べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「高輪神社」(東京都港区)

4/24。

泉岳寺」をあとにしまして、ぶらぶら歩いて品川方面に戻ったら、発見しました「高輪神社」

 

◯こちら===>>>

www.tokyo-jinjacho.or.jp

 

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社標……?

御祭神は、「宇迦御魂神」「誉田別命」「猿田彦神」、で境内社に「聖徳太子」……「稲荷」「八幡」「庚申」、と太子信仰か……あれ、由緒とかなかったかな……というか、写真を掲載するのですが、なんと社殿を撮影していない……狛犬さんに目を奪われていたようです(それから、天気があまりよくなかったのも関係するかもです)。

 

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鳥居。
マンションなどに囲まれた境内、ちらっと社殿が写っています(これでご勘弁を)。

 

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力石。

 

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狛犬さん、その1。

ちょっと、ゴジラっぽい。

 

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恵比寿大黒……ちょっと怖い。

 

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門の脇の彫刻。

すみません、漢籍に詳しくないので、題材がわかりません……。

 

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狛犬さんその2。

全体的に、つるってなっちゃっております。

 

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御朱印

 

さて。

 

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大日本名所図会. 第2輯第3編 江戸名所図会 第1巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑というわけで今回も『江戸名所図会』です(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

158コマです。

 

太子堂 同所旭曜山常照寺といへる天台宗の寺にあり。聖徳太子の像は、十六歳の尊容にして、自ら作り給ふといふ。元禄年間開板の[江戸鹿子]といへるものに、明暦年間、越後守光長卿の陪臣、川木八兵衛某、故ありて此所に安置したてまつるとあり。
稲荷祠 太子堂・庚申堂の中に並び立たせ給ふ。高輪の産土神なり。

庚申堂 同じ境内にあり。本尊は青面金剛の木像なり。摂州四天王寺の住侶民部卿僧都豪範の作といふ。縁起に云ふ、大宝元年辛丑正月、庚申の日は一年の間六度ありて、八専の間日に中れり。人間に三尸といふ三の悪蟲ありて、災を招く。然るに庚申を祭る時は、此蟲退散し、身に幸を来らしめ、若不信の輩ある時は、命根を吸ひ、悪業を天帝に訴ふ。今帝釈天衆生をあはれみ給ふ。故に汝に此法を附属す。我は則ち青面金剛なりと。又十二の誓願を示し給へり。僧都信心肝に銘じ、直に感見し奉る所の尊容を彫刻し、普く衆生に庚申の法を授くとなり。」

 

ふう……途中から、まさかの「庚申」信仰の説明になるとは思いませんでしたが、とりあえず、現在の「高輪神社」のことで間違い無いかな、と思います(「八幡」がないぞ……)。

青面金剛」については、どこかでも引用したかと思いますが、

 

密教辞典

密教辞典

 

 

密教辞典』を見てみますと、

 

「陀羅尼集経巻9・大青面金剛呪法(略)には、五方の五帝薬叉のうち東方青帝薬叉神を青面金剛と称し、わが国へは台密の所伝。後に道教の庚申の本尊とするのは、道教の上帝を仏教の帝釈天と同体とし、その家臣が青面金剛という。悪獣・病魔・風雷等の難を除く真言により道教の司命神に配する。庚申の夜は、身中の三尸虫が睡眠中に、天帝にその人の罪を報告すると信ぜられ、徹夜する習慣を庚申待という。形像は四臂三目、左手に三股叉と棒、左手に輪・羂索を持ち、青色の身、口を張って牙を出し、眼は赤、火焔色の怒髪が上向き、髑髏を頂きまた瓔珞とする。身体中に蛇がまとい両脚下に2鬼、左右に2童子(青衣)、4薬叉の右辺は赤黄色で刀・索を、左辺の白黒身は矟・叉を持つ。その他二臂・六臂像がある。また申の縁から、見ざる、言わざる、聞かざる、の三猿を山王日吉神社の神猿とする。」(p392)

 

ということです。

「東方青帝」という呼び方がすでに大陸っぽいのですが、道教とごちゃごちゃになり、神仏分離を経て、「猿田彦神」に落ち着いたと……「庚申」だから「猿」で「猿田彦」、という……でもこれは多分、神仏分離前からごちゃごちゃになっていたのだと思います。

道祖神」、「衢の神」、「塞の神」、「道の神」としての「猿田彦神」、一方で「庚申塚」というものがあちこちにありまして「青面金剛」プラス「三猿」の取り合わせですから、どこかで一緒になっても不思議ではないのかな、と……安直な分析にすぎますか、そうですか。

160コマに図絵があるんですが、街道からの位置関係が、現代に重なる部分ではないかと思います。

 

え〜……うん、あまり考察などはないですが、品川近辺ぶらぶらの記録でした〜。

『萬松山泉岳寺』(東京都港区)

4/24。

宴は感動的に終了し、品川周辺をぶらりとする、ということで、泉岳寺へ。

 

◯こちら===>>>

www.sengakuji.or.jp

 

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門。

中門で、三門のうち中門と山門が残っている、ということです。

扁額は、明の僧侶「為霖道霈」によるもの、だそうです。

 

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こちらが山門。

二階部分に「十六羅漢」が安置され、天井には龍の彫刻(銅彫大蟠龍)が取り付けら

れています。

扁額は、「大野約庵」によるもの、だそうです。

 

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案内板。

 

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大石内蔵助銅像

 

