さて(*8)。
『日本書紀』『古事記』の国譲りの場面での描写ですが、よく考えてみると、
「時に、神しき光海照して、忽然に浮び来る者有り。曰はく、「如し吾在らずは、汝何ぞ能く此の国を平けましや。吾が在るに由りての故に、汝其の大きに造る績(いたはり)を建つこと得たり」といふ。是の時に、大己貴神問ひて曰はく、「然らば汝は是誰ぞ」とのたまふ。対へて曰はく、「吾は是汝が幸魂奇魂なり」といふ。大己貴神の曰はく、「唯然なり。迺ち知りぬ、汝は是吾が幸魂奇魂なり。今何処にか住まむと欲ふ」とのたまふ。対へて曰はく、「吾は日本国の三諸山に住まむと欲ふ」といふ。故、即ち宮を彼処に営りて、就きて居しまさしむ。此、大三輪の神なり。此の神の子は、即ち甘茂君(かものきみ)等・大三輪君等、又姫蹈韛五十鈴姫命なり。又曰はく、事代主神、八尋能鰐に化為りて、三嶋溝樴姫、或は云はく、玉櫛姫といふに通ひたまふ。而して児姫蹈韛五十鈴姫命を生みたまふ。是を神日本磐余彦火火出見天皇の后とす。」(『日本書紀」)
「ここに大國主神、愁ひて告りたまひしく、「吾獨して何にかよくこの國を得作らむ。孰れの神と吾と、能くこの國を相作らむや。」とのりたまひき。この時に海を光して依り来る神ありき。その神の言りたまひしく、「よく我が前を治めば、吾能く共與に相作り成さむ。若し然らずは國成り難けむ。」とのりたまひき。ここに大國主神曰ししく、「然らば治め奉る状は奈何にぞ。」とまをしたまへば、「吾をば倭の青垣の東の山の上に拜き奉れ。」と答へ言りたまひき。こは御諸山の上に坐す神なり。」(『古事記』)
うかつにも気付かなかったのですが、どちらにも「大物主神」という名前は出てこないんですね(以前の記事で『古事記』の方には……という書き方をしていますが、忘れてください)。
ということは、この時点では、「大己貴神」にも、この神が誰なんだかわからなかった、ということでしょうか。
何やら意図を感じますが、陰謀論は置いておきまして。
前にも書きましたが、「国譲りの段階で、天孫に国を譲っているのに、その子孫である「神武天皇」がもう一回九州からやってきて、国を立てなければならなかったのはなぜなのか」という神話の疑問があります。
記紀神話では、いろいろな順番が入れ替えられているのだと思われます。
考古学的な話になると、途端に私は考えるのが面倒くさくなるので(<をい)、本当は嫌なのですが。
当時の大体の勢力図としては、「南部九州」「北部九州」「瀬戸内海(吉備)」「出雲(山陰)」「近畿(大和)」「紀伊半島南部」「伊勢湾沿い(今の三重県〜愛知県)」「信濃」「越の国」、それから「東国(関東地方〜東北)」、といった感じでしょうか(適当に)。
国譲りの前には、「須佐之男命」が、どこだかよくわからないところから追放されて、「出雲」を支配したとされています(「須佐之男命」は、なんだかよくわかりませんが、朝鮮半島に行ってみたり、「八岐大蛇」退治が安芸国の話だという異伝もあったり、御子神が紀伊半島に居てみたり、とにかくごちゃごちゃしています)。
で、国譲りでは「出雲」が、どこからきたのかよくわからない天孫に国を明け渡して支配下に入ります。
そのあと、「南部九州」から「瀬戸内海」を通ってきた「神武天皇」が、「近畿(大和)」に入ろうとして失敗、「紀伊半島南部」に再上陸して「近畿(大和)」を背後(「伊勢湾沿い」)から叩いて、国を立てた、ということになります。
この国を「原大和朝廷」とするなら、この「原大和朝廷」はそれからさらに「瀬戸内海」「九州」「東国(関東地方〜東北)」、そして朝鮮半島にまで勢力を広げていきます(四道将軍、三韓征伐)。
こういった動きが、例えば古墳や土器、鉄器などの分布・伝播の分析とは必ずしも一致しない、というのは考古学上の常識だと思います。
そこで記紀神話が「歴史に基づいていない」と言われたりするのですが。
「神話だからいいじゃないの」という思いがあります。
また、「そりゃどこかで作り変えたんでしょう」という当たり前の結論があったりします。
歴史書、というのは大陸の文化ですから、それを真似するということは、「現王朝(正確に言えば、そのときの最高権力者)の都合がいいように書き換える」ことも真似されていると考えるべきです。
記紀神話成立の時代であれば、「天武天皇」か「持統天皇」辺りの思惑が盛り込まれているはずです。
