べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「伊河麻神社」(静岡市)

9/24。

とんだなあ……あまり神社仏閣に行けていない証拠なのですが。

というわけで、お休みだったので、静岡まで所用でお出かけついでに、ちょっくら巡ってみようとまず最初に「伊河麻神社」へ。

 

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shizuoka-jinjacho.or.jp

 

……静岡県神社庁にはもう少し頑張ってほしい……。

 

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社標。

式内社、なのですな。

 

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鳥居。

 

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拝殿。

 

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コンクリート造(?)の獅子鼻、かな。

 

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境内の忠魂碑。

 

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の前のお猫様。

 

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境内社

向かって左が「稲荷神社」、右が「金刀比羅神社」。

 

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遠景。

 

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ご神木かな……かなり雄壮でいらっしゃった(この枝ぶりよ……)。

 

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別アングルから。

 

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「伊河麻神社
(略)
祭神名 品田別命 例祭日 九月十五日
(略)
境内社 金刀比羅神社 稲荷神社 火産神社
(略)
由緒
延喜式神明帳に「駿河有渡郡 伊河麻神社是也」と所載され、諸郡神階帳に「正四位伊河麻明神、白鳳四年四月創建ス」とある。駿河志料には「伊河麻神社 今井鎌大明神といふ、当社は延喜式神明帳所載にて、風土記に有渡清水(或は玉潔水)伊軸麻神社浄見原天皇御宇四年四月被祭之、應勅処分、為四宮奉祭譽田天皇所也」と見え、神階は諸郡神階帳に「正四位下伊賀麻明神」とありて古はいかめしき御社にど有りけむ。此地を去りて遥かに鳥居株井垣添など云う字ここかりこに残り古の大社の俤あり、今は村持の社なれど古木茂れる森なり、今川家の近臣に四宮右近光匡あり之此社の神官にして武役を勤めし人にやありけん」と記されている。明治八年二月郷社に列し(以下略)」

 

ふむ、御祭神が「応神天皇」でも、「八幡」を名乗っていない、ということですか……。

珍しいのか、何か事情があるのか……。

 

さて、式内社といえば『神社覈録』ですが、ちらっとみたら由緒書と変わらない感じだったので、

 

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特選神名牒 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

『特選神名牒』から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

183コマです。

 

「伊何麻神社
祭神
今按社伝祭神応神天皇と云るは是も偽風土記の誤を襲へるものにて信じがたし別神なるべし
(略)
今按一説に上島村井鎌明神と云社是なりと云り井鎌明神と云ならんには此に由ありげなれど未だ明証を得ざれば附て考に備ふ」

 

式内社ですから、歴史的にはかなり古いと思われます(現在の社にそのまま繋がっているかどうかはともかく)。

御祭神が「応神天皇」かどうか、に関してはなんともですね……ある時期からは、そういった認識があったのでしょうから、それ以上遡ってどうこう、というのはなかなか難しいかと……静岡といえば、「日本武尊」ゆかりの神社なのか、と思えばそういうわけでもない様子……名前に何かヒントはないか、と思っても「いかま」……比較的安倍川に近いので、水神関係かなと思ったりもしますが(昔の川の流れについてはわかりません)、「鎌」は関係なさそう……むしろ「いかずち」と同じ「いか」だとすると、「厳」ですから、神の威力の表現、であれば特定の神性というよりは地域の神の総称っぽい……ううむ、詳しくは地域の方にまかせるしかないようで。

 

ともあれ、プチ静岡巡りです〜。

「烏森神社」(東京都港区)

7/14。

青山方面に用があったので、なぜかわかりませんが、「烏森神社」へ。

 

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karasumorijinja.or.jp

 

御朱印が有名らしい、という御朱印本の情報のみで出かけたら、大勢並んでおられました……(そりゃそうだ)。

 

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社紋。

 

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拝殿……なのか……都会の真ん中にぽつねん、と佇む……というよりは、何か、はまり込んだまま消えなかったテトリスのブロックみたいな存在感でした。

 

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狛犬さん。

最近、狛犬さんの形式も勉強せねば、と思っているのですが全然覚えられず……(社殿形式もろくに覚えませんから)……よく見るタイプの意匠ですが、都会のせいか、黒ずんでいるのがなかなかの迫力。

 

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遠景。

鳥居……鳥居。

 

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「烏森神社縁起
御祭神 倉稲魂命 天鈿女命 瓊々杵尊
平安時代天慶三年(約一千年前)に平将門が東国で叛乱を起こしたとき 征伐将軍藤原秀郷が当社に戦勝を祈願したとも このとき勧請したとも伝えられている 室町時代の享徳四年(約五百年前)には室町幕府関東管領古河公方と云われた足利成氏は 当社に戦勝を祈願した その祈願状は今日も当社に宝物として伝えられている
江戸時代は稲荷信仰により祭礼も二月初午の日に執行せられ 稲荷祭としてその賑わいは 江戸で一二を争うものであった
明治以降は五月四五六日を祭日とし、夏祭のはじめとしてその名をうたわれている
当社殿は 伸びゆく新橋の地にふさわしい近代建築美の中に 神社本来の伝統を加味し 昭和四十六年十二月 氏子の熱意により竣工をみたものである
(略)」

