べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「日出神社」(名古屋市中区)

1/22。

大須まできたので、ちょっとぶらついてみましょうか、ということで、発見した「日出神社」にご参拝。

 

 

 

……HPとかありませんでしたが、検索してみるとどうやら古墳の上に立っているようです。

 

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社標。

北側の参道入り口です。

 

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正面。

向かって右に「神明社」、左に「愛宕神社」の社標が。

 

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盛り上がり。

なるほど、古墳の上、というのもうなずけます。

大須界隈は、わりと平たい地形なのですが、ここはいきなり盛り上がっているので違和感あります。

 

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正面遠景。

 

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由緒……読めませんな……もうちょっとなんとかならんもんかな、と。

 

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狛犬さんたら、

 

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狛犬さん。

おめめくりくり、相当に戯画的です。

 

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東側の参道入り口。

 

御朱印は、多分ないと思います。

 

さて。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

↑『名古屋市史』「社寺編」から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
156コマです。

 

「一九 日出神社
日出神社は中区日出町上ノ切の南側(旧称は南寺町)に在り、(略)、もと愛宕社の在りし地なり、愛宕社は初め春日井郡清須朝日村(今は西春日井郡清洲町大字朝日)に在り、愛宕大権現(又愛太子社とも書せり)と號す、勧請年時詳ならず、(略)、慶長十六年、(一説に慶長十五年)、此の地に遷座す、明治初年村社に列し、四十二年七月修造遷宮と共に、同町の神明社を合祀し、同年九月今の名に改む、祭神は軻遇突知命(元愛宕社の祭神なり、熱田尊命記集説、張州府志、海邦名勝志には地蔵菩薩にして、之を将軍地蔵又は勝軍地蔵と稱すとせり)、天照大御神、月夜見命、(元神明社祭神)、宗像三前大神、猿田彦大神稚日霊命(もと愛宕社境内神社、宗像社、白髭社、香良洲社合殿の祭神)なり、境内神社は、元、弁天社、太郎坊社(此社は愛宕社の奥院なりきといへり)の二所ありしが、今廃す、現今は吉備神社(祭神吉備真備命、もと神明社境内神社なり、明治四十二年七月此に移す)、五柱神社(祭神須佐男命、応仁天皇、宗像坐三前大神、下上賀茂三柱大神、迦具土大神、もと神明社境内神社なり、当時は津島社、八幡社合殿、宗像社、賀茂社合殿、及び秋葉社の三所なりしが、明治四十二年七月此に移し、合祀して今の名に改む)の二所あり、例祭は九月十四日、十五日、(略)

神明社は同町(本社の西北)に在り、(略)、初め天道宮と號し、又朝日天道と稱す、もと清須朝日村(略)に在あり、勧請の年月詳ならず、(略)慶長遷府の際、名古屋松原町(今の日出町なり、以来俗に南天道町と呼べり)に遷す、(略)明治初年村社に列す、境内神社は徳川時代には春日社、八幡社、権現社、稲荷社、弁才天社、吉備公社、瑜伽大権現等あり、(略)」

 

前段が「愛宕神社」、後段が「神明社」の内容。

 

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「太郎坊阿賀神社」(考) - べにーのGinger Booker Club

 

↑「愛宕」といえば「太郎坊」、天狗ですね。

瑜伽大権現」というのは聞き慣れないですが、

 

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「瑜伽神社」〜奈良めぐり - べにーのGinger Booker Club

 

奈良には「瑜伽神社」があります。

それと関係あるかはともかく、「瑜伽大権現」で検索していただくと、どうやら備前国修験道関係のお山、のようですので……天狗ですね。

猿田彦大神」も天狗。

吉備真備」を祀る神社って珍しいと思うのですが、

 

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www.city.kurashiki.okayama.jp

 

岡山には天狗山古墳というのがあるらしく……いえそれと関係があるかどうかはともかく、「吉備真備」には、大陸から『六韜三略』を持ち帰り、それが鞍馬に伝わって最終的に「虎の巻」が「源義経」に渡るという伝説が……ということで、「吉備真備」も天狗認定(陰陽師、って話もあります)。

 

天狗だらけ?

 

さてはて、

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

↑『尾張名所図会』に記事があったかなぁ……と思ったらありました。

189ページです(コマ数ではないです)。

 

愛宕山大乗院 徳林寺の向にあり。当山派の修験紀伊国の根来同行にて、今は高野山の預なり。慶長五年、三位中将忠吉君の御建立にて、清須の朝日村に在りし大円坊を、同十六年ここにうつして、今の号に改む。凡名古屋にて相撲を勧進する時、多くは此境内にて興行する事は、江戸両国の回向院にて興行する例に同じ。
愛太子社 飯綱権現を合せ祭る。また弁財天社、太郎坊社あり。

天道社 松原町にあり。今は此社あるにより天道町と呼べり。もと清須の野田町にありて、朝日天道といひしを、慶長御遷府の時ここにうつせるなり。
本社 天照大神月読命の二座なり。
末社 八幡社・天王社・稲荷社・弁財天社等の小社多し。(以下略)」

 

紀伊の根来ったら「根来寺」、別名「忍法寺」(風太郎先生〜)と称されたところで、わざわざ修験と書いてあるのを見ると、やっぱり天狗か……。

地元のみなさんは、天狗ネタで盛り上げる、というのはいかがでしょうか?

 

ところで、「日出神社」からそう遠くないところには、

 

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名古屋のメタルキッズの聖地「ディスクヘヴン」があります。

私が10代の頃は、御器所にあったと思うのですが、移転していました……中を覗くと、以前と変わらぬ混沌っぷり。

メタルの魂に火がついている私、久々に訪れて胸を熱くした次第です。

「若宮八幡社」(再)(名古屋市中区)

1/22。

まだ1月ですが……今年はあまり遠出はせずに、近くをうろうろし直そう、ということで中区は若宮八幡社へ。

 

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「若宮八幡社」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事です(狐の話が結構面白いと思います)。

 

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ちょっと、狛犬を写真にとるのに目覚めたもので、狛犬さんが基本です。

 

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拝殿。

まだまだ新しいですね。

 

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「連理稲荷」のおキツネ様

 

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社殿のおキツネ様

 

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奥の院のおキツネ様

 

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住吉神社」の狛犬さん。

 

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「神御衣神社」。

 

