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秋はあるのかないのか、まだほのかに暖かいので、出かけてきました三河方面。
「猿投神社」です。
○こちら===>>>
名古屋方面から向かう場合は、その名もずばり「猿投グリーンロード」という道が便利です。
「猿投神社
一、鎮座地 豊田市猿投町大城五番地
一、御祭神
相殿 景行天皇(第十二代)
垂仁天皇(第十一代)
一、創祀・沿革
創祀は社伝によれば、第十四代仲哀天皇元年(192年)勅願により現在の地に祀るとある。猿投山東峯に東宮、西峯に西宮を祀り、猿投三社大明神と崇敬され、平安時代に制定された延喜の制では延喜式内社に定められた。三河国国内神名帳に「正一位猿投大明神」と記載され「三河三宮」と称された。
神領は七七六石で、三河国の神社では最も多く、明治維新まで徳川幕府より附与された。
一、猿投祭りと棒の手
猿投祭りは、古来旧暦九月八日、九日の重陽の節句に行われたので「節句祭」と呼ばれ、三河、尾張、美濃三ヶ国一八六ヶ村は合宿をつくり、棒の手を奉納した。東照軍鑑によれば「天文二十三年(一五五四年)岩崎城主丹羽勘助氏次、猿投神社に奉納」とあり、現在も棒の手保存会により伝承され、秋の例祭に奉納されている。」
豊田市というのは、現在愛知県内で随一の面積を持つ市です。
人口も名古屋市に次いで2位。
合併で、周辺の西加茂郡・東加茂郡を吸収したためなんですが、もともとの豊田市(挙母町)以外はほとんど山です。
しかし、お金は持っています(何しろ、トヨタがありますから)。
政令指定都市の名古屋市としては、羨ましいんだか、そうでもないんだか……。
「猿投神社
山麓に本社、山上に東の宮、西の宮があり大碓命景行天皇・垂仁天皇を祀る西三河屈指の神域です。境内にはヒノキ・クロマツ・スギの大木があり東の宮一帯はツガの林やヤマザクラの大木もみられます。」
今日訪れるまで、「東の宮、西の宮」があることを知りませんでした……。
鳥居はあるのですが、ちょっと離れています。
鰹木の端に巴紋、というのが珍しいですが、これは一体なんなんでしょうか。
古くからある門、にしては江戸期の匂いがしませんし、もっと古いという感じでもなさそうですし。
建築様式的には総門ですか?
参道。
勇壮な神域ですね。
紅葉が今ひとつです……。
進んでいくと、神馬像。
ゆったりとした、懐の深い建物は……あれ、ここがもう拝殿ですか?
この拝殿が相当に大きくて、そのすぐ後ろに小さな拝殿のような建物が。
……これ、なんでしょうね……。
東海地方には「尾張造」という神社様式があります。
○こちら参照===>>>
生涯一設計士・佐々木繁の日々:雨処理ウォッチャーの目 2 … 雨処理に優れる「尾張造」と 雨は応急処置のままの「神明造」
↑の方のブログで画像を見ることができます。
一番前の拝殿が妻入というのは一致しています。
次の建物が「尾張造」にはないです。
その次は、「尾張造」では祭文殿ですが、「猿投神社」では中門のようです(参拝はこの中門から行います)。
中門の次の、妻入の建物はなんでしょうか……そして、その奥にも建物があるのでしょうか。
うーん……。
というわけで、困ったときのGoogleマップ。
これを見ると、中門の後ろの建物のさらに後ろに、平入の神明造っぽいものがありますので、こちらが本殿でしょうか。
それにしても拝殿に続く建物はなんでしょう……と思って 検索していたら、どうやらこの建物は「四方殿」だそうです。
○こちら===>>>
CiNii 論文 - 9416 猿投神社の四方殿と祭礼について(日本建築史:寺社(4),建築歴史・意匠,2012 年度大会(東海)学術講演会・建築デザイン発表会)
↑こんな論文がヒットしました(※閲覧は有料です)。
