べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「猿投神社」(妄)

さて。

まず、「猿投神社」の御祭神大碓命」についてのおさらいを。

 

古事記 (岩波文庫)

古事記 (岩波文庫)

 

 

古事記』での「大碓命」の書かれ方をまとめてみますと、

 

景行天皇伊那毘能大郎女(いなびのおおいらつめ)の間に生まれた(第二子)。

景行天皇は、三野国造の祖大根王の娘の姉妹が美しいので、大碓命を派遣して確認させた。大碓命は、姉妹を召し上げずに結婚してしまい、さらに偽物の女性を天皇のためと召し上げた(天皇はそれを知っている)。

景行天皇は、小碓命日本武尊)に、「汝の兄は、朝夕の会食に出てこない。汝が教え諭せ」と命じた。その後、5日経っても大碓命は出席しなかった。天皇小碓命に訊ねると、「明け方、厠に入る時を待ち伏せて捕まえ、手足をもいで、薦に包んで投げ捨てた」と答えた。

 

といった感じです。

 父に内緒で美人の姫を娶ってしまうやんちゃな皇子のようですが、「明け方、厠に入る時を待ち伏せて捕まえ、手足をもいで、薦に包んで投げ捨てた」というのはいくらなんでもやりすぎでしょう「日本武尊」。

 

一方、

 

日本書紀〈2〉 (岩波文庫)

日本書紀〈2〉 (岩波文庫)

 

 

日本書紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)

日本書紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)

 

 

日本書紀』では、

 

景行天皇と后の播磨稲日大郎女の間に男児が二人生まれる。双子として生まれたのを天皇はいぶかって、碓に向かって叫んだ。そのため、大碓・小碓と名付けられた。

景行天皇は、美濃国造の神骨の娘の姉妹が美しいというので、大碓命を遣わして確認させた。大碓命は姉妹と密通して復命しなかったので、天皇大碓命を恨んだ。

・(日本武尊が西征して熊襲等を討った後)天皇は「東国で荒ぶる神が多く、蝦夷が朝廷に背いて略奪している。 誰を遣わせて平定させるのが良いか」とおっしゃった。日本武尊は「私は先ごろ西方を征伐してきました。今回は大碓皇子が行うべきでしょう」とおっしゃった。このとき大碓皇子は驚いて、草の中に隠れていた。使者を遣わしてつれてこさせ、天皇はおっしゃった。「汝が望まないのに、強いて遣わせることはない。未だ賊に相対したわけでもないのに、何をそんなに恐れるのか」。そして、美濃に封じた。これが身毛津君、守君の二つの氏族の始祖である。

 

といった感じです。

古事記』のように殺されてはいませんが、皇子としては情けない姿を見せています。

父に召し出すはずの姉妹を自分のものにしちゃっている豪胆さとは裏腹ですね。

最終的に美濃国に追いやられたようです。

 というわけで、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 上編

 

↑より引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

418コマより。

 

狭投神社
狭投は佐奈気と訓べし○祭神大碓命、頭注○高橋庄狭投村狭投山に在す、私考略 例祭 月 日 ○頭注云、人皇十二代景行帝代一応時大碓命也、母播磨稲日大郎姫(以下略)

 

……大したことは書かれていませんでした。

ううむ。

次は、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾三郷土史料叢書. 第3編

 

↑に収録の『三河国古蹟考』より(21コマ)。

 

