しちゃったんでしょうか。
「豊かな命」という意味での「豊玉」なんでしょうか。
合わせて「金閣龍神」が……初めて聴いた神ですな。
龍神なので、多分、雨請いにご利益あり、だったのでしょう。
殉国碑・忠魂碑は、先の戦争で立てられたものではなく、明治時代からあった、ということです。
靖国神社の起源である「招魂社」と同じですね。
さて、どうやら名古屋には「恋の三社めぐり」というものがあるらしいです。
○恋の三社めぐり===>>>
http://www.shiroyama.or.jp/sansyameguri.htm
いずれ他のところも、と思いますが、城山八幡宮の場合は、「連理木(れんりぼく)」があるからのようです。
「地上約三mから二幹に分かれ六m程の所で再び合一して連理となりそれから上にも枝を出している。」
というアベマキの木が、境内にあります。
本殿からはちょっと離れていますので、案内板に沿って進みましょう。
結構細い道沿いにあるので、うまく写真に撮れませんでした……。
気になる人は、読んでみましょう。
この日も、若いカップルがお参りに来ていました。
イラッとしたことは内緒です。
見所満載の城山八幡宮、他にもあります。
「昭和塾堂」です。
「昭和三年、愛知県により青年教育・社会教育を目的とし「人づくりの殿堂」として建設されたものである。
四階建ての塔を中心に下部には二階建て鉄筋コンクリート造りの本館が三方に伸び、「人づくり」を表現するものとして、真上からも横からも「人」文字形に見える様に設計されている。」
そこまで意識したことはなかったのですが、この大正期を引きずったようなノスタルジックな建物、いかがでしょう。
私は好きです。
見ていると飽きません。
多分、ここで何か事件が起こったのだと思います(実際ではなく、名古屋を舞台にしたミステリーで、の話です。私が作家なら、間違いなくやります)。
魅力的な建物なのですが、どうしてここにあるのか、よく知りませんでした……。
夏には水無月大祓があり、茅の輪くぐりがありました(縁日が出るんですが、結構鬱蒼とした脇道(女坂)もあって、巡回に来た教師の目を盗んでなにやらやらかしたり……したんですかねえみなさん……)。
車が本殿前まで乗り上げられまして、交通安全祈願の車祓いも行われています。
狭い坂道を上がってくるんですよねえ……結構なスピードで。
それを見ていると、お祓いをするより、まず安全運転じゃねえ?、と思ったことも内緒です。
(▽20141214追記)
さて、
◯こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会
↑の287には「末森古城」の記事があります(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き換える)。
「末森古城
同村にあり。[織田真記]に『天文十六年。桃巌公撤古渡城。新築城於末盛山而居為』と見え、[信長記]に『備後守殿逝去し、末森の城は勘十郎殿へ譲り給ひける。』と記せし古城なり。当所白山社に伝はれる古き御正體の台ばかり残れるが、其裏書にも『白山勧請神御座御光。施主織田勘十郎信勝云々。天文二十二癸丑五月三日後鎮座』と見えたるは、其頃信勝在城ありし事慥にしられたり。此人後に武蔵守信行と名乗れり。是信秀の二男にて、信長公の弟なり。信行兄信長公に対して不義の事多かりければ、柴田権六勝家度々諌言しけるを聞入れず、都筑蔵人が讒言によりて、却て勝家を疎んじ悪まれければ、弘治三年丁巳正月、勝家夜中密に清須信長公の許に参りて、信行逆意の企を申しける。信長是より病と称して籠居ありければ、母公驚き、清須へ見舞に参られけるに、信長公病の重き事を語り、蘇枋の煎じたるを呑みて之を吐出し見せられければ、母公甚驚歎して、武蔵守信行の許へ、急ぎ見舞に参るべしと申送られければ、信行取りあへず清須の城へ来られる。かねて山口飛騨守・長谷川橋助・河尻青貝を討手に定め、青貝初太刀と宣ひけるが、少し早まり討損じければ、信行驚き、母公の方へ逃退きけるを、廊下にて池田勝三郎信輝抱へ留めて突伏せけるよし、[安土創業録][織田真記]等に見えたり。当村桃巌寺に葬め、法名前武州太守松岳道悦大禅定門と號す。」
麓にあったと思われる神社の描写はまったくないです。
当時はまだ、ただの「城山」だったんですね。
(△20141214追記)