べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「伊勢山皇大神宮」(横浜市西区)〜横浜ほにゃらら紀行〜

8/13。

そろそろ目的地(桜木町駅からみなとみらい方面)に向かわなければいけないのですが、ラストとして伊勢山皇大神宮へ。

 

◯こちら===>>>

www.iseyama.jp

 

……スマートフォンの地図を見ながら歩いていたんですが、結構な坂を登らなければならず……。

で、写真を撮る順番が逆になってしまったもので、まずは境内社の、

 

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大神神社」へ。

ちらっと磐座が覗いています。

三輪鳥居じゃないのが残念。

 

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本殿をなんとか横から狙って、失敗。

 

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同じく境内社の「杵築宮」。

 

御祭神は、「大国主命(子之大神) 豊受姫大神 須佐之男命 住吉三神 姥之大神」。

 

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再び本殿を狙うも……。

 

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拝殿遠景。

神明造で平入り。

 

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拝殿向かって左手に、「大神神社」「杵築宮」があります。

 

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えっと……なんだろうこれ……仕切られているのは車祓いの場所かな……。

 

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拝殿正面から。

 

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灯台(由来を撮影し忘れました)。

 

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鳥居へ向かって、わりと登っているのがわかるかと。

 

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参道に……うーん「聖徳太子」か……。

 

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境内図。

あ、灯台ではなくて「神光楼」というのだそうです。

 

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「蒋公頌徳碑」。

蒋介石」氏への感謝、ですね。

国共内戦がね……どうにかなっていたら、どうにかなっていたのかもしれませんが、まぁそれは……。

御影石かな、反射が美しかったもので。

 

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鳥居の基部、かな。

 

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鳥居。

 

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社標。

 

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御朱印(今日初ですな)。

というわけで、横浜ほにゃらら紀行の中ではわりと写真が多かったです……引用などはまた次回〜。

「厳島神社」(補)(横浜市中区)

さて。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 横浜市史稿. 神社編

 

もうずっと『横浜市史稿』の神社編に頼りきり(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

182ページです。

 

「一七 厳島神社
厳島神社は、中区羽衣町一丁目十二番地に鎮座。(略)関内及び羽衣町の鎮守である。
当社は元、弁天社と称して、洲干島(洲乾、或は宗閑、又は秀暇とも書かれた。)一に茗荷島とも呼ばれた出洲にあつた。 今の弁天通六丁目及び本町通六丁目に跨る一万二千余坪は旧神域にあたり、社殿は弁天通6丁目百九番地のあたりにあつたと云う。 当時の尊体は、元伊豆国土肥の杉山に鎮座したものを、治承年中、源頼朝が宿願成就の報賽の為めに、勝地を当所に選んで新殿を造営し、奉遷したところであると言はれる。依つて杉山弁財天とも称し、又境内に七つの池があつて、清水が湧き出づるために清水弁天とも号した。其後は歴代武将の崇敬も浅からず、特に関東管領足利氏満に至つては、紺紙金泥の般若心経を奉納し、また太田道灌は、社殿を再建したと言はれて居る。此尊体は江之島弁天と同木同材であると言ひ、一説には弘法大師が七躯の弁財天を刻んで、江之島に安置したものを、頼朝が七所に祠を建てて、これを奉遷した中の、則ち当社が其一であるとも言はれる。故に、古人は時に、畫島 一に繪島又は江島 弁財天と称したかとも思はれるのである。但し、萬里の望畫島の詩は、当社を刺すものか、又は誤解であるか、一考を要すべきものである。(略)」

 

ううむ、『横浜市史稿』を見ていると、「杉山神社」がやたら多かったのですが、ひょっとするとこの「源頼朝」の話が元なんでしょうか。

 

「慶安二年八月二十四日、徳川三代将軍から、先規によつて社領六石一斗余の朱印地を寄せられた。その当時の別当は増徳院であつた。
新編武蔵風土記稿の、正保中の郷帳の項に、六石一斗五合秀閑領と見ゆることが載せてある。口碑に據れば、秀閑寺は当時、当社の別当寺であつたが、其後廃絶したと云ふのである。思ふに、此際は、増徳院が代つて之に当つたもので、即ち先規により改めて此寄進があつた訳のものであらうか。元禄年中、増徳院境内に仮殿を造成して、これを上之宮杉山弁天と唱え、平日は神体を此処に奉安して置き、本社には前立の神体のみを置いて下之宮清水弁天と称することとなし来り、爾来年々十一月十七日に、上之宮に於て祭典を行ひ、其夜に神体を下之宮に遷し、また翌十八日に、本社に於て神事を行ふことを例としたといふ時代もあり、嘉永二年の再建当時は、八月十五日を例祭日とし、万延元年六月二日の開港満一年の記念日には、神奈川奉行の命によつて、特に大祭を行ひ、以来此日を以て例祭日に改めたといふこともあつた。明治維新神仏分離の際は、厳島神社と改称し、増徳院の別当を停め、仏体は同院に付属したと云ふ。明治二年六月三日、官命によつて現在の境内に遷座し、翌三年六月二十七日に新殿の造立、明治四年神社の社格を定めらてから、後に村社に列せられたのである。明治二十年八月再建。同三十二年八月十二日、市中の大火に類焼して、一時仮殿に奉祀。同四十年四月三十日、神饌幣帛量供進社に指定され同四十二年、開港五十年記念祝典挙行の際、例祭を七月一日に改めた。大正五年、社殿再建。同六年六月二十日、鳥居再建。大正十二年九月一日、不幸大震火災に遭遇消失。同十五年五月二十八日、仮殿の造営を遂げた。
祭神は、市杵島姫命多紀理姫命多岐都姫命の三柱である。
(略)」