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「熊野社」「日吉社」「香良洲社」「天神社」「秋葉社」の合祀社。

 

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恵美須神社」。

 

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正面鳥居の狛犬さん。

 

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駐車場入り口の狛犬さん。

 

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御朱印

 

さて、前回の記事ではまだ引用をあまりやっていなかったので。


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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

↑『尾張名所図会』より、77ページ(コマではないです)から引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

若宮八幡宮 末広町の東側にあり。もと三の丸天王の社の南にありしを、慶長十五年御城築の時、東照神君御鬮をとらせられ、神慮に任せ此所に遷座なさりめ給ひて、御城下の鎮守と定め給へり。抑当社の祭神は、八幡宮応神天皇)の若宮大鷦鷯尊(仁徳天皇)にましまして、八幡宮も相殿にましますとぞ。天武天皇の御宇に始て御鎮座にて、延喜年中再営を加へ給ひ、その後安養寺といふ宮寺をたて、僧坊十二宇をおかれたり。天王坊もその内の一宇なるよし。しかるに天文元年の兵火にかかりて、神宮・僧坊もみな焼亡しけるを、同八年再営ありしよし、社記に見えたり。又[延喜神名式]に、愛知郡孫若御子神社(名神大)とあるは、此御社の事ならんかといへるは、若宮といふよしありげに聞こえ、又牛頭天王の若宮ならんといふ説もあれど、共にたしかなる據もなく、且若宮八幡宮の称年久しくして、遍く人のしる所なれば、社伝に随つて強ひて私意を贅せず。
本社 仁徳天皇
相殿 左応神天皇 右武内宿禰
拝殿
神輿殿
末社 熊野社・稲荷社・山王社・天満宮社・連理稲荷社。
(略)
芝居小家 境内にあり。
(以下略)」

 

図絵もありますのでご参考に。
社殿の配置はいろいろと変わっておりますが、「連理稲荷」の場所は今と変わりませんね。

「芝居小家」が境内にある、とまで書いてあるのに、それに関するエピソード(※前回記事参照)はない、と……もったいない。

「孫若御子神社」が、元々の姿ではないか、という説が以下にも出てきます。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 2 名古屋

 

尾張志』の「2 名古屋」の6ページから。

 

若宮八幡社
末広町の東側にあり 此社もとは那古野庄今市場(今三の丸天王社の南)といふ地に有しを慶長十五年御遷府の時此処に遷座し奉れり 祭神は三座にて中坐仁徳天皇と本主とし左は応神天皇右は武内宿禰也と社説にいへり又文武天皇の御代に鎮座ありて後延喜年中に再興し給ひ供僧坊宇すへて十二宇を建添させ給へり 那古野庄内の鎮守の社にて此宮寺を安養寺と呼り 大永年中今川左馬介氏豊那古野の城を築て柳の丸と号け住ひ給たりしを海東郡(社説に中島郡とかけるはあやまり也)勝幡城主織田弾正忠信秀不意に此城をおそひとらるるとき今市場を放火したり◼︎◼︎は神社僧坊悉焼亡◼︎◼︎るを天文八年再興有ける 後に太閤秀吉公より社領二百石を寄附し給へるよしなとも社記にいへり さて此社を今は若宮八幡と称すれと往古はただ若宮とのみ呼来れりとそ 天野信景が本国神名帳集説に若宮社延喜十一年三月勅建(此処にかくいへるは供僧十二院の事にて神社鎮座の事にはあらし此下の文に盖往古鎮座而延喜帝加再復者乎といひ社説にも文武天皇の御代の鎮座也をいへれはなり)当時有供僧十二院旧無八幡号といへるは其本據さだかならねとも其頃まては慥に若宮との◼︎称し來りて八幡といふ称は其近き年頃(宝永四年以前)よりいひそめつといふことの著明伝はれりしなるへし 又同署に引用したる亀尾山再興記の文に蓬莱興之地威神垂鎮座金亀闃然愛霊尾亀尾山号由此(按熱田神宮寺号亀頭山亀尾対此之称云々)また曰安養寺(若宮宮寺)本尊熱田八劔御作即座下敷霊劔云々按此等之説則当社熱田所摂祠歟旧書以当社序天王祠上盖往古鎮座而延喜帝加再復者歟其若宮号近孫若御子(熱田孫若御子名神俗称彦若宮式内神社也)といへり さてこの孫若御子神社と申は今熱田大宮鎮皇門内南面に三社ならひ居給ふ中の一社にて社号も上古のままに伝はりて正しき其神◼︎はましませとももしくは此若宮社其本処にもやあらむとおほしきよしを附録してしはらく後の識者の考へをまつ事左のごとし そもそも延喜式神名帳に愛智郡孫若御子神社(名神大)と見え尾張国神名帳に愛智郡従三位上孫若御子天神(こは貞治本に據り神位は文治二年三月の宣命に加階増進せられたるにて今に至れる也明応本是に同し元亀本に正四位下とあるは古代のままなる写本に◼︎りて◼︎けるなるべしされは総て貞治本なるよりは諸社悉神位卑し皆准へて知へし又一位二位なとに上の字を添えたるは書写の者のみだり◼︎ざなるへし)とある 則此神◼︎て孫若御子といふ社号は熱田大神日本武尊)の御孫歟もしくは曽孫ならむも知へからす 既に神祇宝典に誉田天皇の御霊也此天皇日本武尊の孫也故号而曰孫若御子神也とかかせ給へるは古意にかなへる御説をこそおほゆれ 神名帳頭註に尾張国年魚稚武彦王三座を祭るとも吾勝尊を配享して四座なりともいふは皆中世巳後のさたなるべし(延喜式に一座とあれはなり) さて此頭注及熱田社説に稚武彦王といへる御名は孝霊天皇の御子なる稚武彦命と申に混したる名なり是は古事記に若建王とあるぞ正しき其文にいはく此倭建命娶伊玖米天皇之女布多遅能伊理毘賣命生御子帯中津日子命(一柱)又娶其入海弟橘比賣命。生御子若建王(一柱)とあるともて知へし 書紀には初日本武尊娶両道入姫皇女爲妃生稲依別王次。足仲彦天皇次。布忍入姫命次稚武王とあるにてしるへし 此若建王は書紀によれは御母は両道入姫皇女にて仲哀天皇の御弟にましまし古事記によれは御母は弟橘姫命にましまして御腹いつれも尊く坐す皇后たちのうませ給へる御子にしませば熱田大神御子神の列に殊にいはひ奉るはさるへきゆゑある事なるへし 孫若と◼︎も称奉れるは彼宝典にかかせ給へることと聞ゆる也 さて今の熱田なる孫若御子社といふはもとは遥拝所なりしが遂に本處と成たまへるか又うつして祭奉れる御社にもやあらむさ云ゆゑは先上古は大中小社と三等の差別及境域四至町数の格式なともいと厳重なりしおもふ■は宝亀二年二月十三日の太政官符に大社四至限九町といひ三間檜皮葺正殿一宇(高一丈二尺有板敷戸一本)堅魚木八丸(長五尺径九寸)千木四支(長一丈三尺)と記し瑞垣珠垣内外鳥居幣殿拝殿舞殿直会殿板倉盛屋左右廊馬屋等まて載て各間数寸尺とさへ記せること甚詳なり◼︎はかり厳重なる名神大社の(名神大社とはかの延喜神名式に名神大と記しこの太政官符に大社云々とあるをいふ) 熱田本宮の境内に今の如き小社にましますへくもおお■すしかれとも此若宮社は既に延喜の頃より宮寺僧坊あまた置れ仏家の掌れる御社となれるによりていつしか古社号を失ひはてて若宮とのみ申て遂に孫若御子といふ名の残らぬをさすかに熱田は大社にて元来かの社に属たる摂社にますが故に移して祭れる社なからも正しく旧社号の伝はれるにもやあらんあなかしこ (以下略)」