 

なるほど……ちょっと変わった取り合わせの御祭神ですね……いろいろ合祀された結果かな。

 

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御朱印

時間がなかったので、既に押されていた御朱印帳を購入しました。

 

さて。

 

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大日本名所図会. 第2輯第3編 江戸名所図会 第1巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

『江戸名所図会』より(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

125コマです。

 

「烏森稲荷社
幸橋より二町ばかり南の方、酒井下野侯邸の北の横通にあり。往古よりの鎮座といへとも、年歴来由共に詳ならず。元禄開板の[江戸鹿子]といへる草紙に、天慶年間、藤原秀郷、将門退治の時の勧請なりといへども、信としがたし。又如何なる故ありてや、当社の神宝に古き鰐口一口を納む。表に元暦元甲辰年正月、下河辺庄司行平建立と彫付けてあり。[江戸名所ばなし]に、日比谷稲荷の條下に云く、此宮地は借地にてありしに、既に断絶におよぶべき頃、稲荷の神、宮守に告げて、古来よりの証拠なりとて鰐口ひとつを与へ給ふ。宮守公へ訴へ、此証によつて、宮居つづがなしとあるは、当社の事を誤りていふならん歟。或人云く、明暦の回録に奇瑞ありしかば、其後社の辺除地となるとぞ。(略)祭礼毎年二月初午に執行す。幸橋御門に仮屋を補理ひて、神輿を移す。参詣群集して賑はへり。
古河御所
足利成氏願書一通(当社に蔵す。)

稲荷大明神願書事
今度発向。所願悉於成就者。当社可遂修造。願書之状如件。
左兵衛督源朝臣
成氏判」

 

藤原秀郷」というのは、いわゆる「俵藤太」のことですね、オオムカデ退治の……あれ、違いましたっけ。

で、その「藤原秀郷」が勧請した、ということが『江戸鹿子』に書かれているのですが、『江戸名所図会』としてはばっさり。

何かしらイデオロギー的なものがあるのか、明治になって何か証拠が出てきたから、現在の由緒なのか(まあ、「〜とも」と推定の表現なので、実際はわからない、というところでしょうが)。

少なくとも「古河公方」の頃には存在していた、というわけなので、関東にあっては十分な古社、ですね。

足利成氏」という人は、

 

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足利成氏(あしかがしげうじ)とは - コトバンク

 

コトバンクの『ブリタニカ国際大百科事典』によれば、


室町時代の武将。古河公方 (1455~97) 。鎌倉公方持氏の子。幼名永寿王。永享 11 (39) 年2月持氏が永享の乱に敗れて鎌倉で自害したとき,瑞泉寺の僧昌在に保護されて,のち信濃の大井持光を頼った。翌年3月兄春王,安王の下総結城 (ゆうき) での挙兵に参加したが,翌月落城,春王,安王は美濃で殺された。成氏は許されて在京していたが,宝徳1 (49) 年上杉房定が関東の諸将にはかり,室町幕府に願って鎌倉公方としたため東下して,9月鎌倉に入った。次いで 11月元服。同3年2月従四位下左兵衛督となる。成氏は,父持氏を敗死させた上杉憲実および憲忠の父子を憎み,一度は幕命を奉じて和睦したものの,享徳3 (54) 年 12月には憲忠を鎌倉の屋形に襲い殺した。幕府はただちに成氏追討を命じ,関東は成氏と上杉氏との対抗を中心に大動乱に陥った。康正1 (55) 年正月成氏は武蔵分倍河原 (ぶばいがわら) に出陣して,憲忠のあと上杉家を継いだ弟の房顕を破り,以後,次々と上杉方の諸将を攻めた。しかし6月になると,幕命を受けた駿河守護今川範忠の軍に鎌倉を奪われ,成氏は長禄1 (57) 年下総古河城を治めて,ここに拠った。幕府はさらに将軍義政の弟政知を伊豆堀越に下し,関東を鎮定させようとした。政知を堀越公方,成氏を古河公方と呼ぶのはここから出た言葉である。これより戦況は一進一退して決定しなかったうえ,文明9 (77) 年には房顕の後嗣顕定とその家臣長尾景春との間に戦いが起り,関東は一層乱れた。かくて成氏,上杉氏とも次第に勢力を失い,同 10年成氏は顕定と和した。次いで同 14年成氏は幕府,政知とも和睦した。」