 

昔、別当だったっぽい「秀閑寺」は、「洲乾」に通じていますね(どっちが新しいのかはさておき)。

この御神体の移動の起源はなんなんでしょうね……。

いや、御神体を移動させる、ということ自体は珍しくなく(まあ、神輿を出すような祭りはほぼそれなんですが)、起源的に何があるのかはわかりませんが、例えば本宮は山の上、麓に別宮とか里宮がある場合は、祭りのときだけ降りてきていただくことはあり得るでしょう。

逆に、普段は別のところにいていただかなくてはならない(祟るから)けれど、ときに解放して差し上げないといけないパターンもあるでしょうか。

他に……単純に順番ね、っていうこともあるのか(「善光寺」の御本尊のようなもの……かな)。

まあどうしても理由が必要なわけでもないんですが。

前立本尊っぽいのは、当時の神仏習合のせいだと思います(というか、「弁天様」ですからね、ほぼ仏教側)。

 

「境内神社は左の如くである。

三社稲荷神社。太田屋新田の開墾者、太田屋源左衛門が江戸浅草の三社稲荷を当社境内に勧請し、草創する所であつたと云ふ。明治二年、本社と共に現境内に遷つた。祭神は御年神・大市比賣神・素盞嗚命の三柱である。
駒形神社。元横浜村駒形水神森に鎮座。慶応元年本社境内に遷座。明治二年、本社と共に現境内に移る。祭神は水波之賣神・底筒男神・中筒男神・上筒男神の四柱で、社は小祠である。
(略)
境内には、明治三十七八年戦捷記念の為めに建設した獅子岩象一対、及び大正天皇御即位奉祝記念建設の石灯籠一対がある。
(略)」

 

獅子山(岩)はなかったかな……あったのは、「中村八幡宮」か。

 

「[横浜湊惣鎮守 杉山弁財天略縁起]
当山杉山大弁財天の尊像は、弘法大師の彫刻にて、原は豆州土肥の杉山に鎮座ましましける所、治承四年八月、頼朝卿義兵を挙給ふ砌、深く御祈願ありけるに、霊験著しければ、四海一統の後、其冥加を報謝成給はんとて、諸々に勝地を撰まれけるところ、幸ひ当所を茗荷島劔ヶ淵といふを聞し召され、佳名といひ佳景といひ、末年萬民の機縁発すべき弁財天鎮座相応の勝地、茲に過ぎずと新に社殿を造営ありて、彼地の尊体を遷し勧請成したまふが故に、杉山弁財天と號し奉る。
此尊体は江之島弁天と同木といふ。劔ヶ淵とは劔の形なるを以て名づく。又琵琶島ともいふ。また七つの池ありて、清水わき出る故に清水弁天ともいふ。すべて此地は松多く偃蓋凌宵、根を結び枝を接へて淵にのぞみ、四時蒼々として風景斜めたらざれば、袖ヶ浦八景のうち洲乾の帰帆と唱美せし詩歌数多あり。むかし当初は風浪の難しばしばありて、陸地常に乾かざりしが、此弁天を安置してより、その患さらに無きゆえ、地名を洲乾とよぶ。誠に稀有の神変なり。江之島も神託によつて、建保四年五月十五日、大海忽通路となりし奇瑞に同じ。
然るが故、代々の武将も御尊敬あり、就中、足利氏満朝臣一宇三体に般若心経を紺紙金泥に書写して奉納あり。太田道灌は社殿の荒廃を再建せられ、忝くも当御代に至りては、大猷院殿尊君、社領竝に別当の院中、山林・竹木諸役免除の御朱印を下し賜ふ。依之彌々丹精を抽、天下泰平五穀豊穣の祈念怠慢なきところ、去安政六年、当所御開港になりて、海外より萬貨輻湊するが故、四民甍を竝べし繁昌の地と成ければ、諸人鎮守の神徳を仰ぎ、且、夫々の立願に利益を蒙る者数多なれば、日々に参詣の者群集して昼夜に絶えず、御祭礼は毎年六月朔日・十一月十七日いと賑はへり。そもそも当御神の功徳広大無量なる事は、三部の御経

