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今年の夏は、好天が多い気がします。
気のせいかもしれませんが。
さらっと神社をお参りしよう、と出かけたのは「七尾天神社」。
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住宅街の中に埋もれるように佇んでいます。
ヒッポリト……ひっそりと、という言葉がぴったりな、プティな境内。
「七尾神社
亀尾天満宮、七尾天満、七尾天神とも呼ばれ、菅原道真を祭神とする。文亀年中(1501〜04)、七尾の亀が道真の木像をここに運んだという伝説があり、社名の由来となっている。永正年中(1504〜21)社殿が造営された。桜天神とともに、学問の神様として崇敬された。
明治四十二年七月の火災で木像その他宝物を焼失した。」
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「桜天神社」 - べにーのGinger Booker Club
↑「桜天神社」はこんなところでした。
名古屋には「三大天神」というのがありまして、「上野天満宮」「桜天神」「山田天満宮」のことなのですが、こちらの「七尾天神社」もそれにひけをとらない崇敬を集めていた、ということなのでしょう。
ま、「三大天神」自体が、いつの頃の牽強付会なのかわかりませんが。
神宮の遥拝所は珍しくありませんが、皇居の遥拝所は最近見かけませんね。
東京が近くなったからかな……(いや、違うと思う)。
拝殿……?
梅の神紋、天神様ですねぇ。
なで牛も、天神さまにはつきものですが……これもいつ頃からの風習なのでしょうか。
「何かを撫でる」、というのは類感呪術の一種で、自分の中の悪い物を「肩代わり」してもらうという意味合いがあります。
日本人は何でもかんでも撫でます。
「びんずる様」を撫でるのはまあいいんですが(何しろ「撫で仏」なので)、いろいろ撫でますよね……あれ、浮かんでこない……。
よほど悪い物が自分の中に溜まった民族と思えます。
撫でてうつして、閉じ込めて、最終的に川に流す……日本の川は古代から相当な急流だったんでしょうね。
だから流す効果もてきめんだった、と。
隣にはヒッポリト……ひっそりと筆塚が。
天神様に筆塚も、つきものです。
手水鉢。
文字が刻んであるんですが、よく読めません。
多分「七尾……」じゃないかと。
狛犬さん。
丸っこくてかわいい造形です。
境内入って左手には「七尾の亀」さんがいらっしゃいます。
……結構リアルで困る。
「七尾の霊亀
この霊亀は道真公の木像を背負って、当社まで運び、七つの尾を持つた由緒ある亀です。古来よりこの霊亀の背に、ひしゃくで七度、水をかけると諸願成就すると言い伝えられて居ります。」
古来……500年前を古来と表していいものかどうかは議論がありますが、何かしらそれに似たことが起こったのでしょう。
拝殿軒下の絵馬。
菅公でしょうか。
ばっち亀に乗ってます……その亀にばっち耳があるのがまたなんともかわいいです。
さて。
こちらの神社の公式HPから由緒を。
「通称
亀尾天満宮、亀乗天神、七尾天神、七尾天満由緒
霊亀はもとの池に去ったと伝えられております。それ以来、七つの尾の霊亀を台座にしてその天神像を乗せ、ご祭神として七尾天神の名称で当地にお祀りしております。
七尾天神社は、文亀年間(1501~4)に、天神池に七つの尾を持った霊亀(亀)が菅原道真の木像を背負って現れたことから始まります。
天神像を背に、また、口に梅の小枝をくわえ、現地にあったほこらに入り天神像と梅の小枝を残しその際、霊亀は、樹の下の石の上に菅公像を置き、その石の周りを七度まわり姿を消しました。
それを見ていた修行僧が、みずから七つの尾の霊亀を刻み、それを神座とし、菅原道真公像を草庵に安置しました。
永正年間(1504~21)には社殿が造営
元和年間に義直が拝殿を建設
後の成瀬家の祈願所となりました。
現在は、境内の西角にある池の中央に安置されている霊亀の背に七度水をかけると学業成就及び諸願成就すると言い伝えられています。」
それでは、
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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会
↑より引用(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
134コマです。
「七尾天満宮亀尾山永正寺
志水の西、成瀬家の中屋敷の内にあり。真言宗、長久寺末。永正年中の建立にして、天満宮の社僧なり。菅神の霊像は、文亀年中七尾ある亀に乗り給ひて、此側なる山林の石上に出現ありしかば、永正改元の頃、社を建てて安置せしよし、当寺縁起に見えたり。本地十一面観音は行基の作、其外霊宝多し。」
「志水」というのは、現在では「清水」という地名になっています。
「長久寺」も「清水」の近くにあります。
昭和生まれの東海地方の方は、「名古屋清水口」といえば、
「ああ、美○堂ね」
とピンとくるのではないでしょうか。
そう、あの辺です(アバウト)。
当時ですので、もちろん神仏混淆、そのお寺の方はどうなっちゃったのでしょうか。
廃寺かな……。
前のコマには、境内の図絵と、由緒を記した図絵が掲載されています。
当時から、境内地自体はそれほど広くなかったようです。
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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 2 名古屋
↑も見てみましょう。
18コマです。
「亀ノ尾天満天神ノ社
成瀬氏中やしきの内にあり今七尾乃天神といふ菅神束帯の像を安置す座下に亀の形あり此霊像は昔後柏原天皇の永正年中此處の北の麓なる池より霊亀負出て当地の石の上に居置て尾を曳神像をめくりて行方しらすなりぬるを折しも此山上に住居たる隠士是を得てすなはち草堂に安置しみつから亀形を彫刻し此神像を載奉りて深く尊崇し奉れるなりとそかの霊亀のうかひ出るたる池はいつしか田地となりて字を天神池といふ今も池の跡いささか残れり
例祭に月二十五日 社僧 濃尾山永正寺」
「成瀬氏」というのは、「成瀬隼人正」のことです。
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「犬山神社」 - べにーのGinger Booker Club
↑でも紹介していますが、犬山藩主で尾張藩附家老だったお人です。
○こちら===>>>
江戸時代の名古屋城下「三の丸東照宮」 : Network2010.org
↑こちらの素敵ページで、江戸時代の名古屋城付近の再現地図を見ることができます。
この真ん中あたりの地図で、右上に書かれている「成瀬隼人正上屋敷」というのが、『尾張名所図会』や『尾張志』が書かれた当時は「中屋敷」だったのだと思います(あるいは、地図が間違っているか)。
ああ、せめて名古屋全域の古地図(江戸時代)が欲しいです……そうすれば面白いのに。
それにしても、亀はどうして七尾だったんでしょうね。
実際に、そういう突然変異体が見つかったのかもしれません。
調べてみてもなかなか面白い説には辿り着きそうにありませんので、今回はあっさりめに諦めます。