 

という人で……室町後期〜戦国、乱れに乱れた時代のことで、私が一番苦手な時代です……勉強したい……。

 

このあとは、芝の「増上寺」、「芝東照宮」なども巡りまして、よき旅、よき宴を堪能しました〜。

「青山熊野神社」(東京都渋谷区)

7/14。

とある宴のために上京しまして、久々に上野辺りに行ってみたのですが、たまには違うところに……ということで、青山熊野神社へ。

 

◯こちら===>>>

www.tokyo-jinjacho.or.jp

 

相変わらず、東京神社庁のHPは素晴らしい……。

 

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参道入口。

 

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提灯……葵の紋。

 

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扁額。

 

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拝殿正面。

権現造っぽい豪奢な感じ。

 

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境内社、読めませんが……左から「秋葉神社」と、「伏見稲荷神社」、「御嶽社」。

 

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です。

 

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文政期の天水桶……でいいのかな。

「浄性院」は、この神社の別当、ということでしょうか。

 

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稲荷の社標……「伏見稲荷」と、「赤房稲荷」。

 

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狛犬さん。
造形的に、近代のものっぽいです(ちゃんと見てきてない)。

 

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ご神木……かな。

 

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拝殿遠景。

 

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手水鉢にも葵紋。

 

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さらに遠景。

 

御朱印は……いただけるようですが、神職さんが不在だったのかな……。

 

さて。

 

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大日本名所図会. 第2輯第4編 江戸名所図会 第2巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑『江戸名所図会』より(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

84コマです。

 

熊野権現
同所東南の方三町計を隔てて原宿町にあり。祭る所南紀熊野権現に同じく三社なり。青山の総鎮守にして、祭礼は、隔年九月二十一日に修行す。別当真言宗にして、浄性院と號す。」

 

うむ、わりとあっさり……。

さきほどの、東京神社庁のHPによれば、御祭神は、

 

「五十猛ノ命(いだけるのみこと)
大屋津姫ノ命(おおやつひめのみこと)
抓津姫ノ命(つまつひめのみこと)
伊弉冊ノ命(いざなみのみこと)」

 

とのことです。

由緒も引用させていただきますと、

 

「当神社は、元和五年徳川頼宣卿の邸内(現在の赤坂御所)に奉斎されていた御宮を町民の請により正保元年正月七日現在地に移遷し、翌年四月本殿拝殿その他造営し完成。青山総鎮守と仰ぎ奉り熊野大権現より神仏分離の令により社号を青山熊野神社と改称された。」

 

ということです。

確かに、現在の御祭神を見ると、建築関係の神々が多いのですが、熊野の神ではないですよね……『江戸名所図会』で「熊野権現」と同じ、と言っているのに……というわけで、神仏分離に際して何か操作があったかな、と思います。

『新編武蔵風土記稿』も探したのですが、私、こちらの「御府内」を書いたものが今は存在しないことを知らず、原宿村を探しても「あとは御府内のほうを見ろ」としか……。

なかなか妄想も浮かびませんが、いい狛犬さんに会えたのでよし、です。

「大鳥神社」(東京都豊島区)

6/17。

ふう……ついに周回遅れになりましたが、まだ昨年の六月の記事です……気にしない気にしない……。

さて、「長崎神社」「金剛院」の参拝を終えて、結局歩いたんですよね……で、もちろん「鬼子母神」にも伺いましたが、今回の目的地は大鳥神社

 

◯こちら===>>>

www.tokyo-jinjacho.or.jp

 

↑東京神社庁のHPです。

 

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参道入口。

ここから神社までが結構あって、最初だまされたかと思いました。

 

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鳥居と社標。

 

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狛犬さん。

うむ、しゃちほこみたいにお尻をあげていらっしゃる……なかなか面白い造形。

巻き毛の意匠も、表現が面白いですね。

狛犬さんもちらっと……かわいい……。

 

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ええと……読めるか……。

 

「古来三杉稲荷大明神と称し、宇迦之御魂神を奉斎す。元日出町都電通りに鎮座し同方面の旧家総代として崇敬篤く、近時地元有志◼︎◼︎例大祭に参列報賽の誠を効せり。今般高速五号線の新設により社地◼︎地其用地となりたれば崇敬者の総意を以て大鳥神社に合併その境内神社として鎮祭せんとして工を進め茲に正遷座祭を奉仕す。(略)」(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)

 

境内社の「三杉稲荷神社」の由来だったようです(現地では気付かず)。

 

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「三杉稲荷神社」。

 

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その鳥居。

 

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本殿。

 

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どうやら「雑司が谷七福神」のうち「恵比寿」様となっているようで、割と新しめの「恵比寿」様が。

 

