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べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「太郎坊阿賀神社」(考)

さて。
文字だらけですので、苦手なかたは回避してください。

 

いつも通り『近江輿地志略』の目次をぐるぐる見ていたのですが……「阿賀神社」も「太郎坊」もどこにもないんですよね……これは何かあるな、と思って、ひとまず神社でいただいた御朱印の押さえ紙を。

 

「神社名 太郎坊・阿賀神社(通称太郎坊宮)
御祭神 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(天照皇大神の第一皇子神・天孫瓊瓊杵尊の御父神)
御神徳 勝運授福
御社紋 輪宝
(以下略)」

 

うん、ヒントがない。
国会図書館デジタルコレクションで検索してみると、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 太郎坊阿賀神社神拝祝詞

 

↑そのものが見つかっちゃったもので……こちらから(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
2コマです。

 

「○御霊験
抑々近江八日市赤神山に鎮座まします太郎坊阿賀神社は太古天津神我朝の萬民の病患貧苦を憐み當山千丈巨巌に降臨し給ひて大神の神力を以て巨巌を左右に押開き此の間を通行して参拝するの輩は即座に病苦を除き諸願成就せざる事なし、
欽明天皇の御世聖徳太子霊威顕著なるを聞食し参籠し給ひ國家安泰風雨順次百穀成熟萬民快楽を大神に懇念し給ふ是に於て大神を阿賀霊神太郎坊大権現と奉稱し給えり桓武天皇の御宇傳教大師當山に参籠し廟社を建立し社坊成願寺を設け赤神山と號せり、古来霊験顕著にして其の御守護を蒙る者擧ぐるに遑あらず殊に近年信者著しく増加し大正拾参年以来本殿再築し其他諸設備に着手し本年十月當敬神會より荘厳無比なる社名石を献納するに至れり。」

 

……うーん、伝承はある程度わかりましたが、「太郎坊宮」「阿賀神社」と呼ばれた始まりが……おっと、

 

「社坊成願寺」

 

……なるほど、見逃すところでした。

社紋が「輪宝」という時点で、そのくらい思い至らないといけないですね……。


というわけで、「成願寺」に関する資料をデジタルコレクションで当たってみると、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 近江蒲生郡志. 巻7

 

↑『近江蒲生郡志』巻7にありました「成願寺」。
299コマです。

 

「成願寺
成願寺は中野村大字小脇に在り天台宗なり本尊薬師如来なり、寺傳に延暦十八年傳教大師草創の古刹にして全盛五十餘坊の塔中あり、一旦兵火に罹り爾後行萬坊石垣坊の二院を存するに過ぎず太郎坊を以て有名なる所なり、天正蒲生氏郷制札を寄す(蒲生氏世代志参照)慶長八年十月幕府の寺社奉行は五ヶ條の掟書を下して寺規を定め京都町奉行板倉伊賀守勝重は寺領十七石に諸加役免除地の特典を附與す、元和三年六月延暦寺の執行天海僧正は三條の寺法を下して寺僧を戒飾すそれ等の史料は左に列記す、寛永十七年住僧寶壽院行承及び行萬坊の祐盛願主となり洪鐘を鋳造す、明治以後神仏分離令出でし時太郎坊社は阿賀神社と改稱し各別立す、境内に不動堂あり寛永中僧行承の再建せし所なり。(略)」

 

……なるほど。
この書き方だと、「太郎坊宮」は塔中の一つだったのかどうか、もよくわかりませんね。
ただ、江戸の頃にはすでに「太郎坊宮」で有名だった、と。
蒲生氏郷」については……ええ、戦国時代に疎い私はさっぱりですが、超有名人ですよね確か。
検索していただければわかると思いますが、近江は蒲生郡の出身だったようです。
ふむ……では『近江輿地志略』も見ておきましょう。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 近江輿地志略 : 校定頭註

 

421コマです。

「[成願寺]成願寺村にあり。赤神山成願寺と號す。其記に曰く、夫當山は人皇五十代桓武天皇延暦十八乙卯年傳教大師草創の伽藍にして、本尊薬師如来十二神将御自作なり。鎮守は熊野権現、往古は五十餘坊あり、今漸く二坊を存す。行萬坊石垣坊是也。峯は金剛胎蔵の曼荼羅中央は不動明王垂迹、悪魔降伏の太郎坊、此處に十丈許の妙岩二行に立つ。これ阿吽の二字を表す云々と。杉谷善住坊は五十三家の侍也。娘を屋形義賢公へ出し妻となす。此腹に端三郎といふ子出生、之に依りて善住坊無二の忠を盡し、成願寺の峯に楯籠り、忍びて信長公をねらへども幸なければ空く過ぐる折節、千草越を尾張へ下り給ふと聞き、彼山中に忍び鐡砲を以て打つ、信長運強くはづる。杉谷深く隠れしが高島にて磯野丹波守、高島小川へ所替の節、堀川阿弥陀寺にて生捕られ生害す。

 

むむ……ほとんど何もわからないに等しいです……。

 

「中央は不動明王垂迹、悪魔降伏の太郎坊」

 

↑これって、つながっているんでしょうか?
だとしたら、「太郎坊」は「不動明王」の垂迹ということになります。
むむむ……。
普通、「太郎坊」ったら、明らかに天狗のことなのですが……。

 

 

日本妖怪異聞録 (講談社学術文庫)

日本妖怪異聞録 (講談社学術文庫)

 

 

小松和彦大天狗……じゃない大先生による『日本妖怪異聞録』を最近読んだので、そこから引用しますと、

 

「江戸も中期頃に作成されたとされている『天狗経』なる書がある。それによると、京都の北西の愛宕山には太郎坊という天狗、比良山(比叡山の奥)には次郎坊、鞍馬山には僧正坊、比叡山には法性坊、さらに横川(比叡山)覚海坊、富士山陀羅尼坊、日光山東光坊、羽黒山三光坊、妙義山日光坊、常陸筑波法印、彦山豊前坊、等々、霊山には合計四十八天狗がいる、と書かれている。

この天狗名、固有名詞であるかに見えるが、霊山に結びつけられている名であろうから、むしろ天狗の地域的集合名を考えた方がいい。愛宕山の太郎坊と称される地域的天狗集団があって、そのなかに、さらに個々の名前を持った天狗がいたというわけである。
『天狗経』の筆頭にあがっていた愛宕山の天狗が「太郎坊」つまり「長男」の天狗とされているように、愛宕山平安時代から天狗の拠点とされていた。前章で那須野の妖狐「玉藻前」の話を紹介したとき、左大臣藤原頼長近衛天皇を呪詛したという噂が流れた、という実話について少し述べたが、この頼長の、おそらく修験もしくは陰陽師を用いて行なった呪詛法は、愛宕山の天狗像に釘を打ち込むという方法であった。つまり、その当時から、愛宕山には天狗像が祀られていたのである。
鳥類タイプの天狗がしきりに活動していたのは、平安時代であった。この頃の天狗をめぐる伝承の多くは、仏教とりわけ比叡山、つまり天台宗の僧たちにかかわるかたちで語られている。」(p74)

 

「……こうした天狗伝承から明らかになってくるのは、比叡山密教僧たちは、この世のなかの「異常」を「天狗」によって説明しようとしていたかにみえる、ということである。大雑把ないい方をすると、陰陽師が「鬼」を想定することで、あるいは「妖狐」を想定することで、「異常」を説明しようとしたのに対し、天台の密教僧は「天狗」を想定することで「異常」の説明の独自性を主張したのだ。彼らは、天狗と戦い、これを退治することでその存在を主張し、かつ仏の教えを人びとの間に広めようとしたというわけなのである。」(p81)

 

