(※2016/6/27追記)
(※2017/01/25修正)
さて、続きでございます。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会
↑いつものように『尾張名所図会』より(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
295コマです。
「岩作村(やざこむら)
[和名抄]に山田郡石作とあるは此村にて、古き地名なり。
石作神社
岩作村にあり。今神明社と称す。[延喜神名式]に山田郡石作神社、[本国帳]に従三位石作天神とある是なり。祭神建摩利尼命。[姓氏録]にのせし石作連の祖神なり。鎮座の年月定かならず。後花園天皇の正和年中に重修せり。
例祭 九月十二日。走馬を出す。」
あっさり。
記事の隣には図絵がありまして、そこに長久手の風景が描かれています。
そこに見られる「石作神社」の様子が、現在の様子となんとなく重なっており、なかなか興味深いです。
もうちょっと別の本を見てみましょう。
○こちら===>>>
↑『神社覈録(上)」の405コマです。
「石作神社
石作は以之都久利と訓べし、和名抄、郷名部石作、○祭神石作連祖○山田庄岩作村に在す、今神明と称す、愛智郡に属す 集説府志
類社
山城国乙訓郡石作神社の條見合すべし」
「石作は以之都久利と訓べし」……「いしつくり」と読め、と言っているんですね。
ただ、地元では「やざこ」です。
地元のかたは「やざこじんじゃ」と呼ばれるようですが、「いしつくり」が正しいそうです。
類社が山城国にあるようなので、そちらも見てみましょう。
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↑『神社覈録(下)』の99コマです。
「石作神社
(略)
姓氏録 左京神別下 石作連、火明命六世孫建眞利根命之後也、垂仁天皇御世奉爲皇后日葉酢姫媛命作石棺献之、仍賜石作大連公也、また、摂津国神別 石作連、火明命六世孫武椀根命之後也、また 和泉国神別 石作連、火明命男天香山命之後也、また山城国神別 石作、火明命之後也、 ○三代実録、貞観七年三月廿八日己酉、近江国言、伊香郡人石作部廣繼女、」
『新撰姓氏録』によれば、「姓氏録 左京神別下 石作連、火明命六世孫建眞利根命之後也、垂仁天皇御世奉爲皇后日葉酢姫媛命作石棺献之、仍賜石作大連公也」……「天火明命」の六代後の子孫「建眞利根命」の末裔となっています。
「垂仁天皇」の時代、皇后である「日葉酢媛命」の石棺を作って献上したことから、「石作大連公」を賜った、と。
ふむふむ。
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「穴師坐兵主神社」「相撲神社」(考々々々) - べにーのGinger Booker Club
↑の記事で言及していますが、「日葉酢媛命」の葬送場面で活躍(?)するのは、「野見宿禰」と土師氏です。
埴輪の起源、というやつですね。
石棺の話はぴくりとも出てきません。
▽(2016/6/27追記)
ぱらぱら『古事記』をめくっていたらですね、「垂仁天皇」の記事に、
「またその大后比婆須比賣命の時、石祝作(いしきつくり)を定め、また土師部(はにしべ)を定めたまひき。この后は、狭木の寺間の陵に葬りまつりき。」
とありまして……「石祝作」の注に「石棺を作る部民。祝は棺の誤写であろう。」とあります。
はぁ……『日本書紀』に偏ってはいけませんね。
というわけで、以下の話は、「何言ってんだお前」的スタンスでお読みくださいませ。
(2016/6/27追記)△
一方歴史的な事実として、日本の古墳からは石棺が見つかることが多いです。
「日葉酢媛命」と埴輪の物語にかこつけて、「石作連」が自分たちの祖先のことを語ったのでしょうか。
むむむ……。
