さて。
文字だらけですが、簡潔に。
まずは、
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桜山中学校のHPから引用させていただきましょう(有難や有難や)。
「善昌寺の境内にあったが、明治維新の際に神仏分離が行われ善昌寺から分離され、善昌寺の鎮守社として祭られるようになった。祭神は菊理姫命(くくりひめのみこと)で社殿は前方後円墳(大和時代後期)の後円部分に建てられた。ご神体はなく、昭和になって神剣として太刀一振りが奉納された。境内には「延宝八庚申」と刻まれた御手洗石や江戸時代のころ若者たちが力比べに使った力石が3個残っている。古観音廃寺跡から出土した奈良時代の鬼瓦を市の指定文化財として保存している。」
地元の歴史を調べたのでしょうねきっと(素晴らしい)。
どうも古墳があった、ということのようなので、昔から霊地だったのでしょう。
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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 5 愛知郡
↑『尾張志』の5巻「愛知郡」より引用してみます(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
10コマです。
「白山社
石仏村にあり 菊理媛命をまつるといへり 境内に観音堂及び石地蔵あり 堂内に長五尺余の石像の千手観音を安置す これ此村の号の本基■ 傍に寺ありて慈雲山善昌寺といふ むかしはいみしき伽藍の霊場なりしが乱世の放火にかかりて悉灰燼となり 唯基礎の巨石或は布目の古瓦などのみ境地に散在したりしを天正二甲戌冬の頃領主某大厦造営の事ありて此處の大石ともども運ばしめるる内に一巨石の地より生たる如きを掘得むとすれどもかつて動かざれば石工鎚をもて撃たりしかは石より光を放ち忽目くらみ悶絶して倒伏ぬ有司等をはしめ見るもの恐怯て石霊の恐をしる かくて此石工茫然として家に帰り遂に剃髪して慈雲と名付此石仏の傍に座をしめてあけくれ行ひ居り年頃をふるままに遠近の村民来集りて諸願を祈るに皆霊験を得たりと此等の縁起にいへり 按にこは上古に故縁ある神体石などにもやありけん かく霊異の厳なるは多く古社地にあり仏體に彫れるはやや後の事成へし兒社 山神社
同むらにあり」
↑これを読む限り、「善昌寺」は一旦廃絶寸前になったようですが、「白山社」は健在だったように読めます。
領主の何某が掘り返したのが古墳だとすると、出てきたのは石室、石棺なのかもしれません。
祟りそうですね。
石灯籠にあった「白山 山神 兒子」の文字の理由がわかりました(明治のときにぎゅっと集められたのではないかと思われます)。
続いて、
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↑『尾張国地名考』を見てみましょう。
72コマです。
「石仏村 (略)
村名石畑毛の転聲なるべし 【服部系図云】此村舊は御器所の支村也 往昔御器所村の境内に名倉原といふ荒野有り後世天正年間御器所に服部惣市郎善昌といふ仁あり 此原を開墾て住ぬ然るに其地に古き石仏のありけるより遂に村名とす 又曹洞宗善昌寺は善昌寺の仲子幼きより出家して鑑宗といへるが慶長十三年草堂一宇を建立して父の名を以て寺号に定め先祖の冥福を供養すと見ゆ 【瀧川弘美曰】石仏疑ふべし 今ある所は慶長中遷府の時に石工の刻むところなりと申されき(以下略)」
むむ……『尾張志』とは異なる伝承を伝えているようです。
石仏は新しく、「石畑毛(いしはたけ)」が訛ったのではないか、と。
「石畑」ならなんとなくわかりますけれど……石がごろごろしていた畑だった、と。
さてどれを信用したものか……個人的には、古墳があって、その石室か石棺を掘り出しちゃったので、供養のために聖地になった、という解釈が妥当(面白い)かな、と思います。
古墳の石がごろごろしていて「石畑」、そこから石室か石棺を掘り出しちゃったので、「石仏」にした。
なんとなくロマンが……ないですかそうですか。