「比良山の天狗が、是害坊(ブログ筆者注:『今昔物語集』を元にして作られた、鎌倉時代に大人気を博したらしい、大陸からやってきた天狗)をそそのかすために語った話のなかに、文徳天皇の女御染殿后の話があった。その話とは、「文徳天皇の女御染殿后は、石山の行者、紺青鬼となりて、悩ましたてまつりしを、智証大師、加持し給ひければ、その後は、近江の水海(琵琶湖)に隠れ侍りしかども、恥をかくことはなかりき」というものであった。石山の行者が紺青鬼という鬼になって、染殿に憑いて病気にしたが、智証大師の祈祷で退散させられた。退散した鬼は琵琶湖の底に隠れて出てこなかったので、恥をさらすことがなかった。それに引きかえ、あなたは一度ならず二度までも恥をさらしている、とさり気なく是害坊を責めていたのだ。
ここでは、石山の行者が鬼になったと表現されているが、ある書物によると、染殿を悩ました邪気が天狗で、しかも、もとは紀僧正という立派な僧であったという。つまり、僧が戒めを破って天狗になることもあったのである。染殿についた天狗は、柿本天狗という名の天狗であった。この柿本天狗を調査してみると、意外や意外、もと真言宗の僧で、知徳秀逸にして験徳無双の聖であったが、大法慢(慢心)して、日本第一の天狗になった、その大天狗が愛宕山の太郎坊だ、というのである。(略)」(p98)

 

↑といったことが書かれています。

他にも、大陸から渡ってきた「是害坊」はなぜか「不動明王」に深く帰依する僧侶にやられていることが多かったりして、「天狗」と「不動明王」の関係になにやらありそうな感じがします。

 

「天狗」の初出は……という話をすると長くなるのでやめますが、もっぱら修験者と同一視された、というのはよく知られた話だと思います。

山に「天狗」が住んでいるのは、山岳で修行する修験者とイメージを重ねているからですね。

で、おそらくですが、これが正式な仏教僧にとって、都合の悪いことがあったのでしょう。

正式な得度を受けていないのに、仏法を使役し、ときに祈祷もやってのける民間仏教者ですから、認めがたい部分が多かったのではないかと思います。

一方で仏教、特に密教は山と所縁が深いのも事実で、何しろ「秘密」な仏教ですから隠しておきたいことがあるでしょうし、修行も厳しくするために山が選択された、ということもあったのでしょう(大陸の仏教の影響は、もちろん巨大です)。

とすると、実は修験者と密教僧というのは、近しい存在でもあるのです。

天台宗の「千日回峰行」の話を読むと、特にそう感じます。

巨大勢力天台宗としては、ときと場合によって、「天狗」をいいように利用したのではないでしょうか。

全てではないでしょうが、↑であげた「柿本天狗」の話を見ていただくと、真言宗の高僧が「天狗」になった、と書かれています。

大きく争っていたわけではないにしろ、天台宗真言宗はライバル関係、であれば相手をそこはかとなくディスるために、真言宗の僧侶は「天狗」になることがあるんですよ、とネガティブキャンペーンを張る。

一方で、大陸からやってきた「是害坊」と退治して調伏するのは天台宗の高僧。

相手を落としつつ、自分をあげる、という基本戦略に基づき、しれっと「真言宗天台宗」を植え付ける。

その仲立ちを「天狗」がしているとなると、天台宗と「天狗」はほぼ共犯関係にありますね。

マッチポンプってやつです。

こうなってくると、天台宗の高僧が「不動明王」の加護で「天狗」を退治した、というのも怪しいもので……ああ、ひょっとすると、「中央は不動明王垂迹、悪魔降伏の太郎坊」ってそういう意味なんでしょうか。

 

「天狗」に堕ちる、あるいは「天狗道」という六道になぞらえた言い方もありますが、「天狗」が堕落したものである、という観念が結構定着しています(他の「天狗」もいるでしょうが)。

これが、キリスト教における「堕天使」の取り扱いと似ていたりします(「天狗」は仏法の敵なのですが、例えば「神の敵対者」と呼ばれる「サタン」とダブります)。

洋の東西を問わず、人間の考えることは似ているのかなぁ……とちょっと思ったり。

 

 

日本の霊山読み解き事典

日本の霊山読み解き事典

 

 

 

『日本の霊山読み解き事典』から、「愛宕山」の記事をちょっと引用してみましょう。

 

「中世になると神仏習合色が強まり、愛宕山を行場とする修験者や聖が現れたが、その一人に蔵算がいた。蔵算は、愛宕山から伯耆大山に行き、六年間にわたって修行を積み、伯耆大山で盛んであった地蔵信仰を愛宕山に持ち帰った。その結果、愛宕権現本地仏を勝軍地蔵とする説が生まれ、愛宕山本地垂迹説が完成した。そして、勝軍地蔵など五尊を祀る白雲寺が成立し、愛宕神社別当寺となった。白雲寺は、愛宕神社の祭礼に深く関与するとともに、天台宗の勝軍院長床坊・教学院尾崎坊・大善院上坊・威徳院西坊、真言宗の福寿院下坊の五つの院坊を擁した。
また、奥の院に著名な天狗である太郎坊など三座が祀られたのも中世のことで、浄瑠璃「あたごの本地」や祭文「愛宕地蔵之物語」などで天狗が活躍する物語が広く語られたのは、中世から近世にかけてのことであった。」(p410)

 

この事典には、赤神山の項目はありませんが、前回の最初の写真を見ていただければわかる通り、修行にはうってつけな感じですから、修験道も盛んだったでしょうし、それこそ「天狗」もたくさんいたのでしょう。

愛宕の「太郎坊」とは違う「太郎坊」がいたとしても不思議ではないのかもしれないです。

妖怪の勉強は、小松和彦氏とか多田克己氏にお任せしまして(?)。

 

杉谷善住坊は五十三家の侍也。娘を屋形義賢公へ出し妻となす。此腹に端三郎といふ子出生、之に依りて善住坊無二の忠を盡し、成願寺の峯に楯籠り、忍びて信長公をねらへども幸なければ空く過ぐる折節、千草越を尾張へ下り給ふと聞き、彼山中に忍び鐡砲を以て打つ、信長運強くはづる。杉谷深く隠れしが高島にて磯野丹波守、高島小川へ所替の節、堀川阿弥陀寺にて生捕られ生害す。」

 

↑『近江輿地志略』の中に、いきなり「戦国スナイパー」

 

戦国スナイパー 1 信長との遭遇篇 (講談社BOX)

戦国スナイパー 1 信長との遭遇篇 (講談社BOX)

 

 

が出てきたのでちょっと驚きましたが(あ、意味が違うのかな……すみません未読なもので)、「織田信長」を狙うために、どうやら赤神山に篭っていたようです。

 

……ところで、「成願寺」って今もあるんでしょうか。

グーグルマップで調べたら、普通にありました……これだから事前に調べないってのは……。

 

というわけで、今回の滋賀巡りはこれにて終了〜。
溜まりに溜まっている初詣の記事に……まだ突入できませんのです、はい……。

「太郎坊阿賀神社」(滋賀県東近江市)〜滋賀めぐり(再)

12/2。

近江神宮」で腹痛をなんとかねじ伏せ、時間があればいろいろと回ってみたかったのですが(「石山寺」とか)、「日吉大社」を堪能して時間を使ったので(そのわりに残念な写真ばかりでしたが)、裏メインとして目星をつけておいた「太郎坊阿賀神社」へ。

 

○こちら===>>>

勝運の神・太郎坊宮ホームページ | 勝利と幸福を授ける神様・太郎坊宮のホームページです

 

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麓の駐車場付近より。
紅葉が美しいのと、山のシルエットが見事な感じ。
岩山なんですね。
麓から石段で登ることもできるのですが、「軟弱者!」と某ロボットアニメのキャラにビンタされそうなおっさんなもので、山上の駐車場まで車で移動。
檀家さんか職員のかたか、年末に向けての準備を行なっている中、そそくさと。

 

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それでも階段は避けきれず。
紅葉を愛でながら参ります。

 