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「萬松山泉岳寺
泉岳寺曹洞宗の寺院です。
曹洞宗のご本山は二つあり、一つは道元禅師が開かれた福井県永平寺、もう一つは横浜鶴見の総持寺です。
道元禅師の主著は仏教の真髄を表した「正法眼蔵」という九十五巻に渡る書物です。

さて、泉岳寺は慶長十七年(一六一二年)に「門庵宗関」(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を拝情して徳川家康が外桜田に創設した寺院です(現在のホテルオークラの近く)。
しかしながら、寛永十八年(一六四一年)の寛永の大火によって焼失。そして現在の高輪の地に移転してきました。時の将軍家光が高輪泉岳寺の復興がままならない様子を見て、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名に命じ、高輪に移転した泉岳寺は出来上がったのです。浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のものです。

一般的には赤穂義士のお墓があることで有名ですが、創建時より七堂伽藍を完備して、諸国の僧侶二百名近くが参学する叢林として、また曹洞宗江戸三ヶ寺ならびに三学寮の一つとして名を馳せていました。

その家風は引き継がれており、人数は少ないものの、大学で仏教を学びつつ泉岳寺で修行を勤めるという若い修行僧が、現在もいます。」

 

なるほど、再建時から浅野家との縁があったのですね。

 

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本堂を臨む。

御本尊は「釈迦如来」とのこと。

秘仏として、「大石内蔵助」の守り本尊「摩利支天」も祠められているそうです。

 

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「萬松山泉岳寺の縁起

当萬松山泉岳寺は、慶長十七年(一六一二)、徳川家康が幼年、身を寄せた今川義元の菩提を弔うため、江戸城に近接する外桜田の地に送検し、門庵宗関和尚(一五四六〜一六二一)を迎えて開山となした。宗関和尚は永平寺道元禅師によって開かれた曹洞宗の第四代瑩山禅師開創の総持寺の門派である太平山大中寺(栃木県)の十一世建室宗寅和尚(義元の実弟)の高弟であり、今川義元の孫と云われる人物で、度々登城を請われ法問を聴取されたと伝えられている。当寺の萬松山は松平の松より、「松萬代に栄ゆる」の意から、寺号泉岳寺は、徳川に因み、「源の泉、海岳に溢るる」の意からつけられたと旧梵鐘の銘に記されている。
将軍によって建立された当寺も、寛永十八年(一六四一)の大火によって伽藍が消失、三代将軍家光(一六〇四〜一六五一)の命により現在の高輪の地に移転再建された(一説に移転は正保年間(一六四四〜一六四八)とも)。この移転に際しては、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名が尽力して完成し、その因縁より以後この五大名が共に檀越となり外護の任に当った。
江戸時代、当寺は曹洞宗の江戸三ヶ寺(青松寺・総泉寺と泉岳寺)の一つとして、大僧録たる関三利(埼玉県龍穏寺・千葉県総寧寺・栃木県大中寺)の下、特に本寺大中寺の下で触頭として曹洞宗の行政面の一翼を担った。
また、吉祥寺栴檀林・青松寺獅子窟とならぶ江戸三学寮の一つとして重きをなし、宗内外の碩学によって仏典・祖録・漢籍等が講じられ、曹洞宗僧侶の要請に大いに寄与した。山門から中門の両側には出身地別の九棟の寮舎が並び、常時二百名程の学僧が修学していたという。
また、赤穂藩主浅野家の菩提寺であったことから元禄十五年の義挙(一七〇二年十二月十四日)の後は、赤穂四十七義士の墓所としても知られ、討入り約五十年後より上演された歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の興行が盛んになるに伴って一層多くの参拝者が訪れるようになった。
(略)
明治初期には廃仏毀釈の余波を受けて、やや荒廃を余儀なくされたが、当寺四〇世圓頓霊巌和尚の地道な努力と創意工夫とによって本堂・庫院を恢興し、また煉瓦造りの義士宝物館を創設し、現存の石巒師資制作の義士像を展示する木像堂と共にこれらを公開することによって広く衆望を集めて、寺運の再興を果し、次代の四十一世普天霊明和尚がこれを継承して関東大震災に崩壊せる義士宝物館を再建し、書院を新築して、寺域の拡張・整備に努め、明治・大正・昭和に跨る当山の隆昌期が築かれた。
(以下略)」

 

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本堂別角度。

 

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山門から、本堂向かって右側に進むと、赤穂義士の墓や記念館などがあります。

忠臣蔵』、『仮名手本忠臣蔵』や討ち入りにそれほど興味がないのですが、ひとまずお参りはしておかねばな、ということで。

 

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あ、門の蟠龍、はこちらです。

 

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山門から本堂を。

 

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こちらは……なんだっけな……。

 

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御朱印

 

さて。

 

◯こちら===>>>

大日本名所図会. 第2輯第3編 江戸名所図会 第1巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

久々に『江戸名所図会』から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

いや、『新編武蔵風土記稿』は、目的の記事に達するまで結構大変で……今の高輪辺りは昔何郡だったのとか……歴史というのはそういうめんどくささを避けては通れないものなのですがね……時間が……。

156コマです。

 