一方で、明治に制定された紀元(西暦でいう紀元前660年)の初代「神武天皇」即位から数えたら、「天武天皇」の時点で1000年近くの時が過ぎ去っています。
そりゃいくらなんでも、というのが歴史界・考古学会の常識ですので、では古墳時代の始まり(おおよそ西暦200年代)をとりあえずの「原大和朝廷」の始まりだとすると(いわゆる「古墳」と呼ばれるものは、「大和」で発生したと考えられるそうです……他にもいろいろな形態の墓はあったでしょうが)、「天武天皇」の時代まで500年近く経過しています。
現代から500年前は、室町末期〜戦国時代。
それだけの長い年月の歴史をですね、ゼロからでっち上げて書き記すなんて超絶技巧ができたとは思えません。
ですから、『古事記』『日本書紀』には、それまでに伝わってきた歴史が使われているはずです(実際、そう書いてありますしね)。
それでは、記紀神話の何となくのおおまかな流れをですね、整合性のあるように並べ替えてみるとどうなるのか。
あ、「邪馬台国」論争には私あまり興味がないので、ほっときますよ。
(1)各地域で、勢力乱立。
それぞれの地域内での勢力争いがあったのではないか。
(2)「北九州」、「出雲」、「近畿」辺りで、比較的集権的な勢力が現れる。
「出雲」の「オオナムチ」による国造り神話はこのときの様子。並行して「オオモノヌシ」のいる「近畿」でも勢力が集結し、「出雲」となんらかの関係性(同盟……とまでは言わないまでも)にあったのではないか。「オオナムチ」の「和魂(幸魂・奇魂)」が「オオモノヌシ」とされている伝承は、この同盟関係から来ているのではないか。
記紀神話の始めといえば「イザナギ」「イザナミ」に国産み神話。これが、どの勢力の伝承を基にしているのかはわからないが、「オノゴロシマ」をどこと比定するのは難しく、(多くの伝承では)次に生まれているのが「淡路島」であることから、「近畿」の伝承ではないかと思われる。「八十島祭」の舞台が難波辺りだったり、現代でも「淡路島」近くの鳴門海峡の様子などを見てみると、「アメノヌボコ」でご〜ろごろしていたのが鳴門の渦潮で、やはりこの辺りの伝承だったのではないかと思えてくる(が、所詮ブログ筆者の印象でしかないので……「淡路島」には「イザナギ」が鎮座しておられるのにも何か理由があるのだろう)。
(3)「北九州」辺りの一族、はるばる「近畿」までやってくる。
「近畿(大和)」の「ナガスネヒコ」と「ニギハヤヒ」の伝承がこれに当たるのではないか。あるいは「ニギハヤヒ」は、もっと他の勢力である可能性があるのだが、物部氏が大和朝廷で力を保持していたからという理由だけで、天つ神の一柱に加えられるというのも妙な話なので、とりあえず九州辺りからやってきた、ということにしてみる。当然、地元の「ナガスネヒコ」との戦闘はあったと思われるが、血縁関係を結ぶことによって同化政策をとる。
(4)「南九州」辺りの一族、はるばる「近畿」までやってくる。
これを「神武東征」ということにする。ルートとしては、瀬戸内海を抜けて、難波から「近畿」に上陸したが失敗、紀伊半島をぐるっと回って熊野から北上、「近畿(大和)」を東側から討っている。ルートも含めて、全てが事実とは考えづらいが、この一行は「瀬戸内海(吉備)」の協力を受けられたのだと思われる(瀬戸内海の潮目を読めないと通れないので)。瀬戸内海ルートは、「近畿(大和)」にとっても交易という点では重要なので焦ったりしたのかもしれない。「近畿(大和)」と「瀬戸内海(吉備)」が友好関係にあったかどうかは定かではないが、「近畿(大和)」から「出雲」に至る地域が同盟関係にあったのであれば、「瀬戸内海(吉備)」としては外界につながる九州勢力と協力関係を結んでも不思議ではない。
(5)「近畿(大和)」を、「原大和朝廷」が支配下に置き、さらに「出雲」に侵攻。
この辺りから、「国譲り」神話と、「スサノオの出雲平定」神話が、なんとなく渾然となっているのではないかと思われる。「サルタヒコ」と「ヤマタノオロチ」の描写が似ていることを考えると、どこかの国の境目あたり(あるいは「近畿(大和)」〜「出雲」一帯)に、蛇を共通のトーテムとするような一族がいたのかもしれない。蛇神は雷神で、弓矢の神で、ついでに太陽神でもあったかもしれない(「鏡」は「蛇(かが)の目(め)」なのかもしれないので)。属性が多すぎて困ってしまうが、討伐されたこの蛇神信仰は、一部は「近畿」に残り、一部は「伊勢」に追いやられ(「サルタヒコ」の説話)、一部は「出雲」でこっぴどくやられたのだろうか(「スサノオのヤマタノオロチ退治」)。