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拝殿遠景。
記憶によると、何かのイベント(ハンドクラフト的な?)が行われていて、境内にブースが出ていたりしたので、そちらの写り込みを避けるために写真はあまりないです。

 

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それでも狛犬さんには寄りましたが(蛙……?)。

 

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社紋が巾着袋……。

 

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手水鉢にも。

これで大根もあれば、「聖天」関係かな、と考えることもできますが、そもそも社紋の古さがわからないし、もし御祭神が(後述の通り)「日本武尊」だとするならば、火打石をいれていた袋、と考えることもできるわけで……ちょっと苦しいかな……。

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御朱印都電荒川線つき)

これだけか……。

 

というわけで、とりあえず先ほどの東京神社庁のHPから、現在の御祭神は、

 

「日本武命(やまとたけるのみこと)
倉稲魂命(おいなりさま)
蛭児大神(えびすさま)」

 

となっている、とのこと。

「三杉稲荷神社」と七福神の「恵比寿」様を除くと、主祭神は「日本武尊」ですね……まあ、「大鳥神社」ですから。

では、と。

 

◯こちら===>>>

大日本名所図会. 第2輯第5編 江戸名所図会 第3巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑『江戸名所図会』の「鬼子母神堂」のところから引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

101コマです。

 

「鷺大明神(さぎだいみょうじん)祠 堂前左の方にあり。祭る神詳ならず。或は云ふ、出雲国神戸郡鷺村の鷺浦に鎮座し給ふ素盞嗚尊の妾女皐諦女なりといふ。此神は疱瘡の守護神にして、正徳の頃、松平羽州侯神告に依て是を勧請す。疱瘡寄願の輩、広前の小石を拾ひ得て、守護とす。例年八月朔日祭あり。また毎月朔日を以て縁日とす。」

 

◯こちら===>>>

「長崎神社」(東京都豊島区) - べにーのGinger Booker Club


↑「長崎神社」のところで引用した「十羅刹女」の中に、「皐諦」という神がおられまして、そちらが単独で祀られたということになっている……どうやら「十羅刹女」の中でも、「皐諦」はトップだと考えられていたようですので、そのことが関係しているのか……もちろん「鬼子母神」に勧請されたということなので、その娘である「十羅刹女」も祀られて不思議ではない、と。

「素盞嗚尊」と習合した「牛頭天王」は、ある意味で疫病神としては最強、もう全部の流行病をその身に受けているといっても過言ではないわけですが、「櫛名田比売命」が「鬼子母神」と習合したのがよくわからず……ああ、「牛頭天王」系の本がすぐに取り出せないのですよね……。

 

◯こちら===>>>

「雑司が谷鬼子母神」(再・補)「稲荷鬼王神社」(再) - べにーのGinger Booker Club

 

鬼子母神」のところで、『新編武蔵風土記稿』の引用をしていたのですが、ここでは御祭神が「瓊瓊杵尊」になっていて謎……「瓊瓊杵尊」に疫病神としての属性が見当たらないのですよね……じゃあなんで今は「日本武尊」なのか、というと、これは神仏分離の際に、「鷺大明神」、つまり白鷺で、「日本武尊」を引っ張ってきたのではないかと思います。

氷川神社」系の勢力といいますか、「大鳥」とか「鷲」とか「鷺」とかの、鳥の名前のつく神社の勢力が関東地方で広がっているので、それに引っ掛けて「日本武尊」にしたんじゃないかと思うのです……でも、元々は疱瘡神、それも出雲から直々にお招きしている……わりに、ちらっと調べてもその神社の存在がはっきりしない……疱瘡神にしても、「疱瘡神社」なんてたくさんあるわけで、それと一線を画す意味での「鷺大明神」だとすると、祭神を「日本武尊」にしちゃうのはどうなんでしょうね……まあ、実際のところは、「祭神詳らかならず」、なんでしょうけれども(「鬼子母神」の境内社だったのに「詳らかならず」というのも引っかかりますが……歴史というのはそこまで親切ではない、ということでしょうかね)。

江戸時代の、「鬼子母神」流行の余波、なんでしょうか(天台宗日蓮宗の隆盛、とも言えるのかもです)。

 

いろいろと、調べてみたいことが残りました〜、出雲の勉強、したいなぁ……。

 

 

 

おまけ。

 

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……キョンシー

 

「金剛院」(東京都豊島区)

6/17。

さて。

「長崎神社」の参拝を終えて、お隣の「金剛院」へ。

 

◯こちら===>>>

www.kongohin.or.jp

 

その前に、

 