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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 5 愛知郡
↑『尾張志』の「愛知郡」編(4コマ)には、
「石作神社
岩作村にまして今の神明と申す 延喜神名式に山田郡石作神社本国帳に同郡従三位石作天神とある是也 和名抄に山田郡石作とある郷も此村也 今この愛智郡に属す 社説に建摩利尼命を祭るといふ この命は天孫本紀火明命六世孫建田背命の條に次建摩利尼命 石作連桑内連小邊縣主等祖 と見えまた姓氏録左京神別下に石作連 火明命六世孫建眞利根命之後也垂仁天皇御世奉爲皇后日葉酢媛命作石棺献之仍賜姓石作大連公也 などあり尾張氏の別氏なるゆゑに本国には此氏人殊に多かりしとおほしくて石作といふ地名も和名抄に中島郡と此處と二處見え又中島葉栗丹羽山田四郡に石作神社ありて神名式にのせられたり当社は仁明天皇の大御代承和元甲寅年鎮座にて後花園天皇正和年中にも御修造ありしよし社記に見えたり摂社に一御膳社 白山社 熱田社 妻宮社あり神主を福岡氏と云」
「石作といふ地名も和名抄に中島郡と此處と二處見え又中島葉栗丹羽山田四郡に石作神社ありて神名式にのせられたり」……とあるように、『延喜式』の神名帳には、尾張国だけで四つの「石作神社」が掲載されています。
式内社としての「石作神社」は全部で六つ、そのうちの四つが尾張国にあったということですから、かなりの偏向と考えなければいけません。
石作(石棺作り、あるいは石工)の勢力が、古代から、尾張を中心に広がっていた、ということなのか。
あるいは、後代「石作連」を名乗る勢力が、徐々に尾張地方に広がっていったのか。
ここで古墳に使われている石棺の変遷や伝播を提示できると面白いのですが、何しろ私考古学はさっぱりですので……(文献も手元にないもので)。
普通に考えたら、石棺作りや石工と考えられる人々は、巨大な古墳を築いたその地その地で一定の期間は定住し、定住したとしたら自分たちの氏神を祀ったりしたのではないでしょうか。
すると、古墳分布に重なるように、「石作神社」もまた分布していると面白いんですが……現代にまで残っていない可能性ももちろんありますが、10世紀成立の『延喜式』の時代にはすでにかなり勢力が減じていたようです。
というのも、石棺を必要としなくなったからなのでしょうか。
石積みの技術というのは、後々までも伝えられて、「穴太衆」のような石垣作りの名人につながっていったら、それはそれで面白そうですが、ちょっと飛躍が過ぎますか。
ただ、いくら木材建築が主流の日本とはいえ、石積み技術がまったく不要だったわけではないので、細々と継承されていったのかもしれません。
○こちら===>>>
「穴師坐兵主神社」「相撲神社」(考々々々) - べにーのGinger Booker Club
↑先ほどもリンクしたこちらの記事では、『続日本紀』を引用して、「土師氏」が、「自分たちはかつて祭礼と葬礼に携わっており、それが世間のニーズとも一致していたが、今ではもっぱら葬礼ばかり」と言って、「土師」から「菅原」へ姓を変更したい、と願い出たことを書きました。
「立野
立野とよぶわけは、昔、土師弩美(はにしののみの)宿禰が[大和と出雲を往き来して]出雲の国に通うとき日下部の野に宿って、そこで病気にかかって死んだ。その時出雲の国の人がやって来て、大勢の人を立ちならばせて[手から手に]運び伝え、[揖保]川の礫を上げて墓の山を作った。だから立野とよぶ。すなわちその墓屋を名づけて出雲の墓屋といっている。」
という「墓作り」の名人としての「土師氏」(なのか、単に出雲からきた人なのか)の様子を引用しました。
この辺りの関係からすると、「石作連」というのは、「土師氏」あるいは「土師氏」を含む築墓集団のネットワークの中にしっかり存在していたのではないかと思われます。
