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ぶらっと名古屋の北西をうろうろしており、そういえばと思い立ってお久しぶりねの「山田天満宮」へ。
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「山田天満宮(北区)」 - べにーのGinger Booker Club
↑以前の記事です。
鳥居。
鷽さん。
拝殿。
狛犬さ……ん。
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「上野天満宮」(再)(名古屋市千種区) - べにーのGinger Booker Club
↑デジャブかと思ったら、別の天満宮でした。
名古屋三天神ではこういうの流行ってるのか……。
本殿を横手から。
……ご苦労様です。
「金神社」。
よりそい石。
九星……石とでもいうのか。
方位除けの神様でもいらっしゃるから、ですね。
狛牛。
狛筆……ではなく、筆塚です。
あまりにもあれだったので、改めて撮影。
ちょっと置ける場所が小さいので、それほど殺到している感じではないのが救いなのか、むしろたくさんあったほうが「映え」るのか……おじさんよくわかりません。
孤高の黒べこ。
御朱印。
さて、前回の記事や公式HPなどを見ていただければ、神社の由緒はよくわかるのではないか、と思います。
結構新しい(江戸時代、尾張二代藩主「徳川光友」が勧請している)のです。
その割に、『尾張名所図会』とか『尾張志』に掲載されていないのは何故なのか、と疑問に思いました。
前回の記事で、「金神社」について『尾張名所図会』を引用してみましたが、あれ、多分違う神社です(以前、瀬戸の「深川神社」へ行ったとき、「金神社」の御朱印を見た神職さんが「あら、あそこ、人いらっしゃったの?」とおっしゃったので、「北区のほうです」とお答えしたら、「あ、違うところね」、といった会話を交わした記憶がありましたもので……)。
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↑津田正生翁の『尾張国地名考』によれば(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)、
「山田村
地名正字なり中古山田郡あり一郡の総名此里より起るなるべし
【正生謹考】延喜式の刊本山田を久しく小口に誤る二字共に板本の缼たる也本国帳は古来写本なれば延喜式に任せて又小口と写誤るは並に誤りなり(略)山田天神の宮は常高院(真言宗)の東にあり往昔より此村の本居とす(摂社八幡浅間あり)然るに戦国以来社伝をうしなひていま菅原天神と仰ぐは甚誤れり蓋し祭神は天の香語山命歟猶訂正べし」(94コマ)
とありまして、どうもこれが「山田天満宮」のことではないかと思うのですが、津田翁も結構独善偏向の多いところがあるので、どこまで信頼したものやら、という感じです。
「常光院」というお寺は「山田天満宮」の西隣に確かにありますし(真言宗です)。
であれば、津田翁といえども、「徳川光友」が勧請した、という由来について多少は書いても良さそうな氣がするんですけれども、それがない。
神仏分離の煽りをくらったわけでもなさそうですし。
単に津田翁が知らなかっただけなのか(尾張国に住んで、博覧狂記の天野信景翁にツッコミいれようなんて人が、知らないってことはなさそうですけれども)。
うーん……。
あと、教育委員会の案内板には、
「昭和58年、同区山田町四丁目地内にあった金神社(大将の宮)を合祀した。」
↑と書かれておりまして、「金神社」が「大将の宮」と呼ばれていたらしいことがわかります。
御祭神は、「恵比寿神・大国主命(大黒天)・金山彦神・岐神」なんですが……ちょっと「大将の宮」ってあやしいなぁと。
郷土史家の方々がもっと詳しく調べていらっしゃると思うので、何か由来はあるんだと思いますが、「大将の宮」って「大将軍宮」っぽいですよねぇ……ということで日本版陰陽道、「鬼門封じ」、しかも神紋が小槌であきらかに「恵比寿神」「大国主命」が主祭神らしいのに名前が「金神社」って、こりゃ元々「金神」だったんじゃないかな……「艮の金神」……あ、大本になっちゃう……。
まあ、ふわっとした妄想を重ねているだけですので、ご容赦を。
いいお天気でした。