さて、メインイベントの「広隆寺」にやってまいりました。
○こちら===>>>
観光のHPしかヒットしなかったな……。
「うつまさ」「聖徳皇太子殿」。
「太秦広隆寺」。
仁王門でした。
薬師堂……だったか。
工事していました。多分、
「霊験薬師仏檀像
広隆寺由来記
その前に一本の神木があり、時々光を放っていた。薪を採りに入った人がその神木をたちまちのうちに仏像を造り、「南無薬師仏」と唱え社に安置したちところに消え失せた。この像は向日明神が権りに薪採りの人と化って建立した霊像である。
延暦十六年(七九七)五月五日瑠璃光明を放って人々を驚かし勅により願徳寺に移した。
貞観六年(八六四)清和天皇が病にかかられた時道昌僧都が勅許をえて広隆寺に移し七箇日の修法を行ったところ霊験現われ天皇の病は癒えた。又大井川(桂川)が大氾濫した時もこの像に祈願したところ事なきを得た。
長和三年(一〇一四)五月五日、延暦十六年と同じ日時にこの像が光明を放ち誠に霊験数多くこの日を拝謁日と定められた。
仏像は許可がないと撮影できないのです。
なんだっけ……。
……読みづらい。
地蔵堂。
工事していたのは何のお堂だったかな……。
上宮王院太子殿。
「聖徳太子」をお祀りしているところは多いですね、全国に。
あまり意識しませんが、聖人信仰というのは洋の東西を問わないものです。
……読みづらい。
太秦殿。
秦氏を祀っている……読みづらい……祖霊殿みたいなものでしょうか。
パンフレットによれば、「太秦明神」、これは多分「秦河勝」でしょう、そして「漢織女」「呉秦女」を祀るとされています。
記紀神話に見える、大陸から渡ってきた機織女のことかと思われます。
秦氏も「はた」、機織に関係する氏族ではないかと考えられていますし、同時期に渡ってきたと伝わるので、合わせて祀られているものと思われます。
本堂、かな……。
五芒星があったので、つい。
連続体の美。
では、「弥勒菩薩」を拝見しに参ります。
何のお堂だったか……全然思い出せないのがすごいです。
パンフレットによれば、旧霊宝殿、です。
池に島なので、多分「弁財天」です。
……おお、霊宝殿の写真がなかった……。
国宝第一号「弥勒菩薩」はしっかり拝見してまいりましたよ(生まれて初めてだった……確かに素晴らしい造形でした)。
御朱印。
「弥勒菩薩」です。
さて。
○こちら===>>>
大日本名所図会刊行会 編『大日本名所図会』第1輯第1編都名所図会,大日本名所図会刊行会,大正7-8. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/959904
(参照 2023-01-31)
『都名所図会』から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
p379です。
「太秦広隆寺 は洛陽二條通の西なり。 太秦は里の名とす。むかし応神天皇の御宇、秦人日本に来理。蚕を養ひ機織を巧み、帛綿をつくりて、人々の膚をあたため侍りぬ。故に膚を秦と訓じて氏を賜り、天皇深く賞し給、此地をくだし給ひぬ。秦氏則秦始皇の廟を建てけるより、太の字を加へて太秦と訓みけるなり。 当寺のはじめは、推古天皇十二年八月に、大和国斑鳩宮にて、聖徳太子近臣秦川勝を召して宣ふやうは、我昨夜夢見る。是より遥北の方に一村あり。楓林繁茂し、清香常に薫じ、林中に大なる朽木あり。無量の賢聖諸経の要文を誦し、アルは天童妙花を供じ、又木より光を放ち、微妙の聲あつて妙法を演ぶる。今われ彼地に往かん。川勝は則駕をめぐらして前軀す。其日葛野の大堰に臨んでこれを見給ふに、夢の如し。楓林の中に大圍の桂樹あり。異香薫じ、其樹の空虚に奇瑞の宝閣あり、光明赫々として蜂多く集り、聲を発す。随身これを払えども盡きず。凡人は蜂と見れども、太子は賢聖と見そなはし給ふ。則仮宮を蜂岡のもとに造りて、川勝に勅し、百済より奉る仏像を安置し、これを蜂岡寺といふ。 後に広隆寺と改む。広隆は川勝の名なり、以上伝記の大意。