頓得阿羅尼経 貧轉成就経 宇賀神王圓満陀羅尼経
その外にも、専ら智恵弁財天の大徳を司り、三世諸仏の化儀を助けて、一切衆生の貧苦を救、五穀成就を守りたまふ感得を説が故、禁中にも四月初巳の日、十月上の亥の日、御園祭あるなり。御名を或は宇賀神王、また如意珠王とも號し奉るは、深意ある事にて、則ち宇賀は食物にて、人間第一の寶、殊に大日本国は八大龍王の海蔵なれば、和光同塵の利益を垂たまふ事多し。先土の神を祈念する事を思はば、白月一日より十五日に至るべし。就中一日・三日・十三日最吉、又、八日・十四日・十五日勝れたり。
若、白月に祭らざる者は、毎月巳の日・亥の日に供養すれば、もろもろの芸術に妙逹して、あらゆる苦患を消滅し、貧窮を転じて財宝を豊ならしめ、親族和合して妙弁財の智慧を授り、利得を得、加之、悪夢・悪神・厭魅・蠱毒・星宿障難・呪詛鬼屍等、闘諍・王難・賊難・怨敵・疾疫・厄難等皆悉除滅、得延寿、安穏乃至速證、無上菩提との金文あれば、諸人太らに家内安全・子孫繁栄・福智円満を祈りて、此福神の加護にあづかり、大功徳を蒙るべき者なり。」

 

万能……。

 

「[新編武蔵風土記稿]弁天者。(略)洲乾ノ出洲ニアリ。土人清水弁天ト呼ブ。(略)村ノ鎮守ナリ。社中ニハ前立ノ像ノミヲ置。神体ハ元禄中ヨリ別当増徳院仮殿ニ安ジ、彼所ニテハ杉山弁天ト唱フ。坐像長二尺程、弘法大師ノ作、此社地ハ海面ニ望、勝景ノ地ナレバ、遊客神奈川駅ヨリ乗船シテ至ル者多シ。
(略)」

 

なるほど、遊興の先としても有名だったようです。

 

「[開港側面史]
私共、子供の時、年寄達の話に聞きましたには、弘法大師が江の島で護摩を修行して、七体の弁天様を刻んで納めて置かれたのを、頼朝公が七ヶ所に御社を建て、勧請されて、御朱印地を附けられた、其七社の弁天の一つで、頼朝公以来徳川家でも代々の将軍様より、御維新迄は御朱印が附て居ました。此辺に御朱印の有つた御社は誠に少なかつたです。
御社地は元は、丁度今の弁天通六丁目辺にありまして、南の方、太田町五丁目辺、北は南仲通五丁目、東は弁天通五丁目、今の正金銀行の辺に一の鳥居がありました。西は海岸で、寄洲になつて、社地一万余坪と言はれた広弘としたもので、砂地に松の大樹が沢山有て、所謂白砂青松と云ふ御社地であつた。西北には野毛浦、保土ヶ谷、神奈川から遥かに大師河原・羽根田の岬を眺め、遠く富士・筥根・大山を見て、景色のよさ、絵も及ばないと云て時々異人さんが此所へ来て、油画を書て居ました。夏などは松の蔭へ海風が吹て来る其涼しさ、今なら手も入れずに公園地にされるものをと、時々愚痴を申すことです。
御社と申すは五間四面の茅屋根で、彫物も有て立派な物でした。其前に瓢箪形の池が有て、潮入に成て居ました。潮が満て来ますと、魚が一ぱい這入て来ますが、此池の魚は誰もとりません。御別当が元町の増徳院の法印さんで、別に神主は有りませんでした。
開港一周年祭と云ふのが万延元年の六月二日に、此弁天様にありました。何でも金をかけて精一杯に賑かにして、外国人を驚かせと云ふ、上よりの内意ではあり、其頃は金の沢山儲かる時だから、我勝ちに立派にして、中には緋呉呂服の股引を穿て出て、股も陰嚢も赤肌にして医者にかかつたと云ふ滑稽も有つた位で、其前後今に(五十年)彼の位な大祭は有りません。此時から開港の記念として古来の八月十五日の大祭を改めて、六月二日に弁天様の祭りをする事に成たのです。(略)」

 

↑この部分が面白いです。
「何でも金をかけて精一杯に賑かにして、外国人を驚かせと云ふ、上よりの内意ではあり、」って感じで、祭りの日取りを変えてしまうという……まあ是非はともかく、ハマっ子の気っぷみたいなものが現れているのかもしれません(よく知りませんけれど、ハマっ子のこと)。