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「「長崎不動尊」案内板
このお堂は、「長崎不動尊」と呼ばれ、ご本尊に不動明王、脇仏には明王を護る従者である制咜迦、矜羯羅の二体をお祀りしております。不動明王が剣や索、火焔を備えて忿怒の強い形相を示されておられるのは、煩悩を滅して私たちを救い、降魔を払うためです。
(略)
「長崎不動尊」は、昭和二十一年十月に地域の守護仏として、そのご加護を頂けるよう当地へお祀りされました。また同時に長崎不動講を結成し不動尊の運営と管理にあたってきました。
このたび堂宇の老朽化に伴い再建建立を発願して、併せて慈悲深い観音菩薩像を造立しました。清浄水にて観音さまの御仏体を洗い流しながら、観音菩薩真言、あるいは宝号を唱えてお参りください。
(略)」

 

……ナータくん……ちょっと、なんというか、なんだろうなぁ……「不動くん」ではいかんかったのか……まあ可愛いからいいのかもしれないですが(「不動明王」の梵名「アチャラナータ」より)。

 

 

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地蔵尊の由来
この舟型浮彫地蔵尊は、寛政八年(一七九六)八月二十四日に道標をかねて造立された道標地蔵尊です。地蔵尊の石中には「念仏供養」、その左右には「北・下板橋道 南・ほりの内道」という文字が刻まれています。ほりの内というのは、杉並区堀ノ内のことです。江戸時代には、宿場町として栄えた中山道板橋区仲宿方面、また厄除け祖師の堀ノ内・妙法寺へ、お参りする人々の道しるべになっていて、南北に通じる道があったことを教えてくれています。また、この地蔵尊の御仏体は、江戸城築城の時に使われた石の一部であると言い伝えられています。
(略)」

 

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こちらは、味のある……というより、空襲にでも晒されたような痕の残る「地蔵菩薩」像。

六道の導き手である「地蔵菩薩」は、「馬頭観音」、「猿田彦」などと並んで、道標に選ばれやすい御仏なのでしょうか。

 

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というわけで、

 

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ええと、あれ、いきなり本堂です。

 

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石仏や、宝篋印塔(かな)などがあちこちに見られました。

 

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灯篭には……狛犬じゃないかな、邪鬼か……。

 

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大師堂。

 

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こちらにもまたいろいろと。

 

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うーん、梵字は読めない……『密教事典』はあるので、見てみましたが、「a」かな……「胎蔵界大日如来」の種字……違ったらすみません。

 

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こちら「お砂踏み」参拝所。

八十八ヶ所巡りをぎゅっと圧縮して体験できる、という例のやつです。

いつかお遍路してみたい……。

 

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庚申塔、と「馬頭観音」と書かれています、どちらも道標、だと思われます。

 

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案内板……が、さすがに小さくて字が読めない……。

 

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こちら、赤門。

 

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こっちも小さいなぁ……。

 

「金剛院は、聖弁和尚によって大永2(1522)年に開創された真言宗豊山派の寺院で、正式には蓮華山金剛院仏性寺という。本尊は、観世音菩薩と勢至菩薩を脇侍として配した阿弥陀三尊である。開創当時は現境内地から北西方向に800mほど離れた。長崎三丁目の観音堂(現在は当寺の境外仏堂)の位置にあったといわれており、宝永6(1709)年ごろに当地へ移転した。
宝暦8(1758)年には、「百字真言梵鐘」と呼ばれる釣鐘が鋳造されている。その後の安政年間(1854〜60)には、寺子屋が開設され、長崎地区の庶民教育の拠点となっていたほか、明治元(1968)年の神仏分離令までは長崎神社を管理する別当寺でもあった。さらに、明治34(1901)年には、境内に長崎村役場が置かれていた。
薬医門様式の山門は、安永9(1780)年に建立されたものである。その装飾は彫りが深く、意匠的にも優れているため、平成6(1994)年6月に豊島区指定有形文化財になった。
本堂は、昭和29(1954)年に建てられた鉄筋コンクリート造で古典建築の造形を単純化しながらまとめられた点に特徴がある。客殿は、昭和9(1934)年の建築で、客殿の主室に洗練された造作の座敷飾を備えてあるのが特徴である。これらの点が評価され、二つの建物は平成26年に国の登録有形文化財となった。
境内にある2基の板碑のうち、1基には阿弥陀如来の画像が、もう1基には永享12(1440)年の年号が刻まれている。また、宝永4(1707)年に長崎村の村人が造立した庚申塔も1基残されており、いずれも地域の歴史と文化を伝える貴重なものとして、豊島区登録有形文化財になっている。」

 

なるほど、本殿はコンクリート造でしたか。

 

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赤門から境内を。

向かって右隣にあるのは、お寺カフェの「赤門テラス『なゆた』」です。

いろいろなイベントも行われているようです。

こうして、地域の中で生きているお寺、というのは、神社仏閣好きというだけで参拝しているものには敷居が高い……また、高くてもいいのだと思っています(お寺の側がどう思われているのかはわかりません)。