○狭投神社
△今在猿投村猿投大明神。
△社説ニ云狭投ノ神ハ。忍代別天皇ノ皇子大碓ノ皇子ナリ。五十二年登狭投山中蛇毒薨。四十二才。則葬山上、在峯之宮、号西ノ宮東ノ宮。
古事記中ノ巻四十四丁云大碓ノ命守ノ君大田ノ君島田ノ君之祖。
新撰姓氏録ニモ守ノ君牟義ノ公守ノ公等ヲ大碓ノ命ノ後ナリトアリ。
日本紀七ノ十四丁云、景行天皇四十年夏6月、東夷多叛云々、時ニ大碓ノ皇子愕然而逃隠草ノ中云々爰ニ天皇責白云々、因此遂封美濃国、仍如封地此身毛津(むげつ)ノ君、守ノ君二族之始祖也、(按ニ古事記ト異ナリ)トアリ、此社ハ美濃国堺ニアリ可考。
○皇胤紹運録一ノ十二丁云、大碓ノ皇子、母播磨稲日大郎姫、一ニ云稲日稚郎姫、天皇二年三月立之、五十二年五月薨ス身毛津ノ君、守ノ君、大田ノ君、島田ノ君等ノ祖。
神名帳頭注(卜部兼倶卿ノ撰)云、参河国賀茂郡猿投、人皇十二代景行帝第一ノ皇子大碓ノ命也、母播磨稲日大郎姫
○熱田ノ社鎮座紀ニ云、三河国猿投社ハ祭大碓命
○本居翁ノ古事記伝廿六ノ六丁ニ、此社ハ景行天皇ヲ祀ルトモ云、或ハ大碓ノ命を祀ルト云テ昔ヨリ碓(カラウス)ヲ忌ム■ヲ載タリ可考合。
○按ニ日本紀大碓皇子小碓尊一日同胞双生トアリ社説ニ大碓ノ皇子ヲ祀ルト云テ、今モ山上ニ両社アルヲ見レバ、モシクハ一社ハ小碓尊ヲ祀レルニハ非ルカ、二村山ヲ此猿投ナリト云フ説アリ、サルハ増基法師遠江ノ道ノ記ニ、ふたこ山ニテ詠ルトアル歌ニ、ふたむら山トアリ可考、コハ試ニイフノミナリ、サテ後ニ渡辺政香神主ノ二村山考ヲ見レバ猿投ナル由ニ云リ、ナホ予ガ三川國旧地考ニ委クイヘレバ可考合。
○三好本云、祭神大碓ノ皇子ノ命、又云度会延経首書、旧事紀ニ云、佐伯ノ命、参川ノ御使ノ連等ノ祖、今按旧事紀ノ引書ココニハ由ナキカ
○植田本云、古事記伊邪那岐伊邪那美二柱ノ御子頰那藝神アリ。今按ニ古事記伝廿六ノ六丁ニ狭投サナギト訓レタリ可考。又頰那藝ヲハツラナギト訓レタリ
○政香本ニ云、東海遊図絵云、古事記頰那藝アリ狭投ニ訓スモシ此神ナランカ。
(略)

 

また、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾三郷土史料叢書. 第6編

 

↑に収録の『参河國名所図会』にもほぼ同様の記述があります(334コマ)。

 

