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神社仏閣ラブ(弛め)

「伊勢山皇大神宮」(補)

さて。

 

◯こちら===>>>

横浜市史稿. 神社編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

ええそうです、『横浜市史稿』です今回も(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

46ページです。

 

「一 皇大神宮
(略)
創建の年代不詳。元は久良岐郡戸部村伊勢山、今の花咲町四・五丁目と、戸部町四丁目の境界辺にあつた丘陵の上に鎮座したが、明治三年、本県権知事井関盛艮告諭を発して、当宮を新興横浜の総鎮守と定め 当時届出の際、皇大神宮と書したるため、特に大の字を用ひ、太字を使用せず。 四月十四日を以て、今の境内に奉遷した。(略)」

 

おっと、結構古くからあるのかと思いましたが、明治になって遷座されたようで。

 

「同年十二月、更に圏内の宗社と定められた。次いで新殿造営の工を起し、翌四年四月十五日成功、正遷宮執行。同年七月布告の郷社定則に因り、郷社兼社と為り、同年九月五日、官国弊社等外別格に定められた。同年十月十八日、英照皇太后宮御名代 松波資之。 社参。同六年十二月、一郷一社の制規に因り、兼社廃止。同七年一月、諸設備を完了し、境内に伊勢山碑を建設。同八年、県社に列せられた。同十五年、大谷嘉兵衛・同幸兵衛・茂木惣兵衛・箕田長二郎・近藤良薫等境内に灯明台を建設して奉納。同二十二年六月、一の鳥居を改築して注連縄となす。同二十三年六月二十二日、能舞台を建設。同二十七年十二月、同上観覧席及び第一社務所建設。大正四年、大正天皇御大礼記念の為め大鳥居改造。同十二年九月一日、不幸大震火災に罹り、本殿・拝殿を始めとして末社社務所以下附属建設物の殆どを倒潰して灰燼に帰した。
祭神は天照大御神
(略)
末社 二ヶ所
杵築宮 合殿 須賀宮 住吉宮  鹿島宮 合殿香取社
(略)
境内神社は左の如くである。
杵築宮。祭神は豊受大神・須佐男命・大国主命・底筒男神・中筒男神・上筒男神の六柱である。豊受大神は明治の初年、国産の生糸及び蠶種の守護神として忌殿に奉祀、後当社殿に合祀。同年五月に仮社殿造立。六月五日、始めて祭典を行ひ、爾後甲子の日を以て祭日と改む。又同五日より十一日まで須賀宮(相殿)の祭事を行ひ、同月二十九日、住吉宮(相殿)の祭典を執行した。同十四年十月十八日、新殿改築の工を起して、十一月三日、上棟式を挙げ、翌十五年一月二十三日落成して、臨時祭を行つた。同十四年十月二十四日、高島町にあつた大鳥神社を移転合祀し、十一月酉の日に神事を行ひ、又真金町に遥拝所を儲けた。其後、大鳥神社だけ真金町の同所に移したと云ふ。同十五年六月十四日、須賀宮祭典に始めて神輿の渡御を行つた。同十七年九月十五日、暴風雨の為め社殿頓倒し、次で更に復興を遂げた。大正十二年九月一日、大震火災に罹つて焼失。昭和三年四月、本宮の仮社殿を移して、当宮の仮殿とした。(略)
往時は村内延命寺の進退する所であつたが、明治維新神仏分離後は、本県で直接管理される事となつた。」

 

おお、今回の横浜ぶらりで出会った神社がいろいろと……む……境内社、「杵築宮」はありますが、「大神神社」ではなく「鹿島宮」になってますね……。

どうしたことでしょう……どこかで見落としたのかな……。

「鹿島」「香取」はどちらもご存知の通り、国譲りに活躍したという点では皇室礼賛に引っかかることはなさそうですし、軍神としても数百年にわたる信仰……明治新政府的に問題があるようには思えないので、神仏分離は関係なさそうですけれども……そこに「大神神社」が祀られている、というのは、ちょっと違和感……ううむ……。

 

「(略)