 

◼︎は、だいたいが変体仮名です(すみません、なかなか覚えきれませんで……)。

ざっと読んでいただいて、結局のところ「孫若御子神社」なのかどうかはよくわからないのですが、現在の「熱田神宮」にある「孫若御子神社」は確かに大社というには……という規模ですので、「熱田神宮」にあるのは遥拝所、という説はなかなか面白いように思います(「諏訪大社」を思い起こしますね)。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

↑『名古屋市史』「社寺編」の238ページから「若宮八幡社」の記事があります。

 

「三 若宮八幡社
(略)
境内摂社は、熊野神社(中央伊弉冉尊、左速玉男神、右事解男神を祀る、此赦もと城内に鎮座ありしが、寛文四年光友ここに徒す)、稲荷神社(倉稲魂命を祀る、元禄五年藩主綱誠の創建)、日吉神社大山咋命を祀る、元禄五年綱誠の創建)、天神社(菅公を祀る、寛永八年藩主綱誠の妾梅昌院創立)の四所にして、境内末社は、連理稲荷神社(宇賀之魂命を祀る、天保四年創立)、香良洲神社(末に詳説す)、神御衣神社(もと御衣社と称し、裁縫師が私に祀りしものなり、祭神不詳、明治三十六年海西郡立田村に鎮座の多度社(祭神不詳)と、津島社とを合せて、此社に遷す、是より始めて末社の列に入り、祭神を素盞嗚尊とす)、祖霊社(創立年次不詳、旧祠官の霊を祀る)の四所、もと境外の末社にして今離末せるものは西春日井郡清水町の八王子社、同杉村字西杉の春日神社、愛知郡中村大字則武字大秋の八幡社、同字中島の八幡社、同村字中野高畑の八幡社、水神社、同大字栄の八幡社、天地神社なり
(略)
香良洲神社はもと葉栗郡木曽川中小島と云ふ鹽濱に鎮座あり、式内の川島神社と称し、社地九町三段歩有り、天文の兵乱に廃頽せしを、一宮の社人大市へ遷す、寛延四年、若宮裏矢場町(今二之切西側)若宮の地域内に遷座あり、明治(十二年の届に既に末社たり)に至り、若宮境内末社となる、寛政十年、文化二年に社殿を修造す、祭神は天照大神少彦名命(略)」

 

↑主に摂社末社を中心に引用してみました(『名古屋市史』は大正年間の発行ですので、今とあまり変わりがありません)。

名古屋市史』に資料として、『尾張志』の全文が引用されていました(変体仮名はかなり直してある)……失敗失敗。

ともかく、徳川の時代には「若宮八幡社」、名古屋でもかなり大きな神社でしたので、記事もあちこちにたっぷりあります。

気になる方は、各自検索のほどを〜。

さて、ブラブラしようっと。

近況

10/7。

先日から、尾張地方の神社再訪をしているのですが、江南駅周辺が思いの外のワンダーランドのようなので、また時間があったら出かけようか、と。

今日は、犬山城に行きまして、「針綱神社」、「三光稲荷神社」にご参拝。

そこから、大須へ戻ってきて、「三輪神社」へ。

 

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半ば月参りのようになってきました……いえ、月ごとの御朱印がいただけるもので。

 

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タバコを買うか、「ディスクヘヴン」(※名古屋のメタルキッズの聖地)に行くぐらいしか用事のなかった大須

有難や有難や。

さて、まだ初詣の記事を書いていますが、ぼちぼち来年の初詣はどうしようかな、っと……いよいよ名古屋七福神、かな……。

「知立神社」(再)(知立市)〜高速初詣三河編〜

1/9。
空模様も怪しくなってまいりましたが、ラストに立ち寄ったのは知立神社」です。

 

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「知立神社」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事です。

 

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鳥居。

人手がすごくて驚きました。

さすが式内、三河二宮。

 

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狛犬さんたら、

 

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狛犬さん(ニカッ)。

 

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提灯。

神紋は「青海波」です。

 

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御朱印

 

……え、写真はこれだけですけど何か?