 

「[江戸名所図会]洲乾弁天祠。芒新田横浜村にあり。故に土人、横浜弁天とも称せり。別当真言宗にして、同所増徳院奉祀す。祭礼は十一月十六日なり。安置する処の弁財天の像は、弘法大師の作にして、江の島と同木也。此地は洲崎に左右共に海に臨み、海岸の松風は波濤に響をかはす、尤、佳景の地なり。海中姥島など称する奇巌ありて、眺望はなはだ秀美なり。(略)」

 

……え、『江戸名所図会』か……当たろうとも思ってなかったな……資料探しの時間が結構ないもので……。
現在と比べると、昔はもっと栄えた神社だったのだろうな(いえ、現在でも結構敷地は広いし、参拝客も多かったのですけれど……)、ということが記事の量から伺えます。

そうか、神奈川だしな、「源頼朝」まで遡っておかないといけないか……横浜を侮っていましたよ……。

まだまだ続きます横浜ほにゃらら紀行〜。

「厳島神社」(横浜市中区)〜横浜ほにゃらら紀行〜

8/13。

金刀比羅神社」をあとにして、とりあえずまだ行けるだろう……と思ったもので、「横浜弁天」こと羽衣町厳島神社へ。

 

◯こちら===>>>

www.kanagawa-jinja.or.jp

 

うん、有名そうなのに、内容が薄いな……。

で、これがまた驚くほど写真が少なくてですね……。

 

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社殿。

 

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境内社の「豊受稲荷大明神」。

 

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おキツネ様がおキツネ様なのか……犬っぽさが……。

 

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手水鉢。

宝珠がくっきり。

 

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横手に泉っぽいものがあります。

 

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こちらは「銭洗弁天」。

 

鎌倉の、

 

◯こちら===>>>

「銭洗弁財天 宇賀福神社」 - べにーのGinger Booker Club

 

「銭洗弁財天」にちなんでいるのかな、と思います。

 

 

 

 

 

 

……そう、こんだけなのです、写真。

引用は、最近滞っておりますが、また今度で〜。

「金刀比羅神社」(横浜市南区)〜横浜ほにゃらら紀行〜

8/13。

「中村八幡宮」を後にして、スマホの地図とにらめっこしながら、発見しました金刀比羅神社

 

◯こちら===>>>

www.kanagawa-jinja.or.jp

 

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いきなり拝殿です。

 

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狛犬さん。

ちょっとつるりとされておりまして。

 

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横浜市南区真金町 鎮座 
金刀比羅 大鷲神社 由緒
祭神 大物主神 崇徳天皇 天之鳥船命 手力雄命 日本武命

当社は遠く安政六年(一八五九年)六月二日横浜が開港するにあたり港崎町(現在の横浜公園)に讃岐国象頭山香川県琴平町)に鎮座する金比羅大権現として創建された。
慶応二年十月二十日の大火に類焼され翌三年吉原町に御遷座し更に明治五年に再び高島町七丁目の海側に遷座金刀比羅神社と社号を改正した。
これより先すでに万延元年(一八六〇年)十月六日港崎町名主佐吉代要助はかねて神奈川奉行に差し出していた金刀比羅神社の発令許可に請書を出している。
明治六年三月には地方長官の認可を受け無格社として神社明細帳に登録されることになり更に明治十五年四月に今の真金町に移転されこれが現在の神域であります。
本来当社は花柳街に勧請せられたのでありますから其の移転と共にしばしばの御遷座が行われたものと思われます。
大正十二年九月の関東大地震、更には大東亜戦争の戦災に惜しくも社殿は炎上され昭和二十五年仮社殿再建、平成元年八月鉄筋コンクリート入り母屋造りに建設されたものである。
酉の市行事は明治初年高島町金刀比羅神社遷座された頃、江戸吉原の例に倣ってお酉様を同社境内に末社として勧請されこれが大鷲神社のはじめである。
この頃から酉の市祭りは盛んで、「開運守護」「商売繁盛」の守り神として崇敬篤く現在は戦後金刀比羅神社と御同座して現在の社号に社名変更された。酉の市祭事はもっぱら武士階級の祭りでもあったようだが酉の市祭事が商人や花街の根強い開運守護または福運を熊手をもってかき集める縁起から喜ばれご神徳高く毎年十一月の酉の日盛大に斎行され当日は数百軒の露天商が立ち並び開運の熊手を受けられる善男善女で殷賑を極め独占的な年中行事として有名である。

稲荷社 祭神 宇迦之魂命
京都伏見稲荷大社の御分霊を祀り五穀を司り万民に働く食生活を授け導き人民を利し幸福を与え「家業繁栄」「心願成就」「五穀豊穣」の御神徳ありて万物生成の霊験顕著なるものとして信仰がある。
毎年二月の午の日が例祭である」