そして、ホームページの充実ぶりがすばらしい……昔、どうしても独鈷杵が欲しくて、高野山に行ったときに仏具屋さんに寄りたいと親に言い出せなかったことを後悔したことのある私です……(孔雀王』の影響です……荻野真先生、合唱……)……当時、こんなものがあったらな……。

 

御朱印はいただいておりません(いただけるかどうか、未確認)。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

大日本地誌大系. 第5巻 風土記稿1 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑『新編武蔵風土記稿』より。

139コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

「金剛院
新義真言宗多磨郡中野村宝仙寺末、蓮華山仏性寺と號す、本尊五智如来中興僧は貞享五年寂す、鐘楼 鐘は寛文年中鋳造なり ◯地蔵堂 金剛院持」

 

公式HPによれば、現在の御本尊は「阿弥陀三尊」です。

五智如来」のほうが、密教的ではありますね……。

 

HPの記述がとても詳しくわかりやすいので、そちらをご参照していただいて(特に、江戸期の寺社の場合、妄想を働かせる余地があまりないもので……いかんいかん……面白そうなんですけれどね、寺子屋を開設した比丘尼さんの話とか)。

 

次は、飽きもせず雑司が谷の「鬼子母神」……と思わせておいて、その周辺です〜。

「長崎神社」(東京都豊島区)

6/17。

池袋からしばらく歩いて(といっても、結構あった気がしますが……)、やっとこさ「長崎神社」に到着。

 

◯こちら===>>>

www.tokyo-jinjacho.or.jp

 

↑東京神社庁さんのHP(いい仕事だ……愛知県神社庁さんも頑張ってくだされ……)。

 

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鳥居。

 

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「長崎神社
長崎神社の創建年代は不詳ですが、元来、櫛名田比売命を祀り、武州豊島郡長崎村(現在の豊島区長崎・南長崎・千早・要町・高松・千川と、目白四・五丁目、西池袋四・五丁目、池袋三丁目の一部)の鎮守として信仰を集めました。江戸時代の中期には十羅刹女社とも称せられ、境内には享保十八年(一七三三)に奉納された「十羅刹女」と刻まれた手水鉢が残されています。隣接する金剛院は、明治元年(一八六八)の神仏分離令まで、長崎神社の別当寺でした。
その後、明治五年(一八七二)には村社と定められ、同七年須佐之男命を合祀して長崎神社と改称し、今日に至っています。精緻な彫刻物を有する本殿は嘉永二年(一八四九)に、拝殿は明治三二年(一八九九)に建立されたもので、旧社殿は絵馬を納める額堂として使われています。ほかに山岡鉄舟揮毫の神社額と祭礼幟などがあります。(以下略)」

 

ふうむ、「十羅刹女」と……。

 

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扁額……これは山岡鉄舟揮毫ではないと思います。

 

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参道。
なかなかの敷地を誇っております。

 

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狛犬さん。

溶けちゃった……わけではないと思います。

幾星霜風雨にさらされて……それでも残っておられるのに感謝、ですね。

 

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そして、獅子山も。

 

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鳥居。

こちらが山岡鉄舟揮毫……ではないと思いますが(?)。

両部鳥居(四脚鳥居)、でしょうか……真言宗別当のようなので、さもありなん、というところか。

 

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脚の向こうに、かつての石鳥居の基部と思われるものが……となると、もともと両部鳥居ではなかったか……。

 

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いきなり、境内社の「小柳稲荷神社」へ。

おキツネさまが、屋根の狛犬さんっぽくて、飛んでます。

 

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ちらりと覗く本殿。

 

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こういうの、なんていうんでしたっけ……。

 

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本殿向かって左側でした。

 

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拝殿。

瓦の装飾がよろしいかと。

 

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拝殿正面。

 

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巴。

 

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木鼻の狛犬さん。

 

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こちらはなんだったか……。

 

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打ち捨てられた感じの案内板。

 

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拝殿向かって左からの遠景。

 

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こちらが、案内板にあった額堂でしょうか……バケツの並びが……。

 

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こちら、火消しの役割を書いた額、のようです……なかなか面白い。

 

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狛犬さん。

 

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十羅刹女」の手水鉢。

 

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ポンプ。

 

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参道から、拝殿遠景。

絵になる……。

 

御朱印は……いただけたのかと思うのですが、神職さんがいらっしゃらなかったのか……あまり記憶しておりません。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

大日本地誌大系. 第5巻 風土記稿1 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑今回も『新編武蔵風土記稿』より(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

139コマです。

 

十羅刹女 金剛院持」

 

……うむ、まあ、致し方ないな……『江戸名所図会』も探してみたのですが、残念ながら見つからず……ただ、板橋辺りの記事に「十羅刹女祠」とか「十羅刹女宮」とかありましたので、江戸ではあちこちに見られたのではないか、と思われます。

その「十羅刹女」について、『密教辞典』から、

 