故に、「日葉酢媛命」の話が伝わっているのではないでしょうか。
一方で、何度も出てくる「天火明命」は、
↑で出てくる通り、「瓊瓊杵命」と「鹿葦津姫(木花之開耶姫)」との間に生まれた三男で、『日本書紀』にすでに「尾張連等が始祖」と書かれています。
↑『先代旧事本紀』になると、「神武天皇」の東征に協力した「高倉下命」という神と一緒にされて、その系譜に「石作連」の始祖であり「石作神社」のご祭神である「建眞利根命(建麻利尼命)」が位置しています。
もし「石作連」が、根っこで「土師氏」とくっついているとしたら、「土師氏」を統率した「野見宿禰」は、「天穂日命」の末裔ということになっていますから、どちらにしても天神系です。
さて、俄然わけがわからなくなってきました。
個人的には、古墳の石棺技術あるいは石工技術とともに移動してきた集団が、出雲や大和、あるいは尾張にあった勢力に取り込まれていったではないか、とごく当たり前のように考えています。
後に、石棺技術はあまり重宝される技術ではなくなり、各地で勢力は廃れていったけれども、なぜか尾張から山城の辺りにだけしぶとく残っていた。
それもつかの間、『延喜式』の時代には、すっかり伝説になってしまい、残っているのも名前だけになった……という、妄想も飛躍もない結論。
つまんない。
でもこれ以上のことが今ひとつ思い浮かびませんで……。
どうして、尾張にだけ「石作神社」が四つもあったのでしょうか……。
『尾張国神社考』(津田正生著/ブックショップマイタウン発行)より、
「従三位石作神社天神
[集説云]山田の荘岩作村神名の社 今隷愛智郡 末社四。 熱田、白山宮、一の御前饒速日命、妻の宮日葉酢媛命」 社家福岡氏
耶座古能美也志呂」と讀奉るべし
[和名抄]山田郡石作郷
[正生考]延喜式和名抄ともに、今本にいしつくりと假名を施たるは後世鎌倉以来のあやまり也。其わけ下にとくへし」 先に地名考にもいひし如く、岩作、長久手、岩崎、前熊、北熊、大艸、本地、猪子石なとの村々は、舊は一円成べし。そもそも岩作の地名は、正字岩崎、岩坂より転りて耶坐古(※やざこ/ブログ筆者)となれり。石岩古へ通用、他所の石作の字とは、其例別なり、往昔の一郷後世に或は四五ヶ村、又は十二三に別るる故を以一円の村名の内に、いま呼聲は異にし其義同じき物あり (略) 岩崎に岩作も同語にて石棺(いしきつくり)との各別也
[当所澤助曰]神明の社地は後也。舊地は畔名を舊氏神と呼處也。 西島といふ民家の北一町半に在今は田となる」 此南半町に禰宜屋敷と呼ぶ畔名もあり。また四ツの末社にもおのおの舊地といふものあり。舊氏神の地より西へ順々に不遠舊地あり。村民は縣木、カシヤゴ、石神(シャグジン)、エビスと呼。みな杉桜なと古木一株つつ遺れりといへり
[正生考]今の神明の地は齊場村の宮に習て漸々廣長なる末社の内饒速日命、日葉酢媛命を祀るものは後世鎌倉以後の誤也 次にとく」
[附言]姓氏録左京下に、石作連は、火明命六世孫建眞利根命之後也。垂仁天皇之御世奉爲皇后日葉酢媛命作石棺献之。仍賜姓石作大連公也」。
[正誤]醍醐天皇の延喜年中より、一条天皇の長保寛弘の頃まで、凡百年及の間に、社号を転じて傍を唱ふる物あり。その先例をいはむに、「遠江国佐野(さや)郡 今はさの郡と謝る」 己等の麻知(コトノマチ)神社を、事のままとあやまり 枕双紙、名よせ竝にことのまま」 大和国吉野郡水分(みくまり)神社のみこもりと転り、遂に御子守神或は子守勝手の宮なとあやまる類也。岩作神社も此に等しく、保元の乱後世鎌倉までに、伝誤て末社に饒速日命、日葉酢媛命等を祀るならし 近年つまの宮などいへるは取るもたらず」 近年斯て年を歴て出口延経神ぬしも此社に姓氏録の石棺作を引て石作連は、火明命六世孫、武椀根命之後なり。尾張氏同祖神なれはや。といへるも過失をかさねられたるなり。