 

いや、人が多い上に、雨がぱらついたりしていたもので、生活防水のない私のiPhoneでは……(防水機能のためだけに機種変更をしようと思っています……あ、いえ、バッテリーももはや死にかけなので)。

 

さて、前回の記事では、神社でいただく由緒書から引用しておりませんでしたので(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

知立神社は、池鯉鮒大明神とも称し、古来三河国第一の名社で、東海道沿線屈指の大社でもあります。
抑々当神社は、第十二代景行天皇の御代、皇子日本武尊が大命を奉じて東国御平定の砌、当地に於て皇祖の神々様を祭って国運の発展を祈願し給ひ、依って以て数々の危難を脱して平定の大功を完うし給へるにより、其の報賽のため、建国の祖神、彦火火出見尊、鸕鷀草葺不合尊、玉依比売命神日本磐余彦尊神武天皇)の四柱の皇大神を奉斎あらせられた、国家的由緒あるお社であって、後世、文化の恩神聖徳太子を合せ祀り、相殿には当碧海地方開拓の祖神青海首命をもお祀り申上げてあります。
当神社は斯様な尊いお社柄でありますので、御歴代天皇の御崇敬も厚く、亀山天皇の弘長元年には正一位の神階を奉られ、元寇襲来に際しては、正安二年七月十三日附を以て異国降伏の御祈願がかかり、明治元年九月明治天皇御東幸の際には、勅使を差遣して金幣を捧げ国運発展の御祈願があり、又仝二年十一月十一日皇后御代拝参向の節は、神札の献上を命ぜられました。
されば領主を始め諸大名の崇敬も厚く、参勤交代の途次には必ず神札を拝受せられましたが、就中大垣藩主戸田氏は信仰極めて厚く、例祭には遠路わざわざ代参を立てられ、又刈谷藩主は毎年三回参拝奉幣せしめられ、例祭には特に警固の士をも派遣せられました。
当神社は古来「蝮よけ、長虫よけ」「安産」「雨乞い」等の霊験いとあらたかにましますにより、崇敬者は全国にあまねく、従って御分社も県内は固より遠く関東関西に亙ってその数夥しく、又大氏神と崇敬して例祭に参拝した村落が古来四十有余にのおり、現今に於ても当碧海地方一円の大氏神として崇敬を集めさせられて居ります。
(以後略)」

 

ううむ、「聖徳太子」を祀った理由がやっぱりよくわからない……。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 上編

 

式内社、ということで『神社覈録』からいってみましょう。

 

知立神社 
知立は音読也、和名抄、(郷名部) 知立、 ◯祭神吉備武彦命、 (熱田社鎮座記)◯池鯉鮒駅に在す、(略) ◯熱田社鎮座記云、三河国碧海郡知立神社、祭武彦命、寛平縁起云、倭武命奉命東征、(中略)天皇勅吉備武彦與建稲種公服従倭武尊、日本紀景行天皇四十年七月條云、天皇則命吉備武彦與大友武日連、令従日本武尊
或書に、祭神葺不合尊といふは、例の信用しがたき説也、今は従はず、(以下略)」

 

どうやら、御祭神が「鸕鷀草葺不合尊」というのは信用し難い、後付け、元々は「吉備武彦命」だったんじゃないの、ということのようですが……。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 特選神名牒

 

↑『特選神名牒』も見ておきましょう。

 

知立神社
祭神 吉備武彦命
今按熱田鎮座記に三河国碧海郡知立神社祭武彦命々々々者孝霊天皇之皇子也今熱田龍神社記武彦命とあるは古伝によりて云るものなるべければ今之に従ふ社伝に鸕鷀草葺不合尊とあり又神主永見氏の記に末社に親母神と云あり豊玉姫命を祭ると云るは龍神なと申すよりの説にはあらざる歟附て後考を俟つ(以下略)」

 

やっぱり御祭神は「吉備武彦命」じゃないのかと……社伝はばっさり、ということですか。

「吉備武彦命」は、神社のお隣の公園にある「土御前社」に祀られています。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾三郷土史料叢書. 第3編

 

↑『尾三郷土史料叢書』の第3編に収録されている『三河国古蹟考』を見てみましょう。
気になるところだけ。

 

知立神社
(略)
◯熱田宮鎮座記云三河国碧海郡知立神社祭武彦命武彦命者孝霊天皇之皇子也今熱田竜神社祀武彦命 ◯按ニ永見氏云、末社ニ武彦命ノ社アリ。
(略)
尾張国帳集説ニ云知立社ハ、木花知流比賣也。
◯按ニ永見氏云、木花知流比賣命ハ地主ノ神にて別社ナリ。(以下略)」

 

「木花知流比賣命」が登場……ああ、「知流」が「ちりゅう」だから、ですか。
……うん、さすがに無理があると思います……「このはなちるひめ」の「ちる」、「散る」の当て字でしょうから、そこから「ちりゅう」になるというのはちょっと……でも、記紀神話でもマイナーな女神を地主神にしようという着眼点は素晴らしいかと。

まあ、結局「聖徳太子」が祀られている理由とか、「蝮除け」とか、謎ばっかりなんですけれども……郷土史家のみなさんにお任せしましょう。

というわけで、ようやく初詣の記事が終了です……もう10月だ……ここからスピードアップできるかどうかは、BABYMETALさんとさくら学院さん次第です……。

「不乗森神社」(安城市)〜高速初詣三河編〜

1/9。

豊川市からたらたらと名古屋へ向う途中、そうだと思って安城市に。

「不乗森(のらずのもり)神社」へ。

 

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不乗森神社

 

三河地方をつらつらと検索しているときに発見。

神社名(字面含めて)のかっこよさでは愛知県ベストスリーに入るのではないか、と思う厨二病

 

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「闇之森八幡社」(中区) - べにーのGinger Booker Club

 

「闇之森(くらがりのもり)八幡社」に匹敵するかっこよさ。

 

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社標。

枯れてますね……現実時間はもう10月で、また枯れ始めますね……いや時間かかりすぎで申し訳ない。

 

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鳥居。

 

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周辺の史跡図です。

 

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忠魂碑、かな。

神社は常若、が基本です。

 

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おや、山王鳥居、ということは「日吉大社」系列、御祭神は「大山咋神」でしょうか。

 

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「当神社創立は第六十三代冷泉天皇の御代(九六八)に滋賀県大津市坂本に鎮座する日吉大社東本宮の御祭神を此の地に勧請奉祀したと伝えられています昔より鎌倉街道に沿い往来する人々はうっそうとした社頭に下馬し旅の安全を祈願して通行したので、のらずの森と云われました
御神徳は当地方の大氏神山王宮として称えられ、土地開拓及び殖産縁結び交通安全の神として民衆に崇敬の篤い神社であります
例祭日 十月九日
湯立神事 三月九日
境内末社 東日吉社 神明社 山神社 秋葉社 厳島社 津島社 稲荷社
境外末社 社口社 東山秋葉社

 

なるほど、本家から勧請、ということでしたか。

伝承にしろ、かなりの古社ですね。

 

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狛犬さんたら、

 

