3/22。
名古屋市内を巡る面白さを再発見しましたが。
たまには遠出もしたくなる。
というわけで、遠江(とおとうみ)方面へ出かけてみました。
ご存知の通り、「淡海」は今の滋賀県のこと。
「近江」と書けば「ちかつおうみ」、「おうみ」は淡水の海つまり湖のことです。
都から一番近い大きな湖、つまり「琵琶湖」を指しています。
「とおつおうみ」は都から遠い大きな湖。
今でいう「浜名湖」のことですな。
さて、東名高速道路をそれなりのスピードで走らせまして、向かったのは遠江国一の宮とされている、「事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)」〜。
◯こちら===>>>
静岡県の地理には疎いですが、掛川にあります。
掛川、掛川……『シュート』というサッカー漫画の主人公高校が掛川でしたっけ。
いずれにしても静岡といえば、お茶、サッカー、東西に長い、東名高速で静岡に入ると、いつまで経っても終わらない……といったイメージのある、平凡な名古屋人です。
神社の駐車場はあまり台数は多くなく。
旧東海道沿い、らしいです。
かすかに桜がほころびそうになっています。
古称 己等乃麻知神社(ことのまちじんんじゃ)
鎮座値 掛川市八坂
御祭神 己等乃麻知媛命
神功皇后」
「己等乃麻知」、これで「ことのまち」と読むんですね。
当て字のまま(万葉がなかも知れませんが)で残っているのが、歴史を物語っている、のかも知れないです。
逆光……。
「創立年代未詳 大同二年(807)坂上田村麻呂東征の際、桓武帝の勅を奉じ 旧社地本宮山より現社地へ遷座すという延喜式(927)神明帳に佐野郡己等乃麻知神社とあるはこの社なり 古代より街道筋に鎮座 遠江に座す願いことのままに叶うありがたき言霊の社として 朝廷を始め全国より崇敬されしことは平安朝の「枕草子」に記載あるを見ても明らかなり
世が貴族社会より武家社会に移るや八幡信仰が一世を風靡し 康平五年(1062)源頼義が石清水八幡宮を当社に勧請し 以来八幡宮を併称す
江戸期に入りては 徳川幕府も当社を信仰し社殿を改築 朱印高百石余を献上す 明治以降 県社八幡神社と称せしが 第二次大戦以後の社格廃止に伴い 由緒ある名「事任」を復活し 現在は 事任八幡宮と称す」
大楠。
拝殿。
瓦葺きなので、近代の建物であることが想像されます。
公式HPに掲載されている、古い境内図が、現在とあまり変わっていないので、全体の様子の参考になります。
◯こちら===>>>
古いといっても、アルファベットが載っていますので、明治以降ですが。
「八幡神社」は「YAWATA ZINSHYA」とあるので、「やわたじんじゃ」と読んでいたのですね。
拝殿の欄間には彫刻が見られます。
うねる海に、二見が浦の夫婦岩のように、注連縄が張られた岩が見えます。
何を描いているのかわかりませんが……。
拝殿の、緑青をふいた屋根、木々の緑、青空、という色合いが、少し涼しげながら、冷たくもなく、素敵です。
天然記念物の大スギ。
拝殿から向かって左方向へ進みますと、摂社の「五所神社」。
「天照大神 八意思兼神 大国主命 火乃迦具土神 東照大権現」をお祀りしているそうです。
最後の「東照大権現」が、とってつけた感じで。
さらに左手へ、「稲荷神社」。
「金刀比羅神社」。
……何の塚でしょうか。
案内もなかったですし。
公式HPには、この塚も描かれているのですが、特に解説もなし。
道祖神なら、もっと道の近くにあるでしょうし。
うーん……。
この塚の辺りから階段を上ると、
元々鎮座していた「本宮」の遥拝所があります。
こちらの山が「本宮山」です。
日本中にありますな、「本宮山」。
多くの神を祀る場所は、「山の中」にあったのでしょう。
それを、麓(里)にお招きして、「里宮」とする。
山を登って参拝するのは大変ですからね。
こういうところは現実主義、というか現世主義です。
まぁ、信心ですから、そんなものです。