「萬松山泉岳寺 海道の右にあり、野州富田の大中寺に属す。曹洞宗。江戸三箇寺(略)の一員たり。坊舎三宇、学寮九宇あり。当寺は往古慶長年間、台命を奉じて、門庵宗関和尚、外桜田の地に創建する所の禅刹なり。後寛永十八年辛巳再命ありて、寺を今の地に移したりといふ。本尊釈迦如来は、座像二尺計あり。夾士は文殊・普賢なり。総門の額『萬松山』の三大字は、華僧閔沙門道霈の書にして、康熙辛酉孟冬上浣と記せり。
当寺は浅野家の香花院にして、其家累代の兆域あり。又浅野内匠頭長矩及び義士四十七人の石塔あり方丈より南の丘の半腹にあり。傍に当寺住僧建つる所の石碑あり。其旨趣を注す。二月・三月の四日、及び正月・七月の十六日等には、英名を追慕して、ここに集ふ人少からず。又当寺に義士等の遺物を収蔵する事多し。
元禄十四年三月十四日、浅野内匠頭長矩、吉良上野介義英を刃傷に及ぶにより、長矩に死を賜ふ。後其家の長臣大石内蔵助良雄、本国播州赤穂に在りて、君の讐には倶に天を戴くべからずと云ふの義により、血盟を以て同志の者をかたらひ、終に元禄十五年十二月十四日、讐家に至り、義士四十七人、義英の所在を捜して、其首級を得、当寺に至つて、亡君の墓前に祭るの後、誅を待つて、翌十六年二月四日自殺せし事は、諸書に詳なるを以てこれを省く。」

 

図絵もありまして、墓所は、現在と位置関係はあまり変わらないことがわかるかと思います。

名所図会は、討ち入りが巷間に広まっている、江戸末期以降に書かれたものなので、「もうみんな知ってるっしょ?」的な感じが見えますね。

それだけ、江戸時代の人も熱狂し、現代でも多くの人が知る事件になった、と。

うーむ……いや、時代劇、結構好きなんですが、そういえば歴史ものはそれほど見たことないなぁ……大河も見ていたのは『独眼竜政宗』くらいか……『大江戸捜査網』とか『影の軍団』が好きだったので……ですので、『忠臣蔵』、あんまり知らないんですよね……本当に、「大石内蔵助」が雪の中、陣太鼓を叩いているシーンくらいしか浮かんでこない……残念な脳みそです……『仮名手本忠臣蔵』は、観てみたい……全部で何幕なんだか……。

あまり時間がなく、あちこち見ていられず……。

 

「品川神社」(再)(東京都品川区)

(いかん、二月がほとんど更新できなかった……PCの調子が悪いのか、写真がまとめてアップロードできなくてちょっとうんざりしておりまして……)。

 

4/23。

川崎で行われる宴に参加するため上京。

品川近辺に宿を取ったので、お久しぶりねの品川神社へ。

 

◯こちら===>>>

「品川神社」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事です。

 

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社標。

 

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鳥居。

 

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狛犬さん……あ、最近は狛犬さんメインで動いておりますので。

 

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鳥居に絡みつく龍も美しく。

 

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鳥居の基部の狛犬さんも躍動的。

 

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さて、登るか……登るのかぁ……。

 

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登るといらっしゃる狛犬さん。

 

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手水場の河童、習わぬ禅を編む。

梵我一如(なかなかよい写真だ)。

 

 

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社殿前の狛犬さん。

狛犬さんまでも躍動感、素晴らしい造形。

 

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こちらは、「阿那稲荷社」から本殿方向を見てみました。

 

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あ、「阿那」は「穴」なんですね多分(今頃)。

 

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「阿那稲荷社」のおキツネ様

 

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社殿遠景。

 

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ええと……「御嶽神社」の狛犬さんだったと……。

 

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ツツジ

 

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おっと、前回訪れた時は、金網に守られていた陶製の狛犬さん。

 

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「冨士浅間神社」。

 

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狛犬界隈では超有名な狛犬さん。

新しいものなのですが、台座の彫り物まで含めて、非常に洗練されております……誰が奉納したのか、というのは是非ご自身でご確認ください。

 

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結構登ってますでしょ?

 

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そして、冨士塚の「役行者」と「前鬼」「後鬼」……いやすみません、『宇宙皇子』世代なもので。

 

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御朱印

 

さて。

 

◯こちら===>>>

大日本地誌大系. 第1 第3冊 新編武蔵国風土記稿參 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

すっとこどっこいな私は、いろいろな文献で「品川神社」を探したのですが、あるわけないんですよね……というわけで、『新編武蔵風土記稿』をごそごそ探っておりまして、それっぽいのを発見(違っていたら、ごめんなさい)。

42コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

「稲荷社 (略)東海寺の北に隣れり、祇園貴布祢を相殿とし又東照宮を祀奉り、四坐を総て品川大明神と稱す。神体は各箱中に深秘す、稲荷は文治三年勧請、後当国の守護職二階堂出羽入道道薀倉稲魂の像を納め、本社等総て再建し社地を吉瑞岡と名づく、永享四年正清入道幸純新に造営す、幸純は道薀が子孫なるべし、事は南品川海晏寺に詳かなり、文明十年六月太田道灌祇園を勧請して相殿とす、貴布祢は勧請の年代詳ならず、天正十九年南品川貴布祢及当社領合て五石一紙に御朱印を賜ふ、(略)、慶長五年濃州関ヶ原役の時御祈願あり、御凱旋の後仮面及神輿法被等を寄附せらる、同十九年台徳院殿大坂御出馬の時、御吉例を以て神前に於て御祈祷太々神楽等を行しめらる、大猷院殿此辺御遊の時度々立寄せ給ひ、社伝など御尋あり、厳有院殿御誕生及御疱瘡の時神前にて御祈祷あり、寛永十四年東海寺御建立の時社地の内南の方御用地となり、替として千八十三坪餘を賜ふ、今門前町屋の所是なり、其頃当社は東海寺境内の鬼門に当るを以て、同寺の鎮守と定られ、本社以下神主居宅迄造らしめられしより永例となる、元禄七年祝融に罹りし時戸田能登守忠直造営の事奉る、此時神輿及神楽装束御祈祷檀等御再興あり、例祭稲荷は二月初午の日神楽あり、四月十七日御祭事には太々神楽を執行、祇園祭六月七日神輿を出し、東海清徳両寺門前を渡て東海寺境内に入、又当所門前地及北馬場町より北品川宿等歩行新宿等総て氏子町々を渡して、北品川宿仮屋に至り、同十九日迄留て帰坐す、貴布祢祭九月九日なり、前日神輿を南品川枝郷三ツ木の貴布祢社に遷し、翌日神楽ありて後本社に帰坐す、(略)」