史料

(略)
[新編武蔵風土記稿 久良岐郡戸部村の条]
太神宮。除地三畝歩許。村内延命寺持。

[現社司龍山親祇氏談]
此伊勢山は、元野毛山と申したが、御宮を建てたので、伊勢山となつたのでありました。此宮の御遷宮当時の事を申し上げあmせう。私は丁度その時は十七歳で、羽衣町の弁天社の社掌と云ふ役目でありました。その当時は面白いことには、真言宗の僧侶が神職に早替りをする者が沢山に出来ました。最も旧来よりの神官も神奈川・川崎など幾人かありましたが、僅かで、多くは復職の者でありました。私なども復職と云ふ名義で、神官になつたのでした。其故、祭神など心得て居る者は殆ど無いと云ふ有様で、伊勢山の御遷宮の時なども、其祭礼には大分困つたものでした。旧来からの神職は、おのづと復職の者を軽蔑すると云ふ風でありましたから、伊勢山の社掌に誰を命ずるかに就ては、中々県でも相当苦心したさうでした。處がはからずも十七歳の私に其白羽の矢が立つたのでした。私の父は当時元町の名主を勤めて居りましたので、父が御請けをして参りまして、非常に喜んで、大に奮励せよと申して、其祝として黄金作の大小を求めて私に呉れました。早速、御請けをした處、県からはそれはそれは、中々やかましい御命令で、最も清浄な場所で三十日間斎戒沐浴しろと云ふ事で、謹んで行つて居りました。いよいよ其当日になると、太陽と同時に祭典が行はれる。私は白の狩衣に著替へ、出迎の者に護衛されて、行列を作り、羽衣町から伊勢山へと乗込んで参りますると、太田の陣屋からは兵士が、洋服の袖に錦の小旗を附け、大小を洋服に差して、玉垣の周囲を警衛して居る。石段の處には野毛町・戸部町の名主が麻社裃で蓆の上に平伏して居るといふ按配、県庁の御役人は、県令は六位の服で狩衣を著し、其他の者は、白羽二重の服装に、皆烏帽子直垂に大小を帯び、それぞれ着席して、最も荘厳に御遷座の御儀が行はれました。其時、私の読みました祝詞は、中々県令から賞められましたが、之について面白い事があります。素より私は僅か十七歳の若輩で、祝詞など自分で書く力もありませんので、非常に困りましたから、藤沢に医者として居る文菊と云ふ人があつて、此人は中々の国学者であるので、幸ひと種々教へを受けて出来たものでした。其祝詞を県令へ進達を願うた處、之は上出来だと申されたのででした。此時の祭典は、開港の後から大正の今日に至る迄、是程の盛大な祭典は後にも先にもない位の祭典でありました。県庁からは賑やかにやれと云ふ命令であるから、名主から組頭や町役人を大勢集めて、他町に劣らぬ様にとの厳命を下すので、成るべく金持の家へは、娘を金棒引にだせと割当てるので、何百両と云ふ大金をかけて、著物をこしらへると云ふ風に、中々各自に競うてやったもので、中には何んとか奇抜な事をして見たいと言つて、白縮緬を田の泥に埋めて、取出して洗つて見た處が面白い雲形が染付られたなどと競争が出たものでした。私の妻なども其時、金棒引となつたなど今でも一つ話でありました。それから県庁の役人は、どんな下役の者迄も、白羽二重の烏帽子直垂など自分で調作した物で、中々大掛りのものでありました。只今の鳥居の側にあります手水鉢を見ても、当時の張込み方がよくわかりますのは、あの大きな手水鉢は、県庁に勤めて居りました駈使と云ふ使丁一同が奉献した物で、大変な費用であり、しかも人手を借らずに、自分達が此處迄運搬したと云ふ熱心さで、其為めに手水鉢の表面に大きな査の字を切付けてあるのだと聞きました。」

 

↑この龍山親祇という人物は、遷座当時に神職についた方ですが、神仏分離などに関してのなかなか興味深いお話が書かれています。

まあ、何しろ神仏混淆時代は、神主さんは僧侶の下みたいな位置付けでしたから、神仏分離に乗じて勢い大きな態度になっちゃうのも……そして、真言宗のお坊さんが神職に早変わりというのもまた……基本的に仏教への風当たりが強かったので……人間ドラマ、です。

 

「[横濱沿革誌]
「四月十四日、皇太神宮ヲ野毛山ニ遷座シ、伊勢山ト改称シ、横濱惣鎮守ト定ム。当日及翌日共ニ大祭ヲ挙行ス。横濱各町ヨリ山車十五本、手踊二十餘台、付属地走道化・踊・花駕籠・引物等、各町競争シテ華美ヲ盡シタリ。当日県庁 当時裁判所ト云フ。 東ニ桟敷ヲ仮設シ、各国公使・領事ヲ招待シ、知事以下皆縦覧ス。各町順次ニ山車・手踊等練込、技芸ヲ演ズ。本町五ヶ町、堺町何レモ新趣向手踊引抜トモ二回ヅツ、其他ハ一回ヅツ、其間ニ道化踊ヲ演ズ。当日ハ本町・弁天通・馬車道通・吉田町・野毛町・伊勢山ノ間、昼夜見物人雑沓、開港以来ノ賑ヒナリ。此祭典ノ費用凡金六萬餘円ナリシト。当時横濱ノ盛況ヲ推知スルニ足ルベシ。」

 

開港以来の大盛り上がり、というのはなかなかすごいですね。

伊勢山、とか「伊勢」のつく地名って日本中にあると思うのですが、やはり「天照大御神」を勧請してから地名が変化したのでしょうか。

「お伊勢参り」が流行してから、「伊勢講」も大流行り、となると「伊勢」のつく地名の起源はそれほど古くないことが多いのかもしれないですね。

野毛山のままでよかったのかどうかはよくわかりませんけれども……。

それにしても横浜は、やっぱり「開港」と「関東大震災」が何らかの転機なんですねぇ……東海地方に住んでいると、その辺りが皮膚感覚としてわからないもので……勉強勉強。