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べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「北向観音」

9/23。

生島足島神社」のある上田市には、別所温泉というところがありまして。

その辺りをちょっと攻めてみようか、と思い、まずは北向観音へ。

 

◯こちら===>>>

北向観音

 

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駐車場から上がっていくと、立派な石積みが。

葉っぱが少し色付き始めていました。

 

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まだまだ元気なので、こんな階段も登れます。

 

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百度詣での際に、数を忘れないようにするためのもの、のようです。

具体的な使い方がわかりませんが……石を置いていくのかな。

 

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鐘楼。

お地蔵さんの配置も含めて、見事という感じです。

 

参拝者がかなり多く(シルバーエイジの自転車グループもいらっしゃいました)、本堂への参拝の前に、

 

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「温泉薬師瑠璃殿」へ。

 

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扁額が読めません……。

 

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急な勾配の斜面に建てようとしたためか、いわゆる「舞台造」のようになっています。

構造物ファンとしてはたまりません。

あ、奥の額には「瑠璃殿」の文字が見えますね。

 

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足下には様々な碑があります。

白い大きいのは、北原白秋の歌碑のようです。

 

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いやぁ、かっこいいですね……。

これを見られただけで、ちょっと満足しちゃいました。

 

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天然記念物の「愛染カツラ」。

「当地方ではまれにみる大木のカツラ(雄株)である。樹高約二十二メートル、目通り周囲約五メートル、枝張り約十四メートルで樹勢はきわめて旺盛である。

北向厄除観音の霊木としてあがめられ、信仰と伝説にまつわる樹木である。

伝説によると天長二年(825)の大火の際、どこからともなく現れた千手観音が、このカツラの樹の上でひしめきあう避難民を救ったという。」 

 

全く存じ上げませんでしたが、

 

◯こちら===>>>

愛染かつら - Wikipedia

 

↑という小説があるそうです。

こちらのカツラの木と関係があるのだとか。

 

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他、「不動堂」もあります。

 

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本堂遠景。

 

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北向観音

本尊は千手千眼観世音菩薩で北斗星が暗夜の指針となるように、この北向きの、み仏は衆生を現世利益に導く霊験があり、南向きの善光寺と相対し古来両尊を参詣しなければ片詣りになるといわれている。

天長2年(825年平安時代常楽寺背後の山が激しく鳴動を続けた末、地裂け人畜に被害をあたえたので、これを鎮めるために慈覚大師が大護摩を厳修すると紫雲立ちこめ金色の光と共に観世音菩薩像が現れた。大師自らこの霊像を彫み遷座供養したと伝えられている。木曾義仲挙兵の際焼失したが源頼朝が再興し、その後北条義政及び代々の上田藩主より寺領の寄進があった。

厄除け観音として全国に有名であり芸能人の信仰も多い。」

 

北斗星が暗夜の指針となるように、この北向きの、み仏は衆生を現世利益に導く霊験」があると説明されていますように、本堂が北を向いており、そのこと自体は非常に珍しいようです(神社も、基本的に南面しています)。

が、だったら妙見菩薩(北斗七星の神格化)をお祀りすればよさそうな気がします……まだ輸入前だったのかな。

何か別の理由があるのか、ないのか……。

生島足島神社」に続き、北条義政さんが出てきましたね。

上田地方では、よほどの勢力を持っていたと推察されます。

崇敬する人が多いのはいいんですが、芸能人の信仰も多い」……この記述いりますか?

 

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こちらでも、「片詣り」が強調されています。

例えば、「多賀大社」も、「神宮」にいっただけでは「片詣り」と主張しています(「多賀大社」は、「伊弉諾」「伊弉冉」両神をおお祀りしており、親神に参拝しないのは「片詣り」というわけです)。

参詣者獲得のための、情報戦略でしょうか。

別に非難しているわけではないですよ。

信者の数=その神仏の備えている力の表れ、なのですから。

いかにして信者を獲得するのか、そのために努力をすることは当たり前です。

 

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……これは本堂じゃないな。

なんだっけ……とにかく、屹立する崖に接しているような建て方に萌えた(?)記憶があります。

 

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境内からの眺め。

思えば高くに来たものだ……。

 

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本堂を横から。

 

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逆光にめげず。

時間が早いせいで、日射しが若いです。

 

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こちら「額堂」という建物の内部。

HPによれば、

 

一般庶民は心に秘めた悩みの解消の願いを込め、自身で描いたり描いてもらった絵を神仏に奉納していました。これを掲げたのが絵馬堂です。

北向観音ではこれを額堂といい、江戸時代より絵の展示場として参拝者の目を楽しませてきました。

現在は仁王尊が安置されています。

 

↑ということです。

仁王様の前には、草鞋です。

 

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こちら「札所観音堂」。

 

「由緒(札所観音堂)