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社務所・参集殿の近くの狛犬さん。
御朱印は参拝後にいただくので、ここではスルー。

 

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……いい感じに登っていますね……。
紅葉が綺麗だからいいか……。

 

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あら、また狛犬さん発見。

 

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長楽殿。
……あれ、何か解説があったような気がしたんですが……。

 

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……60メートルか……大した距離ではないのに、登りだと言われると……。

 

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というわけで、無理やり紅葉に心を奪われてみました。

 

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永安殿。
うん、すみません、何のための建物なのか……。

 

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赤神山(御神体山)に登ることもできます。

 

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龍神舎。
ここからお山に登る……んじゃなかったかな……。

 

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拝殿へはまだまだ登ります。
途中でまたも狛犬さん。
まるまる。

 

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振り返ってみました。

 

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登ります。

 

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途中で「赤神山愛宕社」を発見。

 

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「赤神山稲荷社」もありました。

 

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「腰掛岩」は、「その昔「源義経」が鞍馬山を下りて奥羽に向う途中に源氏の再興を祈願した際に休息した岩」、のようです。
天狗がらみの話が多いのは、修験道系だから、でしょうか。

 

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夫婦岩」。
「磐境信仰発祥の地・近江高天原」と書かれています。
夫婦というよりは岩戸ですよね。

 

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夫婦岩」あたりからの眺望。
広大な平野であることがよくわかります。

 

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夫婦岩」近くにもにもお稲荷さんが。

 

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夫婦岩」前の鳥居扁額アップ。

 

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通り抜けてきた「夫婦岩」を振り返ってみました。

 

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東近江市指定天然記念物
太郎坊阿賀神社の夫婦岩

阿賀神社の鎮座する赤神山をはじめ湖東平野に散在する山々は、中生代白亜紀(およそ七千万年前)の火山活動でできたと考えられており「湖東カルデラ」と呼ばれている。これらの山々は「湖東流紋岩」と呼ばれる岩石で構成されており、湖東平野の特徴的な地形景観を形成している。火成岩は冷えて固まっていくときに収縮し「節理」と呼ばれる規則的な割れが生じる。この夫婦岩は節理に沿って割れ目が発達したものである。
昔からこの間を通って参拝する者には、即座に病苦を除き諸願成就するが、悪心ある者は岩に挟まれると言われてきた。節理が平行に見事にずれた形状は、まさしく言い伝えの「大神の神力を以て左右に押し開かれた」霊力を感じさせるものである。」

 

なるほど、そういったものでしたか。

 

○こちら===>>>

「日牟禮八幡宮」〜近江めぐり〜(再作成) - べにーのGinger Booker Club

 

そういえば、同じ湖東にある「日牟禮八幡宮」も岩山にあったなぁ……とふと思いました。

 

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再びの眺望。
うむ、登ってきた甲斐もある。

 

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やっとこ拝殿……御祭神は「正哉吾勝勝速日天之忍穂耳命」です。
天照大神」と「素盞嗚尊」の誓約(うけい)で生まれた五男神の第一神で、「瓊瓊杵尊」の父神です。
拝殿の中の写真はありません。

 

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三度の眺望。

 

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「お帰りは裏参道より、地主社・七福神・一願成就社・不動明王尊・絵馬殿」を経て駐車場へ行けます」とのお誘いですので、乗らないわけにはいかない、と。
腹痛が治って本当によかった。

 

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え〜……やめときゃよかったかな(でも、表参道も大して変わらないか)。

 

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摂社の「地主神社」。
地主神はどなただったんでしょう……あとで調べてみましょう。

 

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……あれ、どっちに行ったんだっけ。

 

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ここから、道々に「七福神」がお祭りされています。
こちら「布袋」様。

 

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裏参道の鳥居は石造り。
結構太陽が傾いているのが、色でお分かりかと。
冬はね……夕暮れが早いもので。

 

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「寿老人」。

 

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再び鳥居を振り返る。

 

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毘沙門天」。

 

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「弁財天」。
下の洞窟は、「一願成就社」での祈願と何か関係していたと思いますが……気になる人は調べてみてください。

 

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こちら「一願成就社」。

 

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天狗面。
やっぱり「太郎坊」というくらいですから、「愛宕山太郎坊」なんでしょうか。
左手奥に、お百度のための何かがあったような気がしないでもないです(いかん、記憶がどんどん……)。

 

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「一願成就社」を振り返ります。

 

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「恵比寿」様。

 

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「大黒」様と鳥居。

 

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「福禄寿」様。

 

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降りてきての眺望。
まだまだ高いです。

 

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結構降りました。

 

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まだまだ降ります。

 

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なぜか「福助」さん。
もうなんでもありですね。

 

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不動明王」より、手前の手水鉢の烏天狗が気になる……。

 

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神馬像。
いい天気でした。

 

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はい、というわけで社務所付近まで戻ってきましたよ。

 

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麓からガチで登る人の階段。
うーん、無理。

 

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最後の最後に石標を見る、という。

 

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御朱印。

下調べ無しで突っ込みましたので、実際のところどんな場所なのかはよくわかっていなかったりします。
なので、これから検索検索。

 

ちなみに、駐車場から出てきて幹線道路に戻る信号は、車両感知式なので、結構前まで出ないとなかなか青になりません(地元の方に教えていただきました)。


それでは次回は引用で〜す。

「近江神宮」(滋賀県大津市)〜滋賀巡り(再)

12/2。

日吉大社」を後にしまして、境外摂社である「唐崎神社」に向かったのですが、駐車場がなく、市営の駐車場を素通りしたため、やむなく近江神宮へ。

 

○こちら===>>>

oumijingu.org

 

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駐車場が結構奥のほうまで案内され、参道をまともに通らなかった……というわけで、駐車場から楼門へ向う途中。
何やらイベントが開催されていたようです。

 

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参道側を振り返っての鳥居。

 

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境内図。
いろいろと歌碑が置かれているのが特徴なのかしら。

 

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「由緒
御祭神 天智天皇 天命開別大神

御祭神は第三十八代の天皇であるが、はじめ中大兄皇子と申上げ、今を去る■千三百年の昔 大化改新の大業を■■ばされ、我が国古代に於ける■国の体制を確立せられ、雄大な建国の理想を■■■られた中興の英主であらせられる。
神界に坐しては、天命開別大神と称えられ、万物の運命開拓のことを司掌し給う宝位につかれ、吾等が運命の開■をはじめ、明治維新の大業も現■の■■■しい文化的飛躍もその冥助によるところとして敬慕して 「世直しの大神」「開運の大神」と信仰されている。
小倉百人一首の「秋の田」の御製で昔から国民に親しまれ「学問の神」「御恵の神」と崇められると共に御存世の時初めて漏刻台を置き、時刻を国民に開知せしめられた御事蹟により時計関係の祖神と仰がれている。
当神宮はその御聖徳を敬仰する県民■廣の請願が発端となり官幣大社として昭和十五年十一月七日御鎮座になり 爾来例祭は毎年四月廿日勅使御参向■■■に厳修されて今日に至る。」

 

……新しい由緒書なのにあんまり読めない、と。

「天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)」というのが、「天智天皇」の和風諡号ですので、神号はここからとったものと思われます。

 

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楼門への階段。

 

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紅葉が綺麗ですが逆光。

 

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楼門。
鮮やかです。

 

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いきなりですが、外拝殿から内拝殿方面を写しています。

 

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参拝順路。

 

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栖松遙拝殿(せいしょうようはいでん)。
公式HPから引用しますと、

 

「かつて高松宮家の邸内社・御霊殿として有栖川宮家以来の御霊を祀っていた建物が、高松宮家廃止にともない、平成18年近江神宮に移築されました。遙拝式はここで行われています。」

 

とのことです。
なるほど、現代宮家のものもある、というのはなかなか貴重ではないかと思います。

 

