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「砥鹿神社」の続き〜。
◯こちら===>>>三河国一之宮砥鹿神社/里宮摂社、末社
まずは、「本宮山遥拝所」。
御山まで登れない人は、ここから拝みましょう、ということですな。
全国には、伊勢神宮遥拝所はけっこうあるのではないでしょうか。
昔は、「お伊勢参り」は一生に一度のことだったんですね。
直接は行けないので、普段はこうした遥拝所から拝んでいたのでしょう。
まぁ、現代でもそう簡単に行けるところでもないですが。
末社の「守見殿神社」。
祭神の「大己貴命和魂(にぎみたま)」というのは、神の四つの面「和・荒・奇・幸」のうち、おだやかな側面を表しています。
自然崇拝から、そこに神格を創造するにあたって、当然ながら神も一面的な存在ではなかったのです。
大雨は、河川の氾濫をもたらしますが、日照りを解消してもくれます。
多面的な自然を、多面的なままにとらえる、原始的な信仰はそういったものです。
旧約聖書の神もまた、慈悲深さと峻烈さを持ち合わせていました。
ただ、それでは立ち行かない時代や地域があったのでしょう。
一神教の神、揺るぎなく絶対なる神が必要とされるほどに、生きることが大変だったのかもしれません。
ま、知りませんけど。
で、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)は、「豊川稲荷」のところでも書きましたが、五穀の神です。
そして、「迦久神(かくのかみ)」、やっといました鹿の神様です。
「天迦久神(あめのかくのかみ)」は、『古事記』に見られる神で、国譲り神話の前段に登場します。
簡単に言いますと。
高天原最強の武神である「タケミカヅチノカミ」が地上に派遣されることになったんですが、本来はその父神である「伊都之尾羽張神(いつのおはばりのかみ)」が派遣される予定だったのです。
父神が断ったら、「タケミカヅチ」にその役目を果たさせようということになり、父神のところに使いが派遣されることになりました。
この父神が住んでいるのが、天安河原で、何でか知りませんが「河を逆巻かせて道を塞いでいる」らしいのです。
そこには、「天迦久神」しか行けないだろう、ということでお使いに出されたのですね。
「迦久」は「鹿子(かこ)」で、鹿のように身軽な神だから、逆巻く河も飛び越えて行った、ということでしょうか。
一方で、「水夫(かこ)」という言葉があります。
上代からあるようですから、それなりに古い言葉でしょう。
「迦久」が「水夫」であるなら、河を乗り越えていくほどの手だれな船頭さんだった、ということになりますね。
他の解釈として、「アメノカクノカミ」は、「ホノカグツチノカミ」と同様に、「火」に関係する神ではないか、と考えられるそうです。
父神である「イツノオハバリノカミ」の「イツ」は「御稜威(みいつ)」と同義で「威力がある」という意味、「オハバリ」は「尾刃張(おはばり)」で、切っ先の刃が張り出している剣のこと、だそうです(「剣」の「尾」、つまり先っぽだから、切っ先のことです)。
そして、「タケミカヅチノカミ」もまた、剣に関係した神です。
「イザナギノカミ」が、「ホノカグツチノカミ」を斬り殺したときに生まれた神が「タケミカヅチノカミ」です。
雷神ですが、稲妻の形が剣のようであることから、剣の神でもあります。
火の神を斬り殺す、というこの神話自体が、「剣を鍛えること」の寓話ではないか、と考えられ、そうすると、金属を鍛えるときに発生する「火花」が、雷に擬せられて、「タケミカヅチノカミ」が創造されたのではないだろうかと言われています。
父神「イツノオハバリノカミ」、水、火の神「アメノカクノカミ」、そして「タケミカヅチノカミ」、この説話は「より優れた剣(あるいは剣を鍛える能力を持った人達)が選ばれた」、という意味なのかもしれません。
ま、知りませんけど。
「守見殿」って、多分「森見殿」だったんじゃないですかね。
「砥鹿神社」の周辺は、それは素敵な森でしたから。
さて、境内をあとにします。
「書道教室、剣道教室、弓道場」……ああ、何だか「神社」って感じがしますね。
今は開いてないのでしょうか。
天安河原で、「スサノオノミコト」が誓約(うけい)をしたときに生まれた神の一柱です。
出雲臣の祖先とされています。
国譲り神話で「大国主神」のところへ行ったのですが、彼に心服して三年も出雲に居着いちゃった神でもあります。
「アメノホヒノミコト」、「ホ」は「穂」とか「火(ほ)」とか「秀(ほ)」とかのことで、「ヒ」は「日」「霊」であるといいます。
今ひとつ何の神なのかよくわかりませんが、稲に関係はありそうです。
「稲穂」は「稲の火」でもありますので(上代、「火」のことは「ほ」といいました)。
「大国主命」絡みでお祀りされているのでしょうか。
さて、次が末社の本命です。
じゃーん、きました「荒羽々気神社(あらはばきじんじゃ)」!!