[附言]福岡孫太夫は、世々神職にて墓所まても別にありて、系図正胤嫡家なりしに、年々困窮につきて、近き文化年間神職を譲りて農民と成る。その子息達、力量他人に勝れて、村中に比類なし。嫡流の余徳にや、と人みな感爲」といふ。
[澤助正隅曰]当村安昌寺 禅寺 に古物の観音、十一面、千手、如意輪の三躯あり。 此うち十一面観音の背に銘あり嘉定二年、仏司徳祐作之を見ゆ」 かくて千手の供田は前熊村にあり。如意輪の供田は長久手村に在。おのおの除地あり。さて祭礼は正月五日にて、古格として村中の児童あつまりて、あやしき筵機やうの物をつくりて、打叩きて諷て云く「千町万町、観音様の御田打よといひて機やうの物を崩爲かぎりに終る」といふ
[正生考]右三尊の古仏は疑らくは往昔岩作神神の本地仏にて、安昌禅寺は社僧の俤ならむ歟。因縁ありげ也。後の好士猶なほ訂考へし。」
「石作神社」の項を引用してみました。
「延喜式和名抄ともに、今本にいしつくりと假名を施たるは後世鎌倉以来のあやまり也。其わけ下にとくへし」 先に地名考にもいひし如く、岩作、長久手、岩崎、前熊、北熊、大艸、本地、猪子石なとの村々は、舊は一円成べし。そもそも岩作の地名は、正字岩崎、岩坂より転りて耶坐古(※やざこ/ブログ筆者)となれり。石岩古へ通用、他所の石作の字とは、其例別なり、往昔の一郷後世に或は四五ヶ村、又は十二三に別るる故を以一円の村名の内に、いま呼聲は異にし其義同じき物あり (略) 岩崎に岩作も同語にて石棺(いしきつくり)との各別也」
津田正生の推察によれば、「石作」を「いしつくり」と読むのは鎌倉時代以降の間違いで、「岩作」は「岩崎(いわさき)」「岩坂(いわさか)」が転じて「やざこ」になったのだ、ということらしいです(いくつか、そうした呼び名が変化した例が書かれていましたが省略しました)。
「石作」は「石棺(いしきつくり)」とするのとは違っている、という主張です。
となると、「やざこ」が正しいのか、「いしつくり」が正しいのか、という話になりますが、よく考えると『延喜式』は鎌倉時代以後の成立ですから、「延喜式和名抄ともに、今本にいしつくりと假名を施たるは後世鎌倉以来のあやまり也。」……この主張は当たらないように思います。
とはいえ、何故「やざこ」と読むのか、という説明には一応なっています(近辺には未だに「岩崎(いわさき)」という地名が残っているんですがね……それはどうするんでしょうか)。
その後には、ご祭神の変遷に関する話が出てきますが、そちらもちょっと論拠が弱いかと。
「建眞利根命」の名が登場するのは『新撰姓氏録』で、同じような時代に『先代旧事本紀』が完成したと思われます。
時代的には、「建眞利根命」がご祭神だとしても、それほど不思議ではないかと。
この方が、尾張氏の祖先だとか、「火明命」の六世孫とかいう伝承は、疑うべき部分があると思いますが……同時代の『新撰姓氏録』と『先代旧事本紀』が似た内容を取り扱っていることから、これらの伝承が9世紀初めには成立していたと考えることはできますが、それ以前はどうだったのかが探れませんので、まぁあり得たのかもしれないくらいでしょうか。
さてさて。
↑で紹介した『尾張国神社考』では、「妻ノ宮」のご祭神は「日葉酢媛命」となっていますが、
○こちら===>>>
石作神社・直会社 と旧岩作村(現長久手市)の神社今昔 | 長久手市郷土史研究会
↑の記事では「王辰爾」となっています。
↑の欽明紀十四年条にはこんな記事があります。
「秋七月辛酉の朔甲子に、樟勾宮(くすのまがりのみや)に幸す。蘇我大臣稲目宿禰、勅を承りて王辰爾を遣して、船の賦を数へ録す。即ち王辰爾を以て船長とす。因りて姓を賜ひて船史(ふねのふびと)とす。今の船連の先なり。」(p304)
また、
↑敏達紀元年条には、
