べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「豊川稲荷」(再)(豊川市)〜三河初詣〜

1/9。

まあ、豊川市ですから、豊川稲荷には行きますよね。

 

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豊川稲荷公式ホームページ TOP

 

↑公式HPです。

 

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「豊川稲荷」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事です。

いやもう、完全に油断していまして、駐車待ちの車も多くて、ちょっと離れたところに駐車して、徒歩での移動。

参拝客の多いこと……。

 

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というわけで、基本おキツネ様の写真ですが、「霊狐塚」は行列だったもので諦めましたよ。

 

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御朱印も、並んでいたので書置きのものをいただきました。

 

さて。

東海道名所図会』には、豊川の項目はあるんですが、「豊川稲荷」はないんですよね……。

ううむ、どうしよう。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 豊川円福山妙厳寺鎮守吒枳尼真天略縁起

 

↑『豊川円福山妙厳寺鎮守吒枳尼真天略縁起』という、ほぼこれだけで間に合いそうなものがありましたので引用してみます(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

「開創縁起
三州豊川妙厳寺人皇百一代後花園天皇嘉吉元年僧義易の創建にして禅曹洞宗に属す(略)猶吒枳尼真天の堂宇の如き荘厳華麗を盡し結構総へて神社に擬す世俗概ね稲荷の名を以て之を呼ふと雖も安置する所の仏像は真天にして稲荷の本体にあらすと云然れ共之を豊川稲荷と称し四方の賽人日夜絶ゆることなし(略)現今殿堂并諸建物左に

大門、楼門、通用門、本堂、開山堂、吒枳尼天、奥院、籠堂、禅堂、額堂、庚申堂、秋葉堂、大黒天、愛染堂、万燈、札所、鐘楼、座敷、玄関、広間、立願所、茶所、庫裡、書院、方丈、新方丈、宝庫、浴室、舂屋、
(略)
吒枳尼真天縁起
凡そ聖者賢人の世に出て人を救ひ給ふや必ず天神地祇の之に附随して其道を護り其業を助くるものあり乃ち釈迦牟尼仏の出世し給ふや梵天帝釈四大天王等の衛護をごそかなりしは更にも言はす我国に在りても山王権現伝教大師に於ける稲荷明神の弘法大師に於ける白山権現の承陽大師に於ける等皆然らさるは無し茲に円福山妙厳寺に鎮座し給ふ吒枳尼真天の来由を原ぬるに人皇十四代順徳天皇の皇子出家したまひて承陽大師の正脈を嗣かせ給へる寒岩義尹禅師は寛元年間支那国に渡航し玉ひ彼地天童山に登て如浄禅師に謁し要脈を伝へられて已に帰朝の船に乗らせ給ひしに忽ち霊神あり白狐に跨りて声朗らかに唵尸羅婆陀尼黎吽婆婆訶と唱へ且つ謂て曰く吾は是れ吒枳尼天なり今より将に師の法を護するに此神呪を以てし又師の教化に服する者を守りて安穏快楽ならしめん必ず疑ふこと勿れと言ひ畢りて見へす乃ち禅師帰朝の後手つから其感見する所の形像を刻みて以て護法の善神となし常に其徒に教へて彼の神呪を唱念せしめられたり其後禅師の法子法孫たる鉄山東州梅巖華蔵の四師嫡々相承して妙厳開山東海義易和尚に至る和尚嘉吉元年を以て豊川に寺を開創するに当り別に祠壇を寺中に築きて彼の禅師手刻の吒枳尼尊像を安置し以て有縁の道俗をして随意に礼拝祈願することを得せしむ是に於て四方篤信の貴賎男女競ひ来りて霊験を蒙る者益々多し就中織田信長豊臣秀吉徳川家康諸公の如き今川義元九鬼嘉隆山本晴幸本多忠勝大岡忠相諸氏の如き皆共霊威を馮みて祈誓する所あり殊に文禄年間豊太閤の朝鮮を伐つに当り水軍の驍将九鬼大隅守をして多く軍艦を造らしむるや嘉隆一夕霊夢を感し妙厳寺九世の祖天室伊堯和尚を請して教化を受けたるを以て其軍艦中の尤も壮宏たる者を名けて伊堯丸と曰ひ艦中に吒枳尼尊像を拝請し大般若経六百巻を奉戴し般若理趣法を行ひ怨敵退散降伏一切大魔最勝成就の祈祷を修して吒枳尼尊天の宝符を製し之を征韓各軍隊軍属に頒布し各自の鎧中に納めしめしに戦陣中その霊験の赫々たること実に枚挙に遑あらさりしと役終りて其艦を嘉隆に賜はり明治の初年に至るまで之を志摩の鳥羽港に保存せられたり又慶長五年東照公の関ヶ原陣に趣くや伊堯禅師をして其戦勝を真天に祈らしめ後に寺禄四十石を寄附して之に報賽せられたり又大岡越前守忠相か幕府の奉行として能く屡々疑獄明断して良臣の名誉ある常に萬牛和尚に請て真天の冥助を祈りて遂に尊像を邸内に安置して敬信怠らさりしと斯の如き信仰の篤きにや徳川八代将軍吉宗公享保年間に彼の天一坊の疑獄在て名奉行の越前守に其裁判に苦しし既に割腹と迄覚悟せしか日々怠らず水垢離を取て吒枳尼天を祈念せられしに霊験立處に顕れ其加被力によりて天一坊主従の輩悉く罪に服し処断せらる後其功を以て三河西大平に於て一万石を賜はりて諸侯の列に加へられたり是偏に豊川真天の冥護とて永井郁次郎を代参せしめたりと云ふ現今東京赤坂表町に奉祀せしは即ち大岡が邸内に拝請せし真天なり(略)」

 

「義易」という僧侶については、

 

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東海義易(とうかい ぎえき)とは - コトバンク

 

コトバンクより、

 

「東海義易 とうかい-ぎえき
?-1497 室町時代の僧。
遠江(とおとうみ)(静岡県)の曹洞宗(そうとうしゅう)普済寺の華蔵義曇(けぞう-ぎどん)に師事し,その法をつぐ。嘉吉(かきつ)元年三河(愛知県)豊川に妙厳寺(豊川稲荷)をひらいた。明応6年3月29日死去。三河出身。」

 

とのことです。

嘉吉元年というのは1441年のようですので、そこまで古くはないですね(いや、十分古いんですが)。

大陸から帰ってくるときに、何らかの守護神が船の上に現れる、というのは、一種お約束でもありますが……これでくっついてきたのが「吒枳尼天」だとすると、一瞬思い出すのはあれですよね……ええ、「九尾の狐」です。

まあ、関係ないと思いますが……。

尾張三英傑、「今川義元」に加え、「九鬼嘉隆」なんかが出てくるところが渋くていいですね。

大岡忠相」の話については、

 

