べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「和示良神社(名東区)」

4/19。

用件ありで出かけたので、ついでに今まで立ち寄っていなかったところへ。

「和示良神社」

 

◯こちら===>>>

名古屋市:香流川コース(名東区)

 

↑公式HP等はないようですので、こちらで。

 

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住宅街の奥の方にあるので、入り込むのに迷いそうです。

 

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だいたい「わじらじんじゃ」か、私などは「にじらじんじゃ」と読んでいたのですが、とりあえず「かじらじんじゃ」と読むようです。

 

「由緒

古くからの語り伝えによると、この地に居を構えていた武内宿禰の子孫が、安土・桃山時代の文禄二年癸巳(1592年10月6日)に創建したとされている。当時この地は、秀吉の海外出兵等の際の交通の要所として栄えており、宿禰の子孫は平和(安全)をお願って社を建て、御神(仁)に武内宿禰を祭った。創建時、記念として境内に植えられた栃の木が、幹周り三m程の大木に成長し近隣の人々より、「学問・長生き・五穀豊穣・繁栄にご利益がある」と親しまれ、明治の始めまで「原の天神様」と呼ばれていた。

大木は伊勢湾台風で倒れ、平成始めまで廃木として残っていたが、いつしか姿を消した。

 

御神(仁)(祭られている神様)

武内宿禰 誉田別命 木花開耶姫命

五仁吉師(山ノ神)……字薮下より移す

大山祇神(山ノ神)……字交換より移す

富士浅間社 秋葉山……西原交差点西北より移す」

 

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えー……不敬を承知で申し上げますが、

 

なんてセンスのない拝殿

 

なのか、と思いました。

一見、公衆便所かと思いました……古式が全てとは思いません、現代的でも構わないんです、木造である必要すらないです。

 

が、センスがないのはいかがなものか。

 

残念……(氏子の皆様、申し訳ありません。単なるおっさんの感想なのでご容赦いただきたい)。

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本殿。

普通です。

ほっとします。

 

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英霊社」だそうです。

 

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秋葉社」。

地面にまで緑青がこぼれているのか、ペンキなのか。

 

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「山ノ神社」。

 

名東区の史跡散策路」では、

 

「西ノ切にあった富士浅間社」「欠下にあった山ノ神社」「明治41年に合祀して村社とした」

 

とあります。

「西ノ切」も「欠下」も、神社のある住所からほど近くです(字なので、今は使わないこともあるでしょう)。

 

さて、『延喜式』によれば、尾張国山田郡には「和尓良(わにらの)神社」があった、とされています(wikipedia尾張国式内社一覧」より……ほしいなぁ『延喜式神名帳』……)。

で、名古屋市の北にある春日井市というところに、「和爾良神社」というのがあるそうで(未踏)。

どちらが『延喜式』に載せられている神社なのか、あるいは他にも候補があるのか。

こういう、『延喜式神名帳』に名前があるのだけれど、候補となる神社がいくつかあるものを、

 

「論社」

 

というらしいです。

 

で、『延喜式』の「和尓良神社」の御祭神が何か、までは今の私では調べる術がないのですが(ネットの限界というか、私の限界)。

とりあえず、「和示良神社」は、かつては「原の天神様」と呼ばれていたくらいなので、「菅原道真公」をお祀りしていたのではないか、と思います。

それがどっか行っちゃいましたね。

祭神には「誉田別命」、即ち「応神天皇」も入っているので、「あれ、昔は八幡社だったの?」と思ったりもします。

 

(1)かつて、山田郡のどこかに「和尓良神社」と呼ばれた神社があった。

(2)時代が下って、地名に「わにら」だけが残った。

(3)そのうち、天神様をお祀りする神社が建った。

(4)この辺りの氏神様になった。

(5)何だかよくわからないけれど、地名は「わにら」だか「かにら」だし、『延喜式』にそんな感じの神社があるので、「和示良神社」にしてしまおう。

 

みたいな流れじゃないのかなぁ、と想像されます。

いや、想像ですから。

そもそも、この辺りの地名が「和示良」だったかどうかも調べてません。

 

ところで、由緒書に、

 

「五仁吉師(山ノ神)……字薮下より移す」

 

ってありますけど。

これ、どう考えても、

 

王仁吉師」

 

のことですよね?

誰か、神職さんに教えてあげた方がいいのではないでしょうか?

ほら、「千字文」とやらを日本に伝えたと言われている、実在しているかどうかも分からない「王仁」さんですよ。

そういえばこの人、「わに」さんですよねぇ。

「和爾」さんとも書きますよねぇ。

 

 

 

 

 

 

 

とはいえ、「五仁吉師」という表記が正しい、という可能性も十分にありますので、誰も教えてあげないんですね、きっと。