 

ふむ、なかなか新しめな神社ですが……横浜の神社は、おおよそ「横浜開港」と「関東大震災」が絡んでくるわけですね。

 

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「酉の市」の説明。

日本中の「(大)鷲神社」で行われています。

熊手、の最初は、やはり東京は浅草の「鷲神社」でしょうか……。

 

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あれ、お稲荷さんの写真がない……。

 

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ちょっと遠景。

 

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遠景。

 

ううむ……スマホの電池が減りやすくなっていた時期ではありますが……写真少ないな……。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 横浜市史稿. 神社編

 

今回も『横浜市史稿』の神社編に頼ります(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

412ページです。

 

「五九 金刀比羅神社
金刀比羅神社は、中区真金町一丁目三番地に鎮座。(略)
安政六年、讃岐国象頭山金毘羅大権現を勧請して創建したと言ふ社であるが、初めは金毘羅大権現と称して、港崎町にあつたものを、慶応二年十月二十日の大火に類焼して、翌三年三月、吉原町に遷座し、更に明治五年に、再び高島町 七丁目の海側 に遷座。同年現社号に改称したが、翌六年三月に、無格社として神社明細帳に載せられ、明治十五年四月、復た、真金町に移転した。(略)これが現在の神域である。 当社は本来、遊郭内に勧請せられた所であるから、其移転と共に属次の遷座が行はれたものである。 大正十二年九月の大震災に焼失し、同十三年六月に再建を遂げた。
祭神は大物主神崇徳天皇の二柱である。
(略)
境内神社は左の二社がある。
大鷲神社。創立不詳。初めは高島町遊郭内にあつた。其頃から酉の市の祭事が行はれたと云ふ。明治十五年に、遊郭が真金町に移転したので、伊勢山大神宮の末社の中に合祀し、真金町の方には遥拝所を置いたが、後に移して、金刀比羅神社の境内神社としたと云ふ。祭神は手力雄命、日本武命の二柱である。(略)毎年十一月の酉の日に祭事を執行する。
稲荷神社。沿革不詳。祭神は宇迦魂命。(以下略)。」

 

神社の由緒書のほうが詳しいくらいでしょうか……。

開港に合わせて遊郭が作られたんでしたっけ……その辺りの知識がとんと薄いもので……まあ、人の集まるところには花街ができるのは当然といえば当然で。

そういえば、「唐人お七」……あれ、お七でしたっけ……って、あれは浦賀か(ハリスの愛人、と言われている人だったかな……)、なんて方もいらっしゃったようなので、いろいろなドラマがあったのでしょう。

この辺りは郷土史家の方々にお任せしまして、まだ巡ります〜。

 

「中村八幡宮」(横浜市南区)〜横浜ほにゃらら紀行〜

8/13。
さて、石川町の「諏訪神社」をあとにしまして、続いては「中村八幡宮に行ってみました〜。

 

◯こちら===>>>

http://www.nakamura-hachimangu.yokohama/#

 

いやほんと、神奈川神社庁のHPは優秀です……愛知の神社庁もがんばってくれないか……もしもうあったら申し訳ない……。

 

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川沿いの道を歩いていたんですが、こんな看板が……「地元でたばこを買いましょう」……すごいな、神奈川県だけで742億以上のたばこ税が……でもそれが、喫煙原因の肺がん治療費に不足しているというのはなんとも……もっと値段があがると思いますね、たばこ……。

 

そういうブログではないのでした。

 

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参道入口。

うっすら見えるかと思いますが、また登っています。

うーん、地域的に、そういう神社が多いだけなのかな……郷土史家のみなさんにお任せしよう。

 

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どうも、明治になって設置された水準点があったようです……さすがに、その辺りに強い興味はないです……巡ってみたら、それはそれで面白そうですけれども。

 

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鳥居。

階段の奥に、コンクリで固められた崖が。

やっぱり地域的なものか。

 

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お地蔵さんと庚申塔

庚申塔のほうは、「青面金剛」なのかどうかもわからず、向かって右のお地蔵さんは顔が……。

経年劣化にしては、どちらも不自然かなぁ……。

 

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階段。

 

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石灯籠。

うーん、何の故事なのか……御嶽講か富士講の紋っぽいものも……刻文まできちんと読まなかったなぁ……後ろの「平」はなんだろう……。

 

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階段を登りきると、獅子山があります(逆光逆光)。

親子獅子……阿形のほうの子獅子は、山の裏から登るつもりのようです。

 

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扁額。

シンプル。

 

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こちら、拝殿……なかなかな雰囲気じゃないでしょうか……公式HPには、歴代社殿の貴重な写真がありますので、ご参考に〜。

 

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こちらは境内社の「吾妻稲荷社」。

ちょっと大きさがわからないと思うのですが……。

 