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天一坊(てんいちぼう)とは - コトバンク

 

コトバンクの「天一坊」の項目から、

 

「てんいちぼう【天一坊】

《大岡政談》に載る天一坊事件の主人公。事件は,紀州生れの宝沢が徳川天一坊と名のり,赤川大膳,常楽院天忠,山内伊賀亮らとともに8代将軍徳川吉宗の御落胤を詐称したが,大岡越前守忠相の活躍であばかれ処罰されたというもの。この話自体は,大岡の名奉行ぶりをたたえるための後世の作りごとだが,そのもとになる事件は実際にあった。1718年(享保3)の中川正軒事件,29年の源氏坊改行事件などがそれである。【斎藤 洋一】」

 

↑という具合です。

講談ではありますが、その元となる事件はあり、ただしそれを「大岡忠相」が裁いたかどうかは不明。

暴れん坊将軍』でも出てきたような気がしますが……あれ『大岡越前』のほうだったかな……。

ともかく、「大岡忠相」が赤坂に「豊川稲荷」を勧請した、という伝説(?)は残っている、と……面白いですね。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾三郷土史料叢書. 第4編

 

↑『尾三郷土史料叢書』の第4編『参河国名所図絵』も見ておきましょうか。

 

「円福山妙厳寺
(略)
鎮守稲荷社
本堂西南の隅に在当寺の鎮守たり世諺弁略に云三州豊川村平八狐云々又野翁物語に云平八いなりとて近来時行の神あり云々見へ又刪補松に云当寺境内に平八と名くる狐あり近年祠を建て稲荷大明神と崇むと見へ又渡辺政香の云宝暦の頃吉田領西島村より豊川村妙厳寺境内平八狐の婿になりたりとて婿入の夜は西島より豊川までの野道松明を数百燈したる如く燦然たりしと謳歌し夫より参詣たへず尤霊験新たなりと見ゆ(略)
当社感応の著しきこと響の物に応する如く形の影に随ふに似たり此をもて遠郷より参詣の人々日に増月を超て群集し往来連綿として常に絶間あらされば門前瓦を並べて酒飯を◼︎く境内葭簾に囲ひて左右茶店を列ぬ其繁昌なること都会の人も肝をつぶす殊に紛失の祈願出奔せし人の足止等にいたりては身の毛弥立ばかりの霊験挙て計ふへからす(略)」

 

どうも、「平八狐」というのがいたらしく、

 

 

愛知妖怪事典

愛知妖怪事典

 

 

↑『愛知妖怪辞典』にも、

 

「平七狐
豊川の稲荷は、元々は平七狐稲荷と称えられた。昔、平七という一人の棒手振(振売)がいた。ある時、豊川の渡に差し掛かると、数多の狐が集まって一つの土塀を越えようと競っていた。平七はこれを見てその群に入り、真先に塀を乗り越えた。すると、相貌立ちどころに狐と変じ、その狐群の棟梁となり、ついには稲荷として祀られるようになったと言う。」(p253)

 

という項目があります。

「平七」と「平八」の違いはあるものの、一連の狐伝説ではないか、と思われます。

どうも、西島から狐が婿入りしたらしいので、「平八狐」は雌だったようですが……これは、名前を継いでいった結果なのでしょうか。

それにしても、狐が人間に化けるならともかく、狐になってしまう、という話は、結構興味深いのではないでしょうか。

そうですね、妄想すると……「平八」か「平七」か、そういった恐れられていた盗賊か何かがいてですね、あるとき人々が集団で退治したんですけれど、恨みを恐れて「あいつは狐だった」ということにしてしまって、祀り上げた……なんてストーリーはいかがでしょう。

うーん、でも盗賊だったらぼっこぼこにしたって祟られることはなさそうだな……何かの間違いで善男を殺しちゃった、というほうがまだありそうかな……。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 迷信の話

 

↑『迷信の話』という本から。

豊川稲荷」の前の記事は、稲荷についてかなり長めに書かれていますので、興味のある方は。

 

「十二 豊川稲荷
同じ稲荷でも、吒枳尼天の豊川稲荷は、正一位の肩書がない。そのかはり、狐は大つぴらに祭られる。何となれば、吒枳尼天は狐に乗つてゐる。その狐は玉をくはへてゐる。ことに吒枳尼天の一名を白晨狐王菩薩ともいふからである。
豊川とは三河の豊川で、今の愛知県宝飯郡豊川町である。此の稲荷の起源は、伏見稲荷よりも五六百年後である。
後醍醐天皇の皇子と称せらるる無文禅師が、三河の国に巡錫せられて、宇賀の魂を祭られた伝説がある。その後曹洞宗派の妙厳寺に吒枳尼天を祭つた。いつの間にか、此の宇賀の魂と、吒枳尼天とが一つになつて、吒枳尼天の本地垂跡したのが宇賀の魂であるといふやうになつたらしい。丁度、田沼意次が稲荷信仰を始めた頃、豊川稲荷と其の隣の西島稲荷が並んで隆盛を極めてゐたのであるが、西島稲荷の雄狐が、豊川稲荷の雌狐の所へ聟入をしたといふので、西島稲荷がぱつたり参詣者が無くなつたといふ話がある。此の伝説だけでも、当時の一般民衆が、稲荷即狐であると信じてゐた証拠とするに足りるものがある。東京赤坂の豊川稲荷は、此の三河豊川稲荷分祀である。だから、稲荷と狐とを一つにして、それに対つて幸運を求め出したのは、三百年以前からの事と推定することが出来る。」

 

こちらでは、

 

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無文元選(むもん げんせん)とは - コトバンク

 

「無文元選」という僧侶が登場、コトバンクを参考にしますと、

 

「無文元選 むもん-げんせん
1323-1390 南北朝時代の僧。
元亨(げんこう)3年2月15日生まれ。臨済(りんざい)宗。父は後醍醐(ごだいご)天皇という。可翁宗然,雪村友梅にまなび,元(げん)(中国)にわたって古梅正友の法をつぐ。帰国後は各地に庵をむすび,遠江(とおとうみ)(静岡県)の奥山朝藤(是栄居士)にまねかれて方広寺をひらいた。康応2=元中7年閏(うるう)3月22日死去。68歳。諡号(しごう)は聖鑑国師,円明大師。」

 

だそうです。
伝説では、「宇賀の魂」、多分「倉稲魂神」かなと思うのですが、ひょっとして「宇賀神」かもしれません、を祀った、それが「吒枳尼天」と習合していった、とのこと。

狐の婿入りの伝説も書かれていますね、往時は有名だった話のようです。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 神仏力くらべ

 

↑『神仏力くらべ』という面白げな本があったのでご紹介。

 

