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べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「丸山神明社」(名古屋市千種区)〜高速初詣その1〜

1/2。

平成二十九年、2017年の開幕。

どうも今年は、もろもろの事情で遠出が難しそうなので、近隣を攻めることにしよう、ということで、「丸山神明社へ。

 

○こちら===>>>

名古屋市:丸山神明社(千種区)

 

千種区の史跡散策路のHPです。

 

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結構朝早くであれば初詣客も少なかろう、という見込みで出発、到着。

年も若ければ時刻も若いので、影の長いこと。

 

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子供の頃から何度も通っているのに、ちゃんと参拝するのは初めてだなぁ……。

 

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「祭神 天照皇太神
摂社 應神天皇
摂社 春日天神
創立 元亀天正年間
(略)
大祭 毎年十月十五十六日」

 

まあ、神明社ですから当然主祭神は「天照大神」です。

 

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遠景。

なんかもう、写真の色バランスがぐちゃぐちゃで見辛いですね。

 

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うむ、瓦葺き。
江戸時代ですね。

 

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狛犬さんたら

 

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狛犬さん。

 

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社殿向かって左、「丸山天神社」。

 

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近くには牛さんもいらっしゃいますが、囲われております……。

 

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左手前に「木霊社」が。
拝殿軒下には、絵馬なのかな、額が飾られております。

 

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社務所のそばに、「辨天社」。
こんもりな植え込みに囲われておりますが、島っぽい感じは残っています。

 

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参道途中で右手を見ると、摂社が。

 

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「丸福稲荷社」。

 

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お狐様たら

 

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お狐様(ちょっと小さい)。

 

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「丸福稲荷社」の左手には、「八幡社」「春日社」「津島社」「秋葉社」「洲原社」「山神社」。
「津島社」は、もともと「牛頭天王」だったと思いますが、一番大きな社殿になっているのはさすが尾張というところでしょうか。
一連の並び、オーソドックスなのですが、「洲原社」がちょっと珍しいでしょうか。

 

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御朱印は書き置きをいただきました。
普段もいただけるのか……右下の「丸山」の印が可愛いですね。

 

さて。

いろいろと検索してみましたが、いつもの文献に「丸山神明社」は引っかからず。

頼りの『名古屋市史』にしても、書かれた当時、「丸山神明社」のあった辺りは名古屋市ではなかったので……そうすると、地域史を当たらねばならず、国会図書館デジタルコレクションでは当たり切れません。

うーん、名古屋の各区史くらいは取り揃えておくべきか……。

とりあえず、↑で紹介した史跡散策路のHPより。

 

「16世紀後半の建立という。入り口左手には、天保5(1834)年「村中安全」と彫られた区内では数少ない秋葉常夜灯がある。境内では毎月1・6の日に野菜市が開かれ賑わう。」

 

……しまった、常夜灯見逃してるし……。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張国地名考

 

↑津田正生翁の『尾張国地名考』をざっと探ってみたらありました。
73コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

「丸山村
正字なるべし 【近藤利昌曰】村の南松林寺の裏向に釜が巣といふ畔名あり 是はもと鋳物師の居し所なりとぞ」

 

……うん、神社の言及はなかったです……。
鋳物師って、結構どこにでもいたんでしょうか。
それっぽい地名が名東区にもなかったかな……それとも、名古屋東部は鋳物師の多い地域だったのか。
うーん、郷土史はまだまだ……。

 

○こちら===>>>

名古屋市:千種区の町名の由来(千種区)

 

千種区役所の「町名の由来」ページです。

 

「かつての丸山村の名残りの地名です。当時、丸型の地形をしていたと推測されます。古井村の出郷ともいうべき新開拓村で、神明社があります。」

 

「丸型の地形」……多分古墳ですね(偏見)。

千種区、というところは、今でこそ比較的いい感じの文教地区、高級住宅街とみなされていますが、昔は名古屋の範囲ですらない山でしたからね……古墳が残っていても不思議ではないでしょう。

ううむ……しかし、これが地域の村社の由緒を調べる限界、でしょうか(もうちょっと大きな神社だって、はっきりした由緒なんてわかりませんしね)。

名古屋であれば、江戸時代、「清洲越」以前からある寺社は、それだけでも価値があると思います。

 

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お隣の公園……ここで悩みを打ち明け合ったり……怪しいものをつけてバイトをしていたやつがいたり……といった思い出があるようなないような。

 

かなり早めに家を出て、あっさり終わってしまった初詣。

ここで何かのスイッチが入り、

 

「そうか、三が日なら、なかなか御朱印をいただけなかったあそことかあそことかも!!」

 

と思い、「高速初詣」のスタートなのです。

「三輪神社」(補)

(※20147/5/24追記)

 

さて、それでは。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

尾張名所図会』から行ってみましょう。

155コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

「三輪明神社

清浄寺の南にあり。牧氏の建立なり。例祭八月十九日、夜神楽を奏す。」

 

 

……う、うーん淡白……。

気を取り直して、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 2 名古屋

 

↑『尾張志』いってみましょう。

16コマです。

 

「三輪社
三輪町にあり大物主神をまつる神名式に大和国城ノ上郡大神大物主神社(名神大月次相嘗新嘗)とあるはこの本所なりはしめてここにうつし祭れる年月知がたし
例祭(正月元日三月三日五月五日八月朔日九月九日神饌を献り八月十九日神楽湯立あり)」

 

 

……む、むむ……案内板や公式HPのほうがよほど丁寧……。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

↑最後の希望『名古屋市史』。

157コマです。

 

「二一 三輪神社

三輪神社は中区小林町 もとは小林村、近世前津小林村となる に在り、(略)もと三輪大明神又は三輪社と稱せしが、明治四十四年今の名に改む、勧請の年時詳ならず、 一に小林城主牧與三左衛門の勧請となる 小林城主牧與三左衛門尉長清之を再興す、天保年中改造遷宮し、明治初年村社に列す、祭神は大国主命 熱田尊命記集説には大己貴命ノ幸魂となし、尾張志には大物主神となす、尾張名陽図会、尾張霊異記等には、神体は苧桶、或は金の苧桶にして、一説に女体なりといふとあり) 殿宇は神殿、拝殿 明治二十五年再建 、社務所等なり、境内神社に秋葉社、天王社の二所あり、(略)維新の際上地して、逓減禄を下附せらる、例祭は九月十九日、二十日にして、市より供進使の参向あり、(略) 神職は旧藩時代に於ては、熱田の神官大原織太夫の家にて代々之を奉仕(以下略)」