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狛犬さん。

 

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鳥居。

 

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拝殿前には、マサルさんたら、

 

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マサルさん

「日吉」系ですからね。

 

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拝殿と回廊がくっついた……何ていうんでしたっけ……。

 

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神楽殿、かな……いや、狛犬さんがあって、平入で、ということはここが元々の拝殿でしょうか。

 

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三猿。

 

 

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「幸福釜」という御釜。

 

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社殿向かって右手からの、本殿方向。

 

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名前が見えない……。

 

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その隣の「稲荷社」。

 

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「稲荷社」の鳥居。

 

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「東日吉社」……御祭神は「大山祇命」……あれ、「東本宮」から勧請したのなら「大山咋神」のはずなんですが、でもそれは本殿っぽいので……「東日吉社」って何なんでしょうね……。

 

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秋葉社」。

 

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厳島社」。

 

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えっと、境外に出ているのかな……今までは、社殿向かって右手へ進んできましたが、そこからはちょっと外れています。

「社口社」。

「シャグチ」、「社宮司神社」のことだと思われます。

 

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「神猿神社」。

神使である「神猿」も、神社に祀られているようです。

 

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境内を石鳥居のあたりまでもどっての、子安石。

新しいっぽいですが、どうなんでしょう……古いとしたら道祖神なのでしょうが、真ん中に子供がいるというのが珍しいかな。

 

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神水

 

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社殿向かって左手……なんでしょう、土俵でも作るんでしょうか……。

奥の方に祠がありますね。

 

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こちらは、神楽殿か拝殿の、蟇股の彫刻。

ところどころ脱落してしまっていますが、十二支です。

 

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社殿向かって右手の、境内摂社。

 

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社務所方面……さざれ石と、おっと、「天満社」がありました。

 

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社務所の近くに御神田。

 

御朱印……はいただけるのだと思うのですが、御神職不在で残念。

 

さて。

↑の公式HPより、由緒を引用させていただきます。

 

「当神社の創立年代は、第六十三代冷泉天皇の御代(九六八年)近江国坂本村(大津市坂本町)に鎮座まします日吉大社東本宮の御祭神大山咋命の御分霊を観請して奉斎申し上げたと伝えられる古社である。

当時社頭は、旧鎌倉街道に沿い「野路の宿」(現知立市八ッ橋町)と共に「宮橋の里」と称する駅次の所在地にして、古来より街道を往来する人々は、社頭通行にあたり馬に乗りし者は下馬して自ら敬虔の念をもって拝礼の上通行した。

故に駄野森山王宮と称したが、明治維新改革に際し不乗森神社となる。」

 

なるほど、明治になってからの命名でしたか……。

境内摂社についても一覧的なものがありましたので。

 

神明社…天照皇大神(あまてらすのおおみかみ)
日吉社大山祇命(おおやまつみのみこと) 
厳島社…市杵島姫命(いちきしまひめのみこと) (市杵嶋比売命)
秋葉社…火産霊命(ほむすびのみこと)
山神社…大山祇命(おおやまつみのみこと) 
津島社…須佐之男命(すさのおのみこと)
稲荷社…倉稲魂命(うがのみたまのみこと)」

 

大山祇命」の社が二つあるのは、一つが「山神社」という、今のお稲荷さんのようにいたるところに小さな祠のある神社だからでしょう。

うーん、やはり「東日吉社」がよくわからない……。

で、国会図書館デジタルコレクションで、『参河名所図絵』や碧海郡の文献を探ってみたのですが、ざっと見た感じ見当たらず……ううむ、安城の図書館とかに行ってみないとですねきっと……。

ちょっと消化不良〜。

「五社稲荷社」(豊川市)〜高速初詣三河編〜

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「菟足神社」の参拝に向かう途中で、大きな赤い鳥居を見かけたような気がしたので向かってみました。

「五社稲荷社」、というそうです。

 

◯こちら===>>>

五社稲荷社

 

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これは、その大きな鳥居ではなく、駐車場のところにある鳥居です。

 

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こっちが大鳥居。

国道151線に面しています。

 

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石鳥居。

地元の参拝者のみなさんが多く、あれだけ大きな鳥居が作られているのですから、しっかり根付いているのだろうなと思います。

 

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「五社稲荷古墳

現在、五社稲荷社の本殿が建っている山が本古墳である。昭和五十六年にこの本殿を建設する時に発掘調査が行われた。その結果、直径約三十二・五メートル、高さ約四・七五メートルの円墳で、埋葬施設は木棺直葬と考えられる。墳丘内には多量の弥生土器が含まれていたことから、周囲の土を盛り上げて造られたことがわかった。埴輪や葺石、周溝などは確認されていない。築造年代は本古墳に直接伴う遺物が出土していないためはっきりしないが、古墳時代中期と思われる。

本古墳は直径三十メートルと大型であることに加えて、段丘の縁端部に立地し、豊川右岸に広がる広大な生産基盤である沖積平野を一望にできる。また、後の東海道と伊那街道が交わるという交通の要所に存在することなどから、被葬者は豊川右岸下流域一帯を掌握していた首長であっただろう。

本古墳の北東(奥の院の裏側には直径十七・五メートルほどの円墳である糟塚古墳がある。また、この付近は弥生時代中期から後期の大集落跡、欠山遺跡が広がっている。」

 

なるほど、古墳の上に建てられていますか。

水辺(川岸)、古墳の上、という立地が、古くからの何かしらの聖地だったことを思わせます。

 

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鳥居とおキツネ様

カゴはなんだろう……油揚げをお供えするのかな。

 

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階段を上がって、の鳥居。

 

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本殿をちらりと。

 

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本殿右手から奥の院へ。

やや降っています。

 

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到着。

 

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宝珠。

 

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本殿を後方から。

 

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本殿後方をぐるりと巡って戻ってきます。

 

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えっと……大黒様、だったかな。

 

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鳥居の奥に見えるのが大黒様、ちょっと登ってきています。

 

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拝殿。

墳丘の頂上に建てられている、というのが実感できました。

 

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境内周囲をごそごそしていて見つけた小祠。

 

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幟を外から。

 

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「鶏を捨てないでください」……え、捨てる人が?