「(四)豊川稲荷
愛知県の豊川町にある。稲荷さんと云ふても、伏見の稲荷さんとは全然異つて、ここには赤鳥居があると云ふ訳ではなし、狐の穴があるわけでもない。妙厳寺といふ禅院境内の一角に勧請して天部吒枳尼真天が本尊で、禅院本堂よりも参詣者は遥かに多く、今裏山に素晴らしい大きな本殿を建築中で、境内には改築寄付金の立札には七万円とか、一万円と云ふ随分思ひ切つたのも立ててある。
投機的現証利益があると見へて、参詣者は商人や花柳界の人達が多く、東京だけにでも六十餘の講があり、一講千人からの団体も少くないといふ。東京のある株屋は毎日曜缺かさず参詣してゐるといふ。
其の境外にコマ犬代りの狐があるがこれが盗難にあつた場合、早速参詣して、その足を縛るとやがて泥棒が捕はるとの伝説からこれを俗に足止稲荷と云つて参詣者又多い。」

 

↑うーん……1926年刊行の本ですので、もう「豊川稲荷」は有名だったはずで……当時は「霊狐塚」はなかったのかな……。

「足止稲荷」の伝説は、↑↑『参河国名所図絵』にもありましたね。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 三州豊川稲荷略誌 : 附・豊川七不思議

 

さすが大人気といいましょうか、『三州豊川稲荷略誌』という本も見つけました。

 

「抑々豊川稲荷は往古神部に属し正一位豊川稲荷大明神と號し我国に於て稲荷の陰神と言伝へり日本の稲荷として京都伏見の稲荷を陽神(男神)とし豊川稲荷を陰神(女神)とし二柱を以て真の稲荷といふ也故に豊川稲荷の御真像は女神の御影が白狐に跨り玉ふ御姿なり茲に三州宝飯郡豊川町曹洞宗円福山妙厳寺に鎮り玉ふ縁故は其昔 後鳥羽天皇の皇子出家ましまし曹洞宗承陽大師の正脈を嗣かせられたる寒巖義尹禅師より妙厳寺山東海義易和尚に伝り当山に鎮守せられたる事にして昔し之の稲荷大明神を世俗に平八稲荷と称し霊験顕著御利益の甚大なるは衆庶の能く知る処なり然るに明治維新の際時の大政官より神仏混合して奉斎するを許さずと云ふ御布達なりしも豊川稲荷は元是神社なるも奉斎は妙厳寺にて行ふ事なれば日常祈祷奠供とも総て宗教に依り奉献し来りしを今更神社とするときは曹洞宗妙厳寺と離れざるべからざる場合に立至り爰に至りて正一位豊川稲荷大明神を豊川吒枳尼真天と改め従前の通り妙厳寺に於て奉斎する次第となれり故に現今の称は豊川吒枳尼真天なるも其実豊川稲荷大明神なり然り而して稲荷の御神咒なる「オンシラハツタニリウンソワカ」と言へるは其人の願望は如何なる事にても信者の尊信唱念に依り願望成就すると云ふ事は信徒の能く知る処にして今更喋々を要せず然るに 織田信長 豊臣秀吉 徳川家康 今川義元 九鬼嘉隆 山本晴幸 本多忠勝 大岡越前守等皆其霊威を祈誓す殊に豊太閤朝鮮征伐及東照公関ヶ原陣に戦勝を祈りて霊験著しく故に寺禄四十五石を寄付報賽せられたり其後徳川公の天下と倶に豊川稲荷は益々繁昌と成れり又大岡越前守は幕府の名奉行として知られ疑獄を明断す就中彼の難中の難たりし徳川天一坊事件を能く裁断して誤らざりしは全く豊川稲荷大明神の冥助なりとし遂に稲荷の御分霊を江戸赤坂一ツ木の大岡邸内に安置し敬信厚かりし今の東京赤坂豊川稲荷は之れなり又維新後明治に至りて貴顕の信仰厚く故有栖川宮熾仁親王殿下の御祈願厚くして豊川閣と称号を附し額面を寄付せられ今現に稲荷の拝殿に掲けあり又日清日露の役に於ける出征軍人諸氏にして豊川吒枳尼真天の御守護札を携帯せし諸氏が不思議の霊顕を蒙りし事実は実に枚挙に遑あらず殊に豊川吒枳尼真天を唱念するに『勝』の祈誓を以てするときは成就疑ひなき事衆庶の能く知る所なれば日々の参拝者は何れの社会階級を不問万を以て数ふるに至れり。」

 

おっと、こちらでは「伏見稲荷」を「男神」、「豊川稲荷」を「女神」としていますね。

「平八稲荷」という呼称もあったようで……設定にゆらぎがありすぎて……。

神仏分離令の頃のことが書かれていて、それが正しいのかどうかわかりませんが、「正一位豊川稲荷大明神」ではなく「豊川吒枳尼真天」だと言い張って、神仏分離を逃れた、というのはなかなか生々しい話のように思えます。

面白いのは、「豊川七不思議」という付録記事のほうかもしれません。

 

「豊川七不思議
第一 平八稲荷を俗称するは開山義易大和尚当寺開創の時一老翁来り自ら名を平八郎と称し大和尚に随従して庫裡の炊事等克く労働す然るに平八郎何れよりか一つの釜を持参して飯を炊き湯を沸し茶を煎ずるに供し食時縦ひ何百人の多きたるも悉く此の釜一ツにて満足して不足する事なし実に神通妙用なる人力の及ぶ所にあらず如此小釜を以て能く多衆に供するを得るやと問ひたるに平八郎答へて曰く、吾れに三百一の眷属あり何事にても弁事せざる事なりと其後義易大和尚遷化と同時に其釜を遺し何何ともなく平八郎は立去れり其釜今に至も宝物として保存あり」

 

あら、出ました「平八稲荷」。

しかも「平八郎」っていうおじいさんだし……設定のゆらぎが……。

四国の「八百八狸」を率いた(んでしたっけ?)「隠神刑部」にはかなわないまでも、こちらの「平八狐」も眷属三百一、かなりの勢力です。

うーん、地元の人は、この辺りをもっと推していけばいいのになぁ……と思いましたが、初詣客の数といい、宣伝はもう必要ないかもですね。

ちなみに、残りの六不思議は、

 

「第二 宝物の中の純白の毛玉
第三 大祭典の夜になくなる三百一膳のお供え
第四 地上三尺を飛走せる白狐
第五 宝物の中の増殖する仏舎利
第六 宝物の中の瑠璃の玉
第七 吒枳尼天本殿北側の福寿石」

 

だそうです(そんなに古くないのもあります)。

ふう……いや、いろいろ伝わっていて面白かったです。

誰かがきっと、これをまとめてくださっていることでしょう(伝説とか伝聞とか怪しげなお話とか混じっていますが、それでこそ「稲荷」みたいなところがあります)。

さて、もうちょっと三河をうろうろしてみようっと。

「砥鹿神社」(再)(豊川市)〜高速初詣三河編〜

1/9。

成人の日でしたね……出勤して、すぐにはからずも4連休……もう、今年一年分のお参りをすませるわさ、とばかりに「砥鹿神社」へ。

一之宮ですからな。

 

