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「敢國神社」から足をちらっと伸ばしまして、どこまで伸ばしたかというとお隣滋賀県、甲賀市は「油日神社」。
○こちら===>>>
↑公式HPです。
いや、『手裏剣戦隊ニンニンジャー』の映画のロケ地になっていて、その聖地巡礼……というわけでもないのですよ。
実際に行ってみると、なかなか鄙びた道を走り抜け、住宅地の奥まったところに突如出現するので、ちょっと驚きます(ここでよかったのか……と何度か確認しました)。
正面鳥居。
鳥居。
拝殿に関する案内板。
「桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、妻入り、正面及び背面軒唐破風付 檜皮葺 桃山時代
油日神社の草創は明らかではないが、三代実録(元慶元年=八七七年)には、「油日神」の記述が見られるので、この頃にはすでに神社としての形態を持っていたことがわかる。
建物は建築様式、技法よりみて桃山時代の建立と考えられる。昭和三十七年の修理の際には格子戸と縁廻りが復原整備された。
拝殿は四方に格子戸を建て縁を廻し、内部は床拭板張りに棹縁天井とする。柱上には舟肘木を置いて軒桁を受け、二軒疎垂木とする。
この拝殿は軒唐破風をつけて正面を蟇股で飾り、簡素な中にも軽快で華やかさを加えた優れた建物である。(以下略)」
ううむ、建築様式に関する知識がほとんどないのですが、なかなか特徴的なようで。
こちらは本殿の案内板。
「(略)
この本殿は、明応二年(一四九三)に建立されたもので、正面三間、奥行二間の内陣(身舎)の前面に葺き降ろしの一間通り(庇)を取り込み外陣とし、さらに正面中央間に向拝(孫庇)を付ける。周囲三方には刎高欄付き切目縁を廻し、後端に脇障子を付け、正面に浜床と階段を設ける。
内陣は奥行二間を前後二室に区切る。丸柱を立て、正面と東側面前寄りの間は板扉で、それら以外は板壁とする。床は内陣後室が最も高く、天井は格縁天井である。外陣は大面取り角柱、菱格子戸引き違いの開放的な意匠で、床は低く、天井は化粧屋根裏とする。組物は平三斗で、外陣と向拝の桁行両端を連三斗とし、向拝には手挟を付け、中備えは外陣正面と向拝に蟇股を入れる。脇障子には舞楽を舞う珍しい薄肉彫刻を入れる。
この本殿は外陣を前室とする三間社流造で、動植物の透し彫りの蟇股などの意匠に室町時代後期の特徴がよく表されている。また、建立と後世修理の棟札十数枚が附指定され、その経緯を知ることができることも貴重である。(以下略)」
ふふん、さっぱりわかんない。
というわけで、参道を抜けた先でまず遭遇する楼門。
かっこいい……。
渋い……。
で、一気に拝殿正面。
格子を透かして、ちょっとだけ本殿。
舞殿……かと思ったのですが、あれ、こっちが拝殿かな。
拝殿向かって左側(だったと思います)にある摂社。
向かって左側より、社殿。
もうちょっと奥に回ったら、流造がよくわかる本殿が見えました。
もうちょっと手前から。
さらに手前から。
うーん、写真と、実際に見るのとは違いますね……実物は、いろいろな角度から見ていて飽きない感じがしました。
もっと、ぐっと下がってみました。
露出やらの関係で、渋みが増している感じ。
これが先ほどの舞殿の遠景。
舞殿の正面。
「鎮護」の額が……あれ、やっぱりこっちが拝殿かな。
尾張造っぽさのある社殿配置です。
うーん……何か、こう、気持ちいい……。
向かって右側からの社殿。
境内を右手奥の方へいきますと、まず神馬像。
案内板。
消えかけて……何とか読んでみます。
「御祭神 油日神
東相殿 罔象女神
西相殿 猿田彦神
御神徳 太古油日嶽◼︎◼︎◼︎坐シ 皇国鎮護ノ御聖◼︎◼︎◼︎トシテ朝野ノ崇敬格別ナリ 荒魂ハ無雙ノ勝軍神トシテ武門ノ尊崇ヲ◼︎メ給ヒ和魂ハ農耕ノ水神トシテ◼︎◼︎◼︎近ニ光◼︎シ給フ(以下略)」
ふう……。
摂社……なんですが、案内はあったかな……。
ちらりと覗く本殿。
右手奥にずんずん進んでいくと、突然登場、経堂(だと思いましたが……神輿庫、という感じではなかったと思います……)。
境内、拝殿向かって右手から楼門方向。
遠景、いやいい写真。
楼門付近から、左手の回廊。
遠景、いやいい写真。
楼門付近から、右手の回廊。
楼門の組み木。
楼門正面。
楼門を向かって左手に行きますと、鳥居。
鐘楼。
神社正面の道。
このカーブと、この灯篭の連続性。
参道から楼門。
正面鳥居の扁額。
もう一回鳥居。
駐車場の横にあった池。
そこからの楼門。
楼門。
いや、もう、様子が素晴らしい……季節ごとに行ってみたいなぁ……次は、もうちょっと春めいてから(といいながら、もうすぐ一年経ちますが)。
御朱印は、いただけるのかもしれないですが、いただいておりません……。