神社だからいいだろ、ってことなのかな……「伊勢神宮」には放し飼いの鶏がいますが(神使)、お稲荷さんだからなぁ……。

 

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大鳥居を神社方面から。

 

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御朱印

 

さて、とりあえず神社でいただいた略記を見てみます。

 

三河国 白狐ヶ丘」、なのだそうです。

 

「御祭神
宇迦之御魂神
宇迦之売神
稚産霊神
大宮能売神
屋船神」

 

伏見稲荷神社」の五柱とは少々違っていますね。

「宇迦之御魂神」「宇迦之売神」「稚産霊神」の三柱はいずれも穀物の神様です。

「宇迦之売神」は、「外宮」の御祭神「豊受大神」と同一視されることもあります。

大宮能売神」は「伏見稲荷」でも祀られています。

さて、「屋船神」というのは……屋敷神ということなのか、総じて建築関係の守護神なのか……あまり聞いたことがないですので、昔は違った名前だったのかも。

 

「ここ白狐ヶ丘は弥生中後期の住居遺跡で欠山式土器の発掘地として知られており五社稲荷社は明暦年間(一六五六年頃)にこの遺跡の中央前方部大古墳上にこの古墳の尊厳を守り五穀豊穣を祈るため「保食神」を斎祀したのが始まりと伝えられております。百年ほど後の延享四年(一七四七年)御本殿の造替の棟札には「稲荷五社大明神」とあり、その以前より五柱の神々を斎祀したものと推測されますが、古文書から見ますと伏見稲荷大社から文政十三年二月(一八三〇年)正式勧請し五社稲荷社と称され今日に至っております。当時の神社の様子は「参河国名所図絵」に画かれており境内は今の様子とほぼ同じことがうかがえます。

又ここの古墳は前方後円墳と云われております。周辺部が損壊されているので確認は困難ですが東三河地方第一の規模を持つもので造成期は五世紀末から六世紀初めと伝えられ古墳の西方二〇〇米に鎮座する白鳳十五年(六八六年)創建の古社菟足神社の御祭神である大和葛城の豪族葛城襲津彦命の裔、菟上足尼命の墳墓と推定されています。この命、第二十一代雄略天皇の朝「穂の国」の国造として当地に派遣されその治績高く治民の功大なるものがありました。」

 

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「菟足神社」(豊川市)〜高速初詣三河編〜 - べにーのGinger Booker Club

「菟足神社」(補) - べにーのGinger Booker Club


前回の記事で紹介した「菟足神社」の関係がこっそり。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾三郷土史料叢書. 第4編

 

↑『参河国名所図絵』をちらっと見てみます。

87コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

「稲荷社
同村の中菟足社の北に在近頃村中の人に付て社壇を造立せんことを望む故に社祠を立て是を祭る。

稲荷塚
小坂井と篠束の地境に大塚二つ有小坂井の方を稲荷塚と云篠束の方を糟塚と云と二葉松に見ゆ」

 

まあ、これだけなのですが……90コマの図絵を見ていただくと、小高い丘の上の社殿が描かれているのは、神社の略記にもある通りです。

いずれにしろ、戦国末期〜江戸初期にかけていろいろ整ったようですので、うーん、「豊川稲荷」の影響なんかもあるんでしょうか。

ちなみに、大鳥居は平成十七年の建立だそうです。

 

「菟足神社」(補)

さて。

 

 

新訂 東海道名所図会〈中〉尾張・三河・遠江・駿河編 (新訂 日本名所図会集)

新訂 東海道名所図会〈中〉尾張・三河・遠江・駿河編 (新訂 日本名所図会集)

 

 

まずは、『東海道名所図会』より(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)、

 

「菟足神社

駅路小坂井村にあり。延喜式内。里俗菟足八幡宮と称す。例祭四月十一日。放花炮(はなび)を多く揚ぐる。

祭神兎上王(うさきかみのきみ)『古事記』にいわく、開化天皇記紀伝承上の天皇]の条下、「大股王の子、[中略]兎上王は、比売陀君の祖なり。」社説にいわく、「祭神兎上の王なり。白鳳年中[六七三〜六八五]神告に依りて、八幡宮を併せ祀る。祭式に雀十二を射取り、祭牲をなす。」『三代実録』にいわく、「貞観六年[八六四]二月、参河国正六位上菟足の神に従五位下を授く。」

鐘銘にいわく、

参河国宝飯郡渡津郷の兎足大明神、洪鐘。右の志為ること、天長地久。仰ぎ願わくは円満、国土安穏、諸人快楽、鋳奉る所なり。

大工 藤原助久

勧進聖 見阿弥陀仏

檀那 朝阿弥陀仏

応安三年庚戌[一三七〇]十一月

ここの村老いわく、この鐘、社頭の東方土中より掘り出だす。その遺跡、方五間ばかりの地、今にあり。不浄を祓い、注連引わたす。」(p120)

 

 

うむ、表記として「菟足」だったり「兎足」だったりしているわけですね。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 上編

 

『神社覈録』を見てみましょう。

 

「兎足神社
兎足は宇多利と訓べし ◯祭神菟上王、(社伝)◯度津庄小坂井村に在す。今菟足八幡宮と称す。 (二葉松、私考略、) ◯古事記、 (開化段) 日子坐王娶山代之荏名津比賣、生子大股王、(中略) 故兄大股王之子、曙立王、次菟上王、 (二柱) 云々、
(連胤)按るに、爰に菟上王を祭り、碧海郡に肥長比賣(日長神社也)を祭る事、垂仁段の故事は、国を隔つといへども由縁ある事なるべし、
(略)」

 

 

古事記 (岩波文庫)

古事記 (岩波文庫)

 

 


古事記開化天皇の段を見てみますと、

 

「故、兄大俣王の子、曙立王。次に菟上王。(二柱)この曙立王は、(伊勢の品遅部君、伊勢の佐那造の祖。)菟上王は、(比賣陀の祖。)」

 

とあり、この「菟上王」が「菟足神社」の御祭神としたいようです。

この方がどんな活躍をされたかというと、『古事記垂仁天皇の段を見てみますと、

 