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www.togajinja.or.jp

 

↑公式HPです。

 

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「砥鹿神社」 - べにーのGinger Booker Club

「砥鹿神社」末社等 - べにーのGinger Booker Club


↑過去の記事です。

 

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社標。

 

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大絵馬。

 

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拝殿。

 

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えらくポップな雰囲気のする「神鹿絵馬殿」。

 

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二宮・三宮の狛犬さんたら、

 

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狛犬さん。

 

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松の内をすぎたとはいえ、ご祈祷を待っていらっしゃる参拝者さんも多かったです。

以前うかがったときは、あまり人はいなかったような……いやいや、三河一之宮ですから、そんなことはありますまいて。

 

さて。

 

 

新訂 東海道名所図会〈中〉尾張・三河・遠江・駿河編 (新訂 日本名所図会集)

新訂 東海道名所図会〈中〉尾張・三河・遠江・駿河編 (新訂 日本名所図会集)

 

 

とりあえず、『東海道名所図会』からいってみましょう。

珍しく、本になっているのを持っているので(本当は、全部の名所図会を本でほしいんですけどね……)。

中巻の124ページ。

 

「砥鹿神社
宝飫郡(諸書に飫を飯に作るは謬りなり)一宮村にあり。延喜式内。峰の社を本宮と称す。吉田より麓へ三里、山路五十町。峰の社頭を本宮岳という。
神大物主命 『風土記』に、「祭る所は大物主神。圭田五十三束。文武天皇の元年[六九七]、始めて圭田を奉り、神札を加う。」
『文徳実録』にいわく、「嘉祥三年[八五〇]秋七月丙子朔、三河の国砥鹿の神に従五位下を授く。仁寿元年[八五一]冬十月乙巳、参河の国知立・砥鹿両神の階を進め、並びに従五位上を加う。」
『三代実録』にいわく、「貞観十二年[八七〇]八月、砥鹿の神に正五位上を授く。貞観十八年六月、従四位上を授く。」
社説にいわく、「祭神大己貴命(大物主七名の内)。文武帝御悩によって、大宝年中[七〇一〜七〇四]、草鹿砥公宣卿、煙厳山(鳳来寺山号)勅使の時、神託あって、公宣卿をもって当社の御神をまつらしむ。今の神主草鹿砥氏はこの公宣卿の後裔なり」という。例祭五月四日。走馬、流鏑馬の形粧[行粧、いでたちの意か?]あり。この本宮岳は東に石巻社、西に猿投社、挙母の里、南に大洋渺々として、風色深妙の地なり。(略)」

 

……過去記事で紹介した『三河国一宮砥鹿大菩薩御縁起』の記述とほぼ同じです(ま、そりゃそうです)。

ちょっと面白いのは、

 

「宝飫郡(諸書に飫を飯に作るは謬りなり)」

 

の部分で、今では「宝飯郡」ですからね……多分これには、常用漢字云々が絡んでくるので、

 

 

 

↑といった本が参考になるかもです。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 上編

 

↑『神社覈録』を観てみます(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

821ページです(すみません、コマ数を忘れました……)。

 

「砥鹿神社
砥鹿は仮字也 ◯祭神大己貴命、(略) ◯雀部庄一宮村に在す、(略)◯当国一宮也 (略)」

 

……『東海道名所図会』とほぼ同じ内容でした。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 特選神名牒

 

↑『特選神名牒』はどうでしょうか。

274ページです(こちらも、コマ数ではないです)……と見てみたところ、位階のことしか書いていませんでした……。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 古事類苑. 神祇部26

 

↑『古事類苑』はどうでしょう。

39コマです……とこちらも、『延喜式』『東海道名所図会』『文徳天皇実録』『三代実録』からの引用ばかりですね……。

一の宮なのに、扱いがあんまりではないでしょうか……。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾三郷土史料叢書. 第3編

 

↑『尾三郷土史料叢書』第3編に、『三河国古蹟考』が収録されておりまして、そちらから。
43コマです。

 

「◯砥鹿神社
(略)
△峰ノ宮謂本宮山名本茂山。三川雀云実ハ本茂山トイフ。」
(略)
鳳来寺縁起云、猿橋ハ当山ヨリ南ニアタレリ、勅使公宣卿登山ノヲリフシ滝川ノ流ニ猿集テ枯木ヲ橋トシ勅使ヲ渡セシ故名ク云々。
(略)
◯又云本宮在長山村社領二十石爲砥鹿明神本宮或熊野本宮。
◯三川雀云、いつの頃にや三川に熊野山をうつし、那智は夏山村、新宮は国府にあり、熊野の谷は赤坂にあり吾妻鏡に源俊成卿若一王子を蒲形里に勧請すると見えたり。
◯按ニ、統叢考ニモ此説ヲ挙テ、ナツ山はナチ山ノ誤ナリト云リ、然レドモ此説スベテ信ラレズ国府近辺広石村地内ニ新宮山ト云ル山有テ山上二社アリ、コレ御津村ノ摂社ナリ源俊成卿云々ノコト藤原ノ誤ナルベシ印本ノ吾妻鏡ニハ見エズ、サレド蒲形ハ彼ノ卿ノ領ス庄ナルコトハ四ノ十丁ニ見エタリ。
◯又按ニ本宮ハ、砥鹿神社ノ本宮ナルコトハ論ナケレド、モシクハ穂ノ宮ノ意ニ非サルカ、此山ヨリ流レ出ル川ヲ宝川ト云ヘド、コモ宝(ホノ)川、本野原ハ中古ノ書トモニモトノ原トアレド旧クハ本(ホノ)原ニテ本野村は穂(ホノ)村ニテ宝(ホノ)飯郡ノ本土ナルヘキカ、可考尚予ガ旧地考ニイヘリ。
類聚国史九十二漠猟部云、欽明天皇九年丁酉春令千田直蒐参河国宝飯郡砥鹿山得双鹿列卒有屠之者忽患疫死自此其疫転而餘卒不疫万許一也、知爲神領而自宮寄附監時祭田也。
◯按ニ此事日本紀ニ載ズ彼ノ漁猟部ト云ル条ハ、六国史ニ載セサル異シキ事ヲ載セテ甚疑ハシキ物也、恐ラク後人ノ附記ナラムカ可考。サテ此事ヲ宣輝神主ニ尋ヌルニ、サル社伝ハナケレド砥鹿神社ノ末社ニ鹿角ノ社ト云アリ社地ハ宝川ノ辺ニ在テ社ハナク一ツノ塚ヲ祀レルノミナリ鹿之御霊ヲ祀ルト社伝ニアリト云ハレタリ。
(略)」

 