狭投神社
同村に坐、当社式社七社の其一なり、社領七百七十六石餘猿投一村不残神領にて守護使不入の地なり、例祭九月九日神主四家中條氏、三宅氏、二家武田なり、又神官四人 青山氏三宅氏勝原氏児島氏、社家八人 栗谷氏鈴木氏中村氏同氏鈴木氏同氏佐藤氏宮原氏、神子二人 住吉は三人なり、楽人二人なり、又本社の総検校職、神主三宅氏、山上東の宮神主武田氏武田氏の裔孫なりとぞ、神官二人 三宅氏近藤氏 社家四人 日下氏三宅氏藤江氏武田氏、又西の宮の神主三宅氏、神官一人 中條氏、社家一人 鈴木氏
三河雀に云、足利尊氏神職証文あり、又社僧十箇寺、三河雀には十六坊とあり、今按に中古は社僧十六坊ありしが今わづかに七院あり、七院の惣号を、猿投山白鳳寺と号す。七院は大智院、多聞院、普賢院、龍性院、覚性院、光明院、蓮蔵院なり、七院同格にて年臈を以て一老と称え上首とす、社僧仕一人あり、勝原氏と云、或説に天皇行幸、白鳳二年に祀る、故に白鳳寺と号すと云り。
池鯉鮒より北四里、挙母より三里、本社は山下に在、東の降の上に一社 山上迄五十丁、西の北山の上に一社。
祭神
社説に云、狭投の神は忍代別天皇皇子大碓ノ皇子なり、五十二年登狭投山中蛇毒薨 四十二歳、則葬山上、在峯之宮、西宮東之宮と云、又日本紀 七ノ十四丁 云、景行天皇四十年夏六月東夷多叛云々、大碓皇子愕然逃隠草中云々、爲天皇責曰云々、因此遂封美濃国此如封地此身毛津君二族之始祖也とあり、此社は美濃国の堺に在、可考。
本社は、中殿大碓命 景行天皇垂仁天皇 白鳳十三甲午年造立すと云り、東の宮は中殿景行天皇 左大碓尊右垂仁天皇、西の宮は、中殿垂仁天皇 左大碓尊右景行天皇、を奉祀、以上三社共、三神相殿に奉祀れり、さて此三社を合て猿投三社大明神と号す也、又卜部兼倶卿の神名帳頭注に云、参河国賀茂郡狭投は、人皇十二代景行帝第一の皇子大碓命なり、又熱田社鎮座記に云、三河国猿投神社は大碓命を祀れり、又本居の古事記伝 廿六ノ六丁 に、此社は景行天皇を祀るとも云、或は大碓命を祀ると云て、昔より碓を忌む事を載たり、按に、日本紀大碓皇子小碓尊一日同胞双生(オナシヒニフタゴアレマシヌ)とあり、社説に、大碓皇子を祀ると云て、今も山上に、両社あるを見れば、もしくは一社は小碓の尊を祀れるには非る歟、又古事記伊邪那岐伊邪那美二柱の御子頰那藝(サナギ)の神あり。今按も古事記伝廿六ノ六丁に狭投をさなぎと訓れたり可考云々と、官社私考に見えたり、又縁起に云、十六代仲哀天皇ノ元年熊襲又叛于時依在勅願大碓皇祠猿投山下焉今猿投本社是也。
名所図会云、加茂郡猿投村にあり、知立より北の方四里許海堂より見える高山なり、例祭九月九日当国或美濃尾張より数疋の馬を献じて賑し、祭神大碓皇子は、景行帝第二の皇子、日本武尊の皇兄なり、社説に云景行記五十二年狭投山に登て、蛇毒に中り薨じたまふ御年四十二歳云々、或曰古事記岐美二尊の御子に頰那藝神あり、狭投に訓ず、若此神ならんか、(略)
三河雀に云、猿投村大明神七百七十六石神主四家十六坊あり、尊氏公神主職証文有、九月重陽の日祭有、粧馬七十疋三河より捧げ持出る、尾州より粧馬百疋、長刀を持出る、美濃より粧馬百三十疋、刺役を持出る口付六人づつなり、天道の宮へも馬を曳なり、猿ども多く人に木葉を投掛るゆゑに、猿投と云となり。
(略)
志保之里 三州賀茂郡高橋庄、狭投神社大碓命と云り、大碓皇子景行天皇の御子、牟義公阿礼首、池田の首等の始祖也、然に大碓皇子、登猿投山中毒蛇薨ずと本縁あるに、日本武尊登贍吹山同じ、然れば狭投神亦日本武尊に似たり、度会延経に云、御使の朝臣の祖は景行天皇の皇子、気入彦命なり、三河国に使し賊を捕ふ、仍て姓を賜る、續日本紀及姓氏録に見ゆ、若此命を然るか、大碓皇子は、美濃国牟義の祖なり、三河に故あること見侍らぬと云、亦猿投摂社十五所は、大■日本武尊皇子佐伯の命は、三河国御使の祖なる由見えたり、能思を致すべきにや。
(略)
末社十五祠
櫛角別王 布忍入姫命 稚武王 武鼓王 十城別王 稚武彦王 稲入別命 武養蚕命 葦噉𥧄見別命 息長田別命 伊賀彦王 武田王 佐伯命 蒲見別王 五十日彦王命 以上十五社は白鳳年中の勧請、各大碓尊之兄弟なり、于今当社の宮柱として子孫断絶せず。
(略)
御陵 縁起に云、忍代別の天皇皇子大碓皇子、五十二年登猿投山中蛇毒薨四十二歳則葬山上按に御陵は西の宮の社地より二丁ほど上りて山の頂上にあり、今は土少凹にして忌垣ゆひ廻し有のみ。

 

どちらにも、「狭投の神は忍代別天皇皇子大碓ノ皇子なり、五十二年登狭投山中蛇毒薨 四十二歳、則葬山上、在峯之宮、西宮東之宮と云」という社伝が紹介されています。

日本書紀』の言う通りに、「大碓命」が美濃国に封じられていたとして、三河国の猿投に葬られることになったのは何故なんでしょう。

猿投から少し行けばもう美濃国ですから、それほど不自然ではないでしょうか。

『参河國名所図会』の方にある、大碓皇子、登猿投山中毒蛇薨ずと本縁あるに、日本武尊登贍吹山同じ、然れば狭投神亦日本武尊に似たり」という指摘はなかなか面白いと思います。

日本書紀』によれば、「日本武尊」は、伊吹山に登った際に、蛇に変身した山の神の怒り(祟り)が原因で亡くなっていますので。

双子だけに、死に様も似ている、ということでしょうか。

日本紀大碓皇子小碓尊一日同胞双生(オナシヒニフタゴアレマシヌ)とあり、社説に、大碓皇子を祀ると云て、今も山上に、両社あるを見れば、もしくは一社は小碓の尊を祀れるには非る歟」という部分もやはり、双子というところから、同じ場所に祀られているのではないか、と書いています。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 西加茂郡史談