「故、その御子を率て遊びし状は、尾張の相津にある二俣榲を二俣小舟に作りて、持ち上り来て、倭の市師池、軽池に浮かべて、その御子を率て遊びき。然るにこの御子、八拳鬚心の前に至るまで真事とはず。故、今高往く鵠の音を聞きて、始めてあぎとひしたまひき。ここに山辺の大鶙を遣はして、その鳥を取らしめたまひき。故、この人その鵠を追ひ尋ねて、木国より針間国に到り、また追ひて稲羽国に越え、すなはち旦波国、多遅麻国に到り、東の方に追ひ廻りて、近つ淡海国に到り、すなはち三野国に越え、尾張国より伝ひて科野国に追ひ、遂に高志国に追ひ到りて、和那美の水門に網を張りて、その鳥を取りて持ち上りて献りき。故、その水門を号けて和那美の水門と謂ふなり。またその鳥を見たたまはば、物言はむと思ほせしに、思ほすが如くに言ひたまふ事なかりき。

ここに天皇患ひたまひて、御寝しませる時、御夢に覚して曰りたまひけらく、「我が宮を天皇の御舎の如修理りたまはば、御子必ず真事とはむ。」とのりたまひき。かく覚したまふ時、太占に占相ひて、何れの神の心ぞと求めしに、その祟りは出雲の大神の御心なりき。故、その御子をしてその大神の宮を拝ましめに遣はさむとせし時、誰人を副へしめば吉けむとうらないひき。ここに曙立王卜に食ひき。故、曙立王に科せて、誓ひ白さしめつらく、「この大神を拝むによりて、誠に験あらば、この鷺巣池の樹に住む鷺や、誓ひ落ちよ。」とまをさしめき。かく詔りたまひし時、誓ひしその鷺、地に堕ちて死にき。また「誓ひ活きよ。」と語りたまへば、更に活きぬ。また甜白檮の前にある葉広熊白檮を、誓ひ枯らし、また誓ひ生かしき。ここに名を曙立王に賜ひて、倭者師木登美豊朝倉曙立王と謂ひき。すなはち曙立王、菟上(うなかみの)王の二王をその御子に副へて遣はしし時、那良戸よりは跛盲遇はむ。大坂戸よりもまた跛盲遇はむ。ただ木戸ぞこれ掖月の吉き戸と卜ひて出で行かしし時、到ります地毎に品遅部を定めたまひき。
故、出雲に到りて、大神を拝み訖へて還り上ります時に、肥河の中に黒き巣橋を作り、假宮を仕へ奉りて坐さしめき。ここに出雲国造の祖、名は岐比佐都美、青葉の山を餝りて、その河下に立てて、大御食献らむとする時に、その御子詔りたまひしく、「この河下に、青葉の山の如きは、山と見えて山に非ず。もし出雲の石◼︎の曾宮に坐す葦原色許男大神をもち拝く祝の大廷か。」と問ひたまひき。ここに御伴に遣はさえし王等、聞き歓び見喜びて、御子をば檳榔の長穂宮に坐せて、駅使を貢上りき。ここにその御子、一宿肥長比賣と婚ひしましき。故、その美人を竊伺たまへば、蛇なりき。すなはち見畏みて逃げたまひき。ここにその肥長比賣患ひて、海原を光して船より追ひ来たりき。故、益見畏みて、山のたわより御船を引き越して逃げ上り行でましき。ここに覆奏言ししく、「大神を拝みたまひしによりて、大御子物詔りたまひき。故、参上り来つ。」とまをしき。故、天皇歓喜ばして、すなはち菟上王を返して、神の宮を造らしめたまひき。ここに天皇、その御子によりて、鳥取部、鳥甘部、品遅部、大湯坐、若湯坐を定めたまひき。」

 

とあります。

簡単に書くと、「垂仁天皇」の御子に「本牟智和気(ほむちわけ)王」という人がいて、この人は「沙本毘賣」との間の子なのですが、兄の「沙本毘古王」が叛逆を企て、「沙本毘売」は兄についてしまった、と。

このとき身ごもっていた「沙本毘売」ですが、劣勢になり城(稲城)に火を放たれてしまいます。

「沙本毘売」は「御子を天皇の子だと信じるなら、どうか連れていってくれ」と城の外に出し、兄と共に焼け死にます。

この辺りは、「木花佐久夜毘売命」の神話と通じるものがあり、一種の神判、火から逃れる、ということで証明される何かがあったのでしょう。

で、「本牟智和気王」は、ヒゲが胸元に垂れ下がっても物を言わなかったのに、ある鳥(鵠(くぐい))の声を聞くと口を動かした、と。

そこでこの鳥をある人に追わせて捕まえてきたのですが、残念ながらしゃべれるようにはならなかったのです。

垂仁天皇」に夢のお告げがあり、どうやら「出雲の大神」の祟り(「うちの宮を、天皇の住居のように修理してくれたら、御子は喋れるようになるんじゃないのかなぁ、多分」)のようなので、御子に「曙立王」「菟上王」をつけて、出雲へと旅立たせました。

出雲に到着し、出雲国造の祖先が宴会をもよおすと、突然喋り出した「本牟智和気王」、こりゃびっくりと天皇に報告しに行きました。

その間に、御子は「肥長比賣」と結婚したのですが、この方実は蛇の化身でした……とこれはあれですね、「海幸山幸」、「豊玉毘賣」の神話と似ています。

報告を受けた天皇は喜んで、「菟上王」を出雲へ戻して、「神の宮」を造営させた、と。

この部分だけでいろいろ妄想できるのですが……(例えば、この部分が、それ以前の「海幸山幸」「木花佐久夜毘売」の伝承の繰り返しのように見えるのはなぜか、とか、大人になっても話せなかった御子というのは「大和の言葉がわからなかった」のではないか、とか、「沙本毘古王」の反乱からして出雲の陰謀じゃないかとか、名前の類似から「ホムチワケ」、「誉田別」、「ホムタワケ」つまり「応神天皇」のことじゃないのか、とか)……『古事記』の中で結構な誌面を割いているにも関わらず、「本牟智和気王」は天皇の後継者にもならないし、この後さっぱり出てこない……「重要人物と思わせて実はそうではない」なんてしょうもない叙述トリックを『古事記』の時代にやったとは思えないので、何かしら「出雲」に配慮して持ち込まれた部分なのかもしれません。

それにしては、「菟上王」と「肥長毘賣」のつながりが薄いですけれども……。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾三郷土史料叢書. 第4編

 

尾三郷土史料叢書』の第4編、『参河国名所図絵』を見てみます。
コマ数ではなくページ数で164からです。

 

