9/12。
しばらく神社仏閣巡りから遠ざかっていましたが(案外仕事が忙しかった)。
ふらっと出かけたついでに、そういえばと思って行ってきました、「稲園山七寺(ななつでら)」。
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「大須観音」のすぐ南側にあります。
真言宗智山派の準別格本山です。
本堂。
向って左の鳥居は……何だったかな(をい)。
野天の「大日如来」。
ひっそりお稲荷さん。
以上です……。
さて。
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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会
↑の83コマから、「稲園山正覚院長福寺」の記事があります(引用にあたって旧字を改めた箇所有り。判読不能文字は■で置き換える)。
「稲園山正覚院長福寺
同町西側にあり。真言宗京都智積院直末。七ツ寺と通称す。当時はもと正覚院といひて、中島郡七ツ寺村にありて、天平七年行基菩薩の開基なり。光仁天皇の天応元年、河内権守紀是廣(河内国誉田の人なり。)秋田城介になりて任国にありしが、旧里にのこせし幼児光麿、七歳に成りし時、父是廣を慕ひ、任国出羽に下らむとてひとり旅立ち、当国萱津の里に至り、重く煩ひて身まかりぬ。その時父是廣、彼任終りて帰国せしが、萱津に宿りて、我児のうせけるに遭ひ、悲歎のあまり正覚院に来り、住僧智光に逢ひて、幼児が片時の蘇生を祈り給はれと乞ひしかば、智光憐みて、寺の東なる林中に壇を封じ地を清め、薬師如来を壇上に安じて、却死返魂香といへる名香をたき、医王密法を修せしかば、香煙児が面に掩ひ、忽蘇生し、父子名乗る事を得たり。さて互に愛慕の情を語らひ、しばらくありて全く死せしかば、なくなく正覚院に葬り、追福の為に、延暦六年十二月、七区の仏閣、十二の僧坊を建てそへたり。(七歳の亡児が為に、七区の仏閣を営みし故、七ツ寺と称す。)かくて仁和三年七月の水難・天慶四年の兵火等にあひて、堂宇衰廃せしを、六条天皇の御宇、尾張権守大中臣朝臣安長寵愛の女子、仁安二年六月十五日身まかしかば、むすめが夫豊後守親実と共にはかりて、其が菩提の為に彼七区の伽藍及び十二僧坊を再建し、稲園山長福寺と改號し、紀伊国高野山の支院となせり。さて十五所権現を勧請して、当寺護法の鎮祠となし、又安元元年正月より、治承二年八月までに、安永[一切経]を謄写し、輪蔵を建て、納め置きしが、建武年中の兵火に寺塔過半焼失せしを、清須の住人鬼頭孫左衛門吉久(法名宗敬。)天正十九年豊臣家の命によりて、寺を清須にうつし、大塚村性海寺の住僧良圓を中興開山とせしを、慶長十六年今の所へうつせしなり。
本尊 阿弥陀仏 脇立観音・勢至なり。
観音堂 正保二年の建立。正観音及び二王の像を安置す。
聖天堂 霊験著き故、住僧によりて浴油の法を修せしむる人多し。
十王堂 延宝元年の建立。地蔵及び十王の像は小野篁の作。
影堂 慶長年中の建立にて、鬼頭宗敬の像を安置す。
輪蔵 旧蔵は廃して、今のは貞享二年の再興なり。彼大中臣安永寄附の[一切経]は、全部は伝はらずと雖も、残欠数巻皆其時の古写にして、甚奇品なり。就中経唐櫃一合今に存して、蓋に十六善神の絵を蒔きたるが尤古雅なり。又其経寄附につき、五箇条の請状を其蓋に書きしるせし左の如し。字画の誤・文章の顛倒尤多くして、甚だ読みがたけれど、其古意を損せん事を恐れて、其ままに影写す。
(略)
三層塔 元禄年中住僧良快の造立。国君よりも資財を助力し給ひ、京都の仏師運長に命じ、五智如来と八大菩薩の像を彫らしめ、塔中に安置す。因に云ふ、享保中此塔の九輪かたぶく事ありしに、折ふし長崎より、麒麟大夫といへる軽業師当地に来りしが、此事を聞き、我是を直さんとて、其まま檐端に一本の竹をよせ、それをつたひて忽ち頂上に登り、好のままに直したるよし。
鎮守十五所権現社 天満宮と合せ祭る。社前の石燈籠に、弘文院林春常の銘文を彫刻す。