密教辞典

密教辞典

 

 

法華経陀羅尼品に説く、法華経を守護する鬼神。尼藍婆(にらんば)・毘藍婆曲歯華歯黒歯多髪・無厭足・持瓔珞皐諦奪一切衆生精気の10で、天台・日蓮両宗で信仰され、儀軌には法華経十羅刹法(略)があり、蓮華三昧経(法華経密教的に解説した偽経、以下略)や孔雀経に説くが異説が多い。(以下略)」(p354)

 

という感じです。

『日本の神様読み解き事典』

 

日本の神様読み解き事典

日本の神様読み解き事典

 

 

という本でも項目があり、そこでは他の名前も記されていますが、漢訳されたときの意訳と音訳、誤伝でこうなった、みたいな感じを受けます。

 

「『法華経』第十、総持品には、「時に一魅あり、有結縛と名づけ、また離結と名づけ、また施積と名づけ、また施華と名づけ、また施黒と名づけ、また被髪と名づけ、また無著と名づけ、また持華と名づけ、また何所と名づけ、また取一切精と名づく。仏所に往詣し、鬼子母と諸子と倶なり。」とある。」(p363)

 

どうも、天台宗日蓮宗系で尊崇されたようで(『法華経』の守護神なので)、

 

日蓮宗の開祖・立正大師日蓮上人は、『日女品供養』で、「十羅刹女と申すは十人の大鬼神女、四天下の一切の鬼神の母なり。又十羅刹女の母あり、鬼子母神是也。鬼のならひとて人を食す。人に三十六物あり。所謂糞と尿と唾と肉と血と皮と骨と五臓と六腑と髪と毛と気と命等なり。而るに下品の鬼神は糞等を食し、中品の鬼神は骨等を食す。上品の鬼神は精気を食す。此十羅刹女は上品の鬼神として精気を食す。疫病の大鬼神なり。鬼神に二あり。一には善鬼、二には悪鬼なり。善鬼は法華経の怨を食す。悪鬼は法華経の行者を食す」と書き残している。」(p363)

 

という感じに「日蓮」上人は考えていたようです……まあ解釈は人の数だけありますから。

で、案内板に、「元来、櫛名田比売命を祀り」とあるのですが、あんまり「櫛名田比売命」を単独でお祀りしている神社ってないと思うのですよね……関東独自の事情として、「氷川神社」の勢力が非常に大きく、そこではもちろんお祀りされております。

で、なぜ「十羅刹女」なのか……「須佐之男命」といったら、かつては「牛頭天王」と習合しており、「櫛名田比売命」もその妻の「婆利采女」と習合、「八王子」も日本神話の五男三女神と「牛頭天王」と「婆利采女」の子である八柱の天王が習合……どこにも「十羅刹女」の出番がない、しかしなぜか、「須佐之男命」の娘が「十羅刹女」だ、という伝承があったりする、と。

日蓮」上人としては、「疫病の大鬼神」と考えている、と。

疫病神つながりとして、「須佐之男命」と「十羅刹女」がつながるのはまあ、わからないでもない。

しかし、嫁さんの立場も、「八王子」の立場もない……と、ここで「氷川神社」なのかな、と。

牛頭天王社」でも、「八坂社」(祇園系)でも、「津島社」でもなく、「氷川神社」として尊崇されていた一大勢力が、女神信仰を取り入れる際に、「婆利采女」=「櫛名田比売命」を持ってくるのは差別化が図れない、というところで「十羅刹女」に白羽の矢が立ったのかな、と。

江戸では天台宗がかなりの勢力だったでしょうし、日蓮宗も強かったことでしょうから、『法華経』を信仰する人たちに説教しやすくなりますし。

しかし、「須佐之男命」の妻が十人います、というのはなかなか(いや、実際には複数いるんですけれど)説明しづらいので、御子神にした、ということなのかな。

 

まあ、わかりませんけれど。

 

この、関東(武蔵、相模)での「氷川神社」系の独特さ、というのも勉強してみたいところですね。

 

時間がない。

 

というわけで、次はお隣「金剛院」です。

「(池袋)御嶽神社」(東京都豊島区)

6/17。

宴の翌日、目的地は雑司が谷、また「鬼子母神」さんに行くつもりなのですが、池袋周辺に宿をとったこともあり、近くを攻めてみよう、ということで、御嶽神社へ。

 

◯こちら===>>>

mitakejinjya.p2.weblife.me

 

若い頃、巣鴨に住んでいたのですが、池袋周辺の神社仏閣などとんと興味がなく、もったいないことをしたものです……。

 

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遠景。

やや曇り。

 

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社標……?