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栖松遙拝殿の入り口。

 

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外拝殿。
何やら工事が行われていたようです。
紅葉と、白地の石灰岩でしょうか、灯篭・狛犬も鮮やかな対比です。

 

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うん、違うな……白塗りされているだけかな。

 

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外拝殿奥に覗く紅葉がポイント。

 

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火時計。
古代中国で使われていたものらしく、龍の背に糸で玉を吊るし、龍の背にそって線香か何かを燃やし、玉の落ちる音で時刻を知った、というようなものらしいです。

 

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漏刻。
段々の部分を水が流れ落ち、最後の段の目印がどれだけ浮いてきたか、で時刻を知るものだったと思います。
境内には時計館、という展示施設がありますが、今回はスルー。

 

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外拝殿全景。
さすが神宮とつくだけはある、という立派な建築物です。
背景との調和も美しいです。

 

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戻ってきました。

御鎮座が昭和十五(1940)年なので、『近江輿地志略』なんかをたどるわけにはいかないので、『日本書紀』より。
天智紀十年四月の条です。

 

「夏四月の丁卯の朔辛卯に、漏剋を新しき台に置く。始めて候時を打つ。鐘鼓を動す。始めて漏剋を用ゐる。此の漏剋は、天皇の、皇太子に為す時に、始めて親ら製造れる所なりと、云々。」(岩波書店日本書紀(五))

 

また、斉明紀六年五月の条に、「天智天皇」(当時は「中大兄皇子」)が初めて漏刻を作った、という記事があります。
中央集権化を進めるにあたって整備するものは、度量衡、官僚制などいろいろありますが、人の動きを支配するという意味で「時」を明確にすることも、一つ重要な要素なのでしょう。

日本書紀』は、「天武天皇」の正当性を知らしめるために編纂されており、そのため「天智天皇」はどちらかといえば、不甲斐ない感じに描かれています。
とはいえ、滋賀県の人にとってみれば、都を開かれた偉大なお方だと思いますので、明治以後の、天皇を中心とした国家神道に呼応して、神社を建てたい、という気持ちはわかります。
天智天皇」と「大友皇子弘文天皇)」は、「天武天皇」方に滅ぼされているので、何なら怨霊になったっていいのですが、そういった記録を見た記憶がありません(あったらすいません)。
ということは、それほど無下には扱われなかった、ということなのでしょうか。
あるいは、「天武天皇」方に無謬の正当性があり、かつ臣民もそれを支持したので、怨霊化することもできず、放置されたのでしょうか。
実はこっそり「持統天皇」あたりが何かしているのかもしれません(「持統天皇」は、「天智天皇」の娘です)。

 

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御朱印。

 

 

本当はのんびり時計館なども回りたかったのですが、どこで何をやらかして祟られたのか、急な腹痛にしばらく苦しみまして……(コンビニで食べた何かがあたったか……)。
車の中で休んでいるうちに時間が過ぎていったので、いそいそと次の目的地に向かった次第です。
う〜ん、あっさりめ。

 

「日吉大社」(考)〜おまけ

さて。

とりあえず前回で妄想はすませているのですが、参考文献なぞを。

といっても、いくつもありませんが。

 

日本の神社 34号 (日吉大社・建部大社) [分冊百科]

日本の神社 34号 (日吉大社・建部大社) [分冊百科]

 

 

ディアゴスティーニから発刊されていた『日本の神社』シリーズ。

34巻が「日吉大社・建部大社」になっております。

神社の写真や絵図が豊富なので、思い出すのに役に立ちます。

 

「……比叡山では「山王は、天にあっては北斗七星、地にあっては山王七社で、七仏薬師の影現」といわれており、比叡山にほど近い日吉大社でも、北斗七星信仰にまつわる配置が見られます。上の七社の西本宮・東本宮・宇佐宮・牛尾宮・白山宮・樹下宮・三宮を、そんな思いでまわってみるのはいかがでしょうか。」

 

↑というガイドさんのお話が掲載されています。

私は、北斗七星信仰と言われると、すぐに「平将門」が浮かんでしまうもので……。

 

 

日吉大社と山王権現

日吉大社と山王権現

 

 

続いて、アマゾンで検索するとこれしか出てこない、というくらいの『日吉大社山王権現』(嵯峨井建、1992年、人文書院)。

古本で買いました。

内容はかなり専門的ですが、比叡山焼き討ちから再興までの流れと、その功労者祝部行丸について詳しく書かれています。

 

「……それではこうした流れの中で、『古事記』にいう「近つ淡海国日枝の山に坐す神・大山咋神」のうしはき坐す神地に、異国の神・十一面観音を受容した基盤は何であったろうか。私はその事由を神宮寺の立地と環境の内に求めたい。すなわち日吉信仰の基本因子の一つをなす水分神的性格である。山岳重畳する比叡の山合より、流れる大宮川・小谷川は八王子山の裾をめぐり、ゆるやかな段丘平野を細かな支流でうるおしつつ琵琶湖に流れ注ぐ。この山麓に定住する古代の人々にとって、この水系を中心とした自然の恵みは、生活の糧であった。こうした自然の恵みへの感謝を、宗教的心意として日々仰ぐ秀麗な八王子山に集約せしめたのが、日吉信仰の発生であり、また十一面観音の受容の基礎である。十一面観音と水との関わりは、東大寺二月堂のお水取で代表されるように、従来から指摘されるところである。水の恵みを中心とした農耕が営まれ、こうした村落共同体の神として日吉社が成立し、かかる神山・八王子山の奥ふかくに異国の神をまつるとすれば、咒術性の強い変化観音のうち、水神ひいては農耕神と関連ぶかい十一面観音をおいて他にないと考えられる。山上の八王子社内で三月十五日行われる牛神楽は、山麓の人々にとって春のことぶれを告げる農耕神事であり、水神信仰が牛によって耕作される広義の農耕神に転化をみせた、その名残とみられよう。また樹下宮の御霊代直下に霊泉を秘めていることも、有力な一例とすることができる。」(p132)

 

 

これは、かつてあった神宮寺の本尊「十一面観音」に関する考察です。

本地垂迹説から遡って、古代の信仰の様子を考えると、こんな感じになるのかもしれないです。

 

 

中世神話 (岩波新書)

中世神話 (岩波新書)

 

 

最後に、『中世神話』(山本ひろ子、1998年、岩波書店)。

中世神話、という概念については本書を当たっていただくとして、

 

「……大宮権現は、天智天皇の御代に大和国から来臨した三輪明神であった。神の鎮座譚は、しばしば、その神の奉斎者の始祖伝承と絡んで語られる。右の縁起では、神の感得者・琴御館宇志丸は、日吉社社司家の始祖となるのである。
山王神道は、この大宮権現(山王)を、法華の教主=釈迦如来垂迹とみなし、「法宿菩薩」という法号を与えている。一方、二宮の本地は薬師如来で、法号は「華台菩薩」と称する。神仏習合の中世では、これは日吉社サイドも受容するところであった。
(略)
釈迦が大宮権現(山王)としてこの世に化現したのは、釈迦が入滅の際に発した本誓によるとして、本地(釈迦)ー垂迹(山王)関係を根拠づけているのである。またここには、機根の衰えた末世の衆生を救済するのは、仏菩薩よりむしろ神であるという信仰機制が認められよう。
さて大宮縁起は、三輪からやってきた神が鎮座地を求めて旅をし、感得者に遭遇し、卜定された勝地に鎮まると語られていた。大宮権現は、ほかの土地からやってきた賓客なのだ。とすればここから、先住していた地主神=二宮(小比叡明神)との関係が問われてこよう。」(p124)

「……ところで地主権現と呼ばれはするが、二宮は、世界の初まりの時から叡山の小比叡に止住していたわけではない。津島の牛頭天王がそうであったように、実は二宮も来臨した神であった。」(p126)

 

