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渋谷で所用(狩り系の)を済ませて、帰宅前に何をしようか、と思ってやってきました「明治神宮」。
◯こちら===>>>
原宿駅を出てすぐに、神宮橋。
東京のど真ん中、若者の街原宿渋谷からすぐのところに、こういう空間があります。
実際は、宗教施設が街にある、ということは別段不思議なことでもないのですが。
ふむふむ。
参道が超広いです。
比較しても仕方ないですが、「伊勢神宮」「出雲大社」よりも広いです。
若干下っている、のでしょうか。
代々木の地名由来。
「御苑」の説明。
ふむふむふむ。
時間があれば散策したいところでしたが。
二つ目の鳥居。
新しい鳥居ですが、国内最大の木造鳥居だそうです。
朱塗りや石鳥居もいいですが、白木のままで朽ちていく、という寂びた感じが好ましいと思います。
建て直せばいいんだし。
「御苑」の案内図。
ふむふむふむふむ。
ここで参道は大きく右に曲ります。
これは……なんでしたっけ。
正面から。
廻廊の内側をパノラマってみました。
拝殿遠景
樹が元気。
廻廊の外側。
案内図。
ええと、「明治神宮」については、近代の神社ですので、簡単なガイドブックからwikpediaまで、充実しています。
で、今回来てみたかったのは、
◯こちら===>>>
↑でも回答されている、「宮」の字の「ノ」が入っていないかどうか、です。
興味のある方は、↑のQ&Aでご確認を。
それから、境内の構成ですね。
◯こちら===>>>
http://www.mkc.gr.jp/seitoku/pdf/f43-17.pdf
↑は、「明治聖徳記念学会紀要」に掲載されている、「伊東忠太の明治神宮社殿構想」という論文です。
興味深いので、じっくり読んでみたいところですが、とりあえずその中に、創建当時の境内の構成が掲載されています。
当たり前なんですが、↑↑の方で見られる案内図とほぼ同じです。
第二次大戦の東京空襲で社殿のほとんどは焼失したので、戦後になって同じように再建されたというわけです。
面白いのは、どの入口から入っても、直進して拝殿正面にたどり着くことはできない、ということです。
「高田崇史式怨霊の定義」によれば、こうした配置は怨霊を祀っている神社の特徴である、ということです。
「怨霊は、直進しかできない」から、「外に出ていただかない」ためにこうするんですね。
あ、「明治天皇」が怨霊だった、と思っているわけではないです。
直進しない参道は、参拝に際しての「前奏」みたいなものなので、できればじっくり取りたい。
最初に社殿を見たときの効果を考えれば、そうしたいと思うのでしょう。
ですが、とんでもなく長い参道を作るには、土地の広さに限りのある島国ですので、そうもいかない。
とすると、土地の広さを有効利用するためには、参道を曲げるしかないわけです。
「有り難い」ものを演出するための手段、なんだと思います。
非常に俗っぽくて申し訳ないですが。
他にも「参道が下っている」「必ず橋を渡る」といった「高田式怨霊の見分け方」にも合致するので、「明治天皇は怨霊になった」説も可能性としてはあるかも。
「下る」のは、「伊弉諾神」の「黄泉国下り」で「黄泉比良坂」が登場するように、死者の国が地下にあるのではないかと考えられていたからです。
王権の象徴として作られた古墳や、神の降り立つ神奈備(山)や磐代(岩)のように、古代には、高貴な死者は「高い位置」に葬られることが多かったようです。
開放された空間である「天」から、いつでも戻ってきてください、という発想でしょうか。
それを、怨霊の場合は「低い位置」に設定することで、「どうぞ、黄泉よりお戻りになりませんように」との願い(呪い)を込めている、という見方ができるのかと思います。
「川を渡る」というのも、現世と黄泉国の境にある川を越えないようにしているのかもしれません(常ならず流れ続ける川は、清浄の現われですから、死穢をまとった怨霊は越えることができない)。
あるいは、参拝者の穢れを祓うために、「川」を越えなければいけないのかも。
怨霊である、ということは、それだけ畏れられ、また敬われているということなのでしょう。
でも、面白いので、そういった発想は大好きです。
御朱印帳を購入しました。
記念スタンプも押したりして。
何にせよ、都会の真ん中に広大な森がある、ということは奇瑞といってもいいかと。
それが作られた森にしろ(日本の森林の多くは、古くから人の手が入って維持されてきたものなので、もはや「放置して自然のままに」ということはできないと思います)。
外国の観光客も多かったです。
アジア系の方も。
……まあ、既に観光地と化していますからいいんでしょうか(大日本帝国の礎を築いた初代皇帝の神威をお祀りしていますけれど……)。