「国譲り」神話で、「オオナムチ」は「出雲」から出ることができなくなるが、その力は強大なままなので、出雲臣の祖神である「アメノホヒ」が「原大和朝廷」から派遣される。「オオモノヌシ」以下の、「近畿(大和)」の一族は、大和の山々に封印される。
こうして一定の安定を得た「原大和朝廷」だが、実際のところその勢力は「出雲」〜「近畿(大和)」の辺り。そこで他の勢力を支配下に置くべく、全方位的に戦争を仕掛ける。「四道将軍」や「ヤマトタケルの西征・東征」などなど。神話時代に「出雲」の「オオナムチ」は支配下に降っているのに、なぜか「出雲」にはまだ「イズモタケル」がいて、それを「ヤマトタケル」が征伐している、九州には「クマソタケル」がいる。まだまだ不安要素がたくさんある。「原大和朝廷」は、これらを一つずつつぶしていったのだと思われる。
……全く整理できていませんね。
困った困った。
ただ、こじつけにしろ、様々な神話や伝承を無理やり当てはめていくと、なんとなく筋の通った一連のストーリー(歴史ではない)が見えてくるような気がするのですが、最大のネックはやっぱり「天孫降臨」なんですよね。
どこに当てはめてもしっくりこない、といいますか。
「国譲り」の後であれば、「大和」はある程度天つ神の支配下になっているはずですが、国の支配者は南の果てにご降臨なさっている。
直接「大和」に降りればいいのにそうしない、ということは、このあたりに時間の錯誤があるのだろうと思って並べ替えてみても、やっぱり南九州に「天孫」が降りる理由がない。
となると、もうちょっとひねらなければいけないか……うーん、今の私ではこれが限界です。
さて、「大神神社」ですが、
↑の神功皇后摂政前記には、
「秋九月の庚午の朔己卯に、諸国に令して、船舶を集へて兵甲を練らふ。時に軍卒集ひ難し。皇后の曰はく「必ず神の心ならむ」とのたまひて、則ち大三輪社を建てて、刀矛を奉りたまふ。軍衆自づからに聚る。」
とあります。
三韓征伐に向かうときですので、この「大三輪社」は、岩波版『日本書紀』註では、「筑前国夜須郡於保奈牟智神社」ではないかとしています。
とりあえずこの時代には「大物主神」と「大己貴神」がほぼ同体だと考えられているようになっていたらしいです。
『風土記』の「筑前国風土記逸文」では、これは「大三輪神の祟りだ」とはっきり書いてあります。
「崇神天皇」に祟ったのを、「大田田根子」が祀って一件落着、かと思っていたら、「神功皇后」の時代になっても祟っています。
続いて↑の雄略天皇七年には、
「七年の秋七月の甲戌の朔丙子に、天皇、少子部連蜾蠃(ちひさこべのむらじすがる)に詔して曰はく、「朕、三諸岳の神の形を見むと欲ふ。 或いは云はく、此の山の神をば大物主神と為ふといふ。或いは云はく、菟田の墨坂神なりといふ。 汝、膂力人に過ぎたり。自ら行きて捉て来」とのたまふ。蜾蠃、答へて曰さく、「試に往りて捉へむ」とまうす。乃ち三諸岳に登り、大蛇を捉取へて、天皇に示せ奉る。天皇、斎戒したまはず。其の雷(かみ)虺虺(ひかりひろめ)きて、目精赫赫く。天皇、畏みたまひて、目を蔽ひて見たまはずして、殿中に却入れたまひぬ。岳に放たしめたまふ。仍りて改めて名を雷とす。」
とあります。
「雄略天皇」は、『日本書紀』的に傍若無人な暴君として描かれています。
その「雄略天皇」を恐れさせた「三諸岳」(=「三輪山」)の神は、大蛇として描かれています。
天皇は斎戒もせず、ということなので、「崇神天皇」が斎戒沐浴して祀ったのとは大違い、これを見ても「雄略天皇」がいかに暗君かということがわかるだろう、という意図をぷんぷん感じる記事です。
「少子部連蜾蠃」は手でひっ捕まえたようですが、この人についてはまた別にいろいろあるので、今回は特に触れません。
ポイントは、「少子部連蜾蠃」に捕まった「三諸岳」の神(大蛇)が、なぜか「雄略天皇」に祟っていることです。
つまり、「大神神社」の神は、「天皇家」に対して祟るんですねこれが。
「崇神天皇」の頃から一貫しています。