一部引用してみますと、
「猿投神社四方殿は、大祭の神事の際に本社・東宮・西宮の三社の神輿が御幸・遷御するための重要な施設として用いられている。構造形式は、丸柱4本立ての開放的な建物で、屋根は切妻造・妻入、周囲に縁を廻らす点に特徴がある。」
のだそうです。
中門。
もうちょっと離れた写真。
上で引用した論文に、各建物の建立年代が書かれており、
「本殿が明治十三年(1880)、中門・回廊が安政年間(1854〜60)、拝殿(切妻造・妻入・桁行五間・20尺・梁間三間・39尺6寸)が明治二十六年(1893)、四方殿・太鼓殿が安政三年(1856)、神輿殿が天明七年(1787)、総門が明治三十三(1900)、さらに昭和四十年(1965)に本殿を北に移して、中門と本殿の間に祝詞殿(昭和四十二年・1967)が新築された。」
ということで、中門の後ろにあるのは、一番新しい建物の祝詞殿のようです。
構造的に、追加されたものはありますが、「尾張造」を踏襲しているかのように思えますね。
中門の扁額は「正一位猿投大明神」です。
中門向かって右にあった、回廊の梁の上(構造的には蟇股でしょうか)には、猿の彫刻が。
回廊の建立年代から見て、権現造だと思います(元々素木だったのか、塗装がはげたのか……長野県系のものであれば、元々素木だったっぽいです)。
だから猿、というわけでもないんでしょうが。
あ、「猿投神社」だから猿、でもないと思います。
「左鎌奉納の由来
御祭神大碓命がこの地方を開拓された御神徳を慕い古来より左鎌を奉納して諸願成就を祈願する特殊信仰がある。言い伝えによれば、双生児の場合、一方が左遣いであり、大碓命が小碓命(日本武尊)と双生児であるので命が左遣いであられた縁によるとも、また災難を断ち切り、豊作・病気平癒等の祈願成就を祈ったともいわれるが、起源は定かでない。現在は職場交通安全を祈る会社関係の奉納が盛んである。」
鎌、というと農具の信仰でしょうか。
藪を切り開くイメージから、「開拓」と重なっているのでしょうか。
「金物」という意味で収められているなら、「大碓命」は金属関係の神様ということにもなります。
さてはて、民俗信仰まで手を伸ばさないとこのあたりはよくわかりませんね。
本殿向かって左手に境内摂社があります。
「熱田社」。
「塞神社」。
「八柱社・八幡社」。
「大國社」。
「御鍬社」。
向かって右手からの中門、祝詞殿。
後ろにちらっと本殿が写っています。
拝殿の右側にあるのが太鼓殿です。
そのほかに、
「厳島社(弁天社)」。
ちゃんと島ですね。
その左手には「御手洗乃瀧」があります。
滝には「不動明王」、というのも定番……なんでしたっけ。
……マムシが出るそうです。
お気をつけください。
「一、創祀、沿革
創祀は、社伝によれば仲哀天皇元年とあり、山麓の本社、東峯の東宮、西峯の西宮を総称し、猿投山社大明神と崇敬されて今日に及ぶ。神階は、三河国神名帳に正一位猿投大明神と記されている。社格は、延喜の制(九六七年)国幣の小社。明治の制(一八七二年)県社。
一宮制が行われるや三河三宮となる。
神領は、織豊時代より明治維新まで七七六石の朱印を与えられた。境内外に神宮寺が建てられ猿投白鳳寺を呼ばれ、明治元年まで神仏混淆の地であった。
二、御祭神
景行天皇(第十二代)
垂仁天皇(第十一代)
三、大祭
初午祭(旧暦二月初午の日)
例祭(十月第二土、日曜日)
四、棒の手(愛知県無形民俗文化財)
奉納の起源は不詳だが、天文二二年(一五五三年)岩崎城主(現日進町)丹羽勘助氏次公が村民に教え、熟達者が奉納したとある。最盛期には三河、尾張、美濃三国より一八六カ村より奉納があり、現在は愛知県無形民俗文化財に指定されている。(以下略)」
案内板の多い神社です。
さて、妄想は次回に〜。