辨財天社 天和二年吉澤検校弘都が建立l。毎年十月十五日、客殿にて府下の検校・勾当・都名の盲人まで、平曲を奉納す。鳥居の額は朝鮮人雪月堂が筆なり。
其外稲荷・八幡宮等の小社、又護摩堂・太子堂・大日堂等の小堂多し。境内に白櫻紅楓の古樹多くありて、緇流韻士婦女僧俗の隔なく、春を探り秋を訪ふ名区にして、また東南の池上には、茶店檐を並べて水面に枕み、過客の余興に珍羞を供する、実に府下第一の佳境といふべし。
霊宝 薬師如来立像(唐仏。) 不動明王立像(智證大師の作。) 如意輪観音画像(後部大師の筆。) 獅子頭(仏工春日の作。) 地蔵画像(唐画。)
塔頭 一乗院。当寺中興二世良祐建立して隠居所となせり。」
同じく84コマには、当寺の伽藍が描かれており、現在とは比較できない大きなお寺だったことがわかります。
第二次大戦で焼失してしまったんですね。
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2014-07-26 - べにーのGinger Booker Club
↑の「萱津神社(補)」の記事で取り上げた、「反魂香」のエピソードが詳しく書かれていました。
もともとは、「中島郡七ツ寺村」にあったんですね。
「萱津神社」の記事を読んだとき、
「何で「萱津神社」辺りで死んだ子どもと、七寺が関係あるんだろう」
と思っていたのですが、こういうことでしたか。
元々は、それほど離れていなかったんです(東海道は、萱津の地を通りますから)。
しかし、「幼児光麿、七歳に成りし時、父是廣を慕ひ、任国出羽に下らむとてひとり旅立ち」って、数え年でも八歳〜九歳でしょう。
いくらなんでも、河内国から出羽国まで一人で旅をしようっていうのは無茶ではないでしょうか。
誰か止めなかったのか(伝説ですから)。
「七歳の亡児が為に、七区の仏閣を営みし故、七ツ寺と称す。」という由来なのでした。
「仁和三年七月の水難・天慶四年の兵火」……wikipediaによれば、仁和三年には「仁和地震」という東海・東南海・南海連動型地震が起こったとされており、その影響での水難ではないかと思います。
元々あった中島郡は、木曽川がほど近いですので、津波か、それによる海嘯か。
天慶四年の兵火がよくわかりませんが、「将門・純友の乱」のことでしょうか。
「唐櫃一合今に存して」については、
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http://www.ohsu.co.jp/ohsu/treasure.html
↑今も寺宝です。
「境内に白櫻紅楓の古樹多くありて、緇流韻士婦女僧俗の隔なく、春を探り秋を訪ふ名区にして、また東南の池上には、茶店檐を並べて水面に枕み、過客の余興に珍羞を供する、実に府下第一の佳境といふべし。」……『尾張名所図会』には、この茶店の様子も図絵で収録されています。
往時の様子については、
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大須七寺・幻の大寺院に「名仏」あり!〜’11名古屋・古寺巡礼1 カンタータ日記・奥の院/ウェブリブログ
↑のブログや(非常に実地的です)、
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↑のHPを参考にされるとよろしいかと(写真等の資料がとても貴重だと思います)。
すぐ近くには「七ツ寺共同スタジオ」という劇場がありまして、
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なくなるのかなくならないのかよくわからない「大須演芸場」とともに、「実に府下第一の佳境」たる雅さの名残なのかと思うと、よくわからないノスタルジィがわき上がります。
「物がない」と注目されにくいですが、こういったところの歴史こそ大切なのではないか、と思います。