購入したパンフレット(こういうの、せめて各一宮さんくらいは揃えていただきたいものです)によれば、
「131年頃 創建年代は明らかではないが、「成務帝の時に物部の連の流を以て、遠江国久努国造久努直、佐夜直など任ぜられしこと旧事紀に見ゆ、
其頃は諸国の国造等、神祇を掌りしし世の事なれば、佐夜部直と云ものも遠江国造の下にありし職にして、此山口の辺に居りて其祖神に任へしものならん—」
と江戸時代編集の掛川誌稿に記述がある。」
とのことです。
手元に『先代旧事本紀』の「国造本紀」がありますが、その中に、
「素賀国造
橿原朝の世に、始めて天下を定めたまふ時(神武天皇治世)に、従に侍ひ来たる人、名は美志印命(みしいにのみこと)を、国造に定め賜ふ」
とあり、「素賀国(そがのくに)」はどこかわかりませんが、「遠江国佐野郡素賀村か」とされています。
同じく、
「久努国造
筑紫香椎朝の代(仲哀天皇治世)に、物部連の祖伊香色男命の孫印播足尼(いなばのすくね)を以て、国造に定め賜ふ」
とあります。
また、
「遠淡海国造
志賀高穴穂朝(成務天皇治世)に、物部連の祖伊香色雄命の児印岐美命(いにきみのみこと)を以て、国造と定め賜ふ」
ともあります。
『先代旧事本紀』という書物は、物部氏を日本神話のパンテオンの中に強く組み込むために編纂されたと考えられており、その記述の信憑性云々については膨大な研究があるので、私には触れられません。
「国造本紀」に書かれた国には、現代では未詳となっているものもあるので、どこまで信じていいのやら。
ですが、ともかく、物部系の誰かが、遠江国辺りに勢力を持っていたのではないか、と考えることは可能でしょう。
パンフレットによれば、「己等乃麻知比売命」は、忌部氏系の神様で、「興台産命(こととむすびのみこと)」の妃で、「天児屋根命」の母神とされています。
「興台産命」が聞き慣れない神様ですが、公式HPでは「言霊の神」で四国の「天川神社」にお祀りされているといいます。
『日本書紀』一書に、「中臣連の遠祖興台産霊(こごとむすひ)」とあります。
「天児屋根命」は、「天岩屋戸神話」で祝詞を奏上した神様ですね。
こちらは中臣氏の祖神です。
忌部氏と中臣氏は、古代には祭祀権限の座を争っていました。
それが妃だ母だ、とよくわからんことになっています。
権勢を握ることとなる中臣氏の系譜に、忌部氏の系譜を無理矢理突っ込んだのではなかろうか、とも思えますが。
あるいは、物部、忌部、中臣、という勢力が、大和朝廷の始まりの頃には、互いに協力し合っていた、ということが言いたいのかもしれませんな。
忌部氏は、中央から追いやられると、四国や関東に散っていきます。
阿波、安房はともに忌部系の勢力地です。
「興台産命」が四国に祀られているのも、そういった理由でしょう……かねぇ。
(あと、「興台」の部分が、邪馬台国の卑弥呼の後継である「台與」と似ていることから、いろいろと妄想を楽しむ、という手段も世の中にはあるようです)
古代はともかく、歴史に残る時代になると、「事任八幡宮」は、「真知乃神」や「己等乃麻知神社」として知られるようになります。
「言葉」に力があった時代ですから、「言霊の神」もさぞもてはやされたことでしょう。
で、「事任八幡宮」をwikipediaで調べると、また面白いことが書いてあるので、みなさん検索してみてくださいな。
清少納言さんに関することです。
『枕草子』に、
「社は 布留の社、龍田のやりそ、花ふちの社、みくりの社、杉の御や白、しるしあらんとをかし。ことのままの明神、いとたのもし。さのみ聞きけんとや言はれたまはんと思ふぞ。いとをかしき」
という一節があり、「ことのままの明神」というのが、今の「事任八幡宮」を指していると思われます。
この一節を巡る論争は、wikipediaを見ていただくとして、清少納言の時代には、「言霊の神」として巷間に流布していたことは間違いないようです。
良くも悪くも、言霊の国です。
こんな面白い神社を、最近まで知らなかったとは、まだまだです。