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ひっそりと続けてきました中区栄・巡礼の旅(嘘)。
「中区史跡散策路(名古屋市:中区:史跡散策路(中区))」の「広小路今昔コース」を参考に、最後に着いたのは。
「若宮八幡社」。
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↑……メインが結婚式場ですか。
さすが、かつては豪華な結婚式を誇った尾張名古屋です。
「社伝に文武天皇(在位697〜707)の時代に那古野庄今市場に創建、延喜年間(901〜923)に再興したとある。祭神は仁徳天皇・応神天皇・武内宿禰を祀る。
慶長十五年(1610)徳川家康は名古屋城築城にあたり、今の地に移して尾張名古屋の総鎮守とした。祭りは毎年五月十五日・十六日で、神輿が那古野神社へ渡御される。
なお、当社の山車「福禄寿車」は名古屋市有形民俗文化財に指定されている」
「那古野庄今市場」は、現在でいえば三の丸辺りで、
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↑で紹介されているところによれば、かつて「那古野神社」の隣にあったそうです。
ネットで簡単に探せる古地図というのは、大抵が江戸時代のもので、ということは「若宮八幡社」は移転した後、なんですね(「那古野神社」の隣には、今と同じく「東照宮」があります)。
というわけで、創建時、再興時の様子は知るべくもありませんが。
↑の中には、
「天文元年(1532)の那古野合戦(信長の父である織田信秀が今川氏豊を追放)で社殿を焼失したが、那古野城を築いた織田信秀は天文八年(1540)、社殿を再建。弘治元年(1555)に信長が清洲城を攻略するまでは、那古野城に居住していたから信長にとっても身近な神社だったろう。(後略/一部変更)」
ともあります。
名古屋市内は、歩けば三大英傑縁の何かに打ち当たりますね。
比較的新しい社殿です。
拝殿が非常に立派ですね。
銅葺き屋根が、まだ緑色になっていません。
裏手の鳥居です。
表の鳥居は「若宮大通」という、名古屋駅前から鶴舞公園まで走る大通りに面しています。
境内社として、
「恵美須神社」。
「連理稲荷社」。
そのすぐ隣に、
「連理稲荷社奥之院」。
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番外編 城下町なごやミステリーコース|観光ルート|なごや旅12話
で、山崎バニラさんの語る「二百歳の狐の願い」というお話が聞けます。
内容は、
「天保年間、若宮八幡社の境内に芝居小屋があった。その番人の夢に、狐が出てきた。最初は雌狐(人に化けている)で、『長い間ここにいるが、未だに官位をいただけていない』と嘆く。次の日には雄狐が、『長い間ここにいるが、住むに良い洞穴が手に入らない』と嘆く」
というものです。
この狐は夫婦だったようで、今この稲荷の近くに「連理の木」(二本の木が一本に交わっている、というような木)があるのは、狐の願いが叶ったから、だそうです。
天保年間ですから、ついこの間の話です(1830年頃なので、200年も経っていない)。
その頃は、まだまだ狐も元気だったと言うべきか、すっかり力を失くしちゃったと言うべきか。
「連理比翼」といえば、「長恨歌」ですね(多分)。
末社として合祀されている「熊野社」「日吉社」「香良洲社」「天神社」「秋葉社」。
「香良洲社」というのは、三重県津市にある「香良洲神社」のことだと思われます。
それほど遠くないので、いつか行きたいですね。
「神御衣神社」。
「もと御衣社と称し衣の神様として衣類関係業者の崇敬篤く明治二十三年五月十七日裁縫組合同業者により造営せられ明治三十八年十一月二十五日海西郡和知村立田(現在の海部郡立田村)から若宮八幡社の境内に遷し境内末社で素戔嗚尊をお祀りする津島社に合祀申し上げ同三十七年二月十五日津島社の社号を改め神御衣社と申し若宮八幡社の境内末社となる(後略)」
とのことです。
最後に「淡島大神、衣縫大神の二神を合祀申し上げる」ともあります。
「淡島大神」は、和歌山県の「加太神社」にお祀りされている神ではないかということです。
「衣縫大神」は、京都の「水主神社」にお祀りされている神「大縫命、小縫命」だと思われます。
「淡島大神」は江戸期より、婦人病の神様とされ、同時に雛流しの神、また針供養の神様でもありました。
「衣縫大神」も見たまま、縫い物の神様なのでしょう。
というわけで、女性と関わりの深い針仕事、衣類作りの神様なのでした。
近くには「針塚」があります。
「産宮 住吉神社」。
「産宮神社」というのがあるのですが、それと関係があるのかどうか不明です。
「八幡神」は「応神天皇」を指すことが一般的ですが、その母である「神功皇后」は、『古事記』では「住吉三神」が神がかって、お腹の中の子を「男子だ」と言っています。
つまり、「応神天皇」は、「住吉三神」によって男女を選別されたというわけで、ある意味「親」のようなものだと。
まさしく
ですかね。
ああ、薄ら寒い……。
そんな神話もあるので、「住吉三神」を「産宮」と称したのかもしれません。
表の鳥居近くにある「若宮龍神社」。
さて、こちらのページでは
◯こちら===>>>
http://network2010.org/article/27
つぶさに見ると、「熊野」「山王」といった字があるので、「熊野権現」「日枝山王権現」が江戸時代からお祀りされていたのは確かなようですね。
「東照宮」の祭礼は、「若宮八幡社」までを往復したそうですし、この「若宮八幡社」にも「若宮祭り」が、今の「那古野神社」(天王社)にも祭りがあり、これらを「名古屋三大祭り」と称したそうですので、さぞ勇壮だったことでしょう。
ところで、公式HPのこちらのページ(若宮八幡社|若宮八幡ブライダル)の「若宮祭」の項には、
「寛文4年(1664)より続く例祭「若宮祭り」で使われる山車が収蔵されております。
六月祭と称し築城以前は若宮の今市場に在りし時、天王社と同時に祭礼が行なわれ祇園祭とも称された。
名古屋城が社在地に築城する事になり、御籤の結果で現在地に遷座した。(後略)」
と書かれています。
何故「八幡社」ではなく「若宮八幡社」なのか、というと、「応神天皇」ではなくその子である「仁徳天皇」を主祭神としてお祀りしているから、という説明がされているようです。
一方で「若宮」信仰というのは、怨霊・御霊信仰が重ねられていき、非業の死を遂げたものを、「ある神の御子神」としてお祀りすることで、怨念を慰め、それを力にする、という操作が行なわれてきたようです。
だからこそ、↑のように、疫病神としては最高の「牛頭天王」をお祀りし、元祖「怨霊慰撫」の機能を持つ「祇園祭」との相性がいいのでしょう。
……なんて、ね。
他にも、「応神天皇」の時代、半島から「来目衣縫」の始祖という人が渡ってきたとか、「神功皇后」の三韓征伐の前には「事代主神(恵美須)」が神がかっていたとか、いろいろとこじつけられるネタがあるのですが。
それよりは、何となく、「二百歳の狐の願い」にほっとするのでした。