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とりあえず、この木彫りのおキツネ様の風情といったら……。

 

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外からはこんな感じ。

 

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お隣は「忠霊祠」。

 

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再びの獅子山。

うーん、もう少し天気が良くて、逆光でなければ……。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 横浜市史稿. 神社編

 

今回も『横浜市史稿』の神社編に頼ります(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

197ページです。

 

「一九 八幡宮
八幡宮は、中区中村町千二百三十七番地に鎮座。(略)
由緒書に云ふ、古ハ記録モ存シ、御由緒等詳ナリシモ、中世当宮ノ別当タリシ玉泉寺類焼ノ砌焼失シテ今ハ其ノ影ダニナシ。然レドモ、古老ノ口碑ニ曰ク、醍醐天皇ノ御宇、既ニ神祠此ノ地ニ存在シ、八幡大明神と称ヘ奉レリト云フトアリ。然ルニ当宮ハ、古ク神地・神田等ヲ有シタリシモ、明治十年地租改正ノ際、或ハ上地トナリ、或ハ散ジテ、今ハ餘ス處ナシ。明治六年、村社に列セラル。而シテ頼朝、鎌倉ニ幕府ヲ樹テ、鶴岡ニ八幡宮ヲ勧請セラレシヨリ、毎年一回、幕府ヨリ当宮ヘモ幣帛を捧ゲラレ、又、北條氏ニ至リテハ、殊ニ崇敬ノ念厚ク、年一回、幣帛ノ外ニ、米穀又ハ、田地ヲ寄進セラレタリシト云フ。又、当村ノ旧家 石川徳右衛門。 ニ残リシ旧地図 寛保二年。 ニモ、八幡宮除地若クハ、八幡宮神田ト云フ個所散見ス。云々。」慶応三年、幣殿及び拝殿を新築。明治維新の際、神仏混淆の禁止によつて、玉泉寺の別当を停め、其後、神地・神田等或は上知又は分散し盡したと云はれて居る。明治二十一年五月二日に、社名を八幡宮と改称し、明治四十二年九月十五日に、神饌幣帛料供進社に指定せられ、大正六年に、本殿・幣殿・拝殿の改築成り、同十二年九月一日、大震火災にて社殿以下悉くを焼失。直後、御下賜材を拝受して仮本殿を造立し、続いて仮拝殿及び神楽殿社務所・神庫・境内神社の再建を遂げた。今や社殿の本建築は設計弥成り、将に造営の工事に着手する運びとなつて居るのである。
祭神は譽田別命である。

附記。由緒書には、主神に譽田別命、相殿に天照皇大神五丹大明神を斎き祀るとあれど、今の明細帳には相殿の祭神が載せてない。

(略)
境内神社、稲荷神社。祭神は稲倉魂命。(略)
古来は、鶴岡八幡宮に倣つて、八月十四日・十五日を例祭日としたが、明治二十九年に九月二日・三日に改め、大正六年七月に再び改めて、八月十五日・十六日としたとのころである。十五日には神饌・幣帛供進使の参向があり、式後神輿の渡御を行ひ、例祭の外は又、古式祭を行ふ。即ち正月十五日の祈弓祭、五月十五日の尚武祭、九月十五日の例祭で、蟇目神楽の神事をなし、更に六月晦日及び十二月晦日に大祓式を行ふことである。
(略)
史料
(略)
[新編武蔵風土記稿]八幡社。除地二畝十八歩。村ノ中程ニ建リ。鎮守ナリ。伍丹明神ヲ相殿トス。是伍丹大王ヲ祀レルナリ。玉泉寺持。」

 

醍醐天皇」といえば平安時代ですから、1000年以上の歴史がある、というわけですね。

記録はなくなってしまっていますけれども。

それにしても、「五丹大明神」ってなんだろう……『新編武蔵風土記稿』にも「伍丹明神」「伍丹大王」ってありますねぇ……名古屋の神社でもですね、「五仁」って人を祀っているところがありましてね、それに関しては「王仁」のことだろうと思っているのですが……語感的に言うと、「巨旦将来」のことでしょうか、「蘇民将来」伝説の……。

むむ……謎を(すでに謎でなかったら申し訳ない)残しつつ、まだまだ続きます〜。

「諏訪神社(石川町)」(横浜市中区)〜横浜ほにゃらら紀行

8/13。

さて、「元町厳島神社」をあとにしまして、スマートフォンの地図を参考にしつつ、うろうろしてみました結果、諏訪神社を発見。

 

◯こちら===>>>

www.kanagawa-jinja.or.jp

 

うーん、「石川町諏訪神社」と呼んだ方がいいのか……。

 

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結構狭隘な立地です……神社は、山や丘陵をバックに(あるいはその頂上に)建てられることが多いのですが、ここまで見てきた横浜の神社もみんなそんな感じでしたね……。

