さて。
BABYMETALばかり追いかけているわけではないのですが、仕事やら何やら処理しなければいけないこともあり、何より「日吉大社」の情報が膨大で……どうしても天台宗とは切り離せませんし……そうなるともう、日本仏教史をどうすんだって勢いになってしまうので……ちょっと筆が進んでおりません。
というわけで、しばらくテキストだらけの更新が続きますので、苦手な方はしばらくほったらかしといてくださいませ。
まずは、
○こちら===>>>
↑『神社覈録』より(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
83コマです。
「日吉神社 名神大
日吉は比叡と訓べし ○祭神大山咋神 ○比叡山麓坂本村に在す ○式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、(中略)近江国日吉神社一座、○江家次第、(新年穀奉幣)日吉、(近代被加五位) 廿二社注式云、(下八社)日吉、(幣■一前) ○拾芥抄云、卅番神、大比叡、十七日
古事記、大山咋神亦名山末之大主神、(大年神娶天知迦流美豆比売而生)此神坐近淡海国之日枝山、亦坐葛野松之尾、用鳴鏑神者也、(旧事紀も同じ) 今山王七社と称す、所謂大宮、(大己貴命、称大比叡)、二宮、(大山咋神、称小比叡、卅番神、十八日)、三宮、(事代主命)聖真子、(天日方奇日方神、三十番神、十九日)、八王子、(建御名方命、卅番神、廿一日)、客人、(伊弉冊尊、卅番神、廿日)、十禅師、(瓊瓊杵尊)以上七社、(諸社根元記祭神異説あり) なほ首巻二十二社の条考合すべし、抑当社之濫觴は、古事記、旧事紀の文にて明なり、考証に、釈最澄入唐、帰朝創延暦寺於比叡山擬、異邦之天台山、亦以天台有山王祠、因日吉神社称山王、と云るが如く、宣長も後世に日吉七社と申すは、古書に見えぬ事なり、其はかの最澄が、延暦寺を建る時よりの所為と見えたり云々と云る尤も然り、されば前に七社の社号神号を挙たるも、此に預らぬ事といふべけれども、世上の流弊に日吉七社と云へば博覧の為なり、尚当社の事を書たる物多しといへども、皆延暦寺草創以後の事なれば、是を■筆せず(以下略)」
「日吉大社」では、「二十一社」が信仰の中心となっており、そのうち主要な七社を「山王七社」と呼んでいます、
「今山王七社と称す、所謂大宮、(大己貴命、称大比叡)、二宮、(大山咋神、称小比叡、卅番神、十八日)、三宮、(事代主命)聖真子、(天日方奇日方神、三十番神、十九日)、八王子、(建御名方命、卅番神、廿一日)、客人、(伊弉冊尊、卅番神、廿日)、十禅師、(瓊瓊杵尊)以上七社」
↑諸説あるようですが、一つの定型としてこの七柱が伝わっています。
系譜的には、「素盞嗚尊」から連なるものなのですが、そこに「伊弉冊尊」や「瓊瓊杵尊」を挿入している辺り、いろいろと意図を感じますね。
しかし、もともと比叡山の神といえば、
「大山咋神亦名山末之大主神、(大年神娶天知迦流美豆比売而生)此神坐近淡海国之日枝山、亦坐葛野松之尾、用鳴鏑神者也」
↑と『古事記』から引用されているように、「大山咋神」だったと考えられます。
それを、「伝教大師」が、
「かの最澄が、延暦寺を建る時よりの所為と見えたり云々と云る尤も然り」
↑「延暦寺」を創建する際に、鎮守として取り込み、そこからいろいろと拡大していったものと思われます。
何しろ、日本仏教界の最高峰、様々な高僧を輩出してきた「延暦寺」ですから、神道に対する影響も相当なものがあったのでしょう。
しかし、背景に何かあるんじゃないのか……とも思ったりしますが、「延暦寺」以前の比叡山の信仰体系が文書では(多分)残っていないので(『古事記』に残っているのがなかなかすごいことなのかもしれません)、妄想するしかないのですが。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 近江輿地志略 : 校定頭註
↑滋賀県といえば、『近江輿地志略』という素敵文書がありますので、こちらも……と思ったんですが、内容が激烈に膨大なので、ちょっと次回以降に……。