 

↑は小冊子のようなサイズですが、「猿投神社」のことが書かれています(14コマ)。

 

第十七章 大碓尊と猿投神社
大碓尊は景行天皇の皇子にして同胞双生なり、大碓小碓と名く、天皇四十年東夷多く叛く、皇子をして之を征せしめんとす、愕れて遁れ給へば、小碓代て東夷を征す、遂に尊を美濃に封す、猿投山に登り毒蛇の爲めに薨す、依て此山上に葬り御墓所現に存す、広澤村大字猿投に尊を祭て猿投神社といふ、今県社に列せらる、祭日は陰暦九月九日にして、当日は馬の塔、棒の手等を奉納し、遠邇崇敬の大社なり、

 

……まぁ、ここまでお読みの方にはご承知の内容で。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 原日本考

 

↑は、日本古代の鉄文化に関して、福士幸次郎が自身遍歴して集めた民俗資料に基づいて書かれたもののようです。

 

○こちら===>>>

福士 幸次郎

 

該当部分しか読んでいませんし、文献の真偽や価値などについてはさほど考慮せず引用していますので、問題があるかもしれませんが、面白かったので(94コマ)。

 

二 三河西加茂郡猿投山猿投宮
エンドウの宮とも言はれる古い神社である。名古屋市の北郊を巡る矢田川の堤防から東のかた瀬戸市の方面を望むと、背後に屹立した一連の山脈があつて、その最高峰を猿投山と言ふ。ここに古くから祀られてあるのが猿投宮で、上下二社をなし、三河尾張、美濃にわたつて地方人の崇敬が頗る篤かつた。徳川幕政時代の初め、家康は社領七百七十六石を献進し、朱印状を発してゐる。式内社であつて今の猿投に対し往時は狭長の文字を宛ててゐる。「狭長」の文字を使つた社名は、出雲風土記の飯石郡中にも見え、これは昔から「サナガ」と読まれてゐる。サナゲ、サナガ孰れが正しいかは問題だが、隣接伊勢から伊賀盆地へ入ると、上野の東方の丘陵地帯に伊賀一の宮が祀られてあつて、ここに「佐那具」といふ村がある。
これは現関西本線の小駅佐那具駅であつて、サナグと詠む。これも後で云ふが猿投宮同様鈴の祭祀の個所として、旧代の痕跡を殆ど残さないが、右祭祀に一連の関係あるものと見做すと、サナゲ、サナガ、サナグと、ゲ、ガ、グの音の移動転換が認められる。かうして社名が確かめられる。猿の文字を使ふが猿には別に所縁がない。
祭神日本武尊の兄皇子大碓命を筆頭とし以下数神を祀るが、甚だ不審である。この皇子は古事記に於ても甚だ不名誉な行跡を伝へられた方で、これによつて日本武尊に■殺せられ、骸を木に懸けられ、薦に包まれて投棄てられた御方と言はれてゐる。書紀はそれ程ではないが、東夷征討の役を仰せつけられんとして、怖ぢて草の中に逃げ隠れ、天皇の御厳しきお叱責を受けて、仕方なく美濃の方に封地を定められた方である。右記紀両書の所伝を其の儘に取り上ぐるべきものかどうかは問題だが、果して此の皇子が祭神とすれば其の由来は何か、疑問は神秘として強く後に残る。
天野爲景が有名な書「鹽尻」等の記載によつても、中世、宮に所属の神官と僧家とが宮の由緒のことで屢々紛議を起し、神官が頻繁に都に出ては内訴に及んだことが見える。古社であるといふ伝承は、昔から地方内に動かぬ旺んな崇祀によつて認められはするけれども、一方ではまたその爲にかういふ深刻な争ひの種ともなつてゐる。筆者は此の成立神秘の宮を、わが所伝の最も古い所伝から姿を消した所の、鐸(さなぎ)の祭祀の社の一として窺ふのである。

 

「鐸(さなぎ)の祭祀の社」というところから、「猿投(狭投)」という地名は、鉄と関係しているのではないか、と。

「鐸」「鉄鐸」については、

 

○こちら===>>>

www.maibun.com

 