 

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由緒書。

 

諏訪神社由緒
当石川町に鎮座の諏訪神社は、文明十三年(室町時代)の創立です。
当時現在より高所に小祠があり、諏訪神社と号されて附近一帯の住民からの崇敬篤く燈明の絶えないことから石川河岸を出入りする漁船の目標となったと『武蔵風土記久良岐郡石川村の章』に見えます。
災害により社殿焼失という不幸を経ましたが、現在三千戸の氏子を有し昭和三十八年八月には新社殿の再建もなり「はまのお諏訪さま」と親しまれ氏子と共に存続発展し続けています。」

 

御祭神は「建御名方神」、まあ「諏訪神社」ですから。

 

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文明十三年創立、の石標がありました(が、文明十三年に建てられたわけではないと思います)。

 

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扁額。

 

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社殿。
平入りに唐破風、権現造かな……。

 

……あれ、写真がこれだけ……おかしいな……。

それほど広い神社ではないのは確かなのですが、いくらなんでも少ないな……スマホの充電を気にしていたのか……。

 

ともかく、さて。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 横浜市史稿. 神社編

 

↑『横浜市史稿』の神社編を探してみました、ありました(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

410ページです。

 

「五七 諏訪神社
諏訪神社は、中区石川仲町五丁目百十番地に鎮座。(略)
由緒は不詳。元は玉泉寺の持であり、俗称の諏訪山の上にあつて、(略)、明治六年八月に、現在の境内に奉遷し、新に社殿の造立をした。明治二十九年に、祝融の災に見舞はれ、後一時仮殿を以て奉安したが、大正五年に再建した。更に大正十二年九月一日の大震火災に、再び灰燼に帰したので、翌十三年六月に早くも復興を遂げた。
祭神は武美那方命。
本殿(略)・拝殿(略)、共に神明造、幣殿によつて接続し、全体は権現造、総亜鉛葺。外に神楽殿(略)社務所(略)がある。
氏子は石川町及び石川仲町の一円である。
(以下略)」

 

え〜、現在は石川仲町、という町名がなくなっており、石川町になっています(ウィキペディア参照)。

もともと、諏訪山と呼ばれていた山の上にあった小祠で、だから「諏訪神社」になった……のだとすると、諏訪との関係性は何かあるのか……あんまりなさそうです。

諏訪大社」の場合は、神体山としての守屋山があります……どちらかというと「諏訪」は諏訪湖にかかる地名のような気がしますので、山ではないでしょう……ということで、諏訪山という呼称自体がそれほど古くはない、少なくとも、「諏訪大社」ができて、その神体山との関係性か、風景が似ていたのか、諏訪山と呼ぶようになった、と考えるのが妥当かな、と(あるいは、長野の諏訪は全く関係ないという可能性もありますが)。

諏訪山と呼ばれるようになった時代と、そもそもそこに祠があった時代、どちらが先なのかは何とも言えませんが、山の上に祠、というのは(古墳の上かもしれません)、いたって古い思想に基づくものじゃないかと思います。

祠の御祭神がなんだったのか、についてもさっぱりわかりませんが、古いものだとして、雨乞い(龍蛇神辺り)か日照り(太陽神)か、まあどちらかでしょう(断言)。

そうでないとしても、何かの理由で「諏訪山」と呼ぶようになった山で、お祀りされている神を「建御名方神」とするのは至極当然の流れでしょうね。

勧請されたわけでもなく、地名先行で御祭神が決まった、となると、結構珍しいんじゃないでしょうか……いや実際はわかりませんよわかりません。

武士の世の中になってからは、「八幡」「香取」「鹿島」に並んで「諏訪」も武神と考えられるようになりましたので、そういった様々な理由から「諏訪神社」になったのか……船の目印としてであれば「住吉」でもよかったんじゃないかな……あっちは山の上ではないか……。

軽くジャブ的な妄想でした。

 

 

「元町厳島神社」(横浜市中区)〜横浜ほにゃらら紀行〜

8/13。

横浜ほにゃらら紀行、続いては「元町厳島神社

 

◯こちら===>>>

www.kanagawa-jinja.or.jp

 

↑神奈川神社庁……ナイスなお仕事ですよ……全国の神社庁さんにこれを作って欲しい……。

 

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元町の商店街、なのかな、そういった中にあったもので、最初はわかりにくいかも。

 

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案内板二つ。

内容はほぼ同じです。

 