なお、「其の雷(かみ)虺虺(ひかりひろめ)きて、目精赫赫く。」という部分で、蛇神と雷神は同体だ、ということが示されています。
「少子部連蜾蠃」が捕らえたのは、「蛇」でもあるのですが、「雷」そのものでもあるのです。
「虺」←この、一緒のうちでここでしか見ないんじゃないかと思えるような珍しい字は、どうも「まむし」と読むようです。
「虺虺」で「ひかりひろめき」て読ませたのか、当時の大陸の言い回しでこういったものがあったのか、いずれにしろ「まむしまむし」ではなく、何やら「光り輝く」ものを表しているようです。
「赫赫」も、光っていることを示しています。
蛇神は雷神です。
そして↑の敏達天皇十年には、
「十年の春潤二月に、蝦夷数千、辺境に寇(あたな)ふ。是に由りて、其の魁帥(ひとごのかみ)綾糟等を召して、 魁帥は、大毛人なり。 詔して曰はく、「惟(おもひみ)るに、儞蝦夷を、大足彦天皇(※ブログ筆者註:「景行天皇」)の世に、殺すべき者は斬し、原すべき者は赦す。今朕、彼の前の例に遵ひて、元悪を誅さむとす」とのたまふ。是に綾糟等、懼然り恐懼みて、乃ち泊瀬の中流に下て、三諸岳に面ひて、水を歃りて盟ひて曰さく、「臣等蝦夷、今より以後子子孫孫、 古語に生児八十綿連といふ。 清き明き心を用て、天闕に事へ奉らむ。臣等、若し盟に違はば、天地の諸の神及び天皇の霊、臣が種を絶滅えむ」とまうす。」
とあります。
「敏達天皇」の時代になっても、「蝦夷」は相変わらず騒いでいるわけですが、ここでは「三諸岳」に向かって誓約をしています。
「子孫まで、清く正しく天皇にお仕えします。この誓いに背いたら、天神地祇及び天皇の霊魂は、我らの一族を根絶やしにするでしょう」といった内容です。
ポイントは、なぜ「三諸岳」に対して誓ったのか、です。
これは、時代を経て「大神神社」の神が「誓約を破ったら祟りなす神」になったからなのか。
あるいは、「元からそうだった」のか。
それはともかく、「敏達天皇」の頃になると、「大神神社」の神は、「天皇家」には祟らなくなったようです。
これまでしっかり祀ってきた、からなのでしょうか。
ここにきて朝廷は、かつての怨敵であり「天皇に祟る神」を、自分たちの側に取り込むことに成功した、ということなのでしょう。
ところで、『日本書紀』景行天皇五十年には、「日本武尊」が捕虜として捕らえ、神宮(伊勢神宮)に献上された「蝦夷」についての記事が載っており、
「是に、神宮に献れる蝦夷等、昼夜喧り譁きて、出入礼無し。時に倭姫命の曰はく、「是の蝦夷等は、神宮に近くべからず」とのたまふ。則ち朝庭に進上げたまふ。仍りて御諸山の傍に安置はしむ。未だ幾時を経ずして、悉に神山の樹を伐りて、隣里に叫び呼ひて、人民を脅す。」
「伊勢神宮で騒いで礼儀もなってないので、倭姫命が「こいつら、神宮の近くにおいておけない」と激おこ。で、朝廷に引き取らせた。朝廷は、御諸山のそばに住まわせたが、いくらもしないうちに、山の樹を切ってしまうし、里で騒ぐし、人民も激おこ」といった感じです。
このあと、「景行天皇」は「蝦夷」を辺境に住まわせる、という対応をとります。
この記事がわかっていると、「蝦夷」が「三諸山」に対して誓約をした理由も少しわかります。
でもやっぱりわからないのは、「神山の樹を斬った「蝦夷」に対して、祟らなかった「大物主神」」です。
「景行天皇」が「蝦夷」の住処を変更したのは、「自分が祟られるかも」と思ったからではないでしょうか。
やはり「大物主神」は、正体はともかくとして、「天皇家に祟る神」だったのでしょう。
「国譲り」で相当悪辣なことをしたようですね、「天皇家」。
とくに結論は出ていませんが、とりあえず今回で「大神神社」は終わりにします。
全然、神社紹介の本記事が進まないもので……。
(参考文献)
あ、前にも書きましたが、「磐座」というのは、やはり封印のためのものではないかと思います。
「天の岩戸」の岩戸、「イザナギ」が黄泉の国から帰ってきたときに、黄泉路においた千引の石と同じです。
「天孫降臨」の場面で「天磐座を離(おしはな)ち/脱離ち」とありますが、いまいち意味がわかりませんでした。
いえ、単に「磐座から離れる、飛び降りる」という描写にも思えるのですが、「押して」「放つ」のですから、「扉」と考えるほうが自然ではないかと。
だからなんだ、という話ですが。