 

なんて辺りを引用してみます。

地主神、というのは古くからその地方を支配していた氏族の主神なのですが、輪廻転生を唱える仏教的には、始原(世界の始まり)からそんなものにいていただくのは困るわけです(聖書原理主義者が、進化論を認めない、みたいな話です)。

ですから、たいていの神様は、その前世に仏教の仏を持ってきて、仏教の古さ、偉大さを唱えつつ、地主神としてのプライドもまあある程度保つ、という欺瞞に満ちた工作がなされているわけです。

ですので、「東本宮(二宮)」の「大山咋神」を「薬師如来」の垂迹だ、とすること自体には、それほどの意味があるとは思えません(日本で薬の神といえば「少彦名神」と、一緒に国土を建てた「大国主神」もそう呼ばれますかね……ですから、屁理屈をつけたいのであれば、これらの神々の本地を「薬師如来」とするような気がしますが、「大山咋神」は今ひとつ御神威のわからない神で、どうして「薬師如来」とリンクしたのか……まあ、本地垂跡説なんでそんなもんですが)。

ここで引っかかったのは、

 

「実は二宮も来臨した神であった」

 

の部分ですね。

どんな地主神だって、突き詰めればどこかから「来臨」しているのですが、こうした本地垂跡の神話が生まれる背景として、「そもそも、「東本宮」も地主神ではない」という伝承があったとしたら、いかがでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

信じるか信じないかはピョン……。

 

 

 

というわけで、「日吉大社」シリーズは今回で終了〜。

近江旅の続きに戻ります……がすでに4月とな……。

「日吉大社」(考)〜その8

さて。

前回の系譜を、自作してみました。

わかりづらいですが……何となく、こんな感じです(「大己貴神」は、一応「素盞嗚尊」の末裔だと考えておきました)。

 

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それはともかく。

日本の神話には様々な神様が登場され、それらが複数の名前を持っていることがあります。

元々、それらの神々は、氏族単位(血縁関係にあるか、ある一定の土地で共同体を作っているか、程度のものとお考えください)で信仰されていたものが多かったと思われます。

で、神の名前が複数ある理由を説明するのに、

 

(1)元々は一つの神格だったのに、何らかの理由でいくつもの名前で伝わることになってしまった

(2)元々は別々の神格だったが、何らかの理由で一つの名前で伝わることになってしまった

 

という二つの説が用いられることが多いでしょう。

(1)は、信仰が伝播していく段階で、その土地に根付いてしまうことで、本来の神格が失われ、土地のものとなった、ということが一つ。

神々に個別性の高い名前がつくようになるには、ある程度文化的な素地が必要なので、ムラやクニと呼ばれる集団が形成される頃のことなのかもしれません。

また、いわゆる<神社伝承学>などで(1)が用いられる場合には、いろいろな神を(現代において)習合させて、面白説やトンデモ説に結びつけることが多いかと思います。

これはこれで、真実の側面もあるのでしょうが、多用すると危険な技なので注意しましょう(?)。


(2)のほうは了解しやすいのではないかと思います。

「A」という神を信じる人たちと、「B」という神を信じる人たちがいて、彼らが一つの氏族集団を形成した場合、「A」を主な神とするか、「B」を主な神とするか、いっそのこと「C」という新しい名前の神を作り出すか、といった感じでしょうか。

歴史学的にも民俗学的にも、↑の話は超乱暴ですので勘弁願いたいですが、そうですね……西洋だと、ケルト神話とかゲルマン神話の神々が、似ている神格だからということでギリシャ神話の神々の名前で記録されてしまうことが結構あります(記録する側の都合なので、ということは大抵ローマ帝国文化のせいなのですが)ので、そんなイメージかな、と。

日本神話で一番名前を持っているのが「大国主神」、記紀神話で公式に「7つの名前を持つ神」ということになっています(『古事記』と『日本書紀』で扱いが違います)。

これは、その7つの名前を持つ神々がそれぞれにいて、それがどんな理由でかはわかりませんがきゅっと集められて、結果一柱の神、ということになったものだと考えられます(先にも書きましたが、もっぱら記録する側の都合、というのが大きかったと思いますので、『古事記』『日本書紀』の編纂者たち、あるいはそれ以前から存在していたとされる『旧辞』『帝紀』、各氏族の独自の伝承、などが残されるにあたってそうなったものかと)。

別の神ではないか、というのを端的に示すのが、「大己貴神」と「大物主神」の関係です。

なにせ『日本書紀』の国譲りの段の一書では、別の神として堂々と登場しちゃいますから。

 

と、いうようなことから考えて、前回の、

 

大山咋神」≠「山末之大主神」、

 

という話です。

大山咋神」と「山末之大主神」が同じ神である、という認識が強ければ、後世に「日吉大社」の二十一社について説明するための後付けの理屈だとしても、「山末之大主神」の「荒魂」だけを独自に祀る必要性はないと思うのです。

元々別の神格だという認識があり、そのため(人間側の)必要に応じて、様々な名前を使い分けているのではないか。

基本的に、「山末之大主神」が、元々の日枝の辺りの地主神だった……あるいは、八王子山に限定するべきでしょうか。

そこに、「大山咋神」(を戴く氏族)がやってきて、一帯を支配するに至った。

「山末之大主神」の「荒魂」だけを、改めて祀っているのは、おそらくあまり穏やかな形での支配権移行ではなかったのでしょう。

ともかく、「大山咋神」(とその妻神)は、八王子山の「金大巌」を依代として降り立った、ということになった、と。

さらに時代が下ると、その「大山咋神」(とその妻神)も、山の支配権を奪われることになったのか、あるいは一応は素直に恭順したのか。

大山咋神」(とその妻神)の「荒魂」は、そのまま「金大巌」に残され、里宮としての「東本宮」(「小比叡」)一帯が整備された。

「荒魂」を別にお祀りするのには様々な意味があると思いますが、一つには、「祟り」を分離させる機能があるのではないか。

本来、不可分であり、その表象の差異だったはずの「和魂」「荒魂」(加えての「幸魂」「奇魂」)は、分離できるようになっていたのですね、いつの間にか。

古事記』『日本書紀』成立の頃にはそういった解釈がなされています。

これを、日本古来からの独自のものと考えるのか、大陸由来の陰陽思想などに根元を見るのか、これまた一つには決められませんが。

とりあえず、仏教側にはうってつけ、な感じがしますよね。

仏の輪身(如来、菩薩、明王が一つの仏なんだよ〜的な考え方)、あるいは本地垂跡のきっかけは、この辺りにあったりするのかもしれないです(だから、本地垂跡なんていうなかなか突拍子もない考え方も受け入れられやすかったのかも)。

神格から「荒魂」だけ取り出したら、残るのは理論的には「和魂」になるはずなんですが、「大山咋神」(とその妻神)にはそこまでの説明はない、と……いえ、そういった説もあったようですが、まあそんなこといちいち言わんでもわかるだろう、くらいのノリかもしれません。

「祟る」系の「荒魂」は、今も「金大巌」に鎮座ましましておられるのです。

で、多分どこかの段階では、この「大山咋神」(とその妻神)の一党が、「牛頭天王」と習合したんでしょうかね……いえ、「八王子山」っていう呼称がどの程度古いのかわかりませんが、「八王子」ったら「牛頭天王」ですから(?)。

だから「牛尾宮」なのかと。

この辺りはもう、さっぱりわかりません。

 

地主神を祀っているくらいですので、「東本宮」のほうが歴史的には古いようなのですが、実際に周辺に社が整備されたのがいつなのかは不明です。

整備している人たちに、賀茂氏系の人たちがいたことは確かなようですが(宇志麻呂さんも、そうではないか、と伝わっているようですし)。

「素盞嗚尊」→「大年神」→「大山咋神」という、国津神の系譜に、「八咫烏」として「神武天皇」東征を導いた「鴨建角身命」の系譜が接続されているのは、記紀神話的にも公式なものなので、あんまり文句をつけても仕方ないところです。