本堂の薬師如来は向日明神の御作なり。伝説に曰く、山州乙訓郡向日明神の社前に槁木あり。幾囘の年を歴ることをしらず。一日異人來りて、之を伐つて仏像を造り、南無医王尊薬師仏と称し、忽神殿に入つて見えず。衆人是を傳へ聴きて集拝す。しかも霊験ありて耳目を驚かす。同郡大原寺 【日本後紀】延暦十三年十二月乙訓社の仏像を大原寺に遷す。 に、智威法師といふ人唐より来つて居住す。社司等かの僧にあたへければ、都鄙袖をつらねて群詣し、感応ますます新なり。智威没して後、丹後国石作寺にうつす、其後清和天皇勅して当寺の本尊とし給ふなり。 待宵小侍従この本尊の霊験を蒙る事、【源平盛衰記】にあり。
太子堂には、聖徳王御自作の 三十三歳 影像を安置す。代々の天子より黄櫨染の御袍、御下襲、表袴、御内着、石帯等を毎歳贈進し給ふ。 今に至るまで一千二百年、此例絶え図となん。什宝に守屋退治の軍配図あり。矢除の図と称す。
鎮守社 三十八所の神を祭る。
閼伽井 伊佐羅井ともいふ。
弁天社 池のひがしにあり。此池は紅蓮多し。炎暑の節、盛をなして観とす。
石灯籠 太子堂の前にあり。此を太秦形と賞美す。古風を慕いて模形とするなり。
土用塚 太子堂の西、道の中央にあり。太子経王を収めし所となり。
大酒明神 天照大神、八幡宮、天満天神を祭る。一説には秦始皇を崇群るとも、又は秦川勝の霊を祭るともいふ。
桂宮院 太子堂西一町ばかりにあり。八角堂と称す。推古天皇十二年、太子自土木の功を積んで、壇をを築き建て給ふ所なり。堂内に三体の本尊を安置す。二臂如意輪観音則太子の御作なり。阿弥陀仏は隋煬帝より推古天皇へ送り給ふ本尊なり。聖徳太子の像、観自作にして坐像なり。
祖師堂 金堂の西南にあり。中央弘法大師、北は理源大師、南は道昌大僧正の像を安置す。又北の間には如意輪観音を安置す。毎歳九月十二日夜戌の刻に、牛祭の神事あり。当寺の僧侶五人、五大尊の形に表し、異形の面をかけ、風流の冠を着し、太刀を佩き、一人は幣を捧げて牛に乗り、四人は前後を囲み、従者は松明をふり立て、行列魏々として、本堂の傍より後へ巡り、又西の方より祖師堂の前なる檀上に登り、祭文を誦む。此文法古代の諺を以て述ぶる。甚奇にして、諸人耳を驚かさずといふ事なし。
祭文
夫以れば乾坤の気にうけ、徳を陰陽の間に保ち、信を専にして仏につかへ、慎をいたして神を敬ふ。天尊地卑の礼をしり、是非得失の品を弁ふる、是偏に神明の広恩なり。因茲単微の幣帛を捧げ、敬して摩吒羅神に奉上す。豈神の恩を蒙らざるべけんや。是によつて四番の大衆等、一心懇切に抽んで、十抄の儀式をまなび、万人の逸興を催すを以て、小野塚ら神明の法楽に備へ、諸衆の感嘆をなすを以て、暗に神の納受をしらんとなり。然間さいづち頭に木冠を戴き、くはびら足に舊鼻高をからげつけ、からめ牛に荷鞍を置き、大■(門+由)をすりむいてかなしむもあり。やせ馬に鈴をつけて、をどるもありはねるもあり。偏に百鬼夜行に異ならず。如是等の振舞を以て、摩吒羅神を敬祭し奉る事、ひとへに点か安穏、寺家泰平のためなり。因之永く遠く払ひ退けくべきものあり。先は三面の僧坊の中に忍び入って物取るせこ盗人め、奇怪す、わいふわいや小童ども、木々のなりもの取れとて、あかり障子打破るこなさ、法師顕も綾ふくぞ覚ゆる。扨はあた腹、頓病、かぜ、仲嗽、疔瘡、雍瘡、■(門+由)風。ことには尻瘡、蟲がさ、膿瘡、あふみ瘡、冬に向へる大あかがり。並びにひびい、咳病、鼻たり、おこり心地、くそち、つはり、伝死病。しかのみならず鐘楼法華堂のかはづるみ、讒言仲人、いさかひ、合の中間言、貧苦男の入たけり、無能女の隣ありき、又は堂塔の檜皮喰ひぬく大烏小烏め、聖教やぶる大鼠小鼠め、田の畔うがつうごろもち。如此の奴原においては、永く遠く根の国、底の国まではらひしりぞくべきものなり。
敬白謹上再拝
木枯社 太秦の南にあり。向日明神此地へ影向し給ふ。槻木の霊を祭る。」
ざっと見てみました。
後半の祭文は確かに興味深いですが、疫病払いのための祭文なのかな、と思います。
この祭文に加えて、牛祭りでは「摩吒羅神」が出てきて、本堂の後ろに、ということは後戸の神扱い、となるとやはり疫病払いということではないかと。
疫病神だけでなく、いろんなものが払いの対象になっているっぽいですが。
勉強しよう。
さて、次は、例のあそこです、はい。