「菟足神社
同村に在社領九十五石祭神(社説に云兎上王)又八幡宮を合せ祭る例祭四月十一日(略)
当社は延喜式に載る所の宮社也今菟足八幡宮と云社説に云祭神(開化天皇の皇孫大股王の第二子)兎上王 天武天皇白鳳年中神告によりて八幡宮を合せ祀る(草鹿砥宣隆此社に詣て神主川出氏に祭神を聞に往古は品多別命を祭りしに白鳳年中神託により平井村より兎上足尼を迎へ奉りて相殿に祭りてより兎足八幡宮と云といへり) (略) 今按るに古事記伝(廿三ノ六十八丁)此王を祭れりと云ふこと心得ぬことなりと謂はれたり社説は古事記の菟上王と国造本紀の菟上足尼とを混へて伝へたる歟考ふへし又神名式に伊勢国朝倉郡に菟上の神社あり又古事記(中ノ廿四丁)に云(日子坐王御子丹波比古多々須美知能宇斯王子)朝廷(みかど)別王者(三川之穂別之祖) 旧事紀(五ノ廿二丁)三川穂国造美巳止(みこと)直とありミコトミカド能く似たれば若くは同人には非る歟と古事記伝(廿二ノ七十二丁)に云はれたり(略)」

 

休憩。

古事記伝』は本居宣長による『古事記』注釈本だと思っていただければいいのですが、古事記の菟上王と国造本紀の菟上足尼とを混へて伝へたる歟考ふへし」ってところを読んで、「ああ、菟足ってひょっとしたら「菟上足尼(うなかみのすくね)」の略なのか……ってそれ明らかに漢字を当てたあとの話だよね……」と了解したのか、疑問が増えたのか……。

 

「天野信景の塩尻に云三河国宝飯郡兎足神社は国造本紀に兎上足尼云々兎足とは文字を略きて書然ればウソコと称ふへきを今はウタリの神社と呼伝る諸神祠の号其称号と正し其元を知るへき也ウカミのカとタと横音通し又ミトリと通へり谷をタリと訓に似たり然れはウタリはウカミの音便歟三代実録(八ノ廿二丁)に云清和天皇貞観六年二月十九日丙子授三河国正六位上菟足神従五位下和漢三才図会(六十九十丁)四月十一日祭礼其上旬射取雀十二羽爲祭牲」

 

尾張の博覧狂記・天野信景翁の『塩尻』からの引用として、何らかの音便変化があったか、とあります。

「ウカミ」から「ウタリ」は遠い気がしますよね……もともと「ウタリ」だったんじゃないかな……と思いたいところですが、証左は無し。

 

「谷川氏の和訓栞(三ノ六丁)生贄の条に三州小坂井村の兎足神社の祭にも雀十二羽を献すとあり又吉田綜銘に云祭礼四月十一日なり風の祭と号す雀拾二羽を射取て贄をなす往古は小田の橋にて旅人の児女を待受て人身御供と為せしと云中比は猪鹿を献りしとも云い又人を生ながら捕て生贄と為せし事今昔物語(巻十五)宇治拾遺物語(巻十)なとに見ゆ宇治拾遺のは人の生贄を留めて後猪鹿を生贄になせしとあれば似たることなり又続紀(廿五ノ廿六丁)淡路廃帝天平宝字八年の条に云又諸国進御贄雑完魚等類悉停云々宇治拾遺(四ノ十二丁)云三河入道いまた俗にてありける折もとの妻をば去りつつ若きかたちよき女に思ひつきてそれを妻にて三河へゐてくたりけるほどに(中略)三河国に風祭と云ことをしけるにいけにへと云ふことに猪をいけながらおろしけるを見てこの国のきなんと思ふ心付てけり云々又三河雀に云四月十一日毎年風祭あり卯月上旬より十日限に雀十二羽を射取雀矢に中りて血流れぬれば氏子に災難ありと云へりなと敬雄の官社考に云へり」

 

なかなか生々しいお祭りだったようで……この辺り、「諏訪大社」の「御頭祭」を思い起こさせますね……となると、ここでもひょっとして古代ユダヤ氏族が登場するのでしょうか(トンデモギリギリ)。

 

 

先代旧事本紀 現代語訳

先代旧事本紀 現代語訳

 

 

先代旧事本紀』の「国造本紀」には、

 

「穂の国造
泊瀬朝倉朝(第二十一代雄略天皇)の御代に、生江臣(武内宿禰の後裔)の先祖、葛城襲津彦命(娘の磐之媛の命は第十六代仁徳天皇の皇后で、履中・反正・允恭の母)の四世の孫、菟上足尼(うなかみのすくね)を国造に定められた(穂国は三河国宝飯郡、愛知県豊川市付近)。」

 

とあります。
↑↑の方にもありましたが、

 

古事記(中ノ廿四丁)に云(日子坐王御子丹波比古多々須美知能宇斯王子)朝廷(みかど)別王者(三川之穂別之祖) 旧事紀(五ノ廿二丁)三川穂国造美巳止(みこと)直とありミコトミカド能く似たれば若くは同人には非る歟と古事記伝(廿二ノ七十二丁)に云はれたり」

 

というわけで、国造が誰だったか、その祖が誰だったか、『古事記』や『先代旧事本紀』が書かれた頃でさえいろいろな説があるものなので、何とも決めがたい……。

「菟上足尼」が、この辺りの実力者で、名前の近い「菟上王」と同一視され、神格化されたのかなぁ……くらいなのかもしれませんが、出雲の大神(「大己貴命」か「素盞嗚尊」かはさておき)の宮を盛大に修理したにしてはやっぱりそのあと記紀神話での影が薄いし、どうにもマイナー感がいなめません……むしろ、そのマイナーなところが狙い目だったとすれば、穂の国としては箔をつけることはできた、んでしょうか……うーん……。

『参河名所図絵』には、図絵も掲載されているのですが、神社の位置は今と同じようにちょっと小高い丘の上で、川沿いで、一の鳥居の位置も同じ、ということは江戸末期ですでに参道は直角に曲がっているのですよね……社殿の真正面に橋がかかっていないのが、地理的要因によるものなのか、怨霊封じなのか……様子としては、伊勢の「内宮」「外宮」の配置とも似ています……ということは、昔は川に船をつけて、そこから入ったのかな……。

いろいろ妄想が浮かんできますが、あとは郷土史家のみなさんにお任せするとして、次に行ってみましょう〜。