で、昔の呼び方で、「鴨建角身命」を祀る「氏神神社」は「山末社」だったのですが、だからといってこちらが短絡的に「山末之大主神」だったのかというと……あれ、別にそれでもいいのか……いや、どうなんだろう。

神話の世界の話なので何とも、ですが、賀茂氏は今の京都(山城)辺りに勢力を展開していたようなので、比叡山辺りも抑えていたのかもしれないですね。

だからこそ、「神武天皇」が最初に入れなかった大和への誘導ができたのかも。

そうすると、「鴨建角身命」の本拠地の一つを、「大山咋神」が奪い取ってしまった、ということになりますか……うーん、そりゃ「鴨建角身命」も祟る気がしますね。

で、結果、娘は「大山咋神」と結婚しちゃうと……それがそろって「荒魂」として祀られているのもちょっと不気味な感じがします……その御子神(「鴨別雷神」)はどこか飛んでいっちゃいますし、何か踏んだり蹴ったりな感じがします。

まあ、その後に都となる山城は依然として賀茂氏勢力下だったと考えれば、案外その祟りも弱かったのかもしれません。

 

で、「西本宮」です。

こちら、基本的には「天智天皇」の御代、近江遷都に前後して、やってきた神様が祀られていると考えられています。

 

○こちら===>>>

「三井寺」(補) - べにーのGinger Booker Club

 

↑「三井寺」の記事でも触れましたが、この近江遷都、なかなかに人気がなかったようです(が、書かれているのが『日本書紀』であることを考えると、表面上は「天智天皇」の持ち上げつつも、「天武天皇」をさらに持ち上げるために書かれている部分が大きいともされますので、少なくとも『日本書紀』編纂者の頭にはそうした記事を入れておきたい願望や正当性があったもの、と思われます)。

 

 

 

吉野裕子氏の『日本古代呪術』には、この近江遷都を呪術的に考察した説が掲載されており、非常に面白いのですが、妄想するには専門的すぎて私にはついていけません。

ですのでここは「日吉大社」の伝承に従って、「西本宮」には「三輪山の神」を勧請した、ということにしましょう。

それは当然のことながら、「大物主神」のはずなのですが、誰が勧請したのかというと、「天智天皇」自身だったのではないか。

大和の地主神としての「大物主神」の祟りの力は絶大で、それをうまいこと収めたからこそ、大和には都が長く存続することになったわけです。

その力、さすがに「天智天皇」の御代には薄らいでいたものと思われますが、朝廷内でも劣勢に立たされていた「天智天皇」が勢力挽回するための奇策が近江遷都で、その正当性を認めさせるためにも、「大物主神」ごと遷都しようとした、と。

で、実際に遷宮しちゃった。

分霊を勧請、というよりは、まるっと遷宮しちゃった、くらいの勢いだったのではないでしょうか。

その先が、「日吉大社」の「西本宮」だった。

それを受け入れるだけの余地が「日吉大社」(当時は、「大山咋神」を祀っている地主のお宮でしょうか)にあったのか、というとこれがあったりするわけです。

何しろ「大山咋神」、出自は「素盞嗚尊」系ではありますが、おそらく蛇神であり、雷神でもあります。

山城国風土記逸文」でも書かれているように、「丹塗矢」神話の主神であり、「大物主神」と属性が非常に似ています。

ひょっとすると、「大山咋神」と「大物主神」は、古代には同じ神だったのかもしれません(というくらい似ているのです)。

そうしますと、日枝の辺りの賀茂氏系氏族は「天智天皇」の味方になるかもしれないですし、遷都前後に百済からの亡命者を近江近辺に住まわせていたりして、「天智天皇」としては自分の政権の足場固めをしているようにも思われます。

 

ところが、「天智天皇」とその皇子「大友皇子(「弘文天皇」)」側は、「天武天皇」方に敗北します。

歴史は勝者が作るものですが、「天智天皇」の業績を無しにできるほど朝廷は歴史を軽んじることができない時期にあったと思われます(文化水準が上がった、と言えばいいのか)。

しかし、「天武天皇」的には、「天智天皇」をそこはかとなく貶めたいし、自分の正当性は主張したい。

そのためには、「大物主神」にそのまま日枝にいていただいては困るわけです。

なぜなら、ちょっと忘れがちになるのですが、「大物主神」と「勢夜陀多良比売」の間に生まれた「比売多多良伊須気余理比売命」は、他ならぬ「神武天皇」の皇后なのです(という神話を、朝廷はせっせと作ってきたわけです)。

大物主神」の神威がどの程度残っていたのかはともかく、初代天皇の皇后の父神がそのまま近江にいらっしゃったのでは、後々禍根を残すことになりかねない。

で、「天武天皇」、ふと考えを巡らせて……

 

「あれ、そういえば「大物主神」と「大己貴神」って、おんなじだよってことになってなかったっけ?」

 

……と思い出しました(ピキーン!)。

というわけで、「大物主神」じゃなくて「大己貴神」なんだよ近江にいるのは、とやってしまった。

もちろん「大物主神」には、いそいそと三輪山にお戻りいただく。

一方で、「天智天皇」に味方した(しようとした)賀茂氏系の氏族に対する手当を忘れては、今度は山城国一帯を敵に回しかねない。

そこでですね、「大物主神」ではなく、「大己貴神」を「西本宮」にすえた、もう一つの理由です。

冒頭の、自作の見づらい系譜を見ていただくと、「大己貴神」と「田心姫神」の間に生まれた「下照姫神」が書かれているのですが、もう一柱御子神がおられまして、「阿遅志貴高日子根神(あぢしきたかひこねのかみ)」とおっしゃいます。

記紀神話では結構面白い役割を果たす方なのですが(以前、入れ替わりトリックを考えたことがあります

 

○こちら===>>>

「鷲宮神社」(続)〜関東巡り〜 - べにーのGinger Booker Club

 

)、なぜか日枝の二十一社には入っていない……で、ここに系譜の工作があるのではないか、と思ったのです。

 

大山咋神」と「鴨玉依姫神」の間に生まれた「鴨別雷神」。

実は、この方と「阿遅志貴高日子根神」が同じ神格なのではないか、というか「天武天皇」がそういう系譜作りを賀茂氏に許したのではないか(ただし、賀茂氏側では「阿遅志貴高日子根神」の名前は出さないように、とかいう条件付きで)。

古事記』には、「阿遅志貴高日子根神」は「迦毛大御神(かものおおみかみ)」と紹介されています(「出雲国造神賀詞」でも、「阿遅須伎高孫根の命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ」とあります)。

「鴨別雷神」も「阿遅志貴高日子根神」も雷神です。

「鴨別雷神」は父の元へ行けと言われて飛んで行っちゃいましたし、「阿遅志貴高日子根神」は友人「天稚彦」の葬式に出たのにそっくりすぎて間違われて怒って喪屋を切り倒して飛んで行っちゃいましたし。

「鴨別雷神」=「阿遅志貴高日子根神」……これを賀茂氏に許可することで、「天武天皇」としては賀茂氏をある程度取り込みたかったのかもしれません。

ところが賀茂氏、これじゃ不足だとばかりに、もう一つ手を打ってきます。

古事記』の崇神天皇条、例の「大物主神」が盛大に祟りまくってですね、「意富多多泥古(おおたたねこ)」という自分の子孫に祀らせれば祟りをおさめるぞの場面。

この時の「大物主神」は、「丹塗矢」に化けたりはしていないのですが、妻の名前は「活玉依毘賣」、その子孫(子供)の「意富多多泥古」は「鴨君の祖」とばっちこいで『古事記』に書かれています。