「五月の壬寅の朔に、天皇、皇子と大臣とに問ひて曰はく、「高麗の使人、今何にか在る」とのたまふ。大臣奉対して曰さく、「相楽の館に在り」とまうる。天皇聞して、傷惻みたまふこと極めて甚なり。愀然きたまひて歎きて曰はく、「悲しきかな、此の使人等、名既に先考天皇に奏聞せり」とのたまふ。乃ち群臣を相楽の館に遣して、献る所の調物を検へ録して、京師に送らしめたまふ。丙辰に、天皇、高麗の表䟽を執りたまひて、大臣に授けたまふ。諸の史(ふびと)を召し聚へて、読み解かしむ。是の時に、諸の史、三日の内に、皆読むこと能はず。爰に船史の祖王辰爾有りて、能く読み釈き奉る。是に由りて、天皇と大臣と倶に為讃美めたまひて曰はく、「勤しきかな、辰爾。懿きかな、辰爾。汝若し学ぶることを愛まざらましかば、誰か能く読み解かまし。今より始めて、殿の中に近侍れ」とのたまふ。既にして、東西の諸の史に詔して曰はく、「汝等習ふ業、何故か就らざる。汝等衆しと雖も、辰爾に及かず」とのたまふ。又高麗の上れる表䟽、烏の羽に書けり。字、羽の黒き随に、既に識る者無し。辰爾、乃ち羽を飯の気に蒸して、帛(ねりきぬ)を以て羽に印して、悉に其の字を写す。朝廷悉に異しがる。」
とあります。
また、
「秋七月十七日 左中弁・正五位上・木工頭兼任の百済王仁貞、治部少輔・従五位下の百済王元信、中衛少将・従五位下の百済王忠信、図書頭・従五位上・東宮学士・左兵衛佐・伊予兼任の津連真道らが、上表して次のように言った。
真道らの本来の系統は百済国の貴須王より出ています。貴須王(在位三七五〜三八四)は百済の建国以来第十六代目の王です。そもそも、百済の始祖の都慕大王は、太陽神が霊を下して扶余地方を支配させ国を開かせたもので、天帝から支配者となるとの予言書を授けられ、韓の諸地域を支配して王と称しました。時代が降り、近肖古王(在位三四六〜三七五。第十五代の王、貴須王の父)の世になって、遥かに天皇の徳化を慕い、貴国を訪ねられました。神功皇后摂政の年のことです。その後、軽島豊明の朝廷で天下を治められた応神天皇は、上毛野氏の遠い祖先である荒田別に命じ百済国に使いさせ、有識者を招請されました。国主の貴須王はうやうやしく使者の申し出を受け入れて、一族の中から人材を選び、孫の辰孫王<分注。一名を智宗王という>を派遣して、使者と共に入朝させました。天皇はこれを喜ばれ、特にいつくしみ深い命令を下して、皇太子の師とされました。こうして初めて中国の典籍を日本に伝え、大いに儒教の学風をあきらかにされました。文教興隆の起源はまさにこの時にあったのです。
難波高津朝廷で天下を治められた仁徳天皇は、辰孫王の長男・太阿郎(たあら)王を近侍とされました。太阿郎王の子が亥陽君、亥陽君の子が午定君で、午定君は三人の男子を生みました。長男は味沙、次子は辰爾、末弟は麻呂です。この三人から子孫が別れて初めて三姓となり、それぞれ職務により氏の名をつけられました。葛井連・船連・津連らがこれです。
他田朝廷で天下を治められた敏達天皇の世になって、高麗国が使者を遣わし、烏の羽根に記した上奏文を奉りました。群臣も、諸々の記録をつかさどる史たちも誰もこれをよく解読できませんでした。ところが辰爾が進み出てその上表文を取り、よく解読し巧みに書き写して、詳細に上表文の内容を奏上しました。天皇は彼が広く学問に通じることをよしとし、大変賞賛し、詔して「篤学なことよ。立派なことよ。もし汝が学問を愛さなかったら、誰がこれを解読できたであろうか。今後は殿中に近侍するようにせよ」といわれました。さらにまた東(大和)と西(河内)の史たちに詔して「汝らは大勢いるが辰爾に及ばなかった。このことは、それぞれ国史や家伝に詳しく書き留めておくように」ともいわれました。