 

前回の記事で紹介している社伝と通じているので、大丈夫だと思うのですが……「天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)」とか「源頼朝」とか、どこ行っちゃったんでしょう……あれかな、後世の研究で明らかになった、ということなのか(徳川家が、源家の棟梁である「源頼朝」関係の社伝を省略するとは考えづらいのです……が、敢えて深秘にしていた可能性はあります……でも末社にも「洲崎」の名前は出てこず……ううむ)。

徳川の歴代将軍も加護を賜ったようです。

「東海寺」って近くにあったかな……よく探していません……あった気がする……。

続きには、宝物、社殿の寸法等と末社が書いてありました。

 

「宝物仮面一枚 国常立尊面と号す、六月祇園祭礼の時神輿の上に掛く、総て赤黒色竪一尺一寸横七寸六分(略) 仮面一枚 翁之面なり、四月十七日御神事及六月六日夜神楽の時用ゆ竪五寸九分横五寸一分普通の面なれど彫刻のさま甚古色なり (略) 末社神明社(略) 八幡春日合殿 埴安命句々廼馳命合殿 軻遇突知命金山彦命合殿 罔象女命別雷神合殿 白山淡島合殿 大鳥天満宮合殿 龍谷稲荷大和稲荷合殿 命婦神八千代田神合殿(此社に太田道灌の霊を祀静勝軒と号す 元は別社に鎮座せしが破壊の後爰に移置) 蘇民将来疱瘡神合殿 以上十社同所にあり(略) 浅間社(本町の後にあり、小社下同) 山神社(一間四方 保食神及秋葉を相殿とす) 稲荷社四(一は穴稲荷保食神と号す、社は方九尺其餘小社なり、一は表門の内 三社の後にあり、) 不動社(略)」
 (※()は、ブログ筆者が加えた部分があります)」


……多い

一応、「浅間社」はありますが、冨士塚のことは書かれておらず……時期がずれているのか……「穴稲荷」は書かれた当時からあったようです(ちょっとほっとした)。

徳川家康」の奉納したと思われる仮面は「国常立尊」か……まあそう呼んでいるだけなので、実際のところは……。

結構な高台にあり(今は海は臨めませんが)、当時の海岸線を考えると、航海の目印になっても不思議ではないかな、と思うので……「天比理乃咩命」は急に出てきたんじゃないんだろうなぁ……どうして「住吉三神」とかじゃなかったのか……掘ればいろいろ出てきそうな気がします(掘りませんけれど)。

というわけで、品川近辺ぐるっとの小旅です〜。

 

 (何枚か写真がアップロードできていなかった……ううむ……)

「花園神社」(東京都新宿区)

4/1。

さて、お告げの日でしたね、そういえば……(今年もお告げはあるのかな……)。
「稲荷鬼王神社」まで出かけたので、行ってたっぽくて行ってなかったっぽい、「花園神社」へ。

 

◯こちら===>>。

www.hanazono-jinja.or.jp

 

結構朝早い時間帯だったのに、アジア系外国人ツーリストがバスから降りてきた集団に遭遇し、何だかな。

まあ、いいんですが。

 

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とりあえずこちらの鳥居から(靖国通りの方、でしたっけ)。

 

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いろいろ飛び越えての、拝殿。

 

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そうだ、去年は桜が綺麗でしたね……今年はどうだろうか。

 

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桜。

 

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桜。

 

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境内社の「祐徳稲荷時神社」……だったと思います。

 

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お狐様。
ちょっと艶っぽいですね。

 

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境内の写真が少ないのは、ちょうど骨董市が開かれていたからでした……。

 

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朱色、緑、桜。
ちょっと桜が薄い……んですが、私は葉桜へのグラデーションが出始める頃が好きでして。

 

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ほぼ緑。

 

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狛犬さん。

明治通り沿い側にある鳥居、でしたね。

 

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まだ桜(割と朝早いので、ちょっと陽光が若くていかんですね)。

 

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桜。

 

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桜。

 

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拝殿向かって右側からの境内。

 

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向かって右側からの拝殿。

 

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社標。

 

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「内藤トウガラシとカボチャ」の案内。

そうですね、新宿といったら「内藤新宿」なのです(東京の歴史にはさほど詳しくないのでいいのですが)。

 

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「花園神社の唐獅子像」の案内。

 

「文政四年(一八二一)に造立された雌雄一対の銅造の唐獅子像である。
内藤新宿の氏子たちにより奉納されたもので、台座には発願者・援助者・世話人等の名が刻み込まれている。
像高七十五センチ、台座高一三七センチ。彫工佐脇主馬の製作した原型により、鋳工村田整珉(初代)が鋳造したもので、注連縄が浮彫された台座は石工本橋吉平衛の手になるものである。
頭部は四つの部分(上頭部・顔・後頭部・たてがみ)に分けて鋳造し、身体も胴から後足、前足、尾の三つの部分をそれぞれ左右に分けて鋳造したものを接合して製作されて射る。(以下略)」

