べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「石上神宮」(補々)

さてさて。

 前回の『日本書紀』『古事記』の記述を『古語拾遺』でみてみましょう。

 

古語拾遺 (岩波文庫 黄 35-1)

古語拾遺 (岩波文庫 黄 35-1)

 

 

素戔嗚神、天より出雲国の簸の川上に降ります。天十握剣[其の名は天羽々斬(あめのははきり)といふ。今、石上神宮に在り。古語に、大蛇を羽々と謂ふ。言ふこころは蛇を斬るなり。]を以て、八岐大蛇を斬りたまふ。」(p23)

 

この「天十握剣[其の名は天羽々斬(あめのははきり)といふ。今、石上神宮に在り。」の「石上神宮」は、岩波文庫版『古語拾遺』の補注では、

 

「……ここのように「石上神宮」とあれば、奈良県天理市石上神宮と思うのが常であるが、神代紀上の下文の一書第三に「今吉備の神部の許に在り」とあるので、「備前国赤坂郡、石上布都之魂神社」(延喜式神名帳)のことと見るのがよい。備前長船の名刀が生れた国であるから、岡山県石上神宮として矛盾はない。」(p78)

 

と言っています。

うーん……若干腑に落ちませんが……。

古語拾遺』での国譲りには、「経津主」「武甕槌」の二柱の神が登場します。

 さて、では、

 

先代旧事本紀 現代語訳

先代旧事本紀 現代語訳

 

 

先代旧事本紀』ではどうなっているかというと、概ね『日本書紀』に近いのですが、

 

「また剣のつばから滴る血が流れて神となられた。さらに最果ての地にあるという湯津石村(略)まで走り着いてなられた神のお名前を天の尾羽張の神と申し上げる[またの名を稜威雄走の神(略)とお名づけした。または甕速日の神、または熯速日の神、または槌速日の神]。今、天の安河の川上にいらっしゃられる天の窟の神である。その子が建甕槌の男の神と申し上げる[またの名は建布都の神。またの名は豊布都の神](略)。今、常陸の国の鹿嶋にいらっしゃる大神(略)の石上布都の大神である。

また剣の先から滴る地が流れて神となられた。さらにその血が湯津石村に走り着いて現れた神のお名前は磐裂根裂の神(略)と申し上げる。その子は磐筒の男・磐筒の女の二神(略)である。お二人のお生みになった子が経津主の神と申し上げる。今、下総の国の香取にいらっしゃられる大神である(略)。」(p65)

 

すいません現代語訳なもので(『旧事本紀』神代本紀)。

先代旧事本紀』は偽書であるともされている、物部氏系の史書で、『古語拾遺』がイ斎部氏系史書であることと対比をなしているとも言えます。

成立はおそらく西暦800年代〜900年代の間、と↑の批評社版『先代旧事本紀』の中で考証されています。

もう少し新しいと考えても、鎌倉時代くらいでしょうか。

ですので、それなりに古いわけです(『古語拾遺』は大同2(807)年成立とされています)。

で、その中で、「建甕槌の男の神」は、「今、常陸の国の鹿嶋にいらっしゃる大神(略)の石上布都の大神である。」とされています。

物部氏系の文書ですから、ここで書かれた「石上布都の大神」というのは、奈良県の「石上神宮」だと考えるべきでしょうか……それとも、備前の「石上布都之魂神社」と考えるべきでしょうか。

うーん、悩ましい。

 

 

風土記 (平凡社ライブラリー)

風土記 (平凡社ライブラリー)

 

 

ところで『風土記』の『常陸国風土記』には、

 

「信太の郡

(略)

ここ[碓井]から西に高来の里がある。古老がいうことには、「天地の権輿、草木がものをよく言うことができたとき、天より降って来た神、お名前を普都大神と申す神が、葦原中津之国を巡り歩いて、山や河の荒ぶる邪魔ものたちをやわらげ平らげた。大神がすっかり帰順あっせおわり、心の中に天に帰ろうと思われた。その時、身におつけになっていた器杖(武具)(これを俗にイツノという)の甲(よろい)・戈・楯およびお持ちになっていた美しい玉類をすべてことごとく脱ぎ棄ててこの地に留め置いて、ただちに白雲に乗って蒼天に昇ってお帰りになった」。」

 

「天より降って来た神、お名前を普都大神と申す神が、葦原中津之国を巡り歩いて、山や河の荒ぶる邪魔ものたちをやわらげ平らげた。」という「普都大神」を「ふつのおおかみ」と読んで、これが「建甕槌之男の神」ではないか、と思わせる描写です。

「草木がものをよく言うことができたとき」という表現の原文がわからないのでなんとも言えませんが、『日本書紀』に、

 

「夫れ葦原中国は、本より荒芒びたり。磐石草木に至及るまでに、咸に能く強暴る。然れども吾已に摧き伏せて、和順(まつろ)はずといふこと莫し」(岩波文庫版『日本書紀1』p104)

 

と「大己貴神」が語っているのに近いのではないか、と思います。

常陸国風土記』が『日本書紀』を参考にしたのかも知れません。

そうなると、ここで言う「普都大神」は「大己貴神」だった、ということに無理やりなっちゃったりしますが、それはおいておいて、物部氏系の伝承があったのではないか、というくらいにしておきましょう。

ということで、「建甕槌之男神」=「普都大神」だとしますと、「鹿島神宮」は中臣氏の氏神ではなかったでしょうか……。

うーむ……。

一方『出雲国風土記』には、「意宇の郡楯縫の郷」に、

 

布都怒志命の[持っていた]天石楯を縫い直してここに置き給うた。だから楯縫という。」(p168)

 

同じく「意宇の郡山国の郷」に、

 

布都怒志命が国をお巡りになられたとき、ここに来て仰せられるには、「この土地は止まず(いつまでも)眺めていたいとおもう」と。だから山国というのである。」(p169)

 

「秋鹿の郡大野の郷」に、

 

和加布都怒志能命が御狩りをなされたとき〜」(p194)

 

「出雲の郡美談の郷」に、

 

「天の下をお造りなされた大神の御子和加布都怒志命が、天と地が初めて分離してから後に、天の御領田(天にある大神の所領田)の長としてお仕え申しあげた。」(p208)

 

といった感じに「(和加)布都怒志命」が登場しています。

出雲国風土記』で「天の下をお造りなされた大神」というのは、概ね「大穴持神」を指していると思われます(’あるいは、「国引き神話」の「八束水臣津野命」かも)。

「布都怒志命」に関する伝承がありますが、あんまり大きな業績ではないところ見ると、「出雲の大神」(「大己貴神」なのか「素戔嗚尊」なのか)の武力の象徴か、あるいはあちこち見て回ったりしているようなので、出雲の監視役だったのか、そんな感じを受けます。

風土記』と記紀神話のどちらが古く、どちらが正しい、というものでもないので(書かれた時期と、伝承の古さが比例するわけではないです)、なかなか難しいところではありますが、当時、文を書いたり伝えたりする人たちの中で、こういった認識がある、という程度にしておいたほうがいいのかもしれません。

「布都」の「神」、というのは案外普通名詞(「十握剣」のように)だったのかもしれないですし。

 

本日はこの辺りで〜。