面白そうなところだけ孫引きしています。

御祭神が「大物主神」か「大己貴神」であることは確定っぽいのですが、どうにも揺れがあるようで、「熊野本宮」を引っ張ってきたり。

類聚国史』の記事は、「白い鹿が祟った」というお話です。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾三郷土史料叢書. 第4編

 

↑『尾三郷土史料叢書』第4編には『参河国名所図絵』が収録されています。

173コマです。

 

「砥鹿神社
同村に在 当国の一の宮とす、延喜式に載る所の官社なり (略) 或る説に 聖武天皇の御代に六十六ヶ国に一社つつ撰み置玉ふと云るはさもあらんか 又或説に 崇神天皇の御時に定め置賜ひし天社を一ノ宮と称し其後垂仁天皇の御時に定め置賜うき地社を二ノ宮と称するなど云へれと信し難き説なり 三河国渥美郡羽田村神明宮の神主羽田村敬雄主より恒の消息のついでに一ノ宮と云は国司神拝又祭礼奉幣せらるる時ごとに最初に事行ひし社なるかと考へ侍りさるは国内神名帳の和泉三河駿河伊豆美濃上野若狭紀伊などの国々悉く第一に一の宮を挙たれはなりと見へたり(略)
(略)
足助八満宮縁起の中に 東海道三河国賀茂郡足助総社八幡大菩薩の元興を窺ふに仁王三十九代天智天皇の御宇 当国宝飯郡大深山と云ふ山に怪異者三ツ出来せり 一は猿の形 一は鹿の姿 一は鬼形にして大木の梢巌上の上飛行自在に見へたり 人々あやしみを作す処に猿形なるは石舟に乗飛行高橋庄猿投大明神是なり 鹿の姿なるは彼所に止り則砥鹿大明神と化現せり 当一の宮是なり 亦鬼神なるは能物言我は是紀州牟漏郡熊野本宮より国廻する者なりと言彼大深山を鬼出来するに依て其後鬼見山と云 又本宮山というり云々見ゆ 又宮島伝記に云永正十三丙子年十一月十六日当国一ノ宮砥鹿大明神本社棟上あり牧野田三平信成祈願に依て是を造営す 亦田三別腹の子を以て一ノ宮神職を継く左エ門大夫と号す(略) 又明応四乙卯歳九月廿一日一ノ宮甲斐左衛門太夫卒す(略)
◯但馬続風土記に二方温泉の記を引て上古大穴持少彦名二神入田道間洲開瀬門経営此温湯後居朝来郡赤渕宮終向東方参河国とあり
式に朝来郡刀我石部神社あり可考」

 

前半は、「一の宮ってなんぞや?」な内容。

『足助八満宮縁起』の話は、

 

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「足助八幡宮」「足助神社」(豊田市) - べにーのGinger Booker Club

 

↑の記事でも取り上げています。

『但馬続風土記』の伝説は、どうなんでしょう、「刀我石部神社」が式内社として『延喜式』に掲載されているのは事実ですが……。

鹿といったら、普通「春日大社」、藤原氏、「鹿島神宮」といった辺りが想起されますけれども、そういった伝承はないようですね。

うーん……出雲から但馬を経由して、三河に入ってきた「大物主神」奉斎氏族がいた、という可能性はあるのでしょうか。

朝来郡には「足鹿神社」もあったようですし……。

 

ところで、「とが」といったら、すぐに「科・咎」、が浮かんできますよね。

音的に、結構不吉な感じがしますけれども……「砥鹿」は明らかに当て字でしょうから、御祭神が「咎の神様」だったとすると、神紋が占いを想起させるものであっても不思議でないかな、と。

吉凶を占う「亀卜」ですが、罪科をはかる役割も占いにはあったりしますので(神明裁判、「盟神探湯(くがたち)」とか)。

そんな役割を持っている神が、ある時期までは存在していたけれども、大和朝廷の成立で整理されてしまったのか……。

鹿の骨、も卜占には使いますね……。

 

おっと、散漫な感じに。

というわけで、高速初詣(三河編)でございます。

「大直彌子神社」「石神社・八幡社」(名古屋市中区)〜高速初詣その4

1/7。

高速初詣その4の締めは、大須です。

 

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「三輪神社」で、一月限定の御朱印をいただきました。

そこから少し足を伸ばして、まずは「大直彌子神社」という、ビルの合間にすっぽり挟まったような神社へ。

 

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正面。

 

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案内……読めぬ。

 

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社殿。

 

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狛犬さんたら、

 

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狛犬さん……

 

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それから、コインパーキングの脇にひっそりたたずむ「石神社・八幡社」にもご挨拶。

 

さて。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

名古屋市史』の「社寺編」をちらっと見てみましょう(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

160コマ、「春日神社」の記事の中です。

 

「境外神社大直彌子神社は中区大池町一丁目の東側 もと前津村 に在り、(略)旧称は「おからねこ」 此名称詳ならず、連城亭随筆及び尾張名陽図会には、二説を挙げたり、その一、おからねこは於空根木(おからねこ)にして、社傍に古き榎の根のうつろ(空)なるがありしを、俗の呼倣したりとし、その二、此所は昔の鐘の御堂の旧跡にして、その堂(或はその堂の跡の古祠)の内には本尊もなく、小さき三方の上に高麗狗の首一個を載せたるを、世に御唐犬(おからいぬ)と呼び、転じておから猫と呼び倣せりとす、近来若原経敬は、於加良禰古は大田多彌古命の名を訛りたるものにして、此社は往古奈良の春日、三輪、大直彌子の三社に象りたる、その一なること疑なしとせり といひ、明治初年以来、於加良根子神社となりしを、四十二年四月、今の名に改む、勧請の年時詳ならず、小林城主牧與三右衛門長清再興す、明治二十八年頃改造遷宮す、初め無格社に列せしを、大正二年一月、春日神社末社となす、祭神は大直彌子命 連城亭随筆には富士山を祭るとせり なり(略)」

 

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「大神神社」(続々々)〜久延彦神社・大直禰子神社〜奈良・京都めぐり〜 - べにーのGinger Booker Club

 

奈良の「大神神社」の摂社に、同じ名前の神社があります。

「大直彌子」が何者なのかは、↑「大神神社」関係の記事にいろいろと書きましたが、簡単に言えば、崇神天皇の頃に疫病が流行って、どうやら大物主神が祟っているらしいので、大阪のほうから子孫らしい大直彌子を連れてきて祭祀させたら祟りが治ったよ」ということです。

記紀神話を考える上では、なぜこの時代に「大物主神」の祟りがあり、そして子孫をして祀らせることにしたのか、という意味を考えなければならないのですが、それもおいておいて、

 

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名古屋市:「おから猫」の不思議ばなし(中区)

 

中区のHPにあります、「おから猫」の不思議話というのがいい感じです。

そこから一部引用しますと、

 