謹んで考えますに、朝廷は天の道理に則って人民をみちびき、古の道を考えて教化を広めておられます。広大な恩恵は諸方にあまねく広がり、優れた政治は万物に及んでいきます。ゆえに、すでに廃れた道をととのえ、絶えてしまった道をうけつぐことができ、万民が仰いでめでたい治政を頼りとし、大義名分を正し、正邪を弁別することができて、天下の民はみな服従し、便宜を得ています。生きとし生けるもので、手を打ち躍り上がって喜ばない者はありません。真道らの先祖が、礼物を奉って聖朝に仕えたのは、遥かに昔のことになります。以来家門は文雅(詩歌や文章を作る)の業を伝えて、一族は西庠(学校で教授する)の職を掌ってきました。真道らはこのように盛んな世に生まれてきて、天皇の恩恵に浴しています。どうか連姓を改め換えて朝臣姓を賜わるよう、謹んでお願い申し上げます。
長々と引用しましたが、要するに「王辰爾」という人は元々は百済の人で、
「近肖古王」ー「貴須王」ー「辰孫王(「応神天皇」の頃に来訪)」ー「太阿郎(たあら)王」ー「亥陽君」ー「午定君」ー「味沙(葛井連)、辰爾(船連)、麻呂(津連)」
↑こういう系譜ですよ、と。
中でも「王辰爾」という人が優秀で、
「他田朝廷で天下を治められた敏達天皇の世になって、高麗国が使者を遣わし、烏の羽根に記した上奏文を奉りました。群臣も、諸々の記録をつかさどる史たちも誰もこれをよく解読できませんでした。ところが辰爾が進み出てその上表文を取り、よく解読し巧みに書き写して、詳細に上表文の内容を奏上しました。天皇は彼が広く学問に通じることをよしとし、大変賞賛し、詔して「篤学なことよ。立派なことよ。もし汝が学問を愛さなかったら、誰がこれを解読できたであろうか。今後は殿中に近侍するようにせよ」といわれました。さらにまた東(大和)と西(河内)の史たちに詔して「汝らは大勢いるが辰爾に及ばなかった。このことは、それぞれ国史や家伝に詳しく書き留めておくように」ともいわれました。」
と、高麗(高句麗)からやってきた謎の上表文を読み解いて、その賢明なることこの上ないと褒められたということです。
ただし、↑で引用した『日本書紀』の記述に対しては、ちょっと盛った感がありますね……「このことは、それぞれ国史や家伝に詳しく書き留めておくように」……とか。
ところで、同じ『続日本紀』の桓武天皇延暦十年条を見てみると、
「四月八日 左大史・正六位上の文忌寸最弟と播磨少目・正八位上の武生連真象らが次のように言上した。
「文忌寸らには、もともと二つの家系がありました。東文氏は直と称し、西文氏は首と称して、久しく相並んで書記文筆の仕事を行なってきました。いま、東文氏は一族を上げて宿禰の姓に登りましたが、西文氏は賜姓の恩恵に漏れて、今もなお忌寸の姓におちこんだままです。最弟らは幸いに、平和な良い時代に巡りあわせています。この時にくわしく事情を察していただかなければ、後世になってからどのような道理を述べたところで、甲斐のないことでありましょう。そこで東文氏と同じく栄えある姓を賜わって、永く子孫のために配慮を残せるように、伏してお願い申しあげます」と。
天皇は勅して、本来のくわしい系譜を求められた。
そこで最弟らは次のように言上した。
「漢の高帝の後裔を鸞といい、鸞の子孫の王狗の時、百済国に転住しました。百済の久素王の時に、日本の朝廷が使者を遣わして文人を召し求めましたので、久素王(『三国史記』百済本紀の「近仇首王」<在位三七五〜三八四>に当る。神功紀には「貴須王」)は、王狗の孫の王仁を貢上しました。これが文氏・武生氏らの祖先です」と。」
とあります。
とにかくこの時代、やたらと「姓を替えたいのでございます」な言上が多いのですが、それはともかく、「久素王(『三国史記』百済本紀の「近仇首王」<在位三七五〜三八四>に当る。神功紀には「貴須王」)」が日本に遣わしたのは、「王狗の孫の王仁」だったようです。
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「宇治神社」「宇治上神社」(考) - べにーのGinger Booker Club
↑「菟道稚郎子」のことを考えていたときに出てきましたが、「応神天皇」の皇太子である「菟道稚郎子」に様々なことを教えたのが「王仁」となっています。