表向き、「大物主神」の「丹塗矢」神話で「神武天皇」の血統に結びつくことはかないませんでしたが、実際にはこれこの通り、大和地方の祭祀一族につながることができていますし、祖先の片方は「素盞嗚尊」、もう片方で「八咫烏」、と朝廷的には功績抜群な氏族として歴史に名を残すことに成功したわけです。

 

……。

…………。

………………。

 

と、ここまで妄想してきて、『古事記』の「意富多多泥古」の記述で見落としていた部分があるのに気がつきました。
「鴨君の祖」はいいんですが、「神君(みわのきみ)の祖」とも書かれている、と。

 

いえ、「大物主神」の血統ですから、「三輪」氏族の祖であっても何も間違いではないんですが、何か忘れてるな……と慌てて『日本書紀』を探ってみますとですね。

天武紀の元年六月の条に、

 

「……是の時に、三輪君高市麻呂・鴨君蝦夷等、及び群の豪傑しき者、響の如く悉に将軍の麾下に会ひぬ。乃ち近江を襲はむことを規る。」(岩波書店日本書紀(五)』p90)

 

とありました。

ええと……つまりこれは、「壬申の乱」において、賀茂氏族は三輪氏族とともに、「天武天皇」方についていた、ということですね。

そうすると、今までの妄想が全部おじゃん……いえいえ、むしろその方がわかりやすいのかと。

近江朝についていた賀茂氏族を取り込むため、というよりは、「壬申の乱」での功績を讃えての系譜作成の許可だったのではないか。

元々、賀茂氏族が三輪氏族と祖先を同じにしているとしたら、「丹塗矢」神話を同様に持っているのもうなずけますし。

そうではなく、この段階で血統をより集めたのだとすると、三輪氏族としては「大物主神」の御神威を譲り渡すわけにはいかないとしても、それを「大己貴神」とダブらせることでよしとしたのかもしれないですし、賀茂氏族的にも「わかる人にはわかる」から手を打ったのかもしれません。

流れを見直してみると、

 

(1)「天智天皇」が近江に遷都するにあたり、その御神威を被りたかったために、「大物主神」の遷座も求めた。
(2)しかし、「壬申の乱」で、「大物主神」の奉斎氏族である三輪氏族は、「天武天皇」方につく。
(3)同じく、元々は大和の葛木にあって、勢力を山城に伸ばしていた(「風土記逸文」より)と思われる賀茂氏族も、「天智天皇」に協力したかに見えたが、結局「天武天皇」方につく。
(4)結果、賀茂氏族は、三輪氏族と同様に、有力な氏族と見なされて、記紀神話に名前を残すこととなった。

 

といった感じでしょうか。

こうなってくると、「鴨別雷神」はやっぱり「阿遅志貴高日子根神」なんじゃないでしょうか。

賀茂氏族系の伝承では「丹塗矢」神話で生まれていますが、大和朝廷としては、そこは譲れない(あるいは、三輪氏族が譲らなかったのかもしれないです)。

そこで、「大己貴神」を持ち出してきて、その御子神の「阿遅志貴高日子根神」という神格を作り出し、朝廷としてはこっちを認めるけど、まあわかる人にはわかるだろうし尊重するよ、的な手打ちになる。

その背後に透けるのは、「天稚彦」の存在……以前「阿遅志貴高日子根神」」と「天稚彦」の入れ替わりトリック、あるいは一人二役トリックを妄想したのですが、もし「天稚彦」=「阿遅志貴高日子根神」が成立するとなると、これまた面白いことにですね、「天稚彦」は「天津國玉神」の御子神ということになっているのですね。

それ以外に登場しない、よくわからない神なのですが、明らかに天津神系だと思われます(あるいは、思わせたい)。

大国主神」の別称「顕國玉神」との対比にも何かありそうですが、ここで重要なのは「天稚彦」が天津神系であることが明らかで、ということは同じく天津神直系(であるはず)の神武天皇」に匹敵する存在だ、ということです。

実際、天津神の子孫の神器である「天之波波矢」を所持していましたから(ちなみに、物部氏族の祖先である「饒速日」も持ってました)。

天稚彦」の葬儀の場面では、たくさん鳥が出てくるのですが、そこにはもちろん「鴨」はいません。

が、賀茂氏族の祖で、「迦毛大御神」と呼ばれる「阿遅志貴高日子根神」が、「天稚彦」のそっくりさんとして登場します。

この神話が、賀茂氏族が天津神系だったといいたいのかどうか、はおいておいて、「神武天皇」同様にその資格がある、つまり「大物主神」の「丹塗矢」神話の結果生まれた神だとしても不思議ではなく、大和朝廷皇統譜にも入り込む余地があるのだ、という意味だとすると。

このいくつにも重なり合った状況をざっと見てみると、

 

・「大山咋神」=「大己貴神」=「大物主神」(=「天津國玉神」)
・「鴨玉依姫神」=「田心姫神」=「勢夜陀多良比売」(=「活玉依毘賣」)
・「鴨別雷神」=「阿遅志貴高日子根神」=「天稚彦

 

てなことに……何か、我ながら収集がつきませんな……。

そろそろやめるか……あ、そうでした、例の、『日本書紀』天智紀五年の、

 

「是の冬に、京都の鼠、近江に向きて移る」

 

ってやつですが、これ、後から「鼠」にしたんじゃないのかな、と思います。

吉野裕子氏のように呪術的な意味があるかどうかわかりませんが、「天智天皇」が近江に呼びたかったのが「大物主神」だとしたら、ここはやっぱり「蛇(巳)」じゃないといけないと思うんですよね。

で、三輪山の神が移ってきた、という伝承が日枝にあるから「大物主神」でいいんじゃないの、と思われるでしょうが、大和朝廷的には表面上「大己貴神」に移っていただかないと具合が悪い。

だから、「鼠(子)」なんですよね……ほら、「大己貴神」=「大国主神」だとしたら、「鼠」じゃないですか。

ただ、実際には、一時的にしろ「大物主神」が遷座されたために、天智紀六年条の、

 

「三月の辛酉の朔己卯に、都を近江に遷す。是の時に、天下の百姓、都遷すことを願はずして、諷へ諫く者多し。童謡亦衆し。日日夜夜、失火の処多し。」

 

となった……つまり祟ったわけですね(どの時代までかはわかりませんが、火事というのは、古代において雷の神の属性でもあります)。

梁塵秘抄』の「四句神歌」のなかには、

 

「東の山王恐ろしや、二宮客人の行事の高の王子、十禅師山長石動の三宮、峯には八王子ぞ恐ろしき。」(岩波文庫版『梁塵秘抄』p49)

 

とあります。

基本的にみんな恐ろしや、ということになっているのですが、一番恐ろしいのはどなたなのか……ちょっと忘れがちですが、「山末之大主神」が元々の地主神で、賀茂氏族に土地を奪われたとしたら、かなり祟っている……と思います。

でも、そのあとに、古代最強の祟り神「大物主神」がやってきちゃったから、もう何だかなぁ……とぼやいているのかもしれません。

 

 

 

 

と、いうような妄想を、「最澄」以下比叡山を手中に収めた天台宗が生み出して、二十一社を整備していったのではないか、という妄想でした。

いや長かった……書きながら、確認しながら、妄想するものですから、最初に見えていた結論がどんどん遠ざかっていくという……。

ひとまず妄想はこんなところで〜。

「日吉大社」(考)〜その7

さてはて最果て。

とりあえず、妄想はあまり浮かびませんが、「二十一社」というのを系譜的に並べ替えてみようかな、と思います。

いやいや、日吉といえば百八社あったらしい、ということを考えると、日本神話の神様はほとんど祀られているのではないか、という気もしますが……そこまで付け加えられちゃうと妄想する気も失せますので。

古事記』と『日本書紀』、あるいは他の文献などで扱いが異なる場合もありますが、概観する程度、で。

「二十一社」の御祭神は、wikipedia参照、ということにします(ので、当然異論噴出なわけですが、そこは妄想ということで)。

 

