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べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「大神神社」(考々々々々)

さて×5。

崇神天皇」の時代にからんで「大物主神」が登場するのは、「崇神天皇」の宮が「磯城瑞籬宮」といって、三輪山の麓にあったと伝えられているからでしょう(その後二代の宮は、三輪の近くの纒向に置かれていますので「崇神」「垂仁」「景行」の御代を指して「三輪王朝」と言ったりします)。

では、「崇神天皇」と「大物主神」の呪詛合戦は(結果的にどちらが勝ったか、はおいておいて)、「崇神天皇」の時代のものだったのかというと、よくわかりません。

大和地方が、いつの時代に朝廷の支配下に入ったのかがさだかではないです。

もちろん、記紀神話的には、「神武天皇」の東征が成功したからなのですが、それまでの大和の勢力図なんてものはよくわかりません。

 

○こちら===>>>

「鷲宮神社」(続)〜関東巡り〜 - べにーのGinger Booker Club

 

↑でも引用した岩波版『日本書紀』の註には、「出雲臣の出自は畿内ではないか」と書かれ、では「出雲臣」の祖先である「天穂日命」も畿内出身なのか、ということは国譲りの時点ですでに畿内に朝廷勢力が及んでいることになり、「神武天皇」が東征する必要がないではないか、と思ってしまうのですよね(逆に、「天穂日命」の末裔が大和に勢力を持つことができた、という意味なんだと考えればすっきりするのですが、そうするとどうしてわざわざ出雲に移されなければならなかったのか……出雲どころか関東にも移動してますし)。

前にも書きましたが、国譲りをして、「大己貴神」や「大物主神」、「事代主神」といった在地の勢力を従わせた天つ神なのに、どうしてもう一度「神武天皇」が九州から征服戦争に出なければならなかったのか、記紀ではすっきり解説してくれやしません。

だから、妄想の入り込む余地もあって楽しいのですが。

少なくとも、「大物主神」と呼ばれるようになる神をいただいた氏族が三輪山周辺(あるいは大和地方)にはあり、それは「大己貴神」と勢力を分かち合うほど強大で、残念ながら天つ神系の勢力には敗れてしまいましたが、疫病を流行らせる(と敵に思わせる)だけの地力は備えていた、というのは信じたいところです。

何しろ、「崇神天皇」の宮は「磯城瑞籬(しきのみずがき)宮」で、この時代祟りの力マックスだった「天照大神」のために立てたのが「磯堅城(しかたき)の神籬(ひもろぎ)」です。

「磯城」は地名ではあるのですが、以後の天皇の宮の名前を見ても、ここまで強固な言霊の籠ったものはありません。

祟っていたのは「天照大神」だけではなく、「倭大国魂神」、そして「大物主神」。

よほど祟りから自分を守らなければならなかったのでしょう。

 

というわけで、ちょっと妄想はおいておいて。

久々に引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

三輪に関する文献が集められた『三輪叢書』というものがあります。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 三輪叢書

 

↑手元にほしいくらいですが、その中から『大三輪鎮座次第』をざっと引用してみます。

20コマです。

 

当社古来無寶倉、唯有三箇鳥居而已、奥津磐座大物主命、中津磐座大己貴命、辺津磐座少彦名命
蓋聞素戔嗚神、自天而降、到於出雲国簸之川上、以天十握剣斬八岐大蛇、其尾中得一霊剣、其名天叢雲、乃献上於天神也、然後素戔嗚神、娶國神女奇稲田姫、生大己貴神、遂就於根國矣、大己貴命、亦名大国主神、亦号曰葦原醜男、亦曰八千矛神、亦曰顯國玉神、竝有五名、其子凡有一百八十一神、 旧事紀作八名、有大物主命神、大国玉神二名日本紀同、御大御前(旧事紀)、五十狭々小汀(日本紀
大己貴神、持廣矛爲杖平國、行到於出雲國三穂崎、而且当飲食、是時海上忽有人聲、乃驚而求之無所見、頃時有一箇小男、以白■皮爲舟、以鷦鷯羽爲衣、自波穂乗天蘿摩船、而内剥皮爲衣服、有依來者、随潮水以浮到、大己貴神、即取置掌中而翫之、則跳囓其頬、乃怪其物色、爾雖問其名不答、且雖問所従之諸神、皆曰不知、多迹且久曰、此者久延彦必知之、即召久延彦問時、答曰、此者高皇産霊尊之子、少彦名神、故遣使白於天神、于時高皇産霊尊聞之而曰、吾所産兒、凡有一千五百座、其中最悪、不順教養、自指間漏随者、必彼矣、爲兄弟宜愛而養之、此即少彦名命是也、此故称曰手間天神也。
伊弉諾伊弉冉二神共爲夫婦、生大八洲國及處々小島、而地稚如水母浮漂之時、大己貴命少彦名命、戮力一心、殖生蘆葦、、固造國地、故号曰國造大己貴命、因以称曰葦原國。
復爲顯見蒼生及畜産、則定其療病之方、又爲攘鳥獣昆蟲之災異、則定其禁厭之法、是以百姓至今咸蒙恩頼、皆有効験也。
大己貴命、謂少彦名命曰、吾等所造之國、豈謂善成之乎、少彦名命対曰、或有所成、或有不成、其後少彦名命、行熊野之御崎、遂適於常世郷矣、亦曰、至淡嶋而緑栗莖者、則弾渡而至常世郷矣、 常世郷在東海中、 自後所未成者、大己貴命、独能巡造、遂到出雲國五十狭狭小汀、乃與言曰、夫葦原中國、本自荒芒、至及盤石■木、咸能強暴、然吾已摧伏莫不和順、遂因言今理此國、唯吾一身而已、其可與吾共理天下者、蓋有之乎、于時神光照海忽以躍出波浪末、爲素装束、持天■槍、有浮帰来者、曰如吾不在者、汝何能得乎治此國乎、若無我者、何敢得造建大造之績哉、大己貴命問曰、汝命是誰耶、名字云何対曰、我汝之幸魂奇魂矣、今欲住何處耶、対曰、欲住於日本國青垣山、故即営御室於大倭國磯城県青垣山、使就而居、号曰御室山、 或作三諸山 蓋大己貴命之幸魂奇魂、鎮座于当山、是神代也、此大三輪大物主神是也。」