 

 

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そう、この狛犬さん(唐獅子さん)が見たかったのです……いえ、見たことあるんですけども、写真には納めていなかったもので。

かっこいい……ひたすらかっこいい……。

 

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御朱印

 

というわけで、ほとんど境内の写真もなかった、なんだかよくわからない記事ですが、最後の唐獅子さんが目的だったのでよしとしていただきまして。

『新編武蔵風土記稿』の内藤新宿のところを探してみたのですが、お「稲荷」さんのことがちらっと触れられていただけだったので、

 

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東京府豊多摩郡誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑『東京府豊多摩郡誌』という本から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

116コマです。

 

「華園神社 村社 内藤新宿添地町百五十番地に在り、内藤新宿町の鎮守社なり。此地は昔尾張侯の別邸にて其花園たりしを以て名く、祭神は宇迦御魂主命、相殿素盞嗚尊及菅原道眞公にして、もとは三光院稲荷、又は華園稲荷と稱す、四谷なる愛染院の隠棲所三光院之が別当たりしに由れり、当社は慶安元年尾張侯の創建せし所なりと云伝ふ、延享五年の江戸分間絵図には「尾張トノ」とありて傍に「イナリ」と記せり、此頃既に世に知られたるものなるべし。当社古くは享和亥年正月二十四日類焼し、近く明治十年一月新宿大火の際類焼して今の社殿は其後の再建にかかる、(略)古くより広き社地を有せしものと知らる、社背なる華園尋常高等小学校の敷地は社地の一部なり、また社殿西方の地を、明治三十八九年の頃まで御神田田畝と称し居りたる由なれば、当社の神料りしこと知るべき也、明治五年十一月社格村社に列せらる、大祭は六月七日より十一日に至る五日間之を執行す、末社九宇あり。
(略)
直進すれば三層の石壇上に銅獅を置く、文政四辛巳年二月宿内氏子中晴雨十日毎夜勤化云々と鐫す、次に石燈籠、石獅、石狐各一双を置く、正面拝殿は素材造り檜板葺にて千木を掲げたり、稲荷神社の墨字額と華園社の黒地金字額とを掲ぐ、墨字は従三位千家尊福の筆なり、本社は土蔵造りにて其後に摂す、社前鉄製貯水盤を双置す、境内東に巨大なる彰忠碑を建つ、陸軍大将正三位勲一等功二級子爵大島義昌書と署し、水雷鑵一箇と砲弾一箇を配す、水雷鑵の傍に榜示して云ふ「明治三十七八年戦役に際し露国海軍に於て旅順湾口防御に使用したるもの」と、(略)

 

稲荷神社 無核社 内藤新宿南町一番地にあり、世俗呼で雷電神社と言ふ、祭神は宇迦之御魂命なり、当社はもと天龍寺の造立せる所にて、遠江の故地より移したるものありと、或は云源義家公当時の創建にして天明年間に再建せりと、社伝詳ならず。(略)此社を雷電神社と唱ふる所以は、往昔義家公奥州征伐の途中、雷雨を避けて此社に憩へるに、何処よりか白狐一頭現はれ、義家の前に来りて三顧するや。雷鳴忽ち歇み一天霽れ渡れり、故を以て里人此社を雷電神社と言ひ伝ふと(略)

 

稲荷社 無核社 華園神社の境内に在り、もと追分にありしものにて、往昔天龍寺境内の一里塚と相対して築きたる一里塚の趾へ建立したるものなりといふ、新風土記に云「子安稲荷と號す嘉永年中まで一里塚あり、塚上の榎枯し後塚を崩して平地となし、宝永七年願上て当社を営造すといふ、神体及本地仏十一面観音共に弘法大師の作なり、秋葉歓喜天を相殿とす、秋葉歓喜天小野篁伽羅を以て作れる像なり」と。

 

御嶽神社 無核社 内藤新宿北裏町にあり、祭神国常立命、もと尾州藩邸の中にありしが、上地して町に属し、現に村社華園神社の境外末社なり(略)」

 

ふう……そういえば、写真にも「雷電稲荷神社」の社標があったりとか、「祐徳稲荷神社」の写真の社殿の柱に「男女和合の御守りあります」的なことが書かれていたりしますね……百年前とあまり変わっていない、ということでしょうか。

 

私の「花園神社」のイメージは、写真で見ただけですが、唐十郎の紅テントですね……思い入れは特にありません(ただ、写真、何だか強烈に覚えていまして……ひょっとしたら、状況劇場の時代か、天井桟敷と間違えている可能性もあります……)。

新宿は危ない町、というイメージの中、ぽつねんと存在する「花園神社」を不思議に思っていたものです。

 

「雑司が谷鬼子母神」(再・補)「稲荷鬼王神社」(再)

3/31〜4/1。

間にお誕生日会をはさみまして、「雑司が谷鬼子母神」と「稲荷鬼王神社」の写真を。

 

◯こちら===>>>

「雑司が谷鬼子母神」 - べにーのGinger Booker Club

「稲荷鬼王神社」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事です。

 

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雑司が谷鬼子母神」。

何かお祭り的なものが行われていたので、あんまり写真はないですが、メインは狛犬さんだったので、これはこれで。

赤い木鼻がいいです。

 

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御朱印

 