○素盞嗚尊(早尾神社)【早尾】 


五男三女神(八柱社)【下八王子】

 

いきなり難題ですね……何しろ「天照大神」との誓約(うけい)で生まれた神々のこと、のはずなので、どんな理由で二十一社に加えられたのか……というかですね、三女神のほうは「宗像三女神」なので、他にお祀りされているわけです。

やはり、「八柱社」の御祭神を「五男三女神」と考えるのはちょっといかがなものか、と思います。

 

○素盞嗚尊(早尾神社)【早尾】

大年神大物忌神社)【大行事】

 

大年神」は、「素盞嗚尊」と「神大市比売命」の間に生まれています(兄弟神に「宇迦之御魂神」がいらっしゃいます)。

 

大年神大物忌神社)【大行事】


○天知迦流水姫神(新物忌神社)【新行事】

 

大年神」と「天知迦流水姫神」は夫婦神です。
その間に生まれたのが、

 

○奥津彦神・奥津姫神(竈殿社)【大宮竈殿・二宮竈殿】

大山咋神(東本宮)【二宮(小比叡)】

 

です。

 

大山咋神(東本宮)【二宮(小比叡)】

○鴨玉依姫神(樹下神社)【十禅師】

 

大山咋神」と「鴨玉依姫神」は夫婦神です。

 

○鴨別雷神(産屋神社)【王子】

 

「鴨別雷神」は、「大山咋神」と「鴨玉依姫神」の御子神
一方で、

 

鴨建角身命氏神神社)【山末】

○玉依彦神(樹下若宮)【小禅師】
○鴨玉依姫神(樹下神社)【十禅師】

 

鴨建角身命」は「玉依彦神」「鴨玉依姫神」の父神ということになります(ここでの「玉依彦神」が、本当に「鴨建角身命」の御子神かどうか、はちょっと怪しいですが)。

この辺りは、「風土記逸文」や賀茂氏系の伝承のようなので、記紀神話とは区別するべきものかもしれません。

次は、

 

大己貴神(西本宮)【大宮(大比叡)】


田心姫神(宇佐宮)【聖真子】

 

大己貴神」と「田心姫神」には、夫婦神という伝承があり、その御子神に、

 

下照姫神(宇佐若宮)【聖女】

 

がいらっしゃいます。
また、先にもあげましたが、

 

田心姫神(宇佐宮)【聖真子】
市杵島姫命・湍津島姫命(巌滝社)【岩滝】

 

この三柱で「宗像三女神」です。
ええと、これで二十一社のうち、あげていないのは……

 

大山咋神荒魂(牛尾神社)【八王子】
○白山姫神(白山姫神社)【客人】
○鴨玉依姫神荒魂(三宮神社)【三宮】
○山末之大主神荒魂(牛御子社)【牛御子】
○瓊々杵命(剣宮社)【剣宮】
仲哀天皇(気比社)【気比】

 

以上でしょうか。
このうち、

 

○瓊々杵命(剣宮社)【剣宮】
仲哀天皇(気比社)【気比】

 

この辺りはかなり新しく勧請されたのではないか、と思います(し、元々の御祭神は別の神だったのかもしれません。「気比」と呼ばれている場合には「気比神宮」の御祭神「伊奢沙別命」が想起されますし、「剣宮」というだけであれば日本神話にいくつか登場する武神なのかもしれませんし)。

 

○白山姫神(白山姫神社)【客人】

 

こちらは、旧社名もあからさまに、他の地域から勧請した方なので、やはり新しめなのではないかと(なお、江戸時代の被差別民と「白山神社」には関係があるらしいので、そちら方面からのアプローチもありかもしれないです)。

 

大山咋神荒魂(牛尾神社)【八王子】
○鴨玉依姫神荒魂(三宮神社)【三宮】

 

ここは悩みそうになりますが、そもそも八王子山の「金大巌」と関係しているようなので、元々の地主神(夫婦神だったかどうかはともかく)で、それらが「大山咋神」などと呼ばれるようになってから、「荒魂」ということにしたのではないか、と思います。

 

○山末之大主神荒魂(牛御子社)【牛御子】

 

で、いちばん悩むのがこちらなんですけどもね……「大山咋神」は別名を「山末之大主神」、あるいは「鳴鏑神」ですから、元々は別の神格だったものが習合したと解釈すれば、「山末之大主神」の「荒魂」というのもわからないではないですが……習合したあとに、わざわざその一つをまた分けて、しかも「荒魂」だけ祀る、というのがよくわかりません。
古事記』の書き方は、

 

「……次に大山咋神。亦の名は山末之大主神。この神は近つ淡海國の日枝の山に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ。」(岩波文庫版『古事記』より)

 

 

です。
大年神」の御子神の中では記述が多いので、何かしら特別視する理由があったと思われます。
で、この記事を素直に読めば、「この神は近つ淡海國の日枝の山に坐し」という部分は、「大山咋神」にかかるわけですが、もしこれが直前の「山末之大主神」にかかっているとしたらどうでしょう……つまり、もともとの比叡山の地主神は「山末之大主神」で、その後に「大山咋神」がやってきた、と。
だからこそ、「牛御子社」では、「山末之大主神荒魂」をお祀りしているのです。
祟られちゃうので。

 

……ん?
ということは、「松尾大社」にいらっしゃる「鳴鏑神」(御祭神は、公式には「大山咋神」と「市杵島姫命」となっているようです)も、「大山咋神」ではなく、「山末之大主神」だったりするのでしょうか?
あるいは、松尾の神も、「大山咋神」、「山末之大主神」とは別の神だったりするのでしょうか?
うーむ……混乱してきました(これぞ妄想)。
次回、もうちょっと妄想を燃やしてみようと思います。

近況再び

相変わらず本記事は進んでおりませんが。

4/11。

よんどころない事情により休暇をとりまして(いえ、重要な用事はありませんでしたが)、市内をぶらぶらしておりましたので。

まだ本記事では書いていないのですが、名古屋市大須にある「三輪神社」にご参拝。

 

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いきなり境内社のお稲荷様のお狐様ですが。

雨に濡れて、ちょっと潤い。

 

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ひっそり恵比寿大黒。

 

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春雨の中の花見、でした。

 

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二枚目が、四月限定御朱印。

お狐様もいらっしゃいます。

 

続いて、ぶらぶらしていてたどり着いたのが「城山八幡宮

 

◯こちら===>>>

「城山八幡宮(しろやまはちまんぐう)」 - べにーのGinger Booker Club

 

四年前か……最近参拝していなかったな、と思いまして。

 

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昭和塾堂は、結構屋根が剥落していました。

何とか修復できないものでしょうか……。

 

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御朱印、増えていました……えらくポップな感じのものまで。

 

それから、近くまで来たので、花見の名所である平和公園へ。

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記事を書いている今日(4/12)はよく晴れて……12時間くらいずれていれば、という感じでした。

見事な満開ではありましたが。

 

そして、普段はほぼ近づかない、名古屋城に。

といっても、城内は閉館間近でしたので、外からだけですが。

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一眼レフがほしいな、とちょっと思いました。

 

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よんどころない用事が名古屋駅でしたので、夜景なぞを。

カメラアプリのシャッター速度を遅くしてみたのですが、案外うまくいった感じ。

簡易スタンドでじたばたする様は、おそらく怪しげだったと思います……。

 

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帰り際に通りすがった公園で、夜桜。

 

完全に、有給休暇を取る日を間違えた……のですが、よんどころない事情に合わせてだったので、致し方ありますまい……。

朝から晴れていたら、岡崎か近江辺りに行きたかったです。

 

みなさま、今年のお花見はどうだったでしょうか。

例年に比べて、咲き残っているところも多いのではないかと思います。

週末までは天気がよいようなので、ぶらっと近所の夜桜を愛でてみてください。

 

次回は、本記事に戻れますように……。