 

「牧與三左衛門」さん、という方が勧請したとか、再興したとか、いろいろな説があるようですが、「熱田神宮」の神官が祭事を行なっているとすれば、案外大きかったんじゃないか、って思えます。

それより……なんだろう、何かぱっとしない……あ、「矢場」の話が全くないじゃないですか。
むむむ、と思って『尾張国地名考』の「前津小林村」を見てみたのですが、ここにも「矢場」の話はなし……。

じゃあ、というので、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 地理編

 

↑『名古屋市史』の「地理編」、112コマです。

 

「前津小林村は愛知郡に属し、もと二区に分れて、三輪神社以南を前津、以北を小林といふ、むかし大津町、鍛冶屋町、久屋町、武平町、西新町、東新町等より下に住みし武士を小林武士と云ひき、当時は北東へ径り広き村と見えたり、後には次第に町方又は屋敷奉行の支配に入り、疆域不分明となれり、当村の領主牧與三左衛門尉長清は、小林城を築きてここに居り、小林村に三輪神社を祀り、前津村に春日神社を祀り、本土の神として崇めしものならん、後、一村となす、寛永五年、また分ちて二村とせしが、(略) 其後再び一村と爲す、(略) 御器所村に属せる大字前津小林を当市に併せ、今数町名に分たる、もと此地は山田庄の中にして、もとより農家のみの所なれば、後年に至りて、巷坊縦横に通ずるに至りたれども、定りたる町名は無く、昔よりの村落又は田畝の字を以て呼びならはし奉り、先づ北より村の入口を高屋敷、奥屋敷、志水屋敷、西屋敷、オカラネコ屋敷、長道筋下ダレ、富士見原、高木、楠木、ダリ畑、船屋敷、見ド山、茶ノ木畠など云ふ、(略)」

 

「三輪神社」への言及が多いのですが、「三輪神社」そのものや「矢場」に関する情報はなし……まあ、御三家筆頭尾張徳川家が通し矢を訓練する、いわば軍事機密の場所ですからね、未だ幕藩体制の中にあった時期に書かれたものの信憑性がどこまでなのやら……。

それより気になっちゃったのが、

 

「オカラネコ屋敷」

 

です。
……字面から何一つ想像できないのが素晴らしい。

ううむ、量が少なく消化不良気味ですが、神社設置の案内板が素晴らしいので、もうそれでいいんじゃないかと思います。

 

 

2016年はこれにて終了。
次回からは、2017年「高速初詣」シリーズをお送りします。

 

▼▽2017/5/24追記▽▼

いや、他の神社のことを調べようと『名古屋市史』の「社寺編」を調べていたらですね、172コマに発見。

 

「幸宮神社
幸宮神社は中区三輪町に在り、(略)、俗に「おしやぐじさま」 しやぐしの名詳ならず、或は社宮司斎宮神、佐軍神、石神、三狐神に作れり と稱す、天文年中、小林城主牧與三右衛門長清勧請す、明治六年三月廃祭となり、十年十月復興す、四十年頃改造遷宮す、今無格社に列す、祭神は猿田彦命なり、境内神社に稲荷社(略)秋葉社(略)の二所あり、例祭は九月十八日十九日なり、(以下略)」

 

「三輪神社」の境内社である「幸宮社」のことだと思われます。

ちょっと御祭神が違っていますが。

無格社とはいえ、しっかり境内があったものを、戦中戦後のどさくさで何かあったんでしょうか……。

 

「シャグジ」については、どこかでも言及したような気がしますが……。

 

○こちら===>>>

「諏訪大社」考(5) - べにーのGinger Booker Club

 

ああ、「諏訪大社」の妄想をしていたときでした(ご参考に)。

それにしても小林城主の「牧長清」、大活躍ですね。

今日の大須の繁栄を作ったのは……あ、まあ、やっぱり「清洲越」なので「徳川家康」なのですけれど、影の功労者ではあるのかもしれません。

そんな人のことを、名古屋人は(私も含めて)どのくらい知っているのか……。

不勉強不勉強。

 

△▲2017/5/24追記▲△

「三輪神社」(名古屋市中区)〜大須ぶらぶら

12/29。

本日メインイベント、「三輪神社」にご参拝。

一瞬、場所がわからなかったのですが、昔の(今も?)公設市場の北側にありました。

 

○こちら===>>>

miwajinnjya.com

 

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三輪鳥居が、名古屋で拝めるとは思っておらず……勉強不足甚だしい……。

 

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「三輪神社

御祭神

大物主大神大国主大神・大黒様)

徳川義宜公(尾張十六代藩主)

御由緒

元亀年間(一五七〇年)奈良桜井三輪町から小林城(現在の矢場町交差点辺り)に移った城主、牧若狭守長清が生まれ故郷の三輪山に鎮まります大物主大神大国主大神)を祭ったと伝えられています。

江戸時代には尾張八代藩主徳川宗勝公を始め歴代藩主の崇敬篤く明治時代に尾張十六代藩主徳川義宜公を合祀しています。

また、この神社の中に尾張藩の矢場があり京都の三十三間堂の長廊に模して造られたようです。矢場町の名はそれに由来されるといいます。(略)」

 

何と、矢場町の起源ここにあり、でしたか。

ということは、巡り巡って矢場とんの起源もここにあることに……あ、「矢場とん」のまわしものではありませんので。

 

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社標。

 

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「創建年代は不明であるが、小林城主牧長清(一五七〇没)が勧請し、天保年中(一八三〇〜四三)改築する。

祭神は大国主命を祀り、また境内に秋葉社猿田彦社・天王社を合祀している幸宮社と福光稲荷の二社がある。

この社は、もと三輪大明神とか三輪社と呼ばれたが、明治四十四年(一九一一)に現社名となった。」

 

御祭神は「大物主大神」にしておいてほしいなぁ、名古屋市さん……。

 

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狛犬さんたら、

 

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狛犬さん。

社紋も鮮やか。

 

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三輪鳥居を裏から。

マンションと重なってしまっていますが、お見事。

 

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拝殿。

 