「元町厳島神社
この神社は今から約七〇〇年以前より元横浜村洲干島に鎮座していました清水弁天、洲干弁天を、元禄年間に分祀し、元町一丁目の増徳院(真言宗)仮殿にご神体を奉安していました。しかし明治維新神仏混淆の禁止により増徳院から分離し、厳島神社として元町一丁目十五番地に社殿を造営、元町の鎮守様となりました。
祭神は、市杵島姫命多紀理姫命多岐都姫命木花佐久夜毘売命でいずれも女神であります。お社は関東大震災により焼失しましたが、御下賜材により仮殿を建設し、昭和初期には元町五丁目二〇八番地の当地に遷座し再建されました。第二次世界大戦でまたもや灰燼に帰しましたが、昭和三十六年に氏子崇敬者の熱意により鉄筋コンクリートの社殿を建立し今日にいたっています。
元町厳島神社は、商売繁盛、合格祈願、縁結びの神様でもあり、元村以来の元町の発展興隆の守護神であります。境内には末社として金毘羅神社と、当地の名主であった石川家から寄進された皇太神宮も併祀してあります。」

 

横長の方を引用してみました。

 

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いきなり神輿庫ですが……紋が気になったもので。

 

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お猫様発見。

 

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末社の「皇太神宮」。

 

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これは……あまり位置関係を覚えていないのですが、境内への階段を上がった左手だったと思います。

 

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「皇太神宮」の隣に「金刀比羅宮」。

 

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拝殿。

まだまだ新しいです。

 

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拝殿手前の、天水桶……だと思います。

猫にえさをやってはいけないようです……いえ、あげてませんよ。

 

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遠景はこんな感じです。

うむ……他にも参拝の方がいらっしゃったからなのか、写真がいつにも増して少ないです……。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 横浜市史稿. 神社編

 

↑今回も、『横浜市史稿』の神社編を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
342ページです。

 

「二四 厳島神社
厳島神社は、中区元町一丁目十五番地に鎮座。境内は三百七十四坪四合九勺。(略)
元、横浜村の洲干島に鎮座した清水弁天、一名洲干弁天 今の羽衣町厳島神社。 の分祀であり、其創立は、元禄年間に於いて別当増徳院の内に仮殿を造立し、平日は神体をここに奉安して、 例祭の日にのみ本社に奉還。 杉山弁天と称し、又は、上之宮 本社を下之宮と称した。 と称してからの濫觴である。其杉山と称したのは、治承四年八月の頃に、豆州土肥の杉山から神体を移してからだといふ。明治の維新に神仏の混淆が禁止の際、増徳院と分離して元町の鎮守となり、厳島神社と改称した後に、村社に列せられた。近年は境内末社浅間神社を併合した。大正元年に社殿の再建をしたが、大正十二年九月一日の大震火災に、社殿・神楽殿及び境内・境外の末社全部を悉く灰燼に帰したが、間もなく御下賜材を拝受し、仮殿の造営を遂げて、今日に至つたものである。もとは今の山下町の八十番館辺にあつたが、万延元年の掘割川以西の民家を総べて東岸に移された時、元町二丁目と三丁目の中間である其時の換地、石階百一段を登つた高さ九丈餘の丘陵の上に遷されたが、後又、当社の境内神社となり、更に本社に併祀されたものである。
祭神は、市杵島姫命多紀理姫命、多紀都姫命、木花開耶毘賣命の四柱である。
現在の仮社殿は、九尺に九尺の略式春日造で、亜鉛葺である。

 

境内神社には左の一社がある。
金刀比羅神社。由緒は不詳。祭神は大物主神崇徳天皇の二柱であるが、元の社殿(略)は震災に焼失し、現在のものは仮殿で、三尺に四尺の瓦葺である。

境外神社は左の一社である。
皇太神宮。元町五丁目二百八番地に鎮座。(略)

 

往時は十一月十七日 或は十六日とも云ふ。 に、上之宮の神祭を行ひ、其夜、神体を奉遷して、翌十八日 或は十七日とも云ふ。 に下之宮の大祭を行ふことを例として居たが、万延元年、神奈川奉行の命によつて、当市開港記念日の六月二日に、大祭を執行してからは、爾来六月一日・二日・三日を以て例祭日と為した。
(以下略)」

 

……神社の案内板とほぼ同じ……。

「清水弁天」というところから勧請されているようなので、そちらも参拝したいところです(あるのかないのか……)。

御祭神は「宗像三女神」と「木花開耶毘売命」で、「宗像三女神」を勧請したということは、何かしら水関係の御神徳を得たかった、ということでしょうか。

うーむ、いろいろな位置関係なんかが、地元ではないのでさっぱりわからず……飲み水関係か、河川の氾濫か……。

 

「万延元年、神奈川奉行の命によつて、当市開港記念日の六月二日に、大祭を執行してからは、爾来六月一日・二日・三日を以て例祭日と為した。」

 

↑さらっと、開港記念のお祭りにすり替えられている辺りが、当時最先端の横浜なのかな……と思ったりもしました。

わりと歩いてるなぁ……まだまだ歩きますけれどもね。