江戸享保年間に長野西後町の篤信者岡田新右衛門氏は、西国、坂東、秩父、四国の百八十八ヶ所の信仰を善光寺、戸隠の大昌寺、保科の清水寺及び、北向観音堂に移せり。当山には秩父三十四観音の尊像が奉納され多くの拝者を迎えたがその後堂舎の破損甚しく本坊常楽寺に保管のままであった。このたび尊い信仰を得て新しく「札所観音堂」の建立と見たことはまことに法幸なり。(略)」

 

音霊場を巡るというのは、非常に困難を極めるものなので、こうしてあちこちでまとめられています(現代のネット社会におけるまとめサイト的な発想を感じます)。

困難を乗り越えてこその誓願成就のはずなんですが、それだと大乗の考え方にはあわず(つまり、衆生には浸透しない)、結果、信仰篤い人が、こうやってまとめることになるのだと思います。

 

 

観音経読み解き事典

観音経読み解き事典

 

 

↑の「秩父三十四所」の項を見ますと、

 

「(略)もとは三十三所であったが、西国・坂東とあわせて百観音とするために、一カ寺が加えられた。(略)」

 

とありまして……いやいや、

 

「九十九観音」でもいいじゃないですか〜

 

とか、

 

「白観音」じゃだめだったんですか〜

 

(百引く一は「白」で「九十九」)とか、いろいろ不謹慎なことを思ってしまいました。

そもそもの「三十三」も、何か意味があるわけではないんじゃないのか……と思ったら、『観音経』の中で説かれる「観世音三十三身」に由来するって……。

ますます

 

「三十四」じゃだめ

 

じゃないんですか?

うーむ……。

 

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こちら、「愛染堂」。

いい天気です。

 

さて、国会図書館デジタルコレクションをあさっていますと、「北向観音」直撃というものは少ないので、まずは先ほどの『観音経読み解き事典』の「北向観音」の項からの引用で。

 

「【北向観音】きたむきかんのん

長野県上田市別所温泉にある観音堂。現在は別当寺である天台宗別格本山金剛山照明院常楽寺北向観音の本坊)が管轄する。本尊は千手観音。『信濃国出浦郷北向堂縁起』や『北向堂大悲殿本起』などによれば、天長二年(825)慈覚大師円仁が禅定の中でお告げを得て千手観音の姿を拝し、観音像を謹刻するとともに観音堂を建立し、翌年に遷座したのが始まりという。その後、ここには長楽寺・安楽寺常楽寺の「三楽寺」は置かれ、当初、北向観音堂は長楽寺の所轄であったようだが、長楽寺は廃寺となり、常楽寺別当を務めて今日に至る。その長楽寺は千手観音出現の地としても伝承される。北向観音堂は円仁建立ののち、平維茂が伽藍を整備、建長四年(1252)の北条国時による再建をへて、正徳三年(1713)焼失。のち享保六年(1721)に再建されたのが現在の観音堂である。厄除け祈願の霊刹として知られ、南面の善光寺如来と相対する北面の菩薩との関係から、この両寺に参拝することは現当二世の安楽を願う信仰を得て、両寺に参拝しないと「片参り」になるといわれる。寺宝は宝物館にて公開されており、毎年三月二十五日の「智恵のだんご撒き」など行事も多彩。」 

 

また、

 

◯こちら===>>>

信州の鎌倉|別所温泉の歴史

 

↑のHPによれば、

 

「「別所」という地名が初めて歴史に登場するのは13世紀であり、その由来は「将軍塚」で有名な平維茂(たいらのこれもち)が戸隠の「活鬼紅葉」という鬼女の退治を北向観音に祈願して首尾よく退治に成功したため、この地に「別業」(現代の別荘に相当するもの)を建て、別所と呼んだところから来ているといわれています。」

 

↑と、別所の由来を語る中で、平維茂が「北向観音」に祈願した、ということが書いてあります。

「鬼女紅葉」といえば、よく聞くのですが、話はあまり知らないな……ということで、

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 戸隠山鬼女紅葉退治之伝 : 北向山霊験記

 

↑あさってみたらこんな本が見つかりました。

幸い、「紅葉伝説」のwikipediaを見てみると、

 

◯こちら===>>>

紅葉伝説 - Wikipedia

 

↑↑の『戸隠山鬼女紅葉退治之伝』を要約したあらすじが掲載されているので、基本はそちらをご参照いただいて、『戸隠山鬼女紅葉退治之伝』の25コマから、「北向観音」が出てくるところをざっと引用してみますと(引用にあたって旧字を改めた箇所有り/判読不能文字は■に置き換える)、

 