おや、昔は「三嶽神社」だったのですね……関東に多いですかね、「三嶽神社」は。

 

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社標。

村社だったようです。

 

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これは……火消しの幟、ではなさそうですね……なんだろう、町内の神輿かな……。

左側は火消しのやつか……。

「池袋木遣睦」……木遣唄関係の何かでしょうかね……「睦」(これを、ボク、と読むのかどうか、詳しくないのでわかりません)というのは、何かでも観たことがあるのですが、「組」という意味合いなのか……そうではないのか……ちらっと検索しても浮かんでこないので、腰を据える必要がありますよ(誰が?<私ではありません)。

 

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境内社の「子育稲荷神社」。

 

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神輿。

普段から見られる、というのは個人的にはよいと思います(もちろん、大切に保管しておく、ということも大事だと思いますが)。

ふらっと参拝したら目に付くことで、みなさんの意識に残るのではないかと。

 

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拝殿。

 

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木鼻……でしたっけ、この部分……狛犬さんの彫刻がお見事です。

 

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竜もいます。

 

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拝殿遠景。

 

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狛犬さん。

 

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いけぶくろう……あれ、違ったかな……。

 

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うーん……ちょっとこれは、読むのはしんどいです……。

 

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御朱印

 

さて。

公式HPより、御祭神は、

 

「倭建命 神武天皇 武甕槌命

 

で、「子育稲荷神社」は、

 

保食神

 

とのこと。

由緒は、

 

「御鎮座の年代ははっきりしていないが、第百六代正親町天皇の御世天正年間(1573~1592)頃といわれ、その百年後の貞享四年(1687)に社殿創建(岸野六之助氏の調査)といわれる。また、古老の話によると武田勝頼(1546~1583)の家臣団が甲州より池袋の地に逃れ、持参してきた神宝でこの地に神社を造営したという伝承も残っている。爾来池袋下上の丘に鎮座し池袋駅西口一帯(池袋・西池袋)の鎮守の社として崇敬されてきた。
嘉永六年(1854)に社殿が造営され、幕末明治期には絵師 堤等川による大絵馬が数面奉納されている。昭和13年(1938)には村社に社格が昇格し、社名が三嶽神社から御嶽神社に改称される。」

 

なるほど、「三嶽神社」ではまずかったのでしょうか……「御嶽神社」だと「御嶽(おんたけ)」信仰とごっちゃになりそうな気がしますけれども。

「平成14年(2002)梟親子像が設置された。池袋の袋と鳥の梟の発音が良く似ており、また梟は苦労を除き福を呼込む(不苦労・福籠)神様とも言われる事から、近年梟のお守りが授与されている。」

 

フクロウは御祭神でも神使でもない、と……そういえば、西洋では人気者のフクロウ(アイヌの信仰でもいましたかね、フクロウの神)、日本ではあまり……どうしてなんでしょうね。

ちょっとだけ、「両面宿儺」っぽいなぁと思っています(いや、首がぐるぐる回る、というだけなんですが)。

 

というわけで、

 

◯こちら===>>>

大日本地誌大系. 第5巻 風土記稿1 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

『江戸名所図会』では見つからなかったので、『新編武蔵風土記稿』から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

135コマです。

 

「三嶽社 是も鎮守とす、雑司ヶ谷村法明寺地中観静院持、
末社稲荷」

 

……うん、まあこれだけです……検討のしようもない。

東国では「日本武尊」(とされる人物)の人気が高く、後付けとはいえ様々な伝承が残っています。

神代に片足を突っ込んでいるような存在の「日本武尊」が、なぜ人気があるのか……判官贔屓か……。

 

おまけ。

御嶽神社」から、「長崎神社」を目指して歩いていたのですが、途中で発見、「羽黒神社」。

 

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「由来書
羽黒神社の創建年代は不詳ですが
山形県出羽三山羽黒山・月山・湯殿山)の出羽三山神社より分霊されております。
明治二年(西暦一八六九年)の社寺取調書によりますと武蔵国豊島郡長崎村の一社であり、御祭神は倉稲魂命
(うかのみたまのみこと)で、農業や商業に関係の深い神様であります。
(以下略)」

 

なるほど、東国だ……私の住んでいる東海地方では、出羽三山系の神社にはほぼ出会えません。

山岳信仰としては御嶽山、白山がありますし、高野山比叡山などは、出羽三山に比べれば全然近いですから。

 

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江戸前期延宝年間(一六七六年)八幡神社御嶽神社羽黒神社のお社を当時の村の有志の方々のお力で建立された。(略)」

 

御嶽神社」の由緒とはややずれておりますが、江戸の街の発展とともに、宗教インフラも整備されていった、ということなのでしょうか。

ここに書かれた「御嶽神社」が、今回の「御嶽神社」とは異なるとすると、やはり東国では「日本武尊」大人気、ということなのだと思います。

やっぱり歩いてみるものだ……けれども、まあ、そうですね、自転車ほしいです……。