「『作物志(さくもつし)』には「城南の前津、矢場の辺に、一物の獣あり。大きさ牛馬を束ねたるが如し。背に数株の草木を生ず。嘗ていづれの時代よりか、此所に蟠(わだかま)って寸歩も動かず、一声も吼(ほえ)ず、風雨を避けず、寒暑を恐れず、諸願これに向て祈念するに、甚だいちじるし。然れども人、其名を知らず、形貌自然と猫に似たる故に、俚俗(りぞく)都(すべ)て御空猫(おからねこ)と称す」と書かれている。」

 

ということだそうです。

さてはて、このあたりにお住いのかたには、「おから猫」は有名なのかもしれません。

名古屋市民でも私はさっぱり知りませんでした。

 

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「三輪神社」(補) - べにーのGinger Booker Club

 

↑「三輪神社」の記事で書いたのですが、『尾張国地名考』の中には、「オカラネコ屋敷」という地名があったと書かれておりまして。

この辺りを整備したのはやっぱり小林城主の「牧長清」さんのようで、よほど奈良に思い入れでもあったのか(すみません全然人となりを存じ上げませんもので)。

ただ、再興、とあるので、もともとこのあたりには、奈良からやってきた人がいて、「三輪神社」「春日神社」(※まだ記事は書いてませんが、上前津にあります)「大直彌子神社」があったのかもしれません。

それが、どんな紆余曲折で「オカラネコ」になったものか……『名古屋市史』に引用してあった『尾張名陽図会』の言うように、木の根っこが猫っぽくて、「大直彌子神社」も近かったので「オカラネコ」になっちゃったのか……。

ま、とにかく、ネコ界隈では結構有名っぽいので、ネコっぽいものはありませんが(あ、謎の狛犬じゃないあれがネコなのかな)、その筋の方は一度ご参拝されてはいかがでしょう。

 

名古屋市史』「社寺編」の172コマには、

 

「石神社八幡社合殿
石神社、八幡社合殿は中区三輪町に在り、(略)、小林城主牧與三右衛門長清勧請す、明治三年八月改造遷宮す、今無格社に列す、祭神は布都御魂神、応神天皇 応神天皇は後に合祀せしものなり なり、境内神社に秋葉社の一所あり、(略)」

 

とあります。
うん、規模的に、今回ご参拝したところなのかよくわかりませんが……またしても「牧長清」さんでした。

あれ、「春日神社」があるのに、あらためて「布都御魂神」を勧請したのですか……何か意図があるのかな……。

今度はちょっと、「牧長清」さんについて調べてみたいな、と思いました。

 

 

これにて、高速初詣その4終了でございます。

もう9月も半ばだというのに、まだ1月の記事ですよ……来年の初詣の記事は、来年の年末かもしれません(鬼笑)。

 もうちょっとペースアップしたいところですが、何しろ……BABYMETALさんとさくら学院さんで……。

「内々神社」(再)(春日井市)〜高速初詣その4

1/7。

さて、正月松の内尾張の神社をいろいろ回りましょうといいながら名古屋に近いところしか回っておりませんが、「内々神社」へ久々に。

 

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「内々神社」+「妙見寺」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事です(「宮簀媛による日本武尊殺人事件」「建稲種命謀殺事件」は妄想です)。

 

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正面鳥居。

 

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……「北辰尊星王」かな……。

 

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……読めない(なぜ写真に撮ったのか……)。

 

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虹梁。
よいですね。

 

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狛犬さん。
悶えているわけではないです。

 

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拝殿向かって左手の、廻縁の……何て言うんでしたっけ、本で読んだのに用語が出てこないな……。
「獅子が我が子を千尋の谷にほにゃらら」的シーン。

 

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本殿。

 

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拝殿向かって右手の、です。
こっちの主題はわかりませんです……。

 

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狛犬さん。
泥パックをしているわけではないです。

 

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灯篭。

 

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お隣、「内津妙見」の天狗面。
あやし。

 

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参道入口。

 

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御朱印
左下には「内津妙見」の参拝記念の印。
伝奇好きにとっては、北斗七星といったら「七星剣」でしょうか。

 

さて。
↑↑前回の記事で引用した以外の、『尾張志』、『神社覈録』や『特選神名牒』あたりは、だいたい同じような内容でした。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 東春日井郡誌

 

↑というわけで、『東春日井郡誌』さんには頭が上がりません、363コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

「内津神社
(略)
祭神 建稲種命(略)
天香語山命
例祭日 四月十五日
由緒 人皇十二代景行天皇四十年皇子日本武尊東夷御征伐をなし給ひ、年を超へて御凱旋の途次、信濃、美濃等の国々を過ぎ、尾張の地に入り給ひ篠城の地にて、建稲種命の■従久米八腹より、命の駿河の海に薨去せしを聞召て、尊乃ち哀悼ましまし現哉現哉と宣ひて、此地に命の霊を祀り、神籬祭を挙げさせ給ひ、後自ら神璽を作り改めて祠を建てさせ給へり、かくて景行天皇五十五年命が従軍の戦功により社殿御改造のことあり、時に神門其の他の御建築ありたりしが、後世天正年間、妻木の城主伝入、兼山の城主森右近と兵火を交へしとき、遂に其の兵燹にかかりて社殿等炎焼せり、爾来仮殿を建てて祀りけるが、慶長二年豊臣秀吉朝鮮出師のとき、此社に戦捷を祈願し、社頭の大杉七本を伐採して以て帆柱となしたり、凱旋の後、戦捷御礼の爲とて社殿を造営したりき、又慶長十八年妻木城主源雅楽助先の兵火を謝し、鐘楼を建立したりと云ふ。
かくして享和三年に至り、更に氏子崇敬者等金を集め、時の名工立川和四郎、内匠頭富棟をして社殿を改築せり、今の建造物は即ち是なり、而して、明治十年三月十四日県社に列せり、古は大祭を八月十五日と定め、神輿渡御並に大尻山兒子の舞、踊り等ありて、寺社奉行、郡奉行等列したりきと云ふ、左に古書、古記録を引用し参考に資す
(略)
内々神社本記に曰く、(略)元稲種命社当国有四所、第一内津社、第二尾張戸社(当国山)第三熱田第五相殿、第四波豆社(知多郡師崎)此外所々祭之、宜哉此命当国氏神之本居之霊、而日本武尊嚮導武勇神也。
(略)
尾張志に曰く、建稲種命駿河の海にてミサゴ鳥を捕らむとて、あやまりて海に入らせ賜ひしを、ここにて聞賜ひし、故、此の命の祠を建たりしが、妙見寺の僧徒が祭詞を掌りしより、混一して稲種命の社とは称せず、専ら妙見の社とのみ人をもへり、その妙見菩薩は、大富村にありしを、ここにうつせる也ともいひ伝へて、大富村に本妙見という地ありとぞ、いつの頃の事にか定かならず、夫妙見菩薩の事は、七佛所説神呪経に、もと北辰の名なるよし見へたるを、むかし諸国に勅して祭らしめたまひき、摂津国能勢郡伊勢国山田郡の妙見の類、今猶多くこの地にも祭りたりしを、仏徒本地垂迹といふ事をたててより、妙見菩薩建稲種命の本地といひならはししなり、天正三年の焼失に社記等うせて伝説定かならず、社の上なる山に奥院と称するありて、府志に、当社開闢之地而有岩窟、其深二間許、其内有小祠、此亦稲種命也、又岩上有岩窟、深八九尺許、常湧出清泉、凡当社神饌、大概以此水調之、称御■水、と見へたり、一ノ鳥居は社頭より十町ばかり南の方、西尾村の地界にありしが、慶長年中焼失して今はなし、或は日本武尊の現哉とのたまひし地は、ここにあらず、隣村西尾の戌亥の方の山に古跡ありて、今山王権現を祀り、古妙見と称すといふ、
(略)
境内神社 津島社 祭神 素盞雄尊
事代主社 祭神 事代主命
大國社 祭神 大国主命
三峯社 祭神 日本武尊
双殿社 祭神 迦具土之神 菅原道真 天照大御神 市寸岐島命 大山祇命 伊邪那岐命