ということからすると、『続日本紀』の、
「軽島豊明の朝廷で天下を治められた応神天皇は、上毛野氏の遠い祖先である荒田別に命じ百済国に使いさせ、有識者を招請されました。国主の貴須王はうやうやしく使者の申し出を受け入れて、一族の中から人材を選び、孫の辰孫王<分注。一名を智宗王という>を派遣して、使者と共に入朝させました。天皇はこれを喜ばれ、特にいつくしみ深い命令を下して、皇太子の師とされました。」
という記述は矛盾します。
「王仁」は漢から逃げてきた皇帝の末裔を自称しており、「辰孫王」の方は明らかに百済王家の人間。
うーん、どっちが……と考えるのも面倒なので、「どちらも一緒にやってきて、一緒に皇太子に教えた」ということにしておきましょうか。
そうでなければ、後々このネタを元に、双方の子孫が大バトルを繰り広げかねません。
ただ、
「近肖古王」ー「貴須王」ー「辰孫王(「応神天皇」の頃に来訪)」ー「太阿郎(たあら)王」ー「亥陽君」ー「午定君」ー「味沙(葛井連)、辰爾(船連)、麻呂(津連)」
↑この系譜を信じるにしても、「葛井連」と「津連」は後からくっついたっぽいんですよねぇ……命名方法が明らかに違うじゃないですか。
「太阿郎王」ー「亥陽君」ー「午定君」ー「辰爾」……生まれた年なのか日なのかわかりませんが、干支が入っているじゃないですか、名前に。
「味沙」と「麻呂」には入っていないことから、なんらかの理由で「辰爾」の系譜を借りたのではないか、と思ってしまいます。
おっと、そこの鋭いあなた。
「味沙」には「未」が、「麻呂」には「巳」が隠れているじゃないか、と言いたいんでしょう?
……面白いんですが、隠す理由が私にはわかりませんもので。
それにしても、「烏の上表文」はなんのメタファーなんでしょうね?
国から国への正式なものとしてはいたずらが過ぎます。
しかも、それを「菟道稚郎子」のように破って捨てて使者を脅すようなこともしない。
となると、「高麗(高句麗)」からの上表文は何でこんな風に書かれていたのか……どうやらのこの上表文というのは、先年に流れ着いた「高麗(高句麗)」の使者からのものだったようで、この「烏の上表文」のあとの記事では、大使と副使が仲違いして副使が大使を殺す、という事件が起きています。
これと、「烏の上表文」に関係があるのかないのか……なんらかの告発文なのか、半島出身の人であれば読むことができる暗号でも書かれていたのか……ちょっとこの辺りのもやもやをミステリー風に妄想できると面白いんじゃないかと思います……がやめときます(キリッ)。
広い世間です、もう誰かがやっているのではないかと思いまして。
あ、ついでもついでですが、『日本書紀』の敏達紀には、「王辰爾の弟、牛」というのが出てきます。
表記は違いますが、干支でまとめられていたのかもしれません。
で、問題は、どうして「石作神社」の摂社「妻の宮」に「王辰爾」が祀られているのか、なんですが……ここまでの情報で何かわかった方がいらっしゃいましたら、教えて下さい。
ちなみに、「石作神社」からそれほど離れていない、名東区の「和示良神社」には、
○こちら===>>>
「和示良神社(名東区)」 - べにーのGinger Booker Club
↑「王仁吉師」が祀られた祠があります。
うーん……「王仁」にしろ「王辰爾」にしろ、「和邇」氏となんらかの関係があったとして、名古屋北部から近江〜山城に至るまでの地域に「和邇」氏が勢力を持っていて、その名残が「石作神社」、なんでしょうか。
あいえ、『延喜式』には「和示良神社」もありますので……うーん、そういった方面でいろいろと妄想してみるのもいいかもだなぁ……。
ちなみに「船連」、どこかで見たことあると思ったら、
○こちら===>>>
↑犬山の「寂光院」の開祖「道昭和尚」の出身氏族でした。
むむむむむ……ここにも何か関係が……。
ひとまず妄想は終了です〜。