1/19。
さて、(2020年の)1/19、小さな神様のお祭りがありまして、その前にということで、新宿は「十二社熊野神社」へお参り。
◯こちら===>>>
まずは、こちらの案内板。
「十二社熊野神社の文化財
(略)
熊野神社は、室町時代の応永年間(1394〜1428)に、中野長者鈴木九郎が、故郷である紀州熊野の十二所権現をうつし祀ったものと伝えられ、そのためにこのあたりは十二社と呼ばれるようになりました。
また、周辺にはかつて池や滝があり、江戸時代中期より江戸西郊の景勝地として有名でした。
(略)」
「熊野神社(熊野権現)」は各地に勧請されており、日本中にあるのですよね……お遍路さん、西国、東国の観音巡りに限らず、伊勢詣でですら一生に一度という時代、「熊野三社」にいくのは相当ハードルが高い……というところに、講の入り込む余地があったのでしょうか……こういう話はあとにしますか。
参道、ちょっと登っています。
鳥居。
神輿蔵。
「十二社の碑」。
「ここ十二社の地が、池や滝を擁した江戸西郊の景勝地であることを記した記念碑で、嘉永四年(一八五一)三月に建てられました。
高さ二一〇㎝、幅一一九㎝。江戸時代末期に江戸市中の様子を記した『江戸繁盛記』の著者寺門静軒と中野宝仙寺の僧侶負笈道人により、西郊の名所として有名になった十二社の様子を紹介したもので、表面には負笈道人の撰になる碑文と、寺門静軒による漢詩が刻まれており、字数は二六二字あります。
また裏面は、負笈道人の略歴と人柄を、寺門静軒が記したもので字数は二八六字に及びます。
なお、書は中川憲齋(名は大彭、日本書堂は号)によるものです。」
……登場人物が誰一人としてわかりませんが……。
こっちが、その碑の本番です。
またしても、文化財の案内。
さて、狛犬さん。
末社の「大島三社」の前にあります。
脚の下がくりぬかれていないのが珍しい……手抜きなのか、こういう様式なのかわかりませんがなかなか表情も独特で愛らしい。
「大島三社」。
こちらは「大田南畝の水鉢」だそうです。
手水鉢が檻の中、というのも珍しい(いや、盗難防止とかでしょうけれども)。
本殿をちらっと。
天気が良かった。
「お稲荷さん」。
「胡桃下稲荷社」というようです。
こちらは、「延命陀羅尼二千一百萬遍讀誦碑」です。
橋を渡るのであれば、それは「弁天様」です。
拝殿。
狛犬2。
かなりのキャラ感……「ひょー」……。
頭のてっぺんが平たくて、角がひょこ……個性出さないといけない、との焦りがあるのでしょうか、江戸時代の職人さんにも(むしろ、か)。
拝殿煽りビルバック。
新宿だね……という感じがします。
何気に灯篭が銅だったんだな……すっかり忘れてた。
舞殿、かな。
拝殿、別角度から。
舞殿、別角度から。
舞殿といえども、屋根がこっていますね……鳥居がひっそり。
拝殿前から、鳥居方向を。
御朱印(上下、切れちゃった)。
さて、
◯こちら===>>>
大日本名所図会. 第2輯第6編 江戸名所図会 第4巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
『江戸名所図会』から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
「十二所権現社
淀橋の南、角筈村にあり。祭神紀州熊野権現に同じ。本郷村成願禅寺奉祀の宮なり。社記に云ふ、応永年間、鈴木荘司重邦が後裔、鈴木九郎某なる人ありて、紀州藤代に住めりしが、流落して此中野の地に移り住す。熊野権現は産土神たるにより、宅の辺の丘陵を開きて小祠を営み、尊信深かりし。然るに九郎或時、北総葛西の市に、飼ふ所の痩馬を売りて、価一貫文を得たる帰路に臨んで浅草に至り、其得る所の銭の緡を解きてみるに、悉く大観銭なり。九郎心裏に思ふ所ありて、即観音堂に詣で、其銭を宝前に奉り、手を空しうして帰りしが、夫より後、はからざる幸福を得て、其家大に富をなせり。故に応永十年癸亥、社を再興し、更めて十二所の御神を勧請し奉り、田園等若干を附す。数世を経て後、荒廃におよび、神燈光疎に、祭奠常に闕くといへども、猶感応の速なるを以て、村民恐怖し、遂に享保の頃、官府に訴へて成願寺奉祀の宮とす。しかありしより已降、神供厳重に、祭祀懈る事なし。九月二十一日を祭祀の辰とす。」
なるほど……絵図を見ると、ちょっと小高くなったところに鎮座する社殿は、今も昔もあまり変わらないように思われます(変わっていたらごめんなさい)。
手前が池か川っぽいな……かつては滝もあったとのことで、そんな川の近くにあるあたりも、本家「熊野権現」っぽさを出したということでしょうか(「熊野大社」行きたいな……)。
公式HPでの由来は、
「十二社熊野神社は、室町時代の応永年間(1394~1428)に中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州の熊野三山より十二所権現をうつし祠ったものと伝えられます(一説に、この地域の開拓にあたった渡辺興兵衛が、天文・永禄年間(1532~69)の熊野の乱に際し、紀州よりこの地に流れ着き、熊野権現を祠ったともいいます)。
鈴木家は、紀州藤代で熊野三山の祠官をつとめる家柄でしたが、源義経に従ったため、奥州平泉より東国各地を敗走し、九郎の代に中野(現在の中野坂上から西新宿一帯)に住むようになりました。
九郎は、この地域の開拓にあたるとともに、自身の産土神である熊野三山より若一王子宮を祠りました。その後鈴木家は、家運が上昇し、中野長者と呼ばれる資産家になったため、応永10年(1403)熊野三山の十二所権現すべてを祠ったといいます。江戸時代には、熊野十二所権現社と呼ばれ、幕府による社殿の整備や修復も何回か行われました。
また、享保年間(1716~1735)には八代将軍吉宗が鷹狩を機会に参拝するようになり、滝や池を擁した周辺の風致は江戸西郊の景勝地として賑わい、文人墨客も多数訪れました。明治維新後は、現在の櫛御気野大神・伊邪奈美大神を祭神とし、熊野神社と改称し現在にいたっています。
氏子町の範囲は、西新宿ならびに新宿駅周辺及び歌舞伎町を含む地域で、新宿の総鎮守となっています。」
「中野長者」の話は別当でもある「成願寺」につながるようなのですが、行けてないので……お預けです。
それにしても、
「神燈光疎に、祭奠常に闕くといへども、猶感応の速なるを以て、村民恐怖し、」
「感応」というのは、信心が神仏へ通じること、を意味すると思われますが、これは荒廃したままにしておくのが恐れ多いという意味なんでしょうか……あるいは、本当に何か恐怖を抱くようなものがあったのか……「熊野権現」ですから、祟ってもおかしくはないですが、江戸時代だしな……。
というわけでこっそり新宿周辺参拝記録(短)です。