祭神は「大己貴命荒魂(あらみたま)」で、神の荒々しい側面、なのですが。
「古史古伝」の洗礼を受けた身には、「アラハバキ」ったら「荒覇吐」でしょう!!
もともと、「アラハバキ」という神様は、東北に多かったと言われています。
で、ですね。
『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』という書物には、この「アラハバキ」という神こそ、東北にあった一大王朝の主神だったのだ、と書かれているのです!!!
しかも、その外見は、「遮光器土偶」そっくりなのです!!!!
◯こちら===>>>東京国立博物館 - コレクション 名品ギャラリー 館蔵品一覧 土偶(どぐう)
謎の遮光器土偶しゃこちゃんを追え「木造駅・亀ケ岡遺跡・縄文館・カルコ」【青森】 :日本珍スポット100景
↑こういうのを、「遮光器土偶」といいます。
さぁ、当時『ムー』ッ子『マヤ』ッ子だった伝奇好きの私は、「こりゃ面白い話だぜ〜」と佐治芳彦氏の書かれた『謎の〜』シリーズを買い求め、そのトンデモな内容に興奮したわけですが。
俺の興奮返してくれよ〜……と思ったかどうかは定かではありません(古代史好きになったのは、この頃の経験が大きいのですが)。
かつて、「アラハバキ神社」という神社は全国にあり、今も「荒脛(あらはばき)神社」という神社は宮城県にあるようですが、実はどんな神様が祭られているのかよくわかっていません。
ただ、「荒脛」という言葉や字から、「脚の神様」ではないかと考えられています。
転じて「旅の神様」だったり、腰から下のことなら何でもオッケーということで「性病の神様」だったりするようです。
「脛巾(はばき)」というのは、すねに巻く布のことで、後代の「脚絆」のようなものです。
この、言ってみれば、民俗信仰全開の神様を、何でまた「東北王朝の主神」なんてことにしちゃったんでしょうか。
発想の源泉はいくつかありそうです。
まず、「中央(京都)対地方(東国)」という構図の持つロマンチシズム。
透けて見えるのは、大和朝廷に最後まで反抗したまつろわぬ民、「蝦夷」の存在でしょう。
彼らが神を信仰していたとしたら、恐らくそれは中央の人間が奉っていたような神ではなく、いっそ縄文的ともいえるものではないか。
そこで「遮光器土偶」が選ばれました。
続いて、神の名前ですが。
何となくエキゾチックというか、アイヌチックな名前の方が、「蝦夷」っぽい、と思ったんじゃないでしょうか。
で、耳慣れない「アラハバキ」。
元々、大和朝廷に反抗していた先住民族を「土蜘蛛(つちぐも……手足が長くて、洞窟に住んでいる)」、「八束脛(やつかはぎ……すねが長い異民族)」と呼んでいたり、神武天皇東征における最大の敵が「長髄彦(ながすねひこ)」だったりして、要するに「対中央」を演出するのにいい感じの響きだったんでしょう。
そして、現代でも、東北は中央の犠牲になっているんですねぇ……。
それはともかく、「大国主命」の荒魂を奉った「荒羽々気神社」、というのは全国でも相当珍しいのではないでしょうか。
元々は、別の神を祀っていたのでしょうが、取り込まれちゃった、と解釈するのが妥当かと思います。
神社の名前だけ、残ったんですね。
この、小さい方のお社はなんなんだろうなぁ……。
灯籠には、しっかり鹿が刻まれておりました。
あとは、駐車場の片隅に、「護国神社」が。
さすが一宮だけあって、静かな杜の中にたたずむ風格といいますか、杜そのものが清浄な空気で、心地よかったです。
人もあまりいませんし……。
お近くの方は、是非お立ち寄りを〜。

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