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「稲荷鬼王神社」。

力様の前に花が落ちていて、なんとも乙な写真になってしまいましたとさ。

狛犬さんの台座にも狛犬さん……。

富士塚もいろいろ撮影してみました(前回の写真が、あまりにもあまりに、だったもので)。

 

さて。

 

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大日本名所図会. 第2輯第5編 江戸名所図会 第3巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

そういえば「雑司が谷鬼子母神」のほうの引用をしていないので(「稲荷鬼王神社」のは、『新編武蔵風土記稿』をじっくりあたらないと見つからないかなぁ……と。ちらっとは探したのですが)、『江戸名所図会』から。

101コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

鬼子母神
雑司谷にあり。法明寺の支院大行院の持なり。
本殿鬼子母神 銅像なり。鬼子母神一名を訶梨帝母天と称す。
相殿 圓満具足天、鬼子母神の夫なり。十羅刹女、同じ御子なり。
鷺大明神祠 堂前左の方にあり。祭る神詳ならず。或は云ふ、出雲国神戸郡鷺村の鷺浦に鎮座し給ふ素盞嗚尊の妾皐諦女なりといふ。此神は疱瘡の守護神にして、正徳の頃、松平羽州侯神告に依て是を勧請す。疱瘡寄願の輩、広前の小石を拾ひ得て、守護とす。例年八月朔日祭あり。また毎月朔日を以て縁日とす。
稲荷明神祠 堂前右の方にあり。天照太神宮と八幡太神宮とを相殿に合祭す。地主の神なり。
銀杏樹 社前にあり。世に子授銀杏といふ。
石像二王尊 和田戸山盛南山と云ふ寺より、自證院殿ここにうつされしとなり。
華衣 紫銅を以て製す。額に「鬼子母神」と畫せしは、本阿弥光悦の門人日光上人の筆なりといふ。
(略)
縁起に云く、此本尊は永禄四年辛酉五月十六日、此地山本氏・田口氏なる者(略)、池水に星の現ずるを見て後、其地を穿ち、鍬下に是を得奉りしとなり。今護国寺の西に、其出現の旧跡あり。星の清水と称す。依て東陽坊第五世日性師に贈る。東陽坊は今の大行院の事なり。乃ち仏殿に安んすゑて、十有余年を経たり。然るに安房国の沙門某(略)日性師に仕へけるが、いかに思ひけん、密に是霊像を盗み故郷に帰るに その年天正五年なり 忽病を発し、一日自口ばしりていへらく、我は元武州雑司谷にあり。彼地の衆生機縁既に熟す。正に済度すべき時を得て、泥中より出現せしを、ここに移す事我意にあらず。直に元の地に帰すべしとなり。時に村人大に怖れ畏み、再び東陽坊に遷し奉る。仍て諸人霊威なる事を知つて、ひとつの草堂を営まんとて、往古より稲荷の社跡と云ひ伝へたる叢林を開き、竟に天正六年戊寅四月十日に始て斧を下し、同五月朔日経営落成し、ここに安置す。其後寛文六年に至り、自證院殿新たに宝殿を造立せらる。今の本殿是なり。自昌院殿は加州黄門の息女にして、安芸太守の令室なり。
此地は遥に都下を離るるといへども、鬼子母神の霊験著明く、諸願あやまたず協へ給ふが故に、常に詣人絶えず。依て門前の左右には賃食店軒端を連ねたり。十月の会式には、殊更群集絡繹として織るが如し。風車・麦藁細工の獅子・川口屋の飴を此地の名産とす。又当山は花の名所なり。近年境内に桜数多植ゑて、往昔に復せしめんとす。北條家分限帳、江戸雑司谷太田新六郎所領とあり。
麦藁細工角兵衛獅子 は昔高田四ツ家町に住みし粂といへる女子、製し初めたりといふ。此粂女に母一人ありしが、家貧しく、孝養心のままならざりし事をなげき、常に雑司ヶ谷鬼子母神へ詣し、深く此事を祈願し奉りしに、其至孝の冥慮にかなふにや有りけん、寛延二年の夏、麦わらを以て角兵衛獅子の形を造りそめたりしが、其頃雑司谷の鬼子母神、ことに参詣多かりし頃なれば、此獅子を買ふ人夥しく、竟に麦藁細工のために其身さかえければ、夫より後は心やすく母を養ふといふ。
百度参 寄願あるもの、其社前を往返して、百度参拝す。是を俗に百度詣と號す。或人云く、此事は当社鬼子母神を以て權輿とす。其ゆゑは十羅刹女を始とし、千人の御子にねぎたてまつる意にして、十と千の間を取り、百度詣するといへり。千団子・千疋猿のたぐひ、皆此故なりとぞ。」

 

ものの本によれば、「鬼子母神」の夫は、「毘沙門天」配下の八大夜叉の一人「半支迦」、別名を「散支(脂)大将」になっています。

「円満具足天」、謎です……。

「角兵衛獅子」って聞くと、『鞍馬天狗』を思い出し……ませんか?(そんな年齢でもないんですけれども、私……)。

 

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近況その3〜「三井寺」「三尾神社」 - べにーのGinger Booker Club


あ、「千団子」……といえば、「三井寺」の「護法善神堂」で行われる「千団子祭」ですね……そうか、「護法善神」は「鬼子母神」でしたか……。

「千疋猿」については、「住吉大社」が検索に引っかかりましたが……これも「鬼子母神」に絡んでいる、ということなのでしょうか?