 

結局孫引きで『尾張志』も引用してしまいました……。
本当は奥宮まで行くといいんでしょうけれども、冬の最中にはちょっと……つるってなると……。

 

それでは名古屋に戻りましょうかね〜。

「尾張猿田彦神社」(一宮市)〜高速初詣その4〜

1/7。

「酒見神社」の参拝を終えて、最終目的地に行く前にまだ時間があったもので、一宮の神社をいろいろ検索してみて、尾張猿田彦神社へ。

 

◯こちら===>>>

www.sarutahiko-jinjya.net

 

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えっと……外観の写真と、御朱印しかありません……。

木曽川からほど近い住宅街に突然出現する感じで、そこまでの道が結構な狭隘さ……駐車場は広かったので安心。

参拝客が多かったので、あちこち写真は遠慮しました。

松の内だからか、お祓いもしていただいて、何だか恐縮……。

 

それで、いろいろ調べてみようと思ったのですが、↑の神社のHPを読んでいただくのが一番だと思います。

もう完全に郷土史の範疇で、しかもこちらの神社は、一宮市といいながら合併前は尾西というところでしたので、一宮市史的なものを探っても記事は見つからず……尾西の歴史となると、国会図書館デジタルコレクションでは発見できませんで、こりゃ本気になるなら県図書館か市図書館だな……ということで。

面白そうな歴史ではあるのですが、時間が足りませぬ……機会があれば、頑張ってみたいと思います(最近そういうのが多いな……ちょっと妄想力を、BABYMETALさんとかさくら学院さんに吸われている感じです)。

 

もうちょっと続きますよ〜(もう九月だけどな)。

「酒見神社」(補)

あ、テキストばかりですので、お暇な方だけ。

 

前回、

 

◯こちら===>>>

「酒見神社」(一宮市)〜高速初詣その4〜 - べにーのGinger Booker Club

 

↑「酒見神社」の記事を書きましたが、その中で『文徳天皇実録』に触れておきながら引用していませんでしたので。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 六国史. 巻八

 

↑『六国史』という全集から『文徳天皇実録』。

神社の由緒で触れられていた年代を探してみると、81コマでした(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える/返り点等は省略した箇所あり)。

 

「◯辛亥、造酒司酒甕神、従五位下大邑刀自、小邑刀自等、並預春秋祭」

 

神社の由緒を改めて見てみますと、

 

「第五十五代文徳天皇斎衛三年九月(紀元一五一四年)当村は上質の米が取れる事から遣唐使でもあったと言われる大邑刀自、小邑刀自二人の酒造師が皇太神宮より大酒甕二個を携帯され当宮山に遣わされ伊勢の翌年の 祭に供える酒を造らしめ給うた、と文徳録にあります、」

 

……あれ、何か内容が一致しているのかしていないのか……。

『文徳実録』の注によれば、

 

「◯造酒司酒甕神、神名式に載せず大邑刀自、小邑刀自、次邑刀自神の三座にて大酒壺を雛形とす此酒壺の事績古事談に見ゆ」

 

とあります……『古事談』も見なきゃいけないですか……いずれの宿題ということにしていただいて……。

神社の由緒とのずれも置いておいて、そういえばご祭神の「酒弥豆男命(さかみづおのみこと)、酒弥豆女命(さかみづめのみこと)」にも触れていないな、とまた思いまして、

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 上編

 

↑『神社覈録』でさらっと見てみました。

56コマです。

 

造酒司坐神六座 大四座小二座
造酒司は美幾乃都加佐  また佐氣乃都加佐  と訓べし、
(略)
酒殿神社二座 並小
(略)
酒彌豆男神
酒彌豆女神
(略)◯祭神明か也 ◯神皇実録に、造酒司坐神、黒御酒白御酒■腹作満奉饗也  酒彌豆女神、黒御酒作神  酒彌豆女神、白御酒作神  件二神根倉神子也、大年神苗裔大土祖孫也  
連胤按るに、神楽歌の中に、酒殿の歌といふあり、こはもと酒を醸す時に、謡へる歌なるが、竟に神楽歌ともなれるならん、酒は清浄潔白に製するは更にて、酔てはかなてうちたはるるまでになるものなれば、神にささけいさむるにも、此歌を加へて謡ひ上げたるが、後世まで佳例とはなりしなるべし、歌は爰に要なければ挙ず、(略)」

 

↑「酒彌豆女神」が二つ並んでいますが、多分前の方が「酒彌豆男神」の誤記ではないかと思います。

ついでに、

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 特選神名牒

 

↑『特選神名牒』も見ておきましょう。

40コマです。

 

酒殿神社二座 並小
祭神 酒彌豆男神
酒彌豆女神
今按姓氏録に酒部公大足彦忍代別天皇皇子神櫛別命三世孫足彦大兄玉之後也大鷦鷯天皇御代従韓国参来人兄曾々保利弟曾曾保利二人天皇勅有何才白有造酒之才令造御酒於是賜麻呂号酒看都子賜山鹿比咩号酒看都女因以酒看都爲氏とあるにて、酒彌豆男神は酒部公麻呂、酒彌豆女神は山鹿比咩なること明けし(略)」

 

……うん、『神社覈録』と『特選神名牒』の解釈が違っていることは往々にありますし、『新撰姓氏録』をそのまま信用するのもいかがなものかとは思いますが……いろいろな説がある、としておきましょうか(妄想するには材料が足りませんもので……)。

尾張国神社考』(原題:「尾張神名帳集説本之訂考」、津田正生、ブックショップ「マイタウン」発行)の41ページ、

 