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「幸せのなでうさぎ」さん。

撫でまくりましょう。

 

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拝殿ちょっと遠景。

 

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拝殿右側に回り込んでの本殿。

妻入ですね(あれ、本当に本殿か?)。

 

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縁結びの木、だそうです。

 

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拝殿向かって右手にある神楽殿。

 

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お狐様たら、

 

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お狐様。

 

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「福光稲荷社」は、拝殿向かって右手奥にあります。

 

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その左手にある尾張徳川、矢場跡」

 

「寛文八年(一六六八)尾張徳川家が三輪神社境域に京都の蓮華王院(三十三間堂)で威信をかけて競った通し矢の修練場(三十三間堂を模した長廊)矢場を創建し文化四年(一八〇七)御払いになり星野勘左衛門預となりました

この界隈を「矢場町」と呼ぶのもここに矢場があったことに由来します」

 

……あの、ほら、水を入れると上下するこういうの、なかったでしたっけ。

 

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うっすらとしか見えませんが、「白龍社」。

 

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ちょっと戻って、「幸宮社」の社標、参道。
右手が神楽殿、左手が拝殿、右奥に「福光稲荷」があります。
順番間違っちゃった。

 

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「幸宮社」。

 

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秋葉社 津島社 猿田彦社」の合祀社です。

 

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「『指矢場』のこと
江戸時代、京都の三十三間堂で通し矢という競技が行われていました。通し矢とは三十三間堂で軒下の南端から北端までの約120mを軒裏にも縁の床板にも当てないで矢を射通す競技で、一昼夜(24時間)に射通した矢の数を競いました。

全国の大きな藩が競いあい、最終的に尾張藩紀州藩の一騎打ちとなりました。

尾張藩の記録が紀州藩に破られた後、明暦2年(1656年)新たに当神社に三十三間堂を模した長廊を造り、藩の威信をかけた命がけの修練が行われました。その甲斐あって、星野勘左衛門が10、542本中、8、000本の矢を射通し天下一の称号を得たのです。

その後、この辺りは矢場町と呼ばれました。

境内に矢的の記念碑があります。

皆さまそれぞれの目標が見事、射止められますよう祈念しております。」

 

「星野勘左衛門が10、542本中、8、000本の矢を射通し天下一の称号を得た」

 

さらっと読み流しましたけど、何この矢の数……尋常じゃなくないですか?

それとも、当時はこんなもので?

これはもっと、喧伝してもいいことだと思うけどなぁ……ひょっとして、「三十三間堂」の方では有名なんでしょうか。

そういえば、江戸にもありましたね「三十三間堂」……今はないですが。

下には「丹塗矢」の伝承が書かれています……そうか、だから赤い矢なのか、全然つながらなかったですよ。

 

あれ、写真が思っているより少ない……。

 

ともあれ御朱印

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(2017/5現在)何度か参拝しているのですが、その度に、「福をちょこっとおすそわけ」ということで、うさぎさんのチョコレートをいただきます(御朱印をいただいたときに)。

プリントしてあるだけだ、とはわかっていても、食べづらい……。

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なお、四月限定御朱印については、

 

○こちら===>>>

近況再び - べにーのGinger Booker Club

 

↑でご確認を〜。

よし、やっと2016年が終わった……あ、次回で引用なぞ行いますです。

 

 

「七寺」「大光院」「陽秀院」(補)

さて。
「七寺」に関しては、

 

○こちら===>>>

「稲園山七寺」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑昔の記事で『尾張名所図会』の引用をしております。
今回は、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

↑『名古屋市史』の「社寺編」から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
261コマです。

 

「八 七ツ寺

七ツ寺は稲園山と號す、中区門前町五丁目の西側に在り、(略)京都智積院の末寺なり、往古は中島郡下津里の南、阿波手浦の西、萱津原の裏(略)に在り、天平七年七月、行基の開創と伝ふ、初め正覚院と號す、天応元年七月、河内権守是広 河内誉田の人、世々河内郡平岡城に居す。  出羽鎮秋田城介となりて、奥羽に赴き、七年の後帰りて、萱津に宿し、兒 初め征東の役に赴くや、妻娠むあり、別後四月にて男子を産み、光麻呂と名く、其年十月二十三日妻逝く、乳母に養はれ、是歳光麻呂父を尋ねて此駅に至りて卒すと云ふ の死を聞き、悲歎に堪へず、正覚院二世智光 行基の弟子、伝は元享釋書に見えたり に依りて、之を院の西に葬り、堂を建てて、兒所持の薬師仏像を安んず、河内に帰るに及び、延暦六年十二月、当寺を再建し、七区の精舎、十二の僧坊を建て、七年五月落慶す、時に世俗呼んで七ツ寺と稱すといふ、仁和三年七月晦日、大地震あり、殿堂倒潰し、無住となること五十餘年、天慶四年、将門の兵乱に遇ひて、再び大廃す、仁安二年七月、尾張権守安長(略)亡女の爲めに、其女婿豊後守親實 上総介永實の二男 と共に、中興の工を始め、九月七堂伽藍を落す、時にもと十二坊の魁名を採りて、稲園山長福寺と改め、高野山金剛峰寺に隷す、是に於て始めて真言の道場となるといふ、次いで十二坊を復建して支院となす、安元元年正月、安長一切蔵経を書写せしめ、治承二年三月、鎮守十二所権現社を建て、八月五千餘巻の写経を慶讃し、転法輪蔵を鎮守社の前に建てて之を納む、文治元年四月、住僧栄俊、仏工運慶及び其子湛慶を招きて、本尊木造三尊 観音、弥陀、勢至坐像 及び二天 毘沙門、持国の立像 の像を修彩せしむ、建武四年兵乱に遇ひ、寺宇重ねて頽破し、弥陀堂及び半壊の経蔵(略)を存して、悉く烏有となる、荒墟二百五十餘年、天正十九年三月、鬼頭孫左衛門尉吉久 春日井郡朝日庄清須郷の人、視髪して法山宗敬居士と號す慶長三年三月六日卒去す 豊臣秀吉に請ひ、遺宇を清須城に畔に移建し、良圓(略)を請じて、中興開山となす、文禄三年三月、本堂を経始し、四年七月、落慶供養を修す、時に性海寺の末寺となる、良圓中島郡の旧地に草堂一宇を営みて、桂林寺と號し、鎮守十五所権現、神明、弁天の三社を留祀す、慶長十六年秋、二世良祐(略)名古屋日置村 即ち今の地 阿弥陀堂を移建し、楼閣、門、庫を一新す、又十五所権現、天満大自在天神 尾張霊異記に掘源之進屋敷の天神のうつしなりと見ゆ を巽隅の丘陵 俗に天神山と呼ぶ に勧請す(略) 良祐又清須の旧地に一院を建てて、真福寺と號し、薬師仏の塑像(略)を安んず、後本堂の東南に一院を造り、木造不動像を安んじて、一乗院と號し、退隠の地となす、寛永三年、本堂の東北に護摩堂を営み、五大尊の像(略)を安んず、正保二年、護摩堂の東に客殿を新建し、木造正観音立像(略)を安んじて、仏殿及び祠堂に充つ (中略) 八世良卓(略)の時、享保十五年春、地蔵院流の法地となりて、色衣を許さる、此時藩主始めて抂駕あり、爾後山城嵯峨世尊院を兼帯して、藩主の祈願所となり、一国の触頭となる、元文三年五月、始めて境西に裏門を開き、一乗院をその邊に移す、六月二十八日消失す、次いで太子堂、築山亭、観音堂(略)、聖天堂、浴油所、所化寮、稲荷社、八幡社、秋葉社(略)を新建し、三十三所の観音、善光寺常夜燈、六角堂及び銅造大日如来坐像(略)等を造る (略) 明治八年十二月、境内の南方を割きて、往来の路とす、十二年七月二十四日、智積院の直末となる、本尊は木造阿弥陀如来坐像、脇士同観音、勢至二菩薩坐像(略)なり、現今の堂宇には、本堂(略)、庫裏、書院、影堂(略)、弁天堂(略)、三重塔、吒枳尼天堂(略)、太子堂(略)、聖天堂(略)、大日堂(略)、経蔵(略)、鐘楼(略)、総門等あり(略)」

