10/9。
「護王神社」から丸田町方面へ下っていったら、発見したのは「菅原院天満宮」。
◯こちら===>>>

※(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)
「由緒書
一、祭神
(略)
当、菅原院天満宮神社は、従四位、下治部卿菅原古人朝臣。次は従三位、清公卿、次は参議是善卿の三世、子々相伝へて棲み給ひし邸宅の趾にて。やがて是善卿の御子道真公の誕生し給ひし霊地なり。
古人朝臣は桓武天皇に仕へて侍読となり。清公卿は嵯峨。淳和、仁明の三帝に歴任し是善卿は文徳、清和の二帝に奉仕して倶に侍読の栄職におはせしかば此邸宅をも受継ぎ住み給ひしより世には菅原院と呼びたりとぞ。拾芥抄を案ずるに菅原院は勘解由小路(下立売通)烏丸の西一町(室町迄)菅贈太政大臣の御所、或は云く参議是善卿の家なりと。当時歓喜光寺と号し、北野祭の日神氏此所に来りて枇杷を取りて神に供すと。又京城の古図には烏丸、西室町、下立売、南椹木町の間を菅原院と記せり。蓋し往古は境域の広大なりしを知る可きなり。又袋草子国宝北野縁起(藤原信実朝臣筆)菅氏録に據れば、菅原院は是善卿の旧邸地にして菅公は此の處に於いて御誕生あらせられし爾来菅公亦襲ひて邸宅とし給ひついで菅家のために、此地に歓喜光寺を創建せられしが後故ありて六條道場に移せし由見えたり。然ればそのかみ此地に社殿を存し菅原道真公を本座とし相殿に御父是善卿を奉祀して古より断ゆること無く今に至れり実に是れ菅公御発祥の霊地にして聖蹟廿五拝の第一にして今も尚産湯の井及び天満宮御遺愛の石燈籠一基を存せり。
(略)」
なるほど、元々菅原家の邸宅だったとされている、と。

通りからちょっと入ったところにあるのですが、元々邸宅だったからか、変わった造りになっています(全体を写した写真がないので、Googleマップの航空写真とか見てください)。

鳥居と扁額。

狛犬さん。
渋い色味だ。

「地蔵社」。
いきなりの神仏習合。

本殿がちらり、と。

牛かな……天神様だからな……「施文教」ってのはなんでしょうね……普通の文章なのかな……「文教を施す」って……。

お稲荷さんと、「梅丸大神」

これが例の灯篭……いや、趣があるといえば、そうなのかも……。

「戸隠社」。
「戸隠大神」は「天野手力男命」、一緒に「九頭龍大神」。

拝殿の手前に……これは、単なる雨除けなのか……とにかく、新造と思われる部分の色合いが、何となく、風情を感じさせない……ちょっと残念。


狛犬さん。
苔生しているのはとても好きです。

「菅原道真」公の産湯に使った井戸。
あやかったら勉強が得意になったり、出世したりしたのでしょう。
『キン肉マン』でも、似たようなシーンがあったな……スーパーフェニックス……。

……本殿を撮ったのかな……。


狛犬さん。
大分崩れてしまっていますが、これはこれでちょっと風情があってよいのではないかと。
できれば直していただきたいですが……(別の様式になっちゃうのは残念……)。

御朱印。
さて。
◯こちら===>>>
内貴甚三郎 著『京華要誌』上,内貴甚三郎,明治28. 国立国会図書館デジタルコレクション
(参照 2025-03-20)
↑より。
p238です。
「菅原院天満宮
菅原是善卿の第舎の在りし所にして之を道真公に伝襲せり後天満宮を此地に祭れり中世以降漸次縮小し僅に小祠を存するのみなりしか弘化年中修造せり祭神は道真公にして是善卿を配祀す祭日は七月二十五日なり」
ふむ。
次は、
◯こちら===>>>
[秋元興朝] [著] ほか『旧都巡遊記稿』上京區之部 享,秋元春朝,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション
旧都巡遊記稿 上京區之部 享 - 国立国会図書館デジタルコレクション
(参照 2025-03-20)
↑です。
p7です。
「菅原院天満宮
烏丸通り下立売南堀松町にあり菅原是善卿の茅舎在りし所にして之れを道真公に伝襲せる地なり本社は東面し祭神道真公にして是善卿を合祀す本社の外稲荷新宮火之子の三社あり猶一宇の社殿に服部老松白太夫の三神を合祀す」
私は「菅原道真」公のことはそれほど勉強していないのですが、あちこちの天満宮には行きますので、ときどき見かける「服部」「老松」「白太夫」……太宰府時代に、菅公に仕えた人たちでしたっけ……いかんいかん、もうちょっと基礎的なことから勉強しておかなければ……で、結局神社の由緒書きが一番詳しい、と。
ちょっと雲行きが怪しくなってきた京都です。