従一位酒見神社名神 神戸村三輪山神明とよぶ杜是也。世俗は北大門神明とも呼。社家伊藤氏
[正生考]此みやしろ、中古は一の宮村に属たり。後世鎌倉の末歟、または室町の末歟に、神戸邑に属けりとおほしく、集説云[皇字沙汰文云]尾張国酒見御厨[度会延経案]酒見は酒美豆之略語。而外宮酒殿座宇賀乃咩命也[天野信景曰]いま神明之社境古大甕存焉、実古代之賜也[正生考]酒見神社は戦国に一旦廃れて、北大門の神明とのみ呼たりとおほしく然るに天野翁の集説本以後、ふたたび酒見明神の社号にかへり給ふ成けらし[又案に]此杜の辺を宮山とよび、川を宮川と呼るは三輪山三輪川の転聲なるべし。中古の時此川水をもて神人等酒を醸なして真清田の神社竝びに大神、赤見、於保、国府宮の諸社に神酒を備るをもて、酒見の神を斎ひ奉るものにこそ。」

 

書名を見ていただけばわかりますが、津田翁の『尾張神名帳集説本之訂考』は、天野信景翁の『尾張神名帳集説』という本に対する訂正や考えを書いたものなので、

 

「酒見神社は戦国に一旦廃れて、北大門の神明とのみ呼たりとおほしく然るに天野翁の集説本以後、ふたたび酒見明神の社号にかへり給ふ成けらし」

 

というようなツッコミが入ります(天野信景翁は博覧狂記ではありましたが、その書かれたものが全て正しいわけでもなく、ということですね)。

同じ津田翁の『尾張国地名考』でも、「神戸村」の記事で似たような内容が書かれています。

ところで、記紀神話でいえば、神酒で有名なのは、

 

◯こちら===>>>

「大神神社」(続)摂社→「狭井神社」〜奈良・京都めぐり〜 - べにーのGinger Booker Club

 

↑奈良の「大神神社」の摂社に祀られている「高橋活日命」ですね。

日本書紀』(岩波文庫)の引用を再掲しますと、「崇神紀八年条」に、

 

「八年の夏四月の庚子の朔乙卯に、高橋邑の人活日を以て、大神の掌酒(略)とす。
冬十二月の丙申の乙卯に、天皇大田田根子を以て、大神を祭らしむ。是の日に、活日自ら神酒(みわ)を挙げて、天皇に献る。仍りて歌して曰はく、
此の神酒(みき)は 我が神酒ならず 倭成す 大物主の 醸みし神酒 幾久 幾久
如此歌して、神宮に宴す。即ち宴竟りて、諸大夫等歌して曰はく、
味酒(うまさけ) 三輪の殿の 朝門にも 出でて行かな 三輪の殿門を
茲に、天皇歌して曰はく、
味酒 三輪の殿の 朝門にも 押し開かね 三輪の殿門を
即ち神宮の門を開きて、幸行す。所謂大田田根子は、今の三輪君等が始祖なり。」

 

という記事があります。

酒の起源、というのはそれこそ人類の文化文明と等しくなるようなものでしょうから、「高橋活日命」が日本における造酒の元祖とはいっても、「より上手い、より美味い酒を造った」という意味ではないでしょうか。

で、もちろん「倭姫命」が「天照大神」と一緒に遷幸するのよりも前の逸話です。

そう考えると、「酒見神社」、近くに「大神神社」もあったりするので、奈良「大神神社」の摂社「活日神社」のような存在だったのかもしれませんね。

 

 

 

 

いや、妄想するのが面倒だとか、そういうわけではないですよ……。

 

 

 

もうちょっと勉強します……ジカンガアレバ……。 

近況

8/29〜30と、盆休みをとって、大阪〜京都へ行ってまいりました。

メインは銀キツネ祭りだったのですが、大阪一泊した後、のんびりぶらりと昼過ぎまで巡ってみよう、ということで。

まず、ホテルから近くの露天神社へ。

 

◯こちら===>>>

「露天神社」〜大阪巡り(続) - べにーのGinger Booker Club

 

本当は「住吉大社」か「四天王寺」に行こうと思ったんですが、体が思いの外根性なしで……起きられず……。

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あれ、お初・徳兵衛ってこんな感じでしたっけ……。

 

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なんか、球がくるくる回っていましたよ。

 

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社殿は修復中〜。

どこも平成の(ラストイヤーかもしれませんが)大修復なのですねぇ。

 

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こんなキャラもいたかな……。

 

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御朱印

あれ、下の方が切れていた……申し訳ないです。

 

続いて、「蓮華王院(三十三間堂)」

 

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京都駅から歩いたもので、南大門から入る、と。

「養源院」とか華麗にスルー(申し訳ない……)。

 

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逆光で……。

 

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御朱印

「蓮華王院」大好きなんですが、子供の頃の記憶と「二十八部衆」の置かれている場所が違っているんですよね……裏に置いてませんでしたっけ?

外国からの観光客も多く(平日でしたので、ぎゅうぎゅう詰めではありませんでした)、西洋系の女性が御朱印(書き置き)をいただいていたのがちょっと印象的でした。

あとは、修学旅行生が元気で……羨ましい(?)。

中学生かなぁ……高校生のときは、遠足みたいな感じで嵐山に行き、◯◯◯を飲み、帰りに腹が痛くなるというバチが当たった記憶があります……。

「蓮華王院」に関しては、私が何か書くようなこともなく、いろんなところで説明されていますので、各自ご確認を。

 

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「蓮華王院」をあとに、「豊国神社」まで歩く途中の、国立京都博物館裏門。

いい……入ったら何時間か出てこられなくなりそうだったので、スルーしましたよ。

 

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「豊国神社」は、また別で書きましょうかね。

この四日くらい前に、名古屋の「豊国神社」に行っており、今度は大阪城の「豊国神社」でコンプリート、でしょうか(大阪にいたんだから行ってこいって話ですけれど……)。

 

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そして、京都と言ったら宇治、宇治と言ったら萬福寺です!

 

◯こちら===>>>

「黄檗山萬福寺」〜奈良・京都めぐり〜 - べにーのGinger Booker Club

「黄檗山萬福寺」(補) - べにーのGinger Booker Club

 

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いやあ、いい。

天気が不安定だったせいか、涼しげな風が吹き抜けて、絵馬のカラコロなんて音もして、いい空間です。

 

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御朱印

しまった……前回と同じものをいただいてしまった……「萬福寺」では5種類の御朱印がいただけます(全部、と言うだけの根性はなかった……)。

 

ちょっと途切れ途切れではありますが、神社仏閣巡り、続けています。

本当は北陸とか行きたいんですけれどね……なかなか……。

 

次回は、「高速初詣その4」に戻ります……もう九月ですね(さすがに筆が遅い……が、ネットの遅さとBABYMETALさんとさくら学院さんのせいってことにしておきましょう……)。