 

とりあえずここまで(読みづらいと思いますが、もともと白文なもので)。

これが書かれたのは、貞和二年(1346年)頃とされています。

南北朝時代には、「当社古来無寶倉、唯有三箇鳥居而已」……「当社には古来宝倉(※社殿……ブログ筆者註)がなく、ただ三ツ鳥居あり」という認識だった、ということが想像されます。

こうした記録、あるいは土地の記憶から、「日本最古の神社」を名乗ってしかるべく、なんですね。

「奥津磐座大物主命、中津磐座大己貴命、辺津磐座少彦名命ということで、当時は御祭神三柱がそれぞれ「磐座」にあったのだ、という認識です。

どういうことかといえば、山岳崇拝ではなかった、と考えられるのです。

山自身が神なのであれば、こういう書き方はしないのではないか、と。

 

 

 

 

ま、↑高田崇史氏の受け売りですけどね。

御神木に神が降りる、というのは割とイメージしやすいんですよね。

特に雷神の場合、ほら、落雷が木を直撃するじゃないですか、あんな感じなのかな、と。

対して「磐座」というと、こう、それほど立体的でもなく、巨岩ばかりが選ばれるでもないので、どうしてそういう発想になるのかな……というと、実際にはその上に、神降ろしをするシャーマンが立っていたんではないか、と(岩波版『日本書紀』の註より)。

つまり、「磐座」自体に神が宿るのではなく、「磐座」で神を降ろす、と。

こちらのほうが、なんとなく、ピンとくるものがあります。

引用の他の部分は、記紀神話や『先代旧事本紀』からとっているので、すでにおおよそご紹介したものばかりです。

 

 

天照大神高皇産霊尊、崇養皇孫天津彦火瓊々杵尊、欲降爲豊葦原中國主、仍遣経津主神武甕槌神、駆除平定、於是大己貴神奉避、仍以平國時所杖之廣矛授二神曰、吾以此矛、卒有治功、皇孫若用此矛治國者、必当平安、今我当隠去矣、即躬被瑞之八尺瓊、而長隠於百不足之八十隈者矣、故経津主神、以岐神爲郷導、周流削平、有迷命者、即加斬戮、帰順者仍加褒賞、是時帰順之首渠者、大物主神、及事代主神、乃合八十萬神、於天高市帥以昇天陳其誠疑之至、時高皇産霊尊大物主神、汝若以國神爲妻、吾猶謂汝有疎心、故今以吾女三穂津姫、配汝爲妻、宜領八十萬神、永爲皇孫奉護、乃使還降之、大物主神乗天羽車大鷲而、竟妻下行於茅渟県陶邑、彼處、大陶祇女活玉依媛、容姿端正、於是大物主神、化爲美麗壮夫、娶活玉依媛、即有懐妊、爾父母疑怪妊懐、問媛曰、汝爲懐妊也、誰人来耶、媛答曰、毎夜半刻到来美麗壮夫、其覆倒其風姿威儀無比者、不知其姓名、夜来曙去、会晝不到来、時父母欲知其壮夫、教媛績麻作綜、貫針刺其衣襴焉、媛如教爲之、而明旦観之、貫針之絲控通戸鑰穴、而綜麻遣只有三勾而己、即随絲尋行、経茅渟山入吉野山至御室山、即知爲大物主之子、然後活玉依姫生兒、名櫛日方尊、畝傍橿原宮御宇天皇殊拜爲申食國政大夫、是賀茂大三輪君等遠祖也、依其綜麻所遣三勾、号此地曰麻三勾山、今謂大三輪山、或作大神山、復三島溝橛耳大女蹈鞴媛爲美人、或時媛爲大便之節、大物主神化丹塗矢、突陰元爾媛驚之将来其矢、置於床辺、忽化爲美麗壮夫、乃於奇御戸爲起而生女、曰名媛蹈鞴五十鈴媛命、於是天孫神日本磐余彦天皇、即位于畝傍橿原宮、欲立正妃、廣求華冑、時有人奏曰、大三輪神之女、媛蹈鞴五十鈴媛命宅居于春日率川 本名狭井川 之辺、是國色之秀者也、天皇悦之、喚媛蹈鞴五十鈴媛命、納宮爲皇后、生兒二男、神八井命、神渟名川耳天皇、此天皇即位于葛城高岳宮治天下也、腋上池心宮御宇天皇御世、神明憑吉足日命曰、吾國造大己貴命也、大初己命之和魂、取託八咫鏡、名曰倭大物主櫛甕玉命、鎮座大三輪神奈備云々、令造瑞牆奉斎焉随神託立瑞牆於大三輪山、遣吉足日命、令斎大己貴命大物主神、詔吉足日命、自今已後可爲宮能賣、是神宮部造先祖也 年月未考」