「(略)我れ今不肖の身なれ共大祖を尋奉れば桓武聖帝第五の皇子葛原親王にて在しますなり桓武聖帝去りし年月比叡の御山を開き給ひ天台の仏法に帰依し給へば其御意をしたひつつ我家代々天台の仏法僧に帰依せしとぞ然るに今我れ信濃なる此出浦に来て見れば幸ひ爰に天台の梵刹あり殊に霊應あらたかなる北向観音の在し在せば我が家世世の縁故に依り諸神諸仏の多かれど此観音のちからを頼み妖賊紅葉を調伏せん兵衛如何にとの給へば兵衛畏りて答へしは兵衛慎んで先従と思うに日の御子にて在し在す聖帝国賊長髄彦を討給ふ時西より東に向ひ日の御光に逆ひつつ戦ひ給へば軍利あらず日の光りに逆ふの凶あるを覚とり給ひ所を替へ陣を移し日の御光りを背に負ひ賊に向ひて討給へば賊は忽ち亡びたりかかる例しを考ふるに今此北向観音に帰依なし威徳の霊光を後ろに負ひ紅葉が巣窟を構へたる北に向ひて討給はば一挙に亡びん吉相ありされば神仏多かれ共君の御諚の通りにて北向救世の観音に帰依し妖賊破滅を祈るを最とす御心決し給へりし〜(中略)〜急ぎ北向観音へ参籠有りて丹精をこらし紅葉が妖術破滅を祈り給ひけるに一七日を満ずる夜の暁に至り霊夢を感得し給ひける其夢の姿を云ふに白髪の老僧維茂公の御手を取り維茂来れとの給へば維茂其手に縋りつつ行と思へばいや高い戸隠山の雲井にて一村白き雲に騎りてぞお在しける維茂下を見給へば山賊紅葉が巣窟にて内外の容子ありありと一目に見渡し給ひける此時御僧は懐ろより四五寸計りの剣を出し是ぞ降魔の剣なり是持ちて討べしと授け給へば夢覚めたり〜(中略)〜維茂公出浦の郷に御帰陣に相成しかば兼て霊験を蒙りし七久里(なくり)の郷に鎮座まします厄除観世音へ御礼参被為有堂宇伽藍を御建立有りて手負ひの諸子を温泉に入浴させしに重傷も速に治せしかば人々其巧験の顕然なるに驚き実にも奇妙の霊液と大将深く感賞有たり(此七久里の里を当時別處と称ふ)。」

 

という感じで、「俺は桓武天皇の子孫で、桓武天皇天台宗を信仰していた、そういえばこの辺りに霊験灼かな天台宗北向観音があるじゃないか、そこに祈願して鬼女紅葉を退治する力を借りよう〜北向観音で祈ったら、夢に老僧が現れて、鬼女紅葉の陣の内外を透視してくれた上に降魔の剣を授けてくれた〜出浦の郷に戻ったら、厄除観音へ御礼参りして、堂宇伽藍を建立した。重傷の部下を温泉に入れたらたちまち治った」くらいの内容です。

明治時代に書かれた物語なので、何がどこまで正確なのやら不明ですが。

こうした伝説に「北向観音」が登場するのは、平維茂が伽藍を再建したことを受けて作られた話なのでしょう。

 

◯こちら===>>>

紅葉狩 (能) - Wikipedia

 

↑能の『紅葉狩』との関連性がよくわかりません。

多分、能の方が古いと思います(その前提となる物語があったものとも思いますが)。

ネットでさくっと文献を当たるだけでは、これ以上のことはなんとも……ですので、いつか戸隠に行ったときには……あ、あと少し行けば「戸隠神社」……なんですけれど、時間の制約もありますので……。

 

そうだ、ネット検索していたら、

 

◯こちら===>>>

信州デジくら | 善光寺道名所図会 巻之5

 

↑に、国会図書館デジタルコレクションで見つからなかった『善光寺道名所図会』が!!

でも活字じゃなかった……んですが、8コマに図絵があるので、江戸後期〜明治期の様子としてご覧ください。

全国でも似たような取り組みはなされているのだと思いますが、妄想家にはいい時代になったものです……できれば活字にしてください……。

そういえば、

 

◯こちら===>>>

信州デジくら | 信府統記 3

 

↑の92コマには、俗伝として、「平維茂が、鬼に負けて別所温泉に入ったけれども怪我が治らず死んだ。だから、今別所温泉には古墳がある」(大意)と書かれています。

確かに、「将軍塚」という古墳があるようですが(そして私は下調べをしていないので、見事にスルーしましたが……)。

結局、平維茂は、鬼に勝ったんでしょうか、負けたんでしょうか。

これなんかは、「由来のわからない古墳がある」×「由来のわりとはっきりした著名人がいる」、で「その著名人の墓になっちゃった」というだけのことで、「鬼に勝ったとか負けたとかは関係ない」んでしょうね(「どちらにしろ、墓は必要だ」、というやつです)。

 

 

 

 

 

 

 

ですが。

妄想家にとっては。

そっちの方が大事なんですが。

 

 

 

 

判官贔屓からすると、鬼に勝っていてほしいなぁ……。

 

 

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なかなかの素敵スポットでした。

そして、益々、下調べの重要性を思い知らされております……。