……以前の記事の中に、「おせんだんご」というのが名物だ、と書きましたが、「千団子」のことなんでしょうか……うむむ。


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大日本地誌大系. 第5巻 風土記稿1 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

図絵もありますのでみていただくといいのですが、鳥居です。

仏教系で、「〜神」と言われるかたはあまりいらっしゃらないのですよね。

だから鳥居、なんでしょうか……「鬼子母神」……。

 

『新編武蔵風土記稿』のほうはどうでしょうか。

162コマです。

 

鬼子母神社 村の鎮守なり。圓満具足神大黒天を配祀せり。相伝ふ当社造立の由来は、永禄四年五月村民丹右衛門と云もの、村内小名清土の畑中より一の仏像を掘出し地主柳下某かもとへ持行てかくと告けるに、仏像なれば法明寺々中東陽坊へ納め然へしとて彼坊に安置せり。其後安房国の旅僧来て彼像を奪去しに、帰国の後狂乱して云、我は是雑司ヶ谷鬼子母神なり、いかてか此地に移るへき、急ぎ旧地に復すへしとなり、よつて其由を懺悔して東陽坊へ返せしより、僧俗ともに参詣するもの夥し、斯くて天正六年四月今本地堂と唱ふる稲荷の社地へ仮初の社を営み安置せり、
(略)
其五寛文六年、松平安芸守光晟の室法名自昌院英心日妙か寄進にて、今の如く宮殿拝殿等新に造営ありしより世に聞ふる霊地となれり、(略)
末社稲荷社 弘治年中の勧請にて別に除地を附す、天正年中始て鬼子母神を此社地へ祀る故に、当社を土人は本地堂と唱ふ、因て有徳院殿御成の時は必当社へ成らせられ、夫より鬼子母神へ御立寄ありしと云、 鷺明神社 疱瘡守護神なり、祭神瓊瓊杵尊、正徳年中の勧請と云、神体は一寸五分許の白茶色の小石なり、 妙見社 石像仁王 銀杏樹 楠木正成関東下向の時此所に松銀杏の二樹を植しが、今は此の銀杏のみ残ると雖、幹は枯れて蘗なりと寺伝に記せり」


だいたい内容は同じですけれども、「鷺明神社」が、御祭神「瓊瓊杵尊」になっております。

『江戸名所図会』のほうは、不詳としながら「出雲国神戸郡鷺村の鷺浦に鎮座し給ふ素盞嗚尊の妾皐諦女なり」だと。

ううむ……名前的には、「素盞嗚尊」というよりは「牛頭天王」関係のように思いますし、ちょっと「訶梨諦母」っぽい字を使っていたり……あ、こっちも調べないといけない、ということなのかな……ううむ。

また勉強したいと思います……。

「護国寺」(補)

さて。

 

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大日本名所図会. 第2輯第5編 江戸名所図会 第3巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

ひさびさ、『江戸名所図会』から。

91コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

「神齢山護国寺
悉地院と號す。音羽町の北にあり。新義の真言宗にして、和州長谷小池坊に属す。開山を亮賢僧正と號す。公より寺領千二百石を附せられ、盛大の地なり。[古鹿子]に云ふ、寺領三百石、大猷公守本尊瑪瑙石観音像開基とあり。
本堂本尊如意輪観世音 瑪瑙石にして、天然のものなり。元禄半の頃、前川三左衛門入道道壽といへる人、異邦に渡り持し来りすを、黄檗隠元老師の弟子、黒瀧の潮音、前川氏と師弟の縁あるが故に、潮音に授与す。其後故あつて、桂昌一位尼公崇敬し給ひし由、[事蹟合考]にみえたり。本堂の柱を猿柱と云ひて、木理猿の面に等し。
薬師堂 本堂左にあり。本尊薬師像は、昔当寺草創の時、此地蟹ヶ池より出現ありし霊像なりといへり。今の本尊薬師佛の胎中に収む。左右に十二神将の像を置けり。
西国三十三番順禮札所寫 本堂より西の方の山間にあり。天明年間深林を伐り開き、各其地勢に因つて俤を模す。四時草木の花絶えずして、諸人の眼をよろこばしむ。
歓喜天 境内寿命院に安ず。桂昌一位尼公尊信の本尊なりとぞ。永代不退転に天下安全の浴油の法を修せしめられ、寺産を賜ふ。
仁王門 仁王の裏に置く所の広目・増長の二天の像は、古の火災に残りしといふ。
今宮五社 当所鎮守と云ふ。天照太神宮・八幡大神・春日大明神・今宮大明神・三部大権現五社を祭る。音羽町・青柳町桜木町等の鎮守なりと云ひ伝ふ。
涅槃像大幅 当寺宝物とす。狩野安信の筆なり。足代をくみてしやちを掛け、引き上げて軸本迄開かれずといふ。
当寺は延宝九年二月七日、上野国八幡別当大聖護国寺の住持法印亮賢に、高田御薬園の地を賜ひて寺とす。依て大聖護国寺と號す。亮賢初御在胎の時より、御祈祷を奉りし故なり。天和元年に憲廟将軍の宣下蒙り給ひて、同年五月二十八日、都下新建の大聖護国寺仁和寺に録して院家とす。依て寺領三百石を附し給ふ。貞享二年十二月二十八日に、大聖護国寺住持法印賢廣黄衣を許さる。其後元禄年中桂昌院殿一位尼公の御志願によつて、御薬園の地を転じ、其頃御建立ありし江戸密乗最大の梵宇にして、結構備れり。春時は桜花爛漫として、頗る地勢洛の御室に髣髴たり。[武江神寺録]に、元禄十丑相馬弾正少弼に命ぜられ、再修造なし給ふとあり。此地元御薬園なりしを、後白山にうつされ、其跡へ当寺を御建立ありしといへり。求涼亭云く、当寺は京の清水寺を模さるる故に、前の町を音羽となづけ、又青柳町桜木町などなづけられ、又音羽町九町あるも、京に一條より九條までの名あるにもとづくとぞ。昔の本堂は、今の舞台をまうけし堂宇なりといへり。当寺に桂昌一位尼公御遺物を収めらる。今猶伝へて、開帳の頃諸人におがむせしむ。金銀をちりばめ、其結構言葉にのべ盡しがたし。」