↑という素敵HPで「古墳時代の鉄鐸について」と検索していただくと論文が出てきます。

そちらで詳しく解説されていますが、古墳の副葬品として発見される「鉄鐸」、北九州、近畿、東海地方に多いそうです。

古墳時代の鉄鐸について」から、最後の「付・鉄鐸、鉄製祭祀具の儀礼的背景」を一部引用します。

 

祭祀具としての鉄鐸と、鉄器製作との接点を記す記述が、『古語拾遺』、天石屋戸段の「令天目一筒神作雑刀・斧及鉄鐸(古語、 佐那伎)」の記述である。また、『延喜式四時祭式』鎮魂祭条には「大刀一口 弓一張 箭二隻 鈴廿口 佐奈伎廿口(下略)」 とあることから、鉄鐸(サナギ)は鎮魂に用いられた祭祀具とされている。 梁塵秘抄』巻二、二六二番歌、「南宮の本山は 信濃国とぞ承る さぞ申す 美濃国には中の宮 伊賀国には稚き児の宮」の 歌は、信濃国諏訪社、美濃国仲山金山彦神社(南宮大社)、伊賀国敢国神社が「南宮」と称せられたことを示すもので、八木意 知男は、諏訪大社が、先の『古語拾遺』所伝の「天目一箇神」、あるいはその系統に連なる神、仲山金山彦神社(南宮大社)が 金山彦神、敢国神社が金山毘売神(金屋子神か)を祀り、三社が三位一体の製鉄神を祀っていたことを背景とすることを洞察し た(八木意知男 1977「南宮考―『梁塵秘抄』二六二番歌を中心として―」『古代文化』第 29 巻第 11 号 財団法人古代学協会)。 これに関連して、諏訪大社などに祭具として、「神代鉾(鉄鉾)」に付属する「鉄鐸」が伝世されていることについては、すで に大場磐雄や真弓常忠による考証がある(大場磐雄 1972「続鉄鐸考」『信濃』第 24 巻第4号 信濃史学会、真弓常忠 1981『日 本古代祭祀と鉄』学生社)。また、敢国神社の近隣には、「鐸」に関係するとされる「佐那具」の地名が残る。南宮と称されるこ ともあったという美作国一宮中山神社については、先の西吉田北1号墳、長畝山・長畝山北古墳群、河辺上原古墳群との関係が 想起される。

 

「鉄鐸(古語、 佐那伎)」「佐奈伎」と『古語拾遺』や『延喜式』に登場していることから、儀礼に用いられた神具のようです。

 「敢国神社の近隣には、「鐸」に関係するとされる「佐那具」の地名が残る。」 というのは、『原日本考』の中でも、「隣接伊勢から伊賀盆地へ入ると、上野の東方の丘陵地帯に伊賀一の宮が祀られてあつて、ここに「佐那具」といふ村がある。」として言及されています。

 また、

諏訪大社などに祭具として、「神代鉾(鉄鉾)」に付属する「鉄鐸」が伝世されている」とありますが、

 

諏訪大社 (1978年)

諏訪大社 (1978年)

 

 

↑「諏訪大社」の記事で散々お世話になった『諏訪大社』108ページには、

 

薙鎌

「諏方大明神絵詞」にも薙鎌は御神宝の一つとしてあつかわれており、

 

と、「御柱祭」の際に上社御柱に打ち込む鎌を御神宝と紹介しています(110ページには鉄鐸(さなぎ)が掲載されています)。

「猿投神社」に鉄鐸が伝わっているわけではありませんが、

 

○こちら===>>>

「猿投神社」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑前回の記事で「左鎌」のことを紹介しました。

ひょっとすると、「『梁塵秘抄』巻二、二六二番歌、「南宮の本山は 信濃国とぞ承る さぞ申す 美濃国には中の宮 伊賀国には稚き児の宮」の 歌は、信濃国諏訪社、美濃国仲山金山彦神社(南宮大社)、伊賀国敢国神社が「南宮」と称せられたことを示すもので、八木意 知男は、諏訪大社が、先の『古語拾遺』所伝の「天目一箇神」、あるいはその系統に連なる神、仲山金山彦神社(南宮大社)が 金山彦神、敢国神社が金山毘売神(金屋子神か)を祀り、三社が三位一体の製鉄神を祀っていたことを背景とする」という説、つまり「諏訪→美濃→伊賀」という製鉄ラインとは別ルートで「諏訪→猿投」というラインがあったのかもしれないです。 

 

 

さて、妄想です……が、長くなりすぎたので、また次回に〜。