 

↑略してもこれだけの記述がある、ということで、往時の規模が偲ばれます……それを思うと、今の境内の寂しいこと……残念です。

 

尾張霊異記」

 

↑気になるなぁ……。

 

 

 

続いて「大光院」は、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

↑『尾張名所図会』から参りましょうか。

73コマです。

 

「興国山大光院
同町西側にあり。曹洞宗武州忍の清善寺末、慶長の初め、従三位中将忠吉君清須御在城の時、雲門寺といへる廃寺の跡に此寺を建立し、旧名雲門を以て寺号とし、明嶺和尚を請じて開山となり給へり。和尚は武蔵国の人にて、清善寺の住持たりしが、道徳堅固にして、眠る事を好まず、昼夜をわかたず端坐して道を修しければ、道徳顕はれ、兼ねて死期をしり、種々の霊異を示して、慶長十四年二月二十八日遷化す、是より前、東照神君明嶺を帰依し給ひ、忠吉君も同じく帰依し給ふ事厚くまします故に、清須に招請し給ひしとぞ。忠吉君御逝去の後、大光院殿と申せしは、此明嶺和尚が奉りし御法号なり。さて慶長十五年の御遷府の後、名古屋日置の地にうつして、日置山大光院と改号し、のち又今の山号に改む。寺領は、忠吉君の御寄附なり。
本尊 釈迦の木造
(略)
二天門 寛政三年の建立。二天の像は春日井郡鹿田村仁昌寺の観音堂に在りし古像なり。
光石地蔵堂
牌堂
烏瑟沙摩明王堂 境内にあり。此明王はむかし釈尊にちかひて、もろもろの不浄を清浄に改めなし給ふ神通備りましますよし、[穢跡金剛経]に見えたり。毎月二十八日を縁日として、参詣の諸人羣集をなす。又一切下部の諸病までをも守らせ給ふ大悲願ある仏なれば、婦女子の参詣ことに多し。堂の傍に松の大樹・櫻の古木あり。
塔頭 陽秀院、大光院二世大庵の弟子嶺奕の建立なり。
地蔵尊 陽秀院境内にあり。腫物其外一切の諸病を祈願する時、尊体に紙を張り、病癒ゆる時は其紙をとる事なり。立願の諸人絶ゆる事なくて、尊容見ゆる時なし。故に紙張地蔵と稱す。(以下略)」

 

図絵もありますが、当時「明王殿」が伽藍のごく一部だったということがよくわかります。

松平忠吉」のことがさっぱりわからない(戦国時代音痴)ので、

 

○こちら===>>>

kotobank.jp

 

↑「コトバンク」より『朝日日本歴史人物事典』です。

 

「没年:慶長12.3.5(1607.4.1)
生年:天正8(1580)
江戸初期の武将。名は甚太郎,福松,忠康。下野守,薩摩守と称す。徳川家康の第4子で母は西郷局,東条松平家忠の養子となり,文禄1(1592)年2月に従五位下下野守に叙し,武蔵忍城の10万石に封ぜられる。その妻が井伊直政の娘であった関係から,慶長5(1600)年の関ケ原の戦に際しては,舅の井伊直政と共に徳川隊の先鋒の大役を務めた。ことに徳川秀忠率いる軍勢の到着が遅れたことから,関ケ原における徳川将兵の軍事力は劣弱であったが,直政と忠吉の徳川勢は力戦して島津義弘隊ほかと戦ってこれを破り,忠吉は初陣ながら自ら敵の首級をあげるなど軍功著しく,父家康を大いに喜ばせた。戦後は尾張清洲城を賜り,52万石を領し薩摩守と改める。10年に従三位左近衛権中将となり,28歳で没した。嗣子なくして家は絶えた。」

 

そうか……私は関ヶ原の戦いのことも井伊直政のこともさっぱり知らないわけですね。

どうやら噂に聞こえた「島津豊久」をやっちまったすごい人みたいです。

若くして亡くなったのがなんとも残念……なのかな(徳川秀忠」が暗殺したんじゃないの、とつい思ってしまうのが悪い癖です)。

 

「武蔵忍城の10万石に封ぜられる」

 

この辺りで、「明嶺」和尚とか、「清善寺」との縁があったようですね。

おっとついでに「陽秀院」の記事が。

 