図絵もありますので、現代との違いを確認していただければと思いますが、まあとにかく「西国三十三番順礼札所写」の広いこと広いこと……もちろん今となっては残っていないのだと思います、残念。

現在、ご本尊の「如意輪観音」像は、「琥珀」製となっているのですが、『江戸名所図会』では「瑪瑙」製。

当時は、琥珀と瑪瑙の区別がなかったんでしょうか。

あ、「三部大権現」というのは、真言宗の「根来寺」の鎮守、のことのようです(まだ行ったことがないのでよくわかりません……がどこかで聞いたような気もするな……)。

というわけで、著名な寺院なので、この辺りにしておきます〜。

次回は、ちらっと「雑司が谷鬼子母神」などを〜。

「神齢山悉地院護国寺」

3/31。

またしても上京……本日は誕生日会なのでした。

それまでに時間がありましたので、ぶらっと都内を歩いてみよう、ということで、春日から池袋方面へ抜けていく途中で(?)、護国寺に立ち寄りました。

 

◯こちら===>>>

www.gokokuji.or.jp

 

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……あれ、これなんだっけな……後楽園か春日の駅の近くだったと思います。

 

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ほい、わりと歩いて到着。

 

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千社札の多さが、むしろ時代を物語りますね。

 

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仁王門なので、金剛力士像。

 

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縁起(旧字を改めた箇所あり)。

 

真言宗 豊山派 大本山 護国寺
當寺の創建は天和元(一六八一)年二月七日、五代将軍徳川綱吉公の生母、桂昌院の発願により、上野国群馬県)碓氷八幡宮の別當、大聖護国寺の亮賢僧正を招き開山とし、幕府所属の高田薬園の地を賜り堂宇を建立し桂昌院念持仏の天然琥珀如意輪観世音菩薩像(秘仏)を本尊として、号を神齢山悉地院護国寺と称し、寺領三百石を賜ったことに始まる。
現在の観音堂(本堂)国指定重要文化財は元禄十(一六九七)年正月、観音堂建立の幕命があり、約半年余の工事日数でこの大造営が完成し、同年八月四日落慶式が挙行された。
後に六臂如意輪観世音菩薩(現本尊秘仏)が安置される。
元禄時代の建築技術の粋を結集した大建造物で、その雄大さは都内随一と賞賛される。

もろもろの くのうをすくう
観世音 大悲の恵み
尊うとかりける

月光殿 国指定重要文化財は近江(大津市)の三井寺塔頭日光院の客殿を移築した桃山時代の建築で書院様式を伝えるものとして貴重な建造物である。平成二十五年十一月、月光殿文化財保存修理工事が完了する。
(略)」

 

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門は、裏に回ってみると二天王がいらっしゃいました(確か)。

 

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案内図。

 

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まだ桜が綺麗な頃でした。

 

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不老門。

 

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ちょっと借景っぽくなっていたので。

 

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広。

正面に見えるのが本堂です。

 

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木鼻(あれ、写真が回転している……)。

狛犬(獅子)さんのぎょろっとした目玉がちょっと面白い造形に見えます。

 

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正面から、本堂。

 

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灯篭。

 

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台座の部分の狛犬(獅子)さん。

 

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龍も。

 

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本堂横手。

 

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本堂左手奥、の薬師堂。

 

「元禄四年の建立。旧一切経堂を現在の位置に移築した。本尊薬師如来は、当寺草創の時、この地蟹ヶ池より出現した霊像であると言われ、今の本尊薬師如来の胎内に収めたと伝えられている。左右に十二神将の像を安置す。」

 

なるほど、確かに経堂っぽい(?)。

 

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薬師堂、ちょっと遠景。

 

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本堂裏手。

大きさがわかります。

 

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桜など。

 

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「三条實美」公の墓。

 

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こちらは……なんだったか……。

 

 

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再び、桜など。

 

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大師堂。

 

「堂は、元禄14年(1701)に再建された旧薬師堂を、大正15年(1926)以降に大修理し、大師堂として、現在地に移築したものである。
外観は、装飾少なく、素朴で荘重な印象をつくりだし、中世的な特徴を残している。
真言宗寺院における大師堂(開祖弘法大師を祀る)の格式の高さと、伝統を重んじる姿勢を受けつぐものとして貴重な建築物である。」

 

 

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こちらは「唐銅蓮葉形手洗水盤」で、「桂昌院」が寄進したもの、だそうです。

案内板によれば、平成二十年に改修復元がされたようですが、「江戸元禄期から明治大正期には當山境内の湧水を利用する大変珍しい自噴式手洗水盤」だったそうです。

 

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こちら、先ほどの水盤のある階段を向かって右手に行くとあります……一応、富士塚、でしょうか。

浅間神社」になっていたかな。

 

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またまた桜など。

 

ほぼ桜を愛でにいったようなものですな……。

 

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御朱印

 

引用などはまた次回〜。