 

この部分は、国譲りの神話、それから「苧環神話」、「丹塗矢神話」が書かれています。

それから、「神武天皇」の皇后選出の部分ですね。

最後のほうに、「腋上池心宮御宇天皇御世、神明憑吉足日命曰、吾國造大己貴命也、大初己命之和魂、取託八咫鏡、名曰倭大物主櫛甕玉命、鎮座大三輪神奈備云々」……「第五代孝昭天皇の御代、神が吉足日命に降りて、「私は国造大己貴命である、昔私の和魂を八咫鏡に取り憑かせた、名は倭大物主櫛甕玉命といい、大三輪の神奈備山に鎮座している」といった(適当訳)」とあります(『出雲国造神賀詞』にも同じ描写がありましたね)。

さて、大物主神」は「磐座」に鎮座しているのか、それとも「鏡」を御神体としているのか

 

 

「磯城瑞牆宮御宇天皇御世疾病有死亡、於是天皇請罪神祇、時大物主神、憑倭迹々日襲媛命曰、天皇憂國不治是吾心也、能敬祭吾者、必当自平矣、随教祭祀無験、天皇沐浴斎戒而祈之、夢覚曰、以大田々根子命祭吾者則立平矣、亦有海外之國、自当帰伏矣、天皇得夢辞、布告天下、求大田々根子、即於茅渟県陶邑、天皇勅大田々根子、爲祭大物主神之主、以天八十平瓮、令敬祭定神地戸、於是疾病始息、國内漸五穀既成百姓饒之、毎年首夏仲冬卯日祭、起于此時矣、詳在日本紀
磐余甕栗宮御宇天皇、勅大伴室屋大連、奉幣帛於大三輪神社、祈祷無皇子之儀、時神明憑宮能賣曰、天皇勿慮之、何非絶天津日嗣哉、上古吾輿少彦名命、戮力一心、所以経営天下、其所以而今少彦名命、来臨吾辺津磐座、輿吾及和魂共能可敬祭、守皇孫済人民矣、於是起立磐境、崇祭少彦名命于時天皇元年冬十月乙卯日也、仍鎮座次第如件、十一月十六日夜勘作之。」

 

前段は「崇神天皇」と「大田田根子」の話です。

後段は、「清寧天皇」の話で、この天皇は皇后もおらず子もいない、という残念な(?)なのですが、「生まれながらに白髪」と書かれていることから、即位自体を怪しんだり、また老齢での即位だったのではないかと考える向きもあるようです。

「磐余甕栗宮御宇天皇、勅大伴室屋大連、奉幣帛於大三輪神社、祈祷無皇子之儀、時神明憑宮能賣曰、天皇勿慮之、何非絶天津日嗣哉、上古吾輿少彦名命、戮力一心、所以経営天下、其所以而今少彦名命、来臨吾辺津磐座、輿吾及和魂共能可敬祭、守皇孫済人民矣、於是起立磐境、崇祭少彦名命于時天皇元年冬十月乙卯日也」……清寧天皇は、大伴室屋に勅して、大神神社に幣帛を奉り、皇子がないことを祈祷させた、そのとき神が宮能賣(※神社に使える婦女、今でいう巫女さん……ブログ筆者註)に降りて、「天皇よ何を心配するのか、絶えることのない天津日嗣である、昔私は、少彦名命と力を合わせて国を作った、その少彦名命は今、我が辺津磐座に来ている、私と私の和魂とともに祀れば、皇孫の人民を守るだろう」と言われたので、磐座を立て少彦名命を祀った(適当訳)」。

これは記紀にはないので、社伝ということになります。

で、記紀によればこのあと、「履中天皇」の孫(「清寧天皇」から見ると、「履中天皇」は自分の祖父「允恭天皇」の兄)の「弘計(をけ)命」と「億計(おけ)命」が、播磨で発見されます。

神代、皇統を守ることを「高皇産霊尊」に約束した「大己貴神」の力があってこそ見つかったのだ、と言いたいのだと思いますが、後世の付会でしょう。

とはいえ、「大神神社」が朝廷にとって重要な存在だったことには変わりありません。

続きます〜。

 

※参考文献

 

天皇陵と消えた宮都の謎 (タツミムック)

天皇陵と消えた宮都の謎 (タツミムック)