「石地蔵尊 陽秀院境内にあり。腫物其外一切の諸病を祈願する時、尊体に紙を張り、病癒ゆる時は其紙をとる事なり。立願の諸人絶ゆる事なくて、尊容見ゆる時なし。故に紙張地蔵と稱す。」

 

↑確かに、「紙張地蔵」は江戸期からあったものでした。

祈願で貼り付け、成就で剥がすって書いてあるけれど……自分の紙がきちんとはがせた人ってどのくらいいるのかなぁ……その祈願、果たして成就するんでしょうかね……まあお地蔵さんは広大無比の慈悲ですから、ちょっとくらい大丈夫でしょうけれど。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 2 名古屋

 

尾張志』はどうでしょうか。
35コマです。

 

大光院
門前町の西側にありて興国山と号し武蔵國埼玉郡忍の清善寺の末寺也開山明嶺和尚はむさしの國の人にて道徳の名誉あり平常眠る事を好ます昼夜端座して道を修しかねて死期を知り種々の霊異を示して慶長十四年二月廿八日寂せり此事村老の口碑に伝ふ是よりさき清善寺の住持たりしとき家康公崇信し給ひ忠吉君にも帰依深く禅を談し給へり清須におはせしとき雲門寺といへる廃寺(略)の跡に一宇を建立し明嶺を迎へて開山とし清善寺と号け給へり忠吉君御存生の時法号を明嶺に請給ひて大光院殿と申ししか慶長十二年江戸にてうせ給ひし時御遺言によりて清須の此寺に葬り奉らむとせしを増上寺の衆徒異議を申により増上寺に葬り霊牌を此寺に建て日置山大光院と改めしを慶長年中ここに移し御寺の列となせり山号を改めし年月は定かならず(略)」

 

尾張名所図会』と似たようなものですね。

それではお待ちかね『名古屋市史』より。
346コマです。

 

大光院
大光院は興国山と號す、中区門前町二丁目の西側に在り、(略)埼玉県北埼玉郡忍町清善寺の末寺なり、もと清須(略)に在りて、清善寺と號す、松平薩摩守忠吉、同地の雲門廃寺 尾陽雑記、大光院の條に、天正十九年辛卯年、豊臣秀次爲秀長公菩提所創建、雲斎和尚爲開山、其後暫中絶矣、薩摩守忠吉卿以武州清善寺明嶺和尚爲当住持、所領地今在名古屋」と見ゆ、(略) を復興し、改称せしものなり、明嶺理察(略)招かれて開山となる、忠吉大光院殿等山宗勝の法号(略)を受けしより、今の寺号に改む、城下一宗の触頭となり、毎年江湖会を執行せり、忠吉の江戸に薨(略)ずるに臨み、遺命して江戸愛宕下青松寺に火葬し、清須大光院に葬儀を営ましむ、然るに増上寺異議あり、是に於て家康葬儀を彼寺に営ましめ、牌所を当院に建てしむ、慶長遷府の際、二世大菴護奕(略)今の地 当時の日置村 に移し、山号を日置山と改む(略)、後今の山号に復す(略)、(略)明治五年十月、三十世大薩祖梁(略)今の寺格に昇進し、諸堂を再建し、御霊屋、開山祠堂等を修繕す、(略)本尊は木造釈迦牟尼仏坐像(略)なり、現今の堂宇に、本堂(略)、庫裏、山門(略)、開山堂、位牌堂、僧堂、烏瑟沙摩明王堂 文化五年三月建立 鎮守堂 建立年時は詳ならず、吒枳尼天、秋葉権現、金毘羅神の三神を奉祀す 、鐘楼(略)等あり、(略)末寺は陽秀院 同町門外南側に在り、もと塔頭なりき 、聖応寺(略)の二寺あり(以下略)」

 

こちらもまあ、似たような内容(といっても、『名古屋市史』が『尾張名所図会』や『尾張志』などを参考にしているので当たり前)。

 

「鎮守堂(建立年時は詳ならず、吒枳尼天、秋葉権現、金毘羅神の三神を奉祀す)」

 

↑この辺りが、今の「陽秀院」の「秋葉権現」なんでしょうか……。


同じく『名古屋市史』より「陽秀院」。
348コマです。

 

「陽秀院
陽秀院は隣松山と號す、中区門前町二丁目の西側に在り、(略)大光院の末寺(もと塔頭)なり、葉室嶺奕(略)之を開基す、(略)本尊は木造十一面観世音菩薩坐像(略)なり、現今の堂宇に、本堂、庫裏、地蔵堂、総門等あり、その控に十王堂(略)一宇ありしが、全廃す、(以下略)」

 

↑こちらは観光案内ではないので「紙張地蔵」のことは書かれていません……。

 

 

 

ふう……特に名古屋はですね、「清須越」のあとにできた街といっても過言ではないので(その意味では、家康入府以降にできあがった江戸東京と比較できるかもしれないです)、戦国〜江戸初期の歴史の勉強は必須なんですよね……ああ大変……

 

 

 

信長の忍び』で何とかならないですかね(助けて重野センセー!)。

(※アニメも絶賛放送中! 大地丙太郎〜……以上、何の実入りもないステマ……とは言わない宣伝でした。※)


大須門前町、まだまだ掘ればたくさん出てきますよ……ふう……もうちょっと続きます。

「七寺」「大光院」「陽秀院」〜大須ぶらぶら

12/29。

「富士浅間神社」をあとにして、大須ぶらぶら。

まずは「七寺」へ。

 

○こちら===>>>

「稲園山七寺」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事です。

 

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御朱印いただけるのですが、ちょうど参拝客の方がいらっしゃったので、またの機会に。

 

さてはて、さらにぶらぶらしましょうか、ということで大光院へ。

 

○こちら===>>>

「大須観音」「興国山大光院」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事……っていうか、何も書いていないに等しいですね。

このブログの超初期の記事なもので。

 

○こちら===>>>

http://www.ohsu.co.jp/myo1.html

 

↑もご参考に。

 

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いきなり本殿前。

明王伝レイ』……我が業は我が為すにあらず……じゃなくて「明王殿」。

御本尊は「烏枢沙摩明王」、東司の守護神です(厠のことです)。

 

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大光院
興國山と号し、曹洞宗の寺院である。もと清善寺と号し、松平忠吉清洲城主、徳川家康の第四男)が崇敬していた明嶺理察和尚を開山とし、清須に創建した。忠吉亡き後その法名をとり大光院と改め、慶長十五年(一六一〇)の清須越でこの地に移された。
境内の明王殿に祀る烏瑟沙摩明王は、世の中の一切のけがれや悪を清め、霊験あらたかであるといわれる。尾張名所図会に「毎月二十八日を縁日として参詣の諸人羣集(群集)をなす」とあり、そのにぎわいは今も続いている。」

 

おっと、「烏瑟沙摩明王」の文字が違っていましたね、↑のやつ……。

 

 

密教辞典

密教辞典

 

 『密教辞典』によれば、

 

烏枢沙摩明王(略)一切の不浄・悪を焼尽する偉力のある明王台密系では。五大明王の北方に配して金剛夜叉明王の代りに用いる)。両部曼荼羅には見えず、空海の将来以後、産褥の穢れ、枯木の精、毒蛇の害、悪鬼の祟り除外など、単独に信仰されたから異像が多い。中国でも盛んに造像されたらしく別尊雑記などに唐本図像が多い。現存の敦煌画には、各臂・両足に蛇が巻付き、髑髏を瓔珞、頭髪は逆立ち、火焔光を負う。像の上方左右に阿閦・阿弥陀両仏を配して火頭金剛と記す。(略)」

 

となっています。

不浄を焼き尽くすことから、厠の守護神につながっていったものと思います。

不動明王」、「孔雀明王」辺りと役割が被っている感じがします。

 

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参道、「明王殿」。

 

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門。

「赤門」ですね。

 

大光院」の近く、斜向かい辺りにありますのが「陽秀院」

 

○こちら===>>>

http://www.ohsu.co.jp/ohsu/youshu.html

 

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曹洞宗で、「隣松山」が山号のようです。

天狗の団扇が寺紋、ということで。

 

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「紙張水子地蔵尊 秋葉三尺坊」、秋葉さんだったようです。

 

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「紙張地蔵」というのが有名なようです。

 

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本堂。

秋葉大権現」。

 

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門を入ったすぐの左手に「紙張地蔵尊」がいらっしゃいました。

この真っ白のお方です。

 

○こちら===>>>

名古屋市:中区:史跡散策路(中区)

 

↑中区の史跡散策路HPより。

 

曹洞宗の寺院だが、境内にまつられるお地蔵様の信仰で知られる。これは、境内の石地蔵に濡らした紙を張りつけて祈ると、 地蔵が代わりに病苦を受けてくれるという地蔵信仰で、寛永年間の霊験談が現代にまで生きているもの。」

 

身代わり、触穢、接触呪術、というやつですね。

 

……うん、淡白。

 

引用などは次回にします〜。

「富士浅間神社」(名古屋市中区)

(※2017/5/13追記)

 

12/29。

半年前のことなので、そろそろ記憶が薄れつつあります……何しに大須に行ったのやら……とりあえず「北野神社」の参拝を終えまして、続いて「富士浅間神社へ。

 

○こちら===>>>

osu.co.jp

 

大須商店街のHPっぽいですが……何か重い。

 

○こちら===>>>

名古屋市:中区:史跡散策路(中区)

 

「史跡散策路」中区大須コースを確認していただいたほうがいいか、と。

ええと……参拝されている方がいらっしゃったもので、写真の順番がぐちゃぐちゃですが。

 

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ひとまず、境内社のお稲荷さんを。

「まねき稲荷」と呼ばれています。

 

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そのお隣に境内末社

 

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石灯籠。

ちょっと独特のシルエット。

 

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再びの境内末社

 

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「まねき稲荷」遠景。

 

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こちらが正面。

「まねき稲荷」の南側です。

 

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「まねき稲荷」の社標。

「之より西一丁」と読めますから、以前はもうちょっと離れたところにあったのかと。

 

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お狐様たら

 

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お狐様。

 

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境内にある神馬像。

微妙な逆光。

 

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本殿向かって左手、ちょっと奥にあります「白龍社」。

多分、「白龍樅木大神」と書かれています。

それより、ちょっとだけ覗く銅像の方が気になりますけども……。

 

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「白龍社」からちょっと下がってみました。

拝殿。

 

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境内の奥行きが狭いので、なかなか社殿をずばっと撮影できませんでした。

 

 

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石灯籠。

建立の時節柄、門前町南部國防婦人會」による奉納。

なんとも、しみじみ……。

 

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よーし、と末社に近づいてみたのですが……神社名が全く読めませんでした……。

 

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おっと、「まねき稲荷」のお狐様たら

 

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お狐様。

 

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神馬像越しの拝殿。

 

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案内板発見。

 

「富士浅間神社

明応四年(一四九五)六月、後土御門院の勅令によって、駿河浅間神社より分霊を勧請して奉祀したという由緒が伝えられている。

祭神は中央に木花開耶姫命、左に瓊々杵命、大山祇命、右に天照皇大神、彦火々出見命を合祀するほか、数社が祀られている。

なお、この神社には、近くの那古野山古墳から出土した有蓋脚付壺が保管されている。」

 

……「那古野山古墳」ってなんだ……初めて聞いた……。

いつか調べてみよう。

 

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梅か桜か。

 

さて。

例によって『尾張名所図会』を探ってみたのですが、発見できず……。

というわけで今回は、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 2 名古屋

 

↑『尾張志』から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

16コマです。

 

「浅間社

南寺町清寿院境内にあり明応四年はしめて建立す大永六年当郡小林城主牧氏某これを造営すといへり

稲荷社 弁才天社 飯綱社 なとおなし境内にあり弁才天社は大永六年に勧請し飯綱社は貞享元年甲子九月瑞龍院君の命を奉して造営すといふもと此神像は春日井郡大草村福嚴寺にありしを後に愛智郡籏屋町に移し又下津村正眼寺に安置したりしを故ありて御城内に移し給へるか元禄甲子に又ここに移したりとそ」

 

 

……うーん、「後土御門天皇」の勅令、という話はなかったことになっているのか。

当時のこの辺りの城主である「牧某」が建立したのは間違いないようですが。

全然文字の読めなかった末社の中には、「弁才天社」や「飯綱社」があったようで……「飯綱社」って、結構珍しいのかな……本拠地は信州ですが、距離的には近しいので、結構流行ったのか……。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

↑困ったら『名古屋市史』。

「社寺編」、158コマです。

 

「二二 富士浅間社

富士浅間社は中区門前町四丁目の西側 旧称は南寺町 に在り、境内七百十三坪七合三勺あり、当社もとは富士権現又は浅間宮と称し、明応四年後土御門天皇の勅に依り、駿河国富士権現を勧請す 市譜、椋園叢書には牧與三右衛門長清の勧請となす 、大永六年、前津小林の城主牧與三右衛門長清再興す、寛永十年、藩祖義直の室於春(高原院)再建以来、当藩より修造せらる、明治初年村社に列し、三十三年頃、社務所を建つ、祭神中央は木花開耶姫命、左は瓊々杵尊大山祇命、右は天照皇大神、彦火々出見尊なり、殿宇には神殿、社務所等あり、境内神社は稲荷社 祭神宇賀之御魂、建立年時は詳ならず、明治四年当末社秋葉社へ合祀し、十一年六月造営遷宮す 、天神社 祭神菅原道真 、金刀比羅社 神大己貴命、旧称金毘羅大権現、明治四年八月、今の名に改む、勧請年時不詳 、出雲社 祭神は大己貴命 秋葉社 祭神迦具土大神 、の五所あり(略)、寛文七年閏二月、藩主光友(二世)より修験清寿院へ給はりしものにして、明治初年まで拝領せり、例祭は六月十一日にして、市より供進使の参向及び湯立の神事あり (略) 社務は勧請当時は駿河富士権現の神職小林某之を奉仕し、其後修験良圓となり、林蔵坊 寛永年中不埒につき追放となる となり、尋いで南寺町愛宕社の別当大乗院村瀬大圓坊良清之を兼ね、寛永十六年、其子実寿院良済、藩主義直より社地及び住地を給はり、本社の別当職に補す。寛文六年十二月、実寿院を改めて清寿院となし、以来明治初年まで同院にて奉仕し、且つ代々御軍貝役をも勤め、座位は古渡稲荷神社の神主の次第に列せり、(略)

飯縄社は又飯綱社に作る、旧称は飯縄権現といふ、徳川時代には本社の奥院なりき、初め御深井矣の向島に鎮座せしを、貞享元年九月、藩主光友の命に依り、本社境内に堂宇を建立して、同年十二月之を遷す、元禄十五年三月、松寿院殿 名はよね、藩主光友の三之丸なり 、修造せらる、以後藩より修営せらる、明治初年、徳川邸より権現の身体を柳原長栄寺に移し、其社殿は村瀬喬臣に賜はる、其堂宇今喬臣宅 旧清寿院の一部 の庭前にあり、其の柱は黒木造りにして、奈良より移建せるものなりといふ、神体は仏教天部の神にして、袈裟を著せる高六尺餘の木像なりと云ふ、一説に空海の作にして、源頼朝の守護神たりといふ、春日井郡大草村(略)福嚴寺 曹洞宗なり一説に同村に一社を建てて祀ると云ひ、又往古は知多郡篠島に在りきともいへり に伝はり、次ぎに愛知郡籏屋町(略)に移り、後中島郡下津村(略)正明寺(略)に遷りしを、故ありて御深井矣に移されたり(略)

弁才天社は徳川時代には本社の境内末社なりき、大永六年の勧請なりといふ(略)
湊川神社は祭神中央は楠木正成、左は和気清麻呂、右は大連物部守屋なり、文久二年、中区天王崎町洲崎神社境内に鎮座す、明治九年五月本社の境内末社として遷座し、十八年五月修造遷宮す、大正元年十二月本社に合祀す(略)」

 

 

由緒は詳しいですが、『尾張志』より新しい時代に、古文献からまとめられたものですので、正しいかどうかはわかりません。

弁才天社」、「飯綱社」は著名だったようですが、明治になって「洲崎神社」から「湊川神社」を遷座しているようです。

何か理由があったのか……。

市内には、「富士神社」や「浅間神社」と称するところが結構ありますが、富士塚が残っているようなところは今のところ見ていないですね。

東京には結構富士塚が残っているところを見ると、「富士講」の盛り上がりよりは、より近い「御嶽講」のほうが盛んだった、ということなのでしょうか。

名古屋からも富士山が見えることもあった……のでしょうかね……富士見って地名はあったような気がするので、見えたのかな……そういったことも知らない、残念なおっさんです……地名に関する本を読めばわかるかもしれません。

そういえば、「まねき稲荷」の由来がわからなかったな……。

 

もうちょっと大須をぶらぶらします。

 

あ、御朱印はいただけるようなのですが(神社の道を挟んで向かいに社務所があります)、私が参拝したときは人の気配がなかったもので、いただいておりません。
いつかいただけるのか。

 

▽※2017/5/13追記▽

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

↑『尾張名所図会』、改めて目次を見ていたら、ありました……ただし「清寿院」の記事なんですが。

78コマです。

 

「富士山観音寺清寿院
同町西側にあり。山城国醍醐の三宝院の派、尾張・美濃二箇国の修験の先達なり。本尊富士権現は、土御門天皇の勅によりて、駿河浅間大神神職、此地に勧請して造営ありしなり。中世前津小林の城主牧與三左衛門尉源長清、富士権現を崇信して、七度参詣の志願を発し、三度駿河に下りて登山ありしが、晩年に及びて遠路に堪へがたく、残る四度を此社に詣でて、其願をはたせし故、其砌当社を再営ありしとぞ。また信長公の家臣村瀬左馬助の末孫、修験となりて大圓坊といひしが、大乗院及び此院を兼帯住持せし其子宝寿院、国君より当社の地を拝領し、清寿院の号を賜はる。
(略)
飯綱権現社 神像六尺有餘にして、おそろしき尊容なり。もとより霊験あらたなる像なり。例年六月十一日神楽あり。
末社 稲荷・金毘羅・菅神・秋葉・福天。(以下略)」

 

……あれ、「後土御門天皇」じゃなかったですっけ……。

小林城主の牧氏が、富士登山七度の祈願を途中でやめて(やめざるを得ない、と言うべきでしょうか……暇そうで暇じゃないっぽうしな、城主)、この神社を参拝した、というのが妙にリアリティがあります。

「飯綱権現」がその都度言及されているところを見ると、結構特徴的なものだったようです。

もうないのかな……(「清寿院」という寺院は廃寺になっているようなので、残っているとしたら「富士浅間神社」に、なんですが……何となくなさそう……)。

大須界隈は、またぶらぶらするので、もうちょっと気をつけて、あちこち歴史の後先を見つけてみようと思いました。

 

△※2017/5/13追記△

「北野神社」(名古屋市中区)

(※2017/5/13追記)

 

12/29。

年の瀬も押し迫って何をしているのか、といいますと、大須をぶらぶらしています。

しかも、結構早い時間帯から。

取り立てて何をするつもりもないので、神社仏閣を求めて散策。

繁華街から少し外れたところで、「北野神社」を発見しました。

 

 

……オフィシャルHPとかは見つからないっぽいです。

 

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いきなりの賽銭箱前から。

かなり早い時間なので、太陽が若くて写真が見づらいかと思います。

 

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狛犬さんたら

 

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狛犬さん。

 

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そしてさらに狛犬さんたら

 

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狛犬さん。

 

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社標と牛さん。

 

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社格は村社だったようです。

 

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境内にお稲荷さんも。

 

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お狐様たら

 

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お狐様。

 

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ええと……確か南面していたはずの鳥居。

 

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遠景はこんな感じです。

都市計画で遊びなくはめ込まれた感じがなんとも言えず切ないな、と。

御朱印がいただけるのかどうかはわかりません(授与所的なところはなかったと思いますが)。

 

さて。

 

いつも通り『尾張名所図会』を探してみたのですが、どうも見当たらず。

尾張志』もざっと見てみても、やっぱり見当たらず。

こうなると、頼りになるのは『名古屋市史』しかなく……。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

157コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

「二〇 北野神社

北野神社は中区日出町下ノ切の東側 徳川時代には北野新地と称しき に在り、境内百十五坪あり、初めは北野社又は北野天満宮と號す、もと尾張中島郡長岡庄大須 今は美濃羽島郡小藪村大字大須 に在り、後醍醐天皇の勅建にして、京都北野の社より菅公の画像を遷して鎮座すといふ、 此画像今大須宝生院に在り 、康永三年二月七日焼失し、其後再建せられたるものは、慶長十年、また木曽川の洪水に流失す、同十七年、徳川家康の命に依りて、今の地に遷座す、今の神殿は当時の建立なり、明治初年村社に列し、三十年頃社務所を建つ、祭神は菅公 今の神体は束帯の木像なり、本地は観世音菩薩にして、真福寺の本尊即是なりき なり、殿宇には、神殿、社務所等あり、境内神社は秋葉社 祭神は迦具土大神 、及び津島 祭神は須佐之男神 、神明 祭神は天照大御神 、八幡 祭神は応神天皇 、春日 祭神は天児屋命 、四社合殿の二所とす、例祭は二月二十五日、九月二十五日 徳川時代は二月二十五日にして、寺子供大文字を奉献し、拝殿及び書院の壁に展観して、諸人の目を驚かし、又桜ノ町天満宮(今菅原町天神社)より数十町の間、往来群聚せりといふ なり、(略) 社務は真福寺(略)を宮寺として、開山能信以来、代々別当職に補し、慶長十七年遷座より、同寺の鎮守として奉仕せらる(以下略)」

 

 

……えっと、「宝生院真福寺」というのはいわゆる大須観音のことでして……現在でも、「大須観音」の鎮守、ということになるのでしょうか。
中島郡から遷座したときでもそれほど大きいわけではなさそうですが、今よりは広かったんじゃないかな……。
そういえばちゃんと「大須観音」のことは調べていないもので。
資料がね、多いんですよ多分……観光客も多いので御朱印もらいづらいしなあ……。

 

徳川時代は二月二十五日にして、寺子供大文字を奉献し、拝殿及び書院の壁に展観して、諸人の目を驚かし、又桜ノ町天満宮(今菅原町天神社)より数十町の間、往来群聚せりといふ」

 

↑ここの部分は、以前の「桜天神社」の記事

 

○こちら===>>>

「桜天神社」(再)(中区) - べにーのGinger Booker Club

 

↑でも触れていますが、こちら「桜天神社」はこれまた大須の大きな寺院である「万松寺」の鎮守、「北野神社」は「真福寺」の鎮守、と「菅公」で鎮守争いでもしているんでしょうか……「万松寺」もきちんと調べてないです……でかい、というのもそうなのですが、今の「万松寺」は……いえ、おいおい参拝しようかとは思っていますよ、はい……。

 

 

 

淡白ですが、このあたりで〜。

 

 

▽※2017/5/13追記▽

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

↑『尾張名所図会』の目次を見直していたら、「真福寺」の記事のところに「鎮守天満宮」として記事がありました……やれやれ。

82コマです。

 

「鎮守天満宮 此神像は、延喜二年筑紫太宰府にて御自筆に畫かせ給ひ、北の御方及び姫君へ送らせひし畫像にて、天暦年中北野御鎮座の節、神殿に御同座ありしを、後醍醐天皇御崇敬のあまり、長岡庄大須の地に迎へ奉り、御建立ありし旧社なり。 今も北野山と號し大須と通称するは、此因によれり。  例祭は二月二十五日、寺子供大文字を奉献し、拝殿及び書院の壁に展観、諸人の目を驚かしむ。此日桜天満宮よりここに至りて、数十町の間往来羣聚せり。 八幡・伊勢・春日の三神をあわせまつれる小社、また稲荷・秋葉・天王の小社側にならびて鎮座なり。また鰐口の銘に、永享十年の文字見えたり。  境内に芝居及び見世物小屋等数椽ありて、年中の興行絶ゆる事なく、府下第一の勝地なるが、就中五月十八日は、町々より馬の塔を奉納して、新粧の奇観・見物の羣集、又四万六千日の参詣など、実に境内に溢るる計りの賑なり。又堂内に絵馬を多く掲げて、年々歳々の雅致奇巧を争へるも、自から慈眼視衆生諸人結縁の方便ならし。(以下略)」

 

 

うーんと、最後のほうは、神社のことなのか、「真福寺」全体のことなのかよくわからなくなっておりますが……内容自体は『名古屋市史』とほとんど変わりません。

まあ、こっちを参考にして書かれているので当